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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 47

ページ: 47

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【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□(桶狭間役後の情況)                    六十六 【本文】 《割書:家康岡崎城|に帰る》  てゝ駿河(するが)へ逃(に)げ還(かへ)つたのであるソコで家康(いへやす)は初(はじ)めて岡崎(をかざき)の本城(ほんぜう)に入つたのであるが其(その)後(ご)義元(よしもと)の子(こ)氏真(うぢさね)       と云ふ人は到底(とうてい)頼(たの)み甲斐(かひ)のない人であると云ふので遂(つひ)に今川氏(いまがはし)と絶(た)つて織田氏(をたし)と相(あひ)提携(てうけい)するに至(いた)つた       ので徳川(とくがは)今川(いまがは)両氏(れうし)の間(あひだ)には之(これ)から戦争(せんそう)が絶間(たへま)のない事となつて此(この)豊橋(とよはし)地方(ちほう)も殆(ほとん)ど其(その)戦場(せんぜう)となつたので       あるそれ等(ら)の状況(ぜうけう)に就(つひ)ては追々(おひ〳〵)後章(こうせう)に於(おい)て申述(もうしの)べたいと思(おも)ふ             ⦿桶狭間役後の情況        扨(さて)前(まへ)にも申述(もうしの)べた如く家康(いへやす)は今川義元(いまがはよしもと)の戦死(せんし)した時 大高城(おほたかぜう)にあつたが其(その)戦死(せんし)を確(たしか)めて後(のち)其夜(そのよ)月(つき)の出(い)づ 岡崎城代  るを待(ま)つて軍(ぐん)を大樹寺(だいじゆじ)まで引上(ひきあ)げたのである然(しか)るに岡崎城(をかざきぜう)の城代(ぜうだい)は廿三日に至(いた)つて駿河(するが)に逃還(にげかへ)つたの       で家康(いへやす)は初(はじ)めて其(その)本城(ほんぜう)に入(い)つたのであるが其頃(そのころ)の城代(ぜうだい)は何(なん)と云ふ人であつたか審(つまびらか)でないが勿論(もちろん)今川       氏の家人(かじん)で三浦上総介義保(みうらかづさのすけよしやす)、 飯尾弥次右衛門(いゝをやじうゑもん)など云う人であつたようである最初(さいしよ)石川右近(いしかはうこん)と云ふ人(ひと)等(ら)       が居(を)つた事は諸種(しよしゆ)の記録(きろく)に見ゆる処であるが此時(このとき)は既(すで)に交代(こうたい)したものと思(おも)はれるソコで織田信長(をたのぶなが)に於 《割書:家康氏真を|促す》  ては義元(よしもと)も既(すで)に戦死(せんし)した事であるから家康(いへやす)は自然(しぜん)己(おの)れに従(したが)ふであろうと思(おも)ふて居(を)つたであろうが家康(いへやす)       は中(なか)々そうでない屡々(しば〳〵)使(つかひ)を駿府(すんぷ)に遣(つか)はして父(ちゝ)の為(ため)に吊(とむらひ)戦(いくさ)をするように義元(よしもと)の子(こ)氏真(うぢさね)に申送(もうしおく)つたので       ある然(しか)るに氏真(うぢさね)は一 向(こう)之(これ)に応(おう)ずる様子(ようす)が見(み)えぬにも拘(かゝは)らず家康(いへやす)は着々(ちやく〳〵)兵(へい)を出(いだ)して挙母(ころも)、 梅坪(うめつぼ)、 広瀬(ひろせ)、        刈谷(かりや)など織田氏(をたし)に属(ぞく)する諸城(しよぜう)を攻撃(こうげき)し其翌(そのよく)永禄四年には尾張(をはり)の知多郡(ちたぐん)に攻(せ)め入(い)り二月の七日には石瀬(いしせ) 石瀬合戦  に於て水野信元(みづののぶもと)の兵(へい)と戦(たゝか)つたのであるケレども氏真(うぢさね)は相替(あひかは)らず之(これ)に応援(おうゑん)しようともせぬので徳川氏(とくがはし)に 《割書:家康氏真と|絶ち信長と》  於ては遂(つひ)に意(い)を決(けつ)して今川氏と絶(た)ち却(かへつ)て織田氏(をたし)と相和(あわ)するに至(いた)つたのである松平記(まつだひらき)で見(み)ると此事(このこと)は其 和す    年の初(はじめ)であつたようにも推察(すいさつ)せらるゝが兎(と)に角(かく)石瀬合戦(いしせかつせん)の後(のち)であつたに相違(さうゐ)ないのである又(また)かくなる 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 □□□豊橋市史談 【本文】       迄の事情(じぜう)に就(つい)ては種々(しゆ〳〵)の説(せつ)があるが家康(いへやす)が今川氏に人質(ひとしち)となつて居(を)つた頃(ころ)の徳川氏の嶮岨艱難(けんそかんなん)と云ふ       ものは容易(ようい)ならぬ事で家人(かじん)等(ら)は毎度(まいど)の合戦(かつせん)に先鋒(せんぽう)に用(もち)ゐられて悪戦苦闘(あくせんくとう)を続(つゞ)けて少(しこ)しも怨(うら)む所(ところ)なく偏(ひとへ)       に主君(しゆくん)の成長(せいてう)を希(こひねが)つて居つたのであるのに家康(いへやす)が成長(せいてう)してからも義元(よしもと)はハカ〴〵しく其(その)領地(れうち)を返(かへ)さ       うともせず頗(すこぶ)る徳川氏をして疑(うたがひ)を大(だい)ならしめた点(てん)がある殊(こと)に氏真(うぢさね)の頼(たの)むに足(た)らざることは前(まへ)の如(こと)き事(じ)        情(ぜう)であるから最早(もはや)今日(こんにち)まで尽(つく)した以上(いぜう)は仮令(たとへ)盟(ちかい)をかゆるとも決(けつ)して武士(ぶし)の面目(めんもく)に背(そむ)く訳(わけ)ではないと云       ふのが一つの理由(りゆう)であつた事と思(おも)はれる且(か)つ此(この)水野信元(みづののぶもと)と云ふ人は前章(ぜんせう)にも申述(もうしのべ)た如く家康(いへやす)の生母(せいぼ)後(のち)       に伝通院(でんつうゐん)と云はれた人の兄弟(けうだい)であるので此(この)和議(わぎ)に就(つい)ては余程(よほど)斡旋(あつせん)の労(ろう)を取(と)つたものと見(み)ゑるソコで信(のぶ)        長(なが)と家康(いへやす)とは互(たがひ)に誓書(せいしよ)を取替(とりか)はしたのであるが之(これ)が駿府(すんぷ)へ知(し)れたから氏真(うぢさね)は大(おほい)に怒(いか)り使(つかひ)を以(もつ)て責問(せきもん)し 中島の戦  たが余(あま)り功能(こうのう)がなかつたのみならず家康(いへやす)は兵(へい)を出(いだ)して今川方の板倉弾正重定(いたくらだんじようしげさだ)を中島(なかじま)並(ならび)に岡(をか)(額田郡)と       云ふ処に攻(せ)め重定(しげさだ)は遂(つひ)に城(しろ)を捨(す)てゝ東三河に逃(のが)れたので中島(なかじま)をば深溝松平(ふかうづまつだひら)の大炊助好景(おほひのすけよしかげ)に賜(たまは)つたので       ある而(しか)して形原(かたのはら)の松平又(まつだひらまた)七 家広(いへひろ)、 竹谷(たけのや)の松平玄蕃允清善(まつだひらげんばのぜうきよよし)、 野田(のだ)の菅沼新(すがぬましん)八 郎定盈(らうさだみつ)、段峯(だんみね)の菅沼小法師(すがぬまこほうし)        定直(さだなほ)、 長篠(ながしの)の菅沼左衛門貞景(すがぬまさゑもんさだかげ)、 作手(つくて)の奥平(おくだひら)九八 郎貞能(らうさだよし)、 川路(かはぢ)の設楽越中守貞通(したらゑつちうのかみさだつう)、 西郷(さいごう)の西郷弾正左(さいごうだんぜうさ) 《割書:小原鎮実東|三河諸将士》   衛門正勝(ゑもんまさかつ)等(とう)は孰(いづ)れも旗幟(きしよく)を明(あきらか)にして徳川氏に属(ぞく)したので氏真(うぢさね)は小原鎮実(こはらしげさね)に命(めい)じて之(これ)等(ら)の人々の質(しち)が 《割書:の質を吉田|城外に惨殺》   吉田城(よしだぜう)に籠(こ)め置(お)いてあつたのを殺害(さつがい)せしめたのであるモツトモ此事(このこと)に就(つい)ては種々(しゆ〳〵)の説(せつ)があつて永禄(えいろく)三 す     年の事であると云ふ説(せつ)も仝五年であると云ふ説(せつ)も又(ま)た七年であると云ふ説もあるが朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)には        諸記録(しよきろく)を考証(こうせう)して此年(このとし)の事であるとしてある兎(と)に角(かく)惨酷(さんごく)極(きは)まる事をしたもので此時(このとき)殺害(さつがひ)されたのは松(まつ)        平家広(だひらいへひろ)、 松平清善(まつだひらきよよし)、 菅沼定盈(すがぬまさだみつ)、 菅沼定直(すがぬまさだなほ)、 菅沼貞景(すがぬまさだかげ)、 奥平貞能(おくだひらさだよし)、 西郷正勝(さいごうまさかつ)、 設楽貞通(したらさだつう)、 奥山修理(おくやましうり)、 水(みづ)       野藤兵衛(のとうべゑ)、 大竹兵右衛門(おほたけへうゑもん)、 浅羽(あさば)三 太夫(たいう)、 大竹麦右衛門(おほたけむぎうゑもん)、 梁田某(れうたなにがし)等(とう)の妻子(さいし)で十三人であると書(か)いたもの 【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□(桶狭間役後の情況)                    六十七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談     (桶狭間役後の情況)                    六十六 【本文】 てて駿河へ逃げ帰ったのである。そこで家康は初めて岡崎の本城に入ったのであるが、その後義元の子氏真という人は到底頼みがいのない人であるということで、遂に今川氏と絶って織田氏と相提携するに至った。 ので徳川今川両氏の間にはこれから戦争が絶え間のないこととなって、この豊橋地方もほとんどその戦場となったのである。それらの状況については追々後章において申し述べたいと思う。       ⦿桶狭間役後の情況 さて前にも申し述べたように、家康は今川義元の戦死した時大高城にあったが、その戦死を確かめて後、その夜月の出るのを待って軍を大樹寺まで引き上げたのである。しかるに岡崎城の城代は廿三日に至って駿河に逃げ帰ったので、家康は初めてその本城に入ったのであるが、その頃の城代は何という人であったか詳らかでないが、勿論今川氏の家臣で三浦上総介義保、飯尾弥次右衛門などという人であったようである。最初石川右近という人等がいたことは諸種の記録に見えるところであるが、この時は既に交代したものと思われる。 そこで織田信長においては義元も既に戦死したことであるから、家康は自然己れに従うであろうと思っていたであろうが、家康は中々そうでない。しばしば使いを駿府に遣わして、父のために弔い戦をするように義元の子氏真に申し送ったのである。しかるに氏真は一向これに応ずる様子が見えぬにも関わらず、家康は着々兵を出して挙母、梅坪、広瀬、刈谷など織田氏に属する諸城を攻撃し、その翌永禄四年には尾張の知多郡に攻め入り、二月の七日には石瀬において水野信元の兵と戦ったのである。けれども氏真は相変わらずこれに応援しようともせぬので、徳川氏においては遂に意を決して今川氏と絶ち、却って織田氏と相和するに至ったのである。松平記で見ると、この事はその年の初めであったようにも推察されるが、とにかく石瀬合戦の後であったに相違ないのである。またかくなる 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 豊橋市史談 【本文】 迄の事情については種々の説があるが、家康が今川氏に人質となっていた頃の徳川氏の険阻艱難というものは容易ならぬ事で、家臣等は毎度の合戦に先鋒に用いられて悪戦苦闘を続けて少しも怨むところなく、ひとえに主君の成長を希い願っていたのである。のに家康が成長してからも義元ははかばかしくその領地を返そうともせず、頗る徳川氏をして疑いを大ならしめた点がある。殊に氏真の頼むに足らざることは前の如き事情であるから、最早今日まで尽くした以上は仮令盟いを変えるとも決して武士の面目に背く訳ではないというのが一つの理由であった事と思われる。 且つこの水野信元という人は前章にも申し述べたように家康の生母、後に伝通院と言われた人の兄弟であるので、この和議については余程斡旋の労を取ったものと見える。そこで信長と家康とは互いに誓書を取り交わしたのであるが、これが駿府へ知れたから氏真は大いに怒り、使いをもって責問したが、あまり効能がなかったのみならず、家康は兵を出して今川方の板倉弾正重定を中島並びに岡(額田郡)という処に攻め、重定は遂に城を捨てて東三河に逃れたので、中島をば深溝松平の大炊助好景に賜ったのである。 そして形原の松平又七家広、竹谷の松平玄蕃允清善、野田の菅沼新八郎定盈、段峯の菅沼小法師定直、長篠の菅沼左衛門貞景、作手の奥平九八郎貞能、川路の設楽越中守貞通、西郷の西郷弾正左衛門正勝等はいずれも旗幟を明らかにして徳川氏に属したので、氏真は小原鎮実に命じてこれ等の人々の質が吉田城に籠め置いてあったのを殺害せしめたのである。 もっともこの事については種々の説があって、永禄三年の事であるという説も同五年であるという説もまた七年であるという説もあるが、朝野旧聞裒稿には諸記録を考証してこの年の事であるとしてある。とにかく惨酷極まる事をしたもので、この時殺害されたのは松平家広、松平清善、菅沼定盈、菅沼定直、菅沼貞景、奥平貞能、西郷正勝、設楽貞通、奥山修理、水野藤兵衛、大竹兵右衛門、浅羽三太夫、大竹麦右衛門、梁田某等の妻子で十三人であると書いたもの 【欄外】 豊橋市史談     (桶狭間役後の情況)                    六十七

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Situation After the Battle of Okehazama) - 66 [Main Text] ...and fled back to Suruga. There, Ieyasu entered Okazaki's main castle for the first time. However, Yoshimoto's son Ujizane proved to be completely unreliable, so Ieyasu eventually broke with the Imagawa clan and allied with the Oda clan. From then on, there would be continuous warfare between the Tokugawa and Imagawa clans, with this Toyohashi region becoming almost entirely a battlefield. I would like to discuss these circumstances in detail in later chapters. ⦿ The Situation After the Battle of Okehazama Now, as I mentioned earlier, Ieyasu was at Odaka Castle when Imagawa Yoshimoto died in battle. After confirming Yoshimoto's death, that night he waited for the moon to rise and withdrew his forces to Daijuji Temple. The castellan of Okazaki Castle fled back to Suruga on the 23rd day, so Ieyasu entered his ancestral castle for the first time. It is unclear who the castellan was at that time, but he was naturally a retainer of the Imagawa clan, likely someone such as Miura Kazusa-no-suke Yoshiyasu or Iio Yajizaemon. Various records show that initially someone like Ishikawa Ukon had been there, but by this time he had apparently already been replaced. Oda Nobunaga probably assumed that since Yoshimoto was dead, Ieyasu would naturally submit to him. However, Ieyasu was far from compliant. He repeatedly sent messengers to Sunpu, urging Yoshimoto's son Ujizane to wage war to avenge his father. But Ujizane showed no signs of responding to this request. Nevertheless, Ieyasu steadily deployed troops to attack various castles belonging to the Oda clan, including Koromo, Umetsubo, Hirose, and Kariya. In the following year, Eiroku 4, he invaded Chita District in Owari Province and fought Mizuno Nobumoto's forces at Ishise on the 7th day of the 2nd month. However, since Ujizane still would not provide any support, the Tokugawa clan finally resolved to break with the Imagawa and instead make peace with the Oda. According to the Matsudaira Chronicles, this appears to have happened at the beginning of that year, but it certainly occurred after the Battle of Ishise. [Header note] Mayor of Toyohashi, Oguchi Kiroku, has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as his draft nears completion... [Left Page] [Header] Toyohashi City Historical Discussions [Main Text] There are various theories about the circumstances leading to this point. The hardships and difficulties faced by the Tokugawa clan while Ieyasu was held as a hostage by the Imagawa were extraordinary. His retainers were repeatedly used as advance guards in battles, enduring bitter struggles without complaint, solely hoping for their lord's growth. Even after Ieyasu matured, Yoshimoto showed no real intention of returning his territories, which greatly increased the Tokugawa clan's suspicions. Given Ujizane's unreliability as demonstrated by the aforementioned circumstances, they felt that after all their loyal service up to that point, even breaking their oath would not dishonor their warrior reputation - this seems to have been one reason for their decision. Moreover, this Mizuno Nobumoto was, as mentioned in the previous chapter, the brother of Ieyasu's birth mother, later known as Dentsuin, so he apparently took considerable effort to mediate this peace agreement. Nobunaga and Ieyasu exchanged written oaths, but when this became known in Sunpu, Ujizane became furious and sent messengers to demand an explanation. This proved ineffective, and Ieyasu deployed troops to attack the Imagawa forces under Itakura Danjo Shigesada at Nakajima and Oka (in Nukata District). Shigesada eventually abandoned his castle and fled to eastern Mikawa, so Nakajima was granted to Fukouzu Matsudaira Ohino-suke Yoshikage. The following lords all declared their allegiance to the Tokugawa clan: Matsudaira Matashichi Iehiro of Katanohara, Matsudaira Genba-no-jo Kiyoyoshi of Takeya, Suganuma Shinhachiro Sadamitsu of Noda, Suganuma Kohoshi Sadanao of Danmine, Suganuma Saemon Sadakage of Nagashino, Okuudaira Kuhachiro Sadayoshi of Tsukute, Shitara Etchu-no-kami Sadatsuu of Kawaji, and Saigo Danjo Saemon Masakatsu of Saigo. Because of this, Ujizane ordered Kohara Shigezane to execute the hostages of these lords who were imprisoned in Yoshida Castle. There are various theories about when this occurred - some say it was in Eiroku 3, others say Eiroku 5, and still others claim Eiroku 7. However, the Choyo Kyubun Hoko cites various records to place it in this year. In any case, it was an extremely cruel act. Those killed at this time were the wives and children of Matsudaira Iehiro, Matsudaira Kiyoyoshi, Suganuma Sadamitsu, Suganuma Sadanao, Suganuma Sadakage, Okuudaira Sadayoshi, Saigo Masakatsu, Shitara Sadatsuu, Okuyama Shuri, Mizuno Tobei, Otake Hyoemon, Asaba Santayu, Otake Mugiemon, and Ryota [surname], totaling thirteen people according to the records. [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Situation After the Battle of Okehazama) - 67