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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 43

ページ: 43

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【欄外】 豊橋市史談     (今川義元と吉田)          五十八 【本文】        出来(でき)たのである然(しか)るに義元(よしもと)の請求(せいきう)で竹千代は又々(また〳〵)直(たゞ)ちに其(その)二十二日を以(もつ)て今川氏に人質(ひとしち)となつて駿河(するが)       に行(ゆ)く事(こと)となつた此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であるから其後(そのご)と云ふものは東(ひがし)三 河(かは)は勿論(もちろん)西(にし)三 河(かは)の大部分(だいぶぶん)迄(まで)も今川氏の        勢力(せいりよく)範囲(はんゐ)となつたので松平氏(まつだひらし)の領分(れうぶん)は宛(さなが)ら今川の属国(ぞくこく)とも云ふべき観(かん)を呈(てい)するに至(いた)つたのである       ソコデ其頃(そのころ)駿河(するが)から吉田(よしだ)の城代(ぜうだい)に来(き)たのは如何(いか)なる人々であつたかと云ふに之(これ)は屡々(しば〳〵)交代(こうたい)したものゝ       ようである最初(さいしよ)は例(れい)の天野安芸守(あまのあきのかみ)であつたと推定(すゐてい)されるのであるが天文十九年の大字(おほあざ)中(なか)八 神明社(しんめいしや)の棟(むな) 吉田城代   札(ふだ)には今川義元(いまがはよしもと)の名(な)の下(した)に朝比奈(あさひな)筑前守(ちくぜんのかみ)輝勝(てるかつ)奉行衆(ぶげうしう)岡崎(をかざき)出雲守(いづものかみ)輝綱(てるつな)と云ふ名(な)が記(しる)されて居(を)る此(この)朝比奈(あさひな)        岡部(をかべ)の二 氏(し)は今川家(いまがはけ)重要(ぢうえう)の家臣(かしん)で其頃(そのころ)田原の城代(ぜうだい)であつた人にも朝比奈(あさひな)肥後守(ひごのかみ)元智(もととも)と云ふ人があつて 《割書:朝比奈岡部|二氏》   今(いま)も尚(な)ほ青津(あおづ)の傳法寺(でんぽうじ)外(ほか)一二ケ所(しよ)に其人(そのひと)の文書(もんしよ)が残(のこ)つて居(を)るが之(これ)等(ら)の朝比奈(あさひな)は皆(みな)同族(どうぞく)で当時(とうじ)此(この)地方(ちほう)に        来(きた)つて事を執(と)つたものと見(み)える又(ま)た天文二十年 石巻神社(いしまきじんしや)の棟札(むなふだ)には「吉田(よしだ)城代(ぜうだい)駿河(するが)住人(ぢうにん)伊東左近将(いとうさこんせう) 《割書:伊東左近将|監》   監(げん)」と記(しる)してあるが此(この)伊東左近将監(いとうさこんせうげん)祐時(すけとき)と云ふ人の事は種々(しゆ〴〵)の記録(きろく)にも見(み)ゆるので之(こ)れ亦(ま)た其頃(そのころ)から        城代(ぜうだい)として此地(このち)に居つたものと信(しん)ぜられる而(しか)して彼(か)の有名(ゆうめい)なる小原(おはら)肥前守(ひぜんのかみ)鎮実(しげさね)は此地(このち)に於(お)ける今川(いまがは) 小原肥前守  氏(し)最後(さいご)の 城代(ぜうだい)であつたが此人(このひと)は余程(よほど)権勢(けんせい)があつたもので当時(とうじ)吉田の城は東三に於(お)ける重鎮(ぢうちん)であつたも       のである或書(あるしよ)には此人(このひと)の名字(めうじ)を大原(おほはら)と記(しる)し又(ま)た名乗(なのり)を資良(すけよし)としてあるが名字(めうじ)は小原(おはら)で最後(さいご)の名乗(なのり)は鎮(しげ)        実(さね)であつたものと思(おも)ふモツトモ此人(このひと)の事に就(つい)て詳(くは)しくは後章(こうせう)に申述(もうしのべ)る考(かんが)へであるから此処(こゝ)には大体(だいたい)に        止(とゞ)めて置(お)く事とする兎(と)に角(かく)天文十五年から永禄(えいろく)七年 迄(まで)は此(この)城(しろ)は全(まつた)く今川義元の勢力(せいりよく)範囲(はんゐ)に属(ぞく)して居(をつ)た 《割書:今川義元の|事績》  のであるが此際(このさい)御話(おはなし)して置(お)きたいのは今川義元(いまがはよしもと)と云ふ人の此(この)地方(ちほう)に遺(のこ)した事跡(じせき)の一 端(たん)である元来(がんらい)此人(このひと)       は余程(よほど)行政(ぎようせい)上(ぜう)の事にも注意(ちうゐ)した人で且(か)つ豪邁(ごうまい)にして大将(たいせう)としても相当(さうとう)に器量(きれう)を備(そな)へた人であつたよう        に思(おも)はれる殊(こと)に今川家(いまがはけ)は其(その)以前(いぜん)からの名家(めいか)で公卿(くげ)の間(あひだ)にも姻戚(ゐんせき)関係(かんけい)があつて常(つね)に紳縉(しん〳〵)の間(あひだ)に往来(おうらい)した 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 □□□豊橋市史談 【本文】       ものであるから義元(よしもと)の如(ごと)きも自(みづか)ら歯(は)を涅(こん)して額髪(がくばつ)を蓄(たくは)へて居(を)つたので是非(ぜひ)上洛(ぜうらく)して京紳(けうしん)と伍(ご)し覇(は)を天       下に称(せう)せむと希(こひねが)つて居(を)つたものであるが之(これ)には先(ま)づ第一に尾張(をはり)の織田信長(をたのぶなが)を征服(せいふく)せねばならぬと云       ふので種々(しゆ〴〵)に意(こゝろ)を用(もち)いたものである即(すなは)ち天文十年五月には令(れい)を出(いだ)して領分(れうぶん)内(ない)に於(お)ける租税(そぜい)の法(ほふ)を改(あらた)め       て増税(ぞうぜい)を行(おこな)ひ又(ま)た撿地(けんち)を行(おこな)つた形跡(けいせき)がある従(したがつ)て吉田を掌握(せうあく)してからも頗(すこぶ)る民政(みんせい)に意(こゝろ)を用(もち)いたもので       第一に此(この)地方(ちほう)の神社(じんしや)仏閣(ぶつかく)に対(たい)しては盛(さかん)に造営(ざうえい)を行(おこな)つたものである又(ま)た社領(しやれう)寺領(じれう)をも寄進(きしん)したもので之(これ)       は実際(じつさい)敬神尊仏(けいしんそんふつ)の念(ねん)からも出(で)たものであろうが一 方(ぽう)には人心(じんしん)を収攬(しうらん)する一 種(しゆ)の政略(せいりやく)としても行(おこな)つたも       のであろうと思(おも)ふモツトモ此事(このこと)は啻(たゞ)に義元(よしもと)ばかりではない牧野(まきの)古白(こはく)なども之(これ)を行(おこな)つたものではあるが        義元(よしもと)のやり方(かた)は特(とく)に著(いちじる)しきものがあるのである現(げん)に寄附状(きふぜう)棟札(むなふだ)等(とう)の残(のこ)つて居(を)るのは此(この)附近(ふきん)で郷社(ごうしや)の        吉田神社(よしだじんしや)石巻神社(いしまきじんしや)中八の神明社(しんめいしや)幷(ならび)に全久院(ぜんきうゐん)花田(はなだ)の清源寺(せいげんじ)雲(う)の谷(や)の普門寺(ふもんじ)等(とう)であるが此寺(このてら)に対(たい)する寄付(きふ)        状(ぜう)などが普通(ふつう)の文章(ぶんせう)と違(ちが)つて居(を)るのが面白(おもしろ)いと思(おも)ふ現(げん)に普門寺(ふもんじ)に現存(げんぞん)して居(を)るのは天文十八年と同二       十四年のものであるが寄付状(きふぜう)と云ふよりは寧(むし)ろ寺法(じほう)の定状(さだめぜう)と云ふべきもので何(なん)となく法律的(ほうりつてき)に出来(でき)て 吉田神社   居(を)るのは義元(よしもと)の人物(じんぶつ)を知(し)る上(うへ)に於(おい)て最(もつと)も参考(さんこう)となるべきものであると思(おも)ふ又(ま)た吉田神社(よしだじんしや)にある棟札(むなふだ)は        神輿(みこし)の棟札(むなふだ)であつて大原雪斎(おほはらせつさい)の自筆(じしつ)で天文十六年のものであるが即(すなは)ち吉田城(よしだぜう)を取(と)つた翌年(よくねん)で田原(たはら)を取(と)       つた其年(そのとし)に当(あた)るのである且(か)つ六月十三日と云ふ日付(ひづけ)があるから其(その)祭礼(さいれい)に当(あた)つて寄進(きしん)をしたものである       と思(おも)はれる又(ま)た同社(どうしや)に木彫(ぼくてう)の獅子(しゝ)の頭(かしら)があるが之(こ)れ亦(また)義元(よしもと)が献納(けんなふ)したものであると云ふ事であるモツ       トモ之(こ)れには確(たしか)な証拠(せうこ)は無(な)いが時代(じだい)と云ひ彫刻(てうこく)と云ひ如何(いか)にも当時(とうじ)のものと信(しん)ぜられる果(はた)して然(しか)りと       すれば中八の神明社(しんめいしや)にも殆(ほとん)ど之(これ)と同様(どうよう)の獅子(しゝ)頭(かしら)があるが之(これ)亦(また)天文十九年に義元(よしもと)が同社(どうしや)を造営(ざうえい)した時に        寄進(きしん)したものではなかろうか兎(と)に角(かく)義元(よしもと)が盛(さかん)に神社(じんしや)仏閣(ぶつかく)に寄進(きしん)した事は見(み)るべきものがあると思(おも)ふソ 【欄外】 豊橋市史談     (今川義元と吉田)          五十九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談     (今川義元と吉田)          五十八 【本文】 出来たのである。しかるに義元の要求で竹千代は又々直ちにその二十二日をもって今川氏に人質となって駿河に行くことになった。このような訳であるから、その後というものは東三河はもちろん西三河の大部分まで今川氏の勢力範囲となったので、松平氏の領分はさながら今川の属国とも言うべき様相を呈するに至ったのである。 そこで、その頃駿河から吉田の城代に来たのはどのような人々であったかというに、これは屡々交代したもののようである。最初は例の天野安芸守であったと推定されるのであるが、天文十九年の大字中八神明社の棟札には今川義元の名の下に朝比奈筑前守輝勝奉行衆岡崎出雲守輝綱という名が記されている。この朝比奈・岡部の二氏は今川家重要の家臣で、その頃田原の城代であった人にも朝比奈肥後守元智という人があって、今もなお青津の伝法寺外一二ケ所にその人の文書が残っているが、これ等の朝比奈は皆同族で当時この地方に来て事を執ったものと見える。 また天文二十年石巻神社の棟札には「吉田城代駿河住人伊東左近将監」と記してあるが、この伊東左近将監祐時という人の事は種々の記録にも見えるので、これまたその頃から城代としてこの地にいたものと信じられる。 そして彼の有名なる小原肥前守鎮実はこの地における今川氏最後の城代であったが、この人は相当権勢があったもので、当時吉田の城は東三河における重鎮であったものである。ある書にはこの人の名字を大原と記し、また名乗りを資良としてあるが、名字は小原で最後の名乗りは鎮実であったものと思う。もっともこの人の事について詳しくは後章に申し述べる考えであるからここには大体に止めて置くこととする。 兎に角天文十五年から永禄七年までは、この城は全く今川義元の勢力範囲に属していたのであるが、この際お話しして置きたいのは今川義元という人のこの地方に遺した事跡の一端である。元来この人は相当行政上の事にも注意した人で、かつ豪邁にして大将としても相当に器量を備えた人であったように思われる。 殊に今川家はその以前からの名家で公卿の間にも姻戚関係があって、常に紳士の間に往来した 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 豊橋市史談 【本文】 ものであるから、義元のようなものも自ら歯を黒く染めて額髪を蓄えていたので、ぜひ上洛して京の紳士と伍し、覇を天下に称そうと願っていたものであるが、これには先ず第一に尾張の織田信長を征服せねばならぬということで、種々に意を用いたものである。 即ち天文十年五月には令を出して領分内における租税の法を改めて増税を行い、また検地を行った形跡がある。従って吉田を掌握してからも頗る民政に意を用いたもので、第一にこの地方の神社仏閣に対しては盛んに造営を行ったものである。また社領・寺領をも寄進したもので、これは実際敬神尊仏の念からも出たものであろうが、一方には人心を収攬する一種の政略としても行ったものであろうと思う。 もっともこの事は単に義元ばかりではない。牧野古白なども これを行ったものではあるが、義元のやり方は特に著しいものがあるのである。現に寄附状・棟札等の残っているのは、この附近で郷社の吉田神社・石巻神社・中八の神明社並びに全久院・花田の清源寺・雲谷の普門寺等であるが、この寺に対する寄付状などが普通の文章と違っているのが面白いと思う。 現に普門寺に現存しているのは天文十八年と同二十四年のものであるが、寄付状というよりは寧ろ寺法の定状というべきもので、何となく法律的に出来ているのは、義元の人物を知る上において最も参考となるべきものであると思う。 また吉田神社にある棟札は神輿の棟札であって大原雪斎の自筆で天文十六年のものであるが、即ち吉田城を取った翌年で田原を取ったその年に当るのである。かつ六月十三日という日付があるから、その祭礼に当って寄進をしたものであると思われる。 また同社に木彫の獅子の頭があるが、これまた義元が献納したものであるということである。もっともこれには確かな証拠は無いが、時代といい彫刻といい、如何にも当時のものと信じられる。果してそうりとすれば、中八の神明社にも殆どこれと同様の獅子頭があるが、これまた天文十九年に義元が同社を造営した時に寄進したものではなかろうか。兎に角義元が盛んに神社仏閣に寄進した事は見るべきものがあると思う。そ 【欄外】 豊橋市史談     (今川義元と吉田)          五十九