Code4Lib JAPAN ✕ みんなで翻刻

コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 48

ページ: 48

翻刻

【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□(桶狭間役後の情況)                    六十八 【本文】       も十一人であると記(しる)したのもあるが此(この)人名(じんめい)で見(み)ると尚(な)ほ多数(たすう)であつたものと思(おも)はれる松平記(まつだひらき)には吉田(よしだ)        城(ぜう)外(ぐわい)龍念寺(りうねんじ)口(くち)にて串刺(くしざし)に致(いた)すと書(か)いてあるが龍拈寺(りうねんじ)と云ふのは即(すなは)ち龍拈寺(りうねんじ)の事で其頃(そのころ)龍拈寺(りうねんじ)口(くち)と云ふ       のは城廓(ぜうくわく)の一 方(ぽう)の口(くち)に当(あた)つて居(を)つたものであるが此(この)惨殺(ざんさつ)は頗(すこぶ)る史家(しか)の問題(もんだい)とする処で実(じつ)に今川氏の滅(めつ)        亡(ばう)は当然(とうぜん)の事であるとまで論(ろん)ぜられて居(を)るのである而(しか)して今(いま)も渥美郡(あつみぐん)高師村(たかしむら)福岡(ふくをか)の地内(ちない)に十三 本塚(ほんづか)と       云ふ処があるが之(これ)は其(その)質(しち)の屍体(したい)を葬(ほうむ)つたので其(その)名(な)があると伝説(でんせつ)せられて居る果(はた)して如何(いか)なるものか之(これ)       は少(すこ)しく当(あて)にならぬように思(おも)ふ又(ま)た此処(こゝ)に一つの話(はなし)があるが之(これ)は菅沼氏(すがぬまし)の貞享書上(ていけうかきあげ)にあるので悲惨(ひさん)な 《割書:菅沼定盈の|妹》  る事抦(ことがら)であるが此時(このとき)多(おほ)くの人質(ひとしち)の中(なか)に菅沼定盈(すがぬまさだみつ)の妹(いもと)で「ヲミイ」と云ふのが十一歳であつたが矢張(やはり)串(くし)に        貫(つらぬ)いて殺(ころ)す事に定(さだ)まつたのを其(その)乳母(うば)が竊(ひそ)かに知(し)つて菅沼家(すがぬまけ)譜代(ふだい)の家人(けじん)の末流(まつりう)で寄田助(よりたすけ)四 郎(らう)と云ふもの       が城中(ぜうちう)にあつたのを頼(たの)むで夜中(やちう)に抜(ぬ)け出(い)でたのであるそれで此(この)妹(いもと)と乳母(うば)とは助(たす)かつたが寄田(よりた)は後(のち)に至(いた)       つて事が露顕(ろけん)して吉田(よしだ)城外(ぜうぐわい)で磔殺(けつさつ)せられたのである随分(ずいぶん)此(この)時代(じだい)には惨酷(ざんこく)の事が多(おほ)かつたものであるが        此(かく)の如(ごと)く其(その)質(しち)を殺(ころ)された将士(せうし)にありては益々(ます〳〵)今川氏に対(たい)して反抗(はんこう)の度(ど)を高(たか)め東三河の形勢(けいせい)は愈々(いよ〳〵)険悪(けんあく) 《割書:家康東条義|昭を攻む》  となり来(きた)つたのである此時(このとき)に方(あた)り西三河に於(おい)ては其四月 家康(いへやす)は自(みづか)ら兵(へい)を卒(ひき)ゐて東条(とうぜう)の吉良義昭(きらよしあきら)を攻(せ)め       たのであるが此(この)義昭(よしあきら)と云ふ人は左兵衛佐義尭(さへうえのすけよしたか)の子(こ)で義郷(よしさと)の弟(おとゝ)であつて義諦、義明、義顕など色々(いろ〳〵)に書(か)       いたものがあるが皆(みな)此(この)義昭(よしあきら)の事である元来(がんらい)吉良氏(きらし)は前章(ぜんせう)にも申述た如く足利氏(あしかゞし)の分(わか)れで長氏(てうし)の子(こ)の満(みつる)        氏(し)と云ふ人が三河の守護(しゆご)として幡豆郡(はづぐん)に居(を)り初(はじ)めて吉良氏(きらし)を称(せう)したのである義尭(よしたか)は即(すなは)ち其(その)八 世(せい)の孫(まご)に        当(あた)るのであるが天文五年 欵(かん)を織田氏(をたし)に通(つう)じ松平氏(まつだひらし)を図(はか)つて巳(おの)れの旧領(きうれう)を復(ふく)せんとしたので今川義元(いまがはよしもと)の        為(ため)に攻殺(こうさつ)せられたが其子(そのこ)の上野介義安(こうづけのすけよしやす)は義元(よしもと)の旨(むね)により駿河(するが)の薮田(やぶた)と云ふ処に居(を)つて其(その)弟(おとゝ)の義昭(よしあきら)をし       て西尾(にしを)の城(しろ)を守(まも)らしめたのである然(しか)るに此(この)義昭(よしあきら)も亦(ま)た弘治二年に義元(よしもと)に叛(そむ)きて欵(かん)を信長(のぶなが)に通(つう)じたが程(ほど) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百七十六号附録□□□( 明治四十四年六月六日発行 ) 【本文】 《割書:牧野貞成西|尾城を守る》  なく又(ま)た今川氏(いまがはし)に服従(ふくじう)したのである而(しか)して其頃(そのころ)義昭(よしあきら)は自(みづか)ら東條(とうぜう)の城(しろ)に移(うつ)り西尾の城をば牛久保(うしくぼ)の牧野(まきの)        新次郎貞成(しんじらうさだなり)を招(まね)いて守(まも)らしめたのであるが此(この)貞成(さだなり)は即ち長岡侯(ながをかこう)牧野氏の祖先(そせん)で既(すで)に前章(ぜんせう)に申述べて置       いた通(とほ)りであるトコロが此事(このこと)を以て貞成(さだなり)ではなく其子(そのこ)の成定(なりさだ)であるように書(か)いた記録(きろく)が沢山(たくさん)にあるの       で疑(うたがひ)を生(せう)ずるが之(これ)は父子(ふし)孰(いづ)れも初(はじ)めに新次郎と称(せう)した処(ところ)から来(きた)つた間違(まちがひ)である成定(なりさだ)ではドウしても時(じ)        代(だい)が合(あ)はぬので父(ちゝ)の貞成(さだなり)であるのが事実(じじつ)であるモツトモ義昭(よしあきら)が今川氏に叛(そむ)いた事 並(ならび)に貞成(さだなり)が西尾城(にしおぜう)に       入(い)つた事に就(つい)ては年代(ねんだい)に疑問(ぎもん)があつて牧野子爵家(まきのしゝやくけ)の調査(てうさ)で見(み)ても数説(すうせつ)あるし又(ま)た三 河物語(かはものがたり)で見ると桶(おけ)        狭間(はざま)戦後(たゝかひご)義昭(よしあきら)並に貞成(さだなり)は織田氏(をたし)に属(ぞく)して居つて織田(をた)徳川(とくがは)二 氏(し)の和(わ)する頃(ころ)より却(かへつ)て今川方に属(ぞく)したよう       に推及(すいきう)せらるゝのであるが三 河物語(かはものがたり)は只(た)だ其(その)記憶(きおく)によりて書(か)き列(つら)ねたものであるから論理的(ろんりてき)に之(これ)を研(けん)        究(きう)するのは少(すこ)しく無理(むり)であろうと思(おも)ふ従(したがつ)て私は前に述べた説(せつ)を信(しん)ずるものであるがサテ家康(いへやす)が愈々(いよ〳〵)        織田氏(をたし)と提携(ていけい)したのに義昭(よしあきら)等(など)今川方である処(ところ)から遂(つひ)に今度(このたび)之(これ)をせ攻(せ)むるに至(いた)つたのである即(すなは)ち幡豆郡(はづぐん)       の善明寺(ぜんみようじ)堤(つゝみ)に於(おい)て松平好景(まつだひらよしかげ)が討死(うちじに)したのも此時(このとき)の事であるが前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)き事情(じぜう)から此時(このとき)の事(こと)と弘       治二年の事とを混(こん)一した記録(きろく)が少(すくな)くないので此事(このこと)に関(かん)する松平記(まつだひらき)の記事(きじ)の如(ごと)きも矢張(やはり)同様(どうやう)であると信(しん) 荒川甲斐守 ずる然(しか)るに其頃(そのころ)義昭(よしあきら)の一 族(ぞく)に荒川甲斐守義広(あらかはかひのかみよしひろ)と云ふ人があつて此人(このひと)の名(な)は頼持(よりもち)、義等、 義虎(よしとら)など色々(いろ〳〵)       に書(か)くが義昭(よしあきら)と隙(げき)があつた結果(けつくわ)欵(かん)を徳川方(とくがはがた)に通(つう)じ力(ちから)を合(あは)せて西尾城(にしおぜう)を攻(せ)めたので牧野貞成(まきのさだなり)は遂(つひ)に守(まも)り 《割書:貞成牛久保|に退く》   切(き)れなくなつて牛久保(うしくぼ)へ引返(ひきかへ)つたのである夫(それ)より尚(な)ほ戦(たゝかひ)は継続(けいぞく)して九月十三日には藤浪畷(ふぢなみなはて)の戦(たゝかひ)などゝ       云ふのがあつたが力(ちから)及(およ)ばずして義昭(よしあきら)は遂(つひ)に徳川氏に降参(こうさん)したのである之(これ)で先(ま)づ西三河の方は一時 平定(へいてい)       に帰(き)したのであるが東三河に於(おい)ては前(まへ)にも申述(もうしのべ)た如(ごと)く小原鎮実(こはらしげさね)が此吉田城に居て所謂(いはゆる)今川氏(いまがはし)の重鎮(ぢうちん)と 野田の城  なり其年(そのとし)の七月廿九日に牛久保(うしくぼ)、二 連木(れんぎ)、 伊奈(いな)等(とう)の兵を率(ひき)ゐて野田(のだ)の菅沼定盈(すがぬまさだみつ)を攻(せ)めたのであるソコ 【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□(桶狭間役後の情況)                    六十九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談     (桶狭間役後の情況)                    六十八 【本文】 も十一人であると記したものもあるが、この人名で見るとなお多数であったものと思われる。松平記には吉田城外龍念寺口にて串刺しに致すと書いてあるが、龍念寺というのは即ち龍拈寺のことで、その頃龍拈寺口というのは城郭の一方の口に当たっていたものである。しかしこの惨殺は頗る史家の問題とするところで、実に今川氏の滅亡は当然の事であるとまで論じられているのである。そして今も渥美郡高師村福岡の地内に十三本塚という処があるが、これはその質の屍体を葬ったのでその名があると伝説されている。果たして如何なるものか、これは少しく当てにならぬように思う。 またここに一つの話があるが、これは菅沼氏の貞享書上にあるので悲惨な事柄である。この時多くの人質の中に菅沼定盈の妹で「ヲミイ」という十一歳の子がいたが、やはり串に貫いて殺すことに定まったのを、その乳母が密かに知って、菅沼家譜代の家臣の末流で寄田助四郎というものが城中にあったのを頼んで、夜中に抜け出たのである。それでこの妹と乳母とは助かったが、寄田は後に至って事が露見して吉田城外で磔殺されたのである。随分この時代には惨酷の事が多かったものである。 このようにその質を殺された将士においては益々今川氏に対して反抗の度を高め、東三河の形勢は愈々険悪となって来たのである。この時に当たり西三河においては、その四月、家康は自ら兵を率いて東条の吉良義昭を攻めたのである。しかしこの義昭という人は左兵衛佐義尭の子で義郷の弟であって、義諦、義明、義顕など色々に書いたものがあるが、皆この義昭のことである。元来吉良氏は前章にも申し述べたように足利氏の分かれで、長氏の子の満氏という人が三河の守護として幡豆郡におり、初めて吉良氏を称したのである。義尭は即ちその八世の孫に当るのであるが、天文五年、款を織田氏に通じ松平氏を図って己れの旧領を復せんとしたので今川義元のために攻殺されたが、その子の上野介義安は義元の旨により駿河の薮田という処におって、その弟の義昭をして西尾の城を守らしめたのである。然るにこの義昭もまた弘治二年に義元に叛きて款を信長に通じたが、程 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百七十六号附録   ( 明治四十四年六月六日発行 ) 【本文】 なくまた今川氏に服従したのである。そしてその頃義昭は自ら東條の城に移り、西尾の城をば牛久保の牧野新次郎貞成を招いて守らしめたのである。しかしこの貞成は即ち長岡侯牧野氏の祖先で、既に前章に申し述べて置いた通りである。ところがこの事をもって貞成ではなくその子の成定であるように書いた記録が沢山にあるので疑いを生ずるが、これは父子いずれも初めに新次郎と称した処から来た間違いである。成定ではどうしても時代が合わぬので、父の貞成であるのが事実である。 もっとも義昭が今川氏に叛いた事並びに貞成が西尾城に入った事については年代に疑問があって、牧野子爵家の調査で見ても数説あるし、また三河物語で見ると桶狭間戦後義昭並びに貞成は織田氏に属していて、織田徳川二氏の和する頃より却って今川方に属したように推究されるのである。しかし三河物語は只その記憶によりて書き列ねたものであるから、論理的にこれを研究するのは少しく無理であろうと思う。従って私は前に述べた説を信ずるものである。 さて家康が愈々織田氏と提携したのに義昭等今川方である処から、遂に今度これを攻めるに至ったのである。即ち幡豆郡の善明寺堤において松平好景が討死したのもこの時の事であるが、前に申し述べたような事情からこの時の事と弘治二年の事とを混一した記録が少なくないので、この事に関する松平記の記事のようなものも矢張同様であると信ずる。 然るにその頃義昭の一族に荒川甲斐守義広という人があって、この人の名は頼持、義等、義虎など色々に書くが、義昭と隙があった結果、款を徳川方に通じ力を合わせて西尾城を攻めたので、牧野貞成は遂に守り切れなくなって牛久保へ引き返したのである。それより尚戦いは継続して九月十三日には藤浪畷の戦いなどというのがあったが、力及ばずして義昭は遂に徳川氏に降参したのである。これで先ず西三河の方は一時平定に帰したのである。 しかし東三河においては前にも申し述べたように小原鎮実がこの吉田城におって、所謂今川氏の重鎮となり、その年の七月廿九日に牛久保、二連木、伊奈等の兵を率いて野田の菅沼定盈を攻めたのである。そこ 【欄外】 豊橋市史談     (桶狭間役後の情況)                    六十九

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Situation After the Battle of Okehazama) - 68 [Main Text] ...while some records state there were eleven people, based on these names it appears there were even more. The Matsudaira Chronicles record that they were impaled at Ryuunenji-guchi outside Yoshida Castle. Ryuunenji refers to Ryuunenji Temple, and at that time Ryuunenji-guchi corresponded to one of the entrances to the castle compound. However, this massacre has become a major issue among historians, with some arguing that the downfall of the Imagawa clan was inevitable because of such acts. Even today, there is a place called Juusanhonzuka (Thirteen Burial Mounds) in the Fukuoka area of Takashi Village, Atsumi District, which is said by legend to have gotten its name from the burial of these hostages' bodies. However, I find this somewhat unreliable. There is another story here, found in the Suganuma clan's Teikyo records, which is a tragic affair. Among the many hostages at this time was an eleven-year-old girl called "Omii," the younger sister of Suganuma Sadamitsu. She was also condemned to be impaled, but her wet nurse secretly learned of this and approached Yorita Sukeshiro, a descendant of hereditary retainers of the Suganuma family who was in the castle, and they escaped during the night. Thus this sister and her wet nurse were saved, but Yorita was later discovered and crucified outside Yoshida Castle when the matter came to light. There were indeed many cruel acts during this period. Having had their hostages killed in this manner, these military leaders increasingly intensified their resistance against the Imagawa clan, and the situation in eastern Mikawa became ever more dangerous. At this time, in western Mikawa, in the fourth month, Ieyasu personally led troops to attack Kira Yoshiakira of Tojo. This Yoshiakira was the son of Saheoe-no-suke Yoshitaka and brother of Yoshisato. He is written with various names like Yoshitei, Yoshiaki, and Yoshiaki, but they all refer to this same Yoshiakira. Originally, as I mentioned in the previous chapter, the Kira clan was a branch of the Ashikaga clan. A person named Mitsushi, son of Chooshi, served as military governor of Mikawa and resided in Hazu District, becoming the first to take the name Kira. Yoshitaka was the eighth-generation descendant, but in Tenbun 5 he conspired with the Oda clan against the Matsudaira clan to restore his former territories, so he was killed by Imagawa Yoshimoto. His son Kozuke-no-suke Yoshiyasu lived in a place called Yabuta in Suruga on Yoshimoto's orders, while having his younger brother Yoshiakira defend Nishio Castle. However, this Yoshiakira also rebelled against Yoshimoto in Koji 2 and made overtures to Nobunaga, but before long... [Left Page] [Header] Sanyo Shimbun No. 3776 Supplement (Published June 6, Meiji 44) [Main Text] ...he again submitted to the Imagawa clan. At that time, Yoshiakira moved to Tojo Castle himself and invited Makino Shinjiro Sadanari from Ushikubo to defend Nishio Castle. This Sadanari was the ancestor of the Makino clan of Nagaoka Domain, as I have already mentioned in the previous chapter. However, many records incorrectly identify him as his son Narisada rather than Sadanari himself, which causes confusion. This mistake arose because both father and son initially used the name Shinjiro. Narisada simply doesn't fit the chronology, so it was definitely the father, Sadanari. There are questions about the dates when Yoshiakira rebelled against the Imagawa clan and when Sadanari entered Nishio Castle, with several theories even in the investigations by the Makino Viscount family. According to the Mikawa Monogatari, after the Battle of Okehazama, both Yoshiakira and Sadanari belonged to the Oda clan, but when the Oda and Tokugawa clans made peace, they conversely joined the Imagawa side. However, since the Mikawa Monogatari was written merely from memory, I think it would be somewhat unreasonable to study it logically. Therefore, I believe the theory I mentioned earlier. Now, since Ieyasu had finally allied with the Oda clan while Yoshiakira and others remained with the Imagawa side, he eventually came to attack them. The death of Matsudaira Yoshikage at Zenmyoji Embankment in Hazu District also occurred at this time, but due to the circumstances I mentioned earlier, many records confuse this event with those of Koji 2, and I believe records like those in the Matsudaira Chronicles suffer from the same problem. At that time, there was a relative of Yoshiakira named Arakawa Kai-no-kami Yoshihiro, whose name is written in various ways such as Yorimochi, Yoshitou, and Yoshitora. Due to a rift with Yoshiakira, he made overtures to the Tokugawa side and joined forces to attack Nishio Castle. As a result, Makino Sadanari could no longer defend it and withdrew to Ushikubo. The fighting continued further, with battles such as the Battle of Fujinami Nawate on September 13th, but lacking sufficient strength, Yoshiakira finally surrendered to the Tokugawa clan. This temporarily brought peace to western Mikawa. However, in eastern Mikawa, as I mentioned earlier, Kohara Shigezane was stationed at Yoshida Castle, serving as a so-called key retainer of the Imagawa clan. On July 29th of that year, he led troops from Ushikubo, Niregi, Ina and other places to attack Suganuma Sadamitsu at Noda. There... [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Situation After the Battle of Okehazama) - 69