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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 44

ページ: 44

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【欄外】    豊橋市史談     (今川義元と吉田)          六十 【本文】       コで此(この)吉田神社(よしだじんしや)の事に就(つい)て少(すこ)しく申述(もうしの)べたいのであるが元来(がんらい)同社(どうしや)は何時頃(いつごろ)からあつたものであるかと 石田正利   云(い)ふに元(もと)神官(しんかん)の家(いへ)であつた石田氏(いしだし)の家(いへ)に古縁起(こゑんき)が伝(つた)はつて居る之(これ)は石田正利(いしだまさとし)の書(か)いたものであるが此(この)        正利(まさとし)と云ふ人は石田家(いしだけ)の記録(きろく)によると所謂(いはゆる)元亀(げんき)天正(てんせう)時代(じだい)の人で父(ちゝ)を友利(ともとし)と云ひ叔父(おぢ)正治(まさはる)は天正十九年 石田正治   前田利家(まへだとしいへ)の召状(めしぜう)によつて上京(ぜうけう)せんとして途中(とちう)で病没(びやうぼつ)したと云ふ事であるが此(この)縁起(えんき)が此(この)正利(まさとし)の書(か)いたも       のであるとすると天文を去(さ)る事(こと)甚(はなは)だ遠(とほ)からぬ時代(じだい)のものである即(すなは)ち其(その)記(き)する処(ところ)によると此(この)社(やしろ)は天治元       年 崇徳院(すとくゐん)の時の創建(さうけん)であるが其後(そのご)源頼朝(みなもとよりとも)が天下を統(とう)一して鎌倉(かまくら)にあつた時 遥(はるか)に此(この)社(やしろ)の霊験(れいけん)著(いちじる)しき       を聞(き)き及(およ)んで神領(しんれう)を寄附(きふ)したものであるとなつて居(を)る又(ま)た伝説(でんせつ)には頼朝(よりとも)の臣(しん)安達盛長(あだちもりなが)が社殿(しやでん)を造営(ざうえい)し       たと称(とな)へられて居る成程(なるほど)盛長(もりなが)は三河の国の奉行(ぶぎよう)であつたので三河には処々(しよ〳〵)に其(その)造営(ざうえい)であると伝(つた)えられ       て居(を)るものがある鳳来寺(ほうらいじ)財賀寺(ざいがじ)の如きも其(その)類(るい)で鳳来寺(ほうらいじ)には現(げん)に鎌倉時代(かまくらじだい)の遺風(ゐふう)たる田楽(でんがく)の古式(こしき)が遺(のこ)つ       て居(を)るし財賀寺(ざいがじ)の山門(さんもん)は又(ま)た鎌倉時代(かまくらじだい)の建築(けんちく)として特別保護建築物(とくべつほごけんちくぶつ)になつて居る吉田神社(よしだじんしや)にも祭礼(さいれい)の 笹  踊   神事(じんじ)に頼朝(よりとも)を初(はじ)め鎌倉時代(かまくらじだい)の武士(ぶし)の装(よそおひ)をしたものが出(で)るし又(また)笹踊(さゝをどり)と云ふがあるが之(これ)は矢張(やはり)田楽(でんがく)の余(よ)        風(ふう)かとも思(おも)はれる此処(こゝ)から見(み)ると如何(いか)にも頼朝(よりとも)に関係(かんけい)がある様(よう)にも思(おも)はれるがドウモ之(これ)は少(すこ)しの根拠(こんきよ)       も発見(はつけん)することが出来(でき)ぬ然(しか)るに悟眞寺(ごしんじ)古記(こき)の中(なか)に吉田神社(よしだじんしや)は元(も)と悟眞寺(ごしんじ)の境内(けいだい)にあつたもので悟眞寺(ごしんじ)       は其(その)頃(ころ)今(いま)の城地(ぜうち)の処(ところ)にあつたものであるが永正(えいせう)二 年(ねん)牧野氏(まきのし)が今川氏親(いまがはうぢちか)の命(めい)で初(はじ)めて今橋城(いまはしぜう)を築(きづ)いた時(とき)        悟眞寺(ごしんじ)は今(いま)の処(ところ)に移転(いてん)せしめられた ので其(その)移転(いてん)費用(ひよう)の如(ごと)きは今川家(いまがはけ)から貰(もら)つたのである其(その)時(とき)牧野家(まきのけ)の        依願(いがん)に依(よ)つて吉田神社(よしだじんしや)のみは旧来(きうらい)の侭(まゝ)取遺(とりのこ)して置(お)いたのであると書(か)いてある如何(いか)にも之(こ)れは事実(じじつ)の様(よう)       に思(おも)はれるのであるが吉田名蹤綜録(よしだめいじうそうろく)に載(の)つて居(を)る義元(よしもと)幷(なら)びに其(その)子(こ)氏眞(うじさね)の文書(もんしよ)によると牧野田三(まきのでんざう)から神(しん)        領(れう)六貫百文が此(この)社(やしろ)に寄進(きしん)されて居(を)つた事が見(み)へる従(したがつ)て此(この)社(やしろ)は悟眞寺(ごしんじ)と共(とも)に古(ふる)くからあつたものに相(さう) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百六十四号附録   ( 明治四十四年五月廿三日発行 ) 【本文】        違(ゐ)ないが独立(どくりつ)の社(やしろ)として存在(ぞんざい)するに至つたのは今橋城(いまはしぜう)の出来(でき)た時で牧野古白は之(これ)を城(しろ)の鎮守(ちんじゆ)として祭(まつ)       り其(その)子(こ)の成三(しげかづ)又は信成(のぶしげ)の時に至つて一 層(そう)其(その)基礎(きそ)を定(さだ)めたものであると云ふのが最(もつと)も事実(じじつ)らしく思(おも)はる       ゝのである殊(こと)に此(この)祭神(まつりがみ)は素戔嗚尊(すさのうのみこと)であるが俗(ぞく)に牛頭天皇(ぎうとうてんのう)と呼(よ)ばれて居るので牧野氏(まきのし)は牛久保(うしくぼ)に居つた       時から尊敬(そんけい)して居つた神(かみ)である然(しか)るに其(その)後(ご)度々(たび〴〵)の兵乱(へいらん)で一時は頽廃(たいはい)にも及(およ)ばむとして居つたのを義元(よしもと)       が此処(こゝ)に大造営(だいざうえい)をして神輿(みこし)をも寄進(きしん)し祭典(さいてん)の式(しき)をも興(おこ)したものであると信(しん)ずる而(しか)して此(この)吉田神社(よしだじんしや)と云       ふ名前(なまへ)の如きも勿論(もちろん)此(この)地(ち)の地名が吉田と改(あらた)まつてから付(つ)けられたものであるに相違(さうゐ)ないから牧野成三(まきのしげかづ)       か然(しか)らざれば今川義元(いまがはよしもと)が命名(めい〳〵)したものでなくてはならぬと信(しん)ずるのである義元(よしもと)が吉田神社(よしだじんしや)を経営(けいえい)した 熊野神社  事は先(ま)づ一ト通(とほ)り右(みぎ)の如(ごと)くであるが大字(おほあざ)魚熊野神社(うをくまのじんしや)の元(もと)神官(しんかん)の家(いへ)である鈴木延路(すゞきのぶぢ)氏(し)の家(いへ)にも中々(なか〳〵)味(あぢは)ふ       べき古文書(こもんしよ)が伝(つた)はつて居(を)る之(これ)は天文廿三年のもので熊野神社(くまのじんしや)幷(ならび)に其(その)末社(まつしや)たる白山(はくさん)天白(てんぱく)両社(れうしや)の領地(れうち)を撿(けん)       して禰宜(ねぎ)の取(と)り分(ぶん)迄(まで)をも定(さだ)めた書付(かきつけ)であるモツトモ之(これ)は断簡(だんかん)ではあるが実(じつ)に義元(よしもと)が行政上(ぎようせいぜう)のヤリ口(ぐち)が        伺(うかゞ)ひ知(し)れるので大切(たいせつ)なものであると思(おも)ふ併(しか)し右(みぎ)の文書(ぶんしよ)は果(はた)して其(その)当時(とうじ)のものであるか又(また)は謄本(とうほん)である       か少(すこ)しく断(だん)じ兼(か)ぬる点(てん)があるが要(えう)するに後世(こうせい)の偽作(ぎさく)等(とう)でない事は云ふ迄もない尚(な)ほ序(ついで)たから御話(おはなし)する 《割書:石田鈴木両|家》  が前(まへ)に申述(もうしの)べた石田家(いしだけ)と此(この)鈴木家(すゞきけ)とは共(とも)に当(とう)市内(しない)の旧家(きうか)で其(その)家系(かけい)によると鈴木家の祖先(そせん)は文治年間に        紀伊(きい)の熊野(くまの)から此(この)地(ち)に来(き)たものだと伝(つた)へられて居(を)る又天文九年 龍拈寺(りうねんじ)宗官(そうかん)和尚(おせう)の遺書(ゐしよ)に依(よ)れば其(その)中(なか)に        石田家(いしだけ)一 統(とう)から興徳寺(こうとくじ)へ畠(はたけ)壱貫九百文を寄進(きしん)して居る事か載(の)せてある従(したがつ)て石田家も亦(ま)た天文(てんぶん)以前(いぜん)に       於て既(すで)に立派(りつぱ)なる家柄(いへがら)をなして居(を)つた事(こと)が分(わか)るのである        神社(じんしや)仏閣(ぶつかく)に対(たい)する事は大要(たいえう)右の如くであるがそれのみならず義元(よしもと)は市場(いちば)並(ならび)に駅馬(ゑきば)の法(ほう)をも定(さだ)めたもの       で今(いま)から云ふと余程(よほ)法律(ほうりつ)思想(しさう)のあつた人とでも云つてよかろうと思(おも)ふ当地(とうち)に於(お)ける魚問屋(うをとんや)の如(ごと)きも義 【欄外】    豊橋市史談     (今川義元と吉田)          六十一

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談     (今川義元と吉田)          六十 【本文】 そこで、この吉田神社の事について少しく申し述べたいのであるが、元来同社はいつ頃からあったものであるかというに、元神官の家であった石田氏の家に古縁起が伝わっている。これは石田正利の書いたものであるが、この正利という人は石田家の記録によると、いわゆる元亀・天正時代の人で、父を友利といい、叔父正治は天正十九年前田利家の召状によって上京しようとして途中で病没したということであるが、この縁起がこの正利の書いたものであるとすると、天文を去ること甚だ遠からぬ時代のものである。 即ちその記するところによると、この社は天治元年崇徳院の時の創建であるが、その後源頼朝が天下を統一して鎌倉にあった時、遥かにこの社の霊験著しきを聞き及んで神領を寄附したものであるとなっている。また伝説には頼朝の臣安達盛長が社殿を造営したと称えられている。 なるほど盛長は三河の国の奉行であったので、三河には処々にその造営であると伝えられているものがある。鳳来寺・財賀寺のようなものもその類で、鳳来寺には現に鎌倉時代の遺風たる田楽の古式が遺っているし、財賀寺の山門は又鎌倉時代の建築として特別保護建築物になっている。吉田神社にも祭礼の神事に頼朝をはじめ鎌倉時代の武士の装いをしたものが出るし、また笹踊りというのがあるが、これは矢張り田楽の余風かとも思われる。 ここから見ると如何にも頼朝に関係があるようにも思われるが、どうもこれは少しの根拠も発見することが出来ぬ。しかるに悟真寺古記の中に、吉田神社は元悟真寺の境内にあったもので、悟真寺はその頃今の城地のところにあったものであるが、永正二年牧野氏が今川氏親の命で初めて今橋城を築いた時、悟真寺は今のところに移転せしめられたので、その移転費用のようなものは今川家から貰ったのである。その時牧野家の依願によって吉田神社のみは旧来の侭取り遺して置いたのであると書いてある。如何にもこれは事実のように思われるのであるが、吉田名蹤綜録に載っている義元並びにその子氏真の文書によると、牧野田三から神領六貫百文がこの社に寄進されていた事が見える。従ってこの社は悟真寺と共に古くからあったものに相 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百六十四号附録   ( 明治四十四年五月廿三日発行 ) 【本文】 違いないが、独立の社として存在するに至ったのは今橋城の出来た時で、牧野古白はこれを城の鎮守として祭り、その子の成三(または信成)の時に至って一層その基礎を定めたものであるというのが最も事実らしく思われるのである。 殊にこの祭神は素戔嗚尊であるが、俗に牛頭天皇と呼ばれているので、牧野氏は牛久保にいた時から尊敬していた神である。しかるにその後度々の兵乱で一時は頽廃にも及ばんとしていたのを、義元がここに大造営をして神輿をも寄進し祭典の式をも興したものであると信ずる。 そしてこの吉田神社という名前のようなものも、もちろんこの地の地名が吉田と改まってから付けられたものであるに相違ないから、牧野成三か然らざれば今川義元が命名したものでなくてはならぬと信ずるのである。 義元が吉田神社を経営した事は先ず一通り右の如くであるが、大字魚町熊野神社の元神官の家である鈴木延路氏の家にも中々味わうべき古文書が伝わっている。これは天文二十三年のもので、熊野神社並びにその末社たる白山・天白両社の領地を検して禰宜の取り分までをも定めた書付である。もっともこれは断簡ではあるが、実に義元が行政上のやり口が伺い知れるので大切なものであると思う。併し右の文書は果たしてその当時のものであるか、又は謄本であるか少しく断じ兼ねる点があるが、要するに後世の偽作等でない事は言うまでもない。 なお序だから御話しするが、前に申し述べた石田家とこの鈴木家とは共に当市内の旧家で、その家系によると鈴木家の祖先は文治年間に紀伊の熊野からこの地に来たものだと伝えられている。また天文九年龍拈寺宗官和尚の遺書によれば、その中に石田家一統から興徳寺へ畠一貫九百文を寄進している事が載せてある。従って石田家もまた天文以前において既に立派なる家柄をなしていた事が分かるのである。 神社仏閣に対する事は大要右の如くであるが、それのみならず義元は市場並びに駅馬の法をも定めたもので、今から言うと相当法律思想のあった人とでも言ってよかろうと思う。当地における魚問屋のようなものも義 【欄外】 豊橋市史談     (今川義元と吉田)          六十一

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Imagawa Yoshimoto and Yoshida) - 60 [Main Text] Now, I would like to discuss the Yoshida Shrine in some detail. As to when this shrine originally existed, there is an old founding record (koenki) preserved in the Ishida family home, which was formerly a family of shrine priests. This was written by Ishida Masatoshi. According to the Ishida family records, this Masatoshi was a person from the so-called Genki-Tensho period, his father was called Tomotoshi, and his uncle Masaharu died of illness en route while attempting to go to Kyoto in response to a summons from Maeda Toshiie in Tensho 19. If this founding record was indeed written by Masatoshi, then it dates from a period not far removed from the Tenbun era. According to what it records, this shrine was founded in the first year of Tenji during the time of Emperor Sutoku, but later when Minamoto no Yoritomo unified the realm and was in Kamakura, he heard from afar of the remarkable divine efficacy of this shrine and donated shrine lands. Legend also claims that Yoritomo's retainer Adachi Morinaga constructed the shrine buildings. Indeed, since Morinaga was the administrator of Mikawa Province, there are various places throughout Mikawa that are said to have been constructed by him. Temples like Horaiji and Zaigaji are of this type - Horaiji still preserves the ancient forms of dengaku folk performing arts, a vestige of the Kamakura period, and Zaigaji's mountain gate has been designated as a specially protected building as Kamakura period architecture. At Yoshida Shrine too, in the ritual performances of festivals, figures appear dressed as Yoritomo and other Kamakura period warriors, and there is also something called sasa-odori (bamboo grass dance), which might also be considered a remnant of dengaku traditions. From this perspective, it certainly seems to have connections to Yoritomo, but unfortunately no evidence whatsoever can be found for this. However, in the old records of Goshinji Temple, it states that Yoshida Shrine was originally within the precincts of Goshinji Temple, and Goshinji Temple was at that time located where the current castle grounds are. When the Makino clan first built Imahashi Castle in Eisho 2 under orders from Imagawa Ujichika, Goshinji Temple was moved to its current location, with the moving expenses provided by the Imagawa house. At that time, at the request of the Makino family, only Yoshida Shrine was left in its original location as before. This seems quite factual, and according to documents by Yoshimoto and his son Ujizane recorded in the Yoshida Meiseki Soroku, it can be seen that Makino Denzo donated 6 kan 100 mon in shrine lands to this shrine. Therefore, this shrine undoubtedly existed from ancient times together with Goshinji Temple. [Left Page] [Header] San'yo Shinpo No. 3764 Supplement (Published May 23, Meiji 44) [Main Text] However, it came to exist as an independent shrine when Imahashi Castle was built. Makino Kohaku enshrined it as the castle's tutelary deity, and during the time of his son Shigekatsu (or Nobushige), its foundation was further established - this seems most factual. Particularly, the deity enshrined here is Susanoo-no-Mikoto, but is commonly called Gozutennō, a god that the Makino clan had revered since their time in Ushikubo. Later, after repeated military conflicts, it was on the verge of falling into decay when Yoshimoto undertook major reconstruction here, donating a portable shrine and reviving festival ceremonies. The name "Yoshida Shrine" itself was undoubtedly given after this area's place name was changed to Yoshida, so it must have been named either by Makino Shigekatsu or by Imagawa Yoshimoto. Yoshimoto's management of Yoshida Shrine was roughly as described above, but the Suzuki Nobumichi family, former shrine priests of Kumano Shrine in Uomachi district, also preserves quite valuable old documents. These date from Tenbun 23 and are records that surveyed the lands of Kumano Shrine and its subsidiary shrines Hakusan and Tenpaku, even determining the portions for the shrine priests. Though these are fragmentary, they provide valuable insight into Yoshimoto's administrative methods and are therefore precious. However, whether these documents are originals from that time or copies is somewhat difficult to determine, though they are certainly not later forgeries. As an aside, both the Ishida family mentioned earlier and this Suzuki family are old families within the current city. According to their genealogies, the Suzuki family ancestors came to this area from Kumano in Kii Province during the Bunji period. Also, according to the testament of Ryunenji Temple's head priest Sōkan from Tenbun 9, it records that the Ishida family collectively donated 1 kan 900 mon worth of fields to Kōtokuji Temple. Therefore, it can be seen that the Ishida family had already established itself as a distinguished household before the Tenbun period. The matters concerning shrines and temples are roughly as described above, but beyond this, Yoshimoto also established laws for markets and post horses. From today's perspective, he could be said to have been a person with considerable legal thinking. Even things like fish wholesalers in this area were [established by] Yoshi[moto]... [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Imagawa Yoshimoto and Yoshida) - 61