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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 46

ページ: 46

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【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□(今川義元と吉田)□□□□□□□□□□六十四 【本文】         留(りう)せし事など思(おも)ひ出(いで)て、 岩瀬式部(いわせしきぶ)方(かた)へ案内(あんない)しつゝ 行(ゆ)けば、 程(ほど)なく牛窪(うしくぼ)の迎(むかひ)来(き)たり、さらば是(これ)よりと        て西郡(にしのこほり)の衆(しゆう)は返(かへ)しつ、 又(また)牧野平(まきのへい)四 郎(らう)已下(いか)来(きたり)迎(むか)はれて、 田(でん)三 郎(らう)豊河(とよかは)の寺(てら)にて待(ま)たれけるよしなり、         長老(てうらう)も出座(しゆつざ)有(あつ)て、 盃(さかづき)たび〳〵歴々(れき〳〵)のしたて過分(くわぶん)なり、 酒(さけ)半(なか)ば無理(むり)にまかり立(た)ちたれば、 道迄(みちまで)色々(いろ〳〵)持(も)        たせられて、 平(へい)四 郎(らう)平(へい)三 郎(らう)其(その)外(ほか)同名(どうめい)中(ちう)、 富長(とみなが)近(ちか)くまで送(おく)られて、 織部入道息達(をりべにふどうそくたつ)、 今泉弥(いまいづみや)四 郎(らう)已下(いか)、         早々(さう〳〵)寄合(よりあ)ひ待(ま)ちたるよしなり、 去年(さるとし)以来(いらい)、 山家(やまが)国中(こくちう)とりあひ出来(でき)て、この道(みち)は一 向(こう)不通(ふつう)にて侍(はべ)るを         敵味方(てきみかた)送(おく)り迎(むか)ひ、 参会(さんくわい)して行別(ゆきわか)れたり、そのかみ鳳来寺(ほうらいじ)参詣(さんけい)して見(み)しわたりなり、 織部(をりべ)新城(しんぜう)目(め)を驚(おどろ)        かしけり、 年(とし)経(へ)て出頭 息(そく)新(しん)八 郎(らう)を始(はじ)め、 子供(こども)あまたいづれも器量(きれう)に見(み)えたり、 旅宿(りよしゆく)とても別(べつ)の搆(かまへ)も        なく、 数寄(すき)の座敷(ざしき)へむざ〳〵なる旅(たび)の具(ぐ)ども運(はこ)ばせ、 頓(やが)て風呂(ふろ)夕食(ゆうしよく)くらひ、 雁(かり)が音(ね)の料理(れうり)、 尾州(びしう)遠(ゑん)        の名酒(めいしゆ)、 路次(ろじ)不通(ふつう)の時分(じぶん)奇特(きとく)の事(こと)なり       とある此(この)中(うち)に藤太郎(とうたらう)とあるのは西郡(にしのこほり)の城主(ぜうしゆ)鵜殿(うどの)の事であるが牧野田(まきのでん)三 郎(らう)と云ふのは牧野出羽守保成(まきのではのかみやすなり) 牧野保成  の子(こ)で成元(なりもと)と云ふた人であると信(しん)ずる即(すなは)ち此(この)頃(ころ)牛久保(うしくぼ)では保成(やすなり)が勢力(せいりよく)を持(も)つて居つたものと思(おも)はれる       平四郎平三郎は勿論(もちろん)其(その)一 族(ぞく)で平三郎と云ふのは伊奈(いな)に住(ぢう)して居(を)つた人である宗長手記(そうてうしゆき)の中(なか)にも伊奈(いな)の        牧野平(まきのへい)三 郎(らう)と云ふこと事が書(か)いてあるが矢張(やはり)同(どう)一 人(にん)であると思(おも)ふ又(ま)た織部入道(をりべにふどう)と云のは菅沼織部正定則(すがぬまをりべのせうさだのり) 菅沼織部正 の事で其子(そのこ)が定村(さだむら)其孫(そのまご)が後(のち)に野田(のだ)の城(しろ)を守(まも)つて武田信玄(たけだしんげん)に当(あた)つた有名(ゆうめい)なる定盈(さだみつ)である而(しか)して此中(このなか)に織(をり)        部新城(べしんぜう)目(め)を驚(おどろ)かし云々(うんぬん)とあるのは果(はた)して何処(どこ)の事であるか少(すこ)しく疑問(ぎもん)であるが私(わたくし)は今(いま)の新城町(しんしろてう)の事に 織部新城   相当(さうとう)すると思(おも)ふ当時(とうじ)織部正(をりべのせう)の居城(きよぜう)は野田(のだ)にあつたのであるが其頃(そのころ)今(いま)の新城町(しんしろてう)の辺(へん)に新塞(しんざい)を築(きづ)いたので        之(これ)を新城(しんぜう)と呼(よ)むだものではあるまいか文中(ぶんちう)富長(とみなが)近(ちか)くまで送(おく)られてとあるが富長(とみなが)と云ふ処は今(いま)富永(とみなが)と書(か)       くが岩座村(いわくらむら)の内(うち)にあつて新城町(しんしろてう)と境(さかひ)を接(せつ)して居(を)るのである或人(あるひと)は嘗(かつ)て此(この)新城(しんしろ)と云ふのは野田(のだ)の城(しろ)を指(さ) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百七十号附録□□□( 明治四十四年五月三十日発行 ) 【本文】       したので今(いま)の新城町(しんしろてう)ではない今(いま)の新城町に城(しろ)の出来(でき)たのは尚(なほ)其(その)以後(いご)の事であると云ふた事があるが此(この)        新城(しんしろ)と云ふ処に就(つい)ては旧来(きうらい)区々(くゝ)の説(せつ)があるが新城聞書(しんしろきゝがき)の如きは此(この)城(しろ)を以(もつ)て天文中 平井郷(ひらゐごう)大屋(おほや)の城主(ぜうしゆ)菅沼(すがぬま)        大膳亮定継(たいぜんのすけさだつぐ)の築(きづ)いたものであると書(か)いてあるが此(この)城(しろ)は頗(すこぶ)る多(おほ)くの変遷(へんせん)を受けて一時は荒廃(こうはい)に皈(き)した事       もあるので甚(はなは)だ明証(めいせう)を得難(えがた)い事情(じぜう)がある併(しか)し乍(なが)ら此(この)東国紀行(とうごくきこう)にある新城(しんしろ)と云ふ事に就(つい)ては此頃(このころ)吉田東       伍氏の地名辞書(ちめいじしよ)を見(み)るに矢張(やはり)前(まへ)に述(の)べた私の説(せつ)と同(おな)じ意見(いけん)が載(の)つて居(を)るのであるドウモ之(これ)は其説(そのせつ)がよ       いように信(しん)ぜられるのである 《割書:竹千代名を|元信と命ず》   扨(さて)天文(てんもん)の次(つぎ)が弘治(こうぢ)であるが今川家(いまがはけ)にある松平竹千代(まつだひらたけちよ)は其二年に至(いた)つて十五歳の正月十五日に加冠(かくわん)し義(よし) 《割書:元信名を元|康と改む》   元(もと)の偏諱(へんい)を貰(もら)つて名(な)を元信(もとのぶ)と命(めい)じたのである之(これ)にも弘治(こうぢ)元年(がんねん)三月 説(せつ)があるが余(あま)り必要(ひつよう)がないから今(いま)詳(くはし) 徳川家康  くは申述(もうしの)べぬ而(しか)して其翌(そのよく)三年には更(さら)に元康(もとやす)と改名(かいめい)したが諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の通(とほ)り之(これ)が後(のち)に徳川家康(とくがはいへやす)となつ       たのである然(しか)るに其(その)翌年(よくねん)に年号(ねんごう)が又た永禄(えいろく)と改(あらた)まつたが家康(いへやす)は其年(そのとし)十七歳で西三河へ出陣(しゆつぢん)したモツト       モ初陣(ういぢん)は弘治(こうぢ)二年二月 額田郡(ぬかたぐん)名之内(なのうち)の城(しろ)を攻(せ)めたのにあるが夫(それ)からは度々(たび〴〵)の戦争(せんそう)に与(あづか)つたのである例(れい) 《割書:大高城兵糧|入》  の大高城(おほたかぜう)の兵糧入(へうれうい)れなどと云ふのも其頃(そのころ)の事であるが彼(か)の永禄(えいろく)三年(距今(いまをさる)三百六十二年)の桶狭間(おけはさま)役(えき)に       方(あた)つては勿論(もちろん)今川軍(いまがはぐん)に加(くは)はつて先(ま)づ丸根(まるね)の城(しろ)を抜(ぬ)き鵜殿長助(うどのながすけ)に代(かは)つて大高城(おほたかぜう)に入つたのが恰(あだか)も五月十 桶狭間役  九日 桶狭間(おけはざま)合戦(かつせん)の当日である元来(がんらい)此(この)大高城(おほたかぜう)と云ふのは今(いま)の大高停車場(おほたかていしやぜう)の南方(なんぽう)に当(あた)る小丘(せうきう)の地(ち)にあつた       ので当時(とうじ)は海水(かいすゐ)が深(ふか)く鳴海(なるみ)附近(ふきん)まで灣入(わんにう)し且つ敵地(てきち)に突出(とつしゆつ)して居(を)つたのであるから頗(すこぶ)る守(まも)り難(がた)い処(ところ)で       あつた而(しか)して義元(よしもと)は五月の十日に駿府(しゆんぷ)を発(はつ)し十四日には此(この)吉田(よしだ)に陣(ぢん)し段々(だん〴〵)進(すゝ)むで其(その)十九日には桶狭間(おけはさま)       の傍(かたはら)の田楽狭間(でんがくはさま)と云ふ処に陣取(ぢんど)つたのである即(すなは)ち此日(このひ)織田信長(をたのぶなが)の為(ため)に襲撃(しうげき)せられて戦死(せんし)した事は普(あまね)      く人の知る処であるが余(あま)り突然(とつぜん)の事であつたので今川方(いまがはがた)は非常(ひぜう)に狼狽(ろうばい)して岡崎(をかざき)の守将(しゆせう)の如きも城(しろ)を捨(す) 【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□(今川義元と吉田)□□□□□□□□□□六十五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談     (今川義元と吉田)          六十四 【本文】 留まったことなどを思い出して、岩瀬式部方へ案内してもらいながら行けば、程なく牛窪の迎えが来たり、それではこれよりということで西郡の衆は帰し、また牧野平四郎以下が来て迎えられて、田三郎豊河の寺にて待たれていたということである。 長老も出座されて、盃度々歴々の扱い過分なり。酒半ばで無理に立とうとしたところ、道まで色々持たせられて、平四郎平三郎その外同名中、富長近くまで送られて、織部入道息達、今泉弥四郎以下、早々寄り合い待っていたということである。去年以来、山家と国中との争いが起こって、この道は一向に通行不能であったのを、敵味方が送り迎えし、参会して行き別れた。その昔鳳来寺参詣して見たあたりなり。織部新城目を驚かしたことよ。年経って出頭息新八郎をはじめ、子供たち多数いずれも器量よく見えた。旅宿といっても別の構えもなく、数寄の座敷へむざむざなる旅の具など運ばせ、やがて風呂夕食食らい、雁が音の料理、尾州遠の名酒、路次不通の時分奇特のことなり。 とあるこの中に藤太郎とあるのは西郡の城主鵜殿のことであるが、牧野田三郎というのは牧野出羽守保成の子で成元といった人であると信ずる。即ちこの頃牛久保では保成が勢力を持っていたものと思われる。 平四郎平三郎は勿論その一族で、平三郎というのは伊奈に住んでいた人である。宗長手記の中にも伊奈の牧野平三郎ということが書いてあるが、やはり同一人であると思う。また織部入道というのは菅沼織部正定則のことで、その子が定村、その孫が後に野田の城を守って武田信玄に当たった有名な定盈である。 そしてこの中に「織部新城目を驚かし」云々とあるのは、果たしてどこのことであるか少しく疑問であるが、私は今の新城町のことに相当すると思う。当時織部正の居城は野田にあったのであるが、その頃今の新城町の辺に新塞を築いたので、これを新城と呼んだものではあるまいか。 文中「富長近くまで送られて」とあるが、富長という処は今富永と書くが岩座村の内にあって新城町と境を接しているのである。ある人は嘗てこの新城というのは野田の城を指 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百七十号附録   ( 明治四十四年五月三十日発行 ) 【本文】 したので今の新城町ではない、今の新城町に城の出来たのは尚その以後のことであると言ったことがあるが、この新城という処については旧来区々の説があるが、新城聞書のようなものはこの城をもって天文中平井郷大屋の城主菅沼大膳亮定継の築いたものであると書いてあるが、この城は頗る多くの変遷を受けて一時は荒廃に帰したこともあるので甚だ明証を得難い事情がある。 しかしながらこの東国紀行にある新城ということについては、この頃吉田東伍氏の地名辞書を見ると、やはり前に述べた私の説と同じ意見が載っているのである。どうもこれはその説がよいように信じられるのである。 さて天文の次が弘治であるが、今川家にある松平竹千代はその二年に至って十五歳の正月十五日に加冠し、義元の偏諱をもらって名を元信と命じたのである。これにも弘治元年三月説があるが、あまり必要がないから今詳しくは申し述べない。そしてその翌三年には更に元康と改名したが、諸君もご承知の通りこれが後に徳川家康となったのである。 しかるにその翌年に年号がまた永禄と改まったが、家康はその年十七歳で西三河へ出陣した。もっとも初陣は弘治二年二月額田郡名之内の城を攻めたのにあるが、それからは度々の戦争に与ったのである。例の大高城の兵糧入れなどというのもその頃のことであるが、かの永禄三年(今から三百六十二年前)の桶狭間役に当たっては勿論今川軍に加わって先ず丸根の城を抜き、鵜殿長助に代わって大高城に入ったのが恰も五月十九日桶狭間合戦の当日である。 元来この大高城というのは今の大高停車場の南方に当たる小丘の地にあったので、当時は海水が深く鳴海附近まで湾入し且つ敵地に突出していたのであるから頗る守り難いところであった。 そして義元は五月の十日に駿府を発し、十四日にはこの吉田に陣し、段々進んでその十九日には桶狭間の傍の田楽狭間という処に陣取ったのである。即ちこの日織田信長のために襲撃されて戦死したことは普く人の知るところであるが、あまり突然のことであったので今川方は非常に狼狽して、岡崎の守将のようなものも城を捨 【欄外】 豊橋市史談     (今川義元と吉田)          六十五

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Imagawa Yoshimoto and Yoshida) - 64 [Main Text] ...remembering how he had stayed there in the past, and being guided to Iwase Shikibu's residence. Soon the welcoming party from Ushikubo arrived, and saying "well then, from here on," they sent back the people of Nishi-no-kori. Then Makino Heishiro and others came to welcome them, and Denzaburo was waiting at the temple in Toyokawa. The head priest also came out to receive them, with cups offered repeatedly - the treatment by the distinguished guests was excessive. When they tried to leave halfway through the drinking, various things were brought for the journey. Heishiro, Heizaburo and others of the same name, sent them as far as Tominaga. Oribe Nyudo and his sons, Imaizumi Yashiro and others had already gathered and were waiting. Since last year, conflicts had arisen between the mountain houses and the central provinces, making this road completely impassable, but enemies and allies escorted each other, meeting and parting. This was the area I had seen when making a pilgrimage to Horaiji Temple long ago. Oribe's new castle was quite surprising to see. Years had passed, and his eldest son Shinshichiro and many other children all appeared to be of good character. Though it was just a traveler's lodging with no special preparations, they had our humble traveling gear brought to the sukiya parlor. Soon we had baths and dinner, cuisine with the sound of wild geese, and famous sake from distant Bishu province - quite remarkable for a time when the roads were impassable. Among these, "Totaro" refers to Udono, the lord of Nishi-no-kori castle, while "Makino Denzaburo" I believe was a person called Narimoto, son of Makino Dewa-no-kami Yasunari. It appears that at this time, Yasunari held power in Ushikubo. Heishiro and Heizaburo were naturally members of his clan, with Heizaburo being someone who lived in Ina. The Socho memoir also mentions "Makino Heizaburo of Ina," and I believe this refers to the same person. "Oribe Nyudo" refers to Suganuma Oribe-no-sho Sadanori, whose son was Sadamura and whose grandson was the famous Sadamitsu, who later defended Noda castle against Takeda Shingen. The passage mentioning "Oribe's new castle was surprising" raises some questions about which location this refers to, but I believe it corresponds to present-day Shinshiro town. At that time, Oribe-no-sho's main castle was at Noda, but around that period he built a new fortress in the area of present-day Shinshiro town, which may have been called "Shinjo" (new castle). The text mentions being "sent as far as Tominaga," and this place, now written as "Tominaga," is within Iwakura village and borders Shinshiro town. Someone once claimed that this "Shinjo" referred to Noda castle, not present-day Shinshiro town, and that the castle in present-day Shinshiro was built even later. [Left Page] [Header] Sanyo Shinpo No. 3770 Supplement (Published May 30, Meiji 44) [Main Text] However, regarding this place called Shinjo, there have been various theories since ancient times. Documents like the "Shinshiro Memoir" describe this castle as having been built during the Tenbun era by Suganuma Taizen-no-suke Sadatsugu, lord of Oya castle in Hirai village. This castle underwent many changes and at times fell into ruin, making it quite difficult to obtain clear evidence. However, regarding the "Shinjo" mentioned in this Eastern Journey Record, I recently consulted Yoshida Togo's geographical dictionary and found the same opinion as my previously stated theory. This seems to support that theory. Now, the Koji era followed Tenbun. In Koji 2, Matsudaira Takechiyo, who was with the Imagawa family, came of age at fifteen on the 15th day of the first month, receiving a portion of Yoshimoto's name and being given the name Motonobu. There is also a theory placing this in the 3rd month of Koji 1, but as this is not essential, I will not elaborate. In the following third year, he changed his name again to Motoyasu, and as you all know, this person later became Tokugawa Ieyasu. The following year, the era name changed again to Eiroku. Ieyasu was seventeen that year when he marched to western Mikawa. His first battle was actually in the 2nd month of Koji 2, attacking the castle of Nanouchi in Nukata District, but from then on he participated in many battles. The famous provisioning of Odaka castle and similar operations occurred around this time. During the Battle of Okehazama in Eiroku 3 (362 years ago), he naturally joined the Imagawa army, first capturing Marune castle and entering Odaka castle to replace Udono Nagasuke on the very day of the Okehazama battle, the 19th day of the 5th month. Originally, this Odaka castle was located on a small hill south of present-day Odaka Station. At that time, seawater reached deep inland near Narumi, and the castle protruded into enemy territory, making it quite difficult to defend. Yoshimoto departed Sunpu on the 10th day of the 5th month, camped at this Yoshida on the 14th, gradually advanced, and on the 19th took position at a place called Dengaku-hazama near Okehazama. On this day, he was attacked and killed by Oda Nobunaga, as is widely known. The event was so sudden that the Imagawa forces were thrown into great confusion, with even the commander of Okazaki abandoning his castle... [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Imagawa Yoshimoto and Yoshida) - 65