Code4Lib JAPAN ✕ みんなで翻刻

コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 49

ページ: 49

翻刻

【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□(桶狭間役後の情況)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□七十 【本文】       で定盈(さだみつ)は西郷正勝(さいごうまさかつ)の子(こ)、 孫(まご)六 郎元正(らうもとまさ)と共(とも)に之(これ)を固守(こしゆ)したが敵(てき)から和(わ)を求(もと)められたので到底(とうてい)衆寡(しうくわ)敵(てき)せさ       る場合(ばあひ)であつたから遂(つひ)に之(これ)に応(おう)じ城(しろ)を明渡(あけわた)して自(みづか)らは元正(もとまさ)と共に正勝(まさかつ)の処へ引退(ひきしりぞ)いたのであるか鎮実(しげさね)       は更(さら)に新城(しんしろ)に菅沼定直(すがぬまさだなほ)を攻(せ)めたのであるモツトモ定直(さだなほ)は当時(とうじ)段峯(だみね)に根拠(こんきよ)を搆(かま)へて居(を)つたのであるから 新城の戦   新城(しんしろ)には城代(ぜうだい)が居つた事であろうが菅沼伊賀守定勝(すがぬまいがのかみさだかつ)などが奮戦(ふんせん)したので鎮実(しげさね)は遂(つひ)に軍(ぐん)を退(しりぞ)けた其後(そののち)定(さだ)        盈(みつ)は自(みづか)ら西郷(さいごう)の高城(たかしろ)に砦(とりで)を設(もう)け正勝(まさかつ)は同(おな)じ八 名郡(なぐん)の堂山(どうやま)と云ふ所に居(きよ)を搆(かま)へたので今川方(いまがはがた)に於(おい)ては牛       久保の牧野出羽守保成(まきのではのかみやすなり)仝新次郎 貞成(さだなり)を先陣(せんぢん)として之(これ)を攻(せめ)しめたと云ふ訳(わけ)で戦争(せんそう)の絶(た)ゆる間(ま)はなかつた 《割書:五本松|月谷》   のである其後(そのご)正勝(まさかつ)は又(ま)た城(しろ)を中山(なかやま)の五 本松(ほんまつ)(八名郡)と云ふ処(ところ)と嵩山(すせ)の月谷(つきのや)と云ふ処に築(きづ)いて自(みづか)らは五       本松に居(を)り其子(そのこ)の元正(もとまさ)をして月谷(つきのや)に居(を)らしめたが此(この)年(とし)の九月廿六日に今川方(いまがはがた)の将(せう)朝比奈紀伊守泰長(あさひなきいのかみやすなが)が 《割書:西郷正勝等|の戦死》  やつて来(き)て西郷氏(さいごうし)が新(あらた)に搆(かま)へた此(この)五 本松(ほんまつ)の城(しろ)を攻(せ)め正勝(まさかつ)、 元正(もとまさ)は皆(みな)之(これ)に戦死(せんし)したので自然(しぜん)月谷(つきのや)の城(しろ)も 《割書:定盈野田城|を復す》   陥(おちゐ)つたのであるが其(その)翌(よく)永禄(えいろく)五 年(ねん)の六月二日には菅沼定盈(すがぬまさだみつ)が夜(よ)に乗(ぜう)じて野田(のだ)の城(しろ)を襲撃(しうげき)し今川勢(いまがはぜい)を追(お)つ       て復(ふたゝ)び之(これ)に根拠(こんきよ)を搆(かま)へたのであるソコで今川方(いまがはがた)に於(おい)ては又(ま)た之(これ)を攻撃(こうげき)したが今度(このたび)は到底(とうてい)抜(ぬ)くことが出来(でき)       ぬ新城聞書(しんしろきゝがき)によると新城(しんしろ)攻(せ)めのあつたのは此時(このとき)の事で当時(とうじ)、 新城(しんしろ)、 段峯(だみね)の菅沼氏(すがぬまし)は欵(かん)を武田氏(たけだし)に通(つう)じ       たものであると記(しる)してあるが此説(このせつ)は輙(たやす)く信(しん)せられぬように思(おも)ふ兎(と)に角(かく)其頃(そのころ)に於(お)ける此(この)地方(ちはう)と云ふもの       は紛乱(ふんらん)を極(きは)めたので史実(しじつ)の混淆(こんこう)は言(い)ふ迄(まで)もなく従(したがつ)て年月などの相違(さうゐ)は記(き)するものによつて異(ことな)つて居(を)       るのであるから研究者(けんきうしや)の最(もつと)も苦(くるし)む処(ところ)であるかゝる場合(ばあひ)に方(あた)つて家康(いへやす)は又た屡々(しば〳〵)兵(へい)を東三河に進(すゝ)めたの 鳥屋根の戦 で永禄(えいろく)四年四月十一日に牛窪(うしくぼ)に襲来(しうらい)したのであるが其(その)八月には長沢(ながさわ)の鳥屋根(とやね)の城(しろ)を陥(おとしゐ)れ更(さら)に十月 晦(みそ) 《割書:鵜殿長照戦|死》   日(か)には牛窪原(うしくぼはら)に於て合戦(かつせん)があつたのである而(しか)して仝五年の二月には宝飯郡(ほゐぐん)上郷村(かみごうむら)の鵜殿藤太郎長照(うどのとうたらうながてる)を        攻(せ)めて之(これ)を陥(おとしゐ)れ長照(ながてる)は討死(うちじに)をしたのであるが其(その)二 子(し)は遂(つひ)に徳川方(とくがはがた)に生擒(いけどり)となつたのである此(この)長照(ながてる)と 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 □□□豊橋市史談 【本文】       云ふのは長持(ながもち)の子(こ)で三 河物語(かはものがたり)には此時(このとき)討死(うちじに)したのを長持(ながもち)であるとしてあるが松平記(まつだひらき)其他(そのた)にも擒(とりこ)となつ       たのを藤太郎(とうたらう)及(およ)び其(その)弟(おとゝ)であると記(しる)してある併(しか)し之(これ)に就(つい)ては前(まへ)に述(の)べたのが事実(じじつ)であると思(おも)ふ然(しか)るに当(とう)        時(じ)家康(いへやす)の長子(てうし)の信康(のぶやす)はまだ竹千代(たけちよ)と云つて居(を)つたが母(はゝ)関口氏(せきぐちし)と共に駿河(するが)にあつたので実(じつ)に危急(ききう)の有様(ありさま)で 《割書:信康岡崎に|帰る》  あつたソコで石川数正(いしかはかずまさ)の計(はか)らひで今川氏実(いまがはうぢさね)に説(と)ひて此(この)鵜殿(うどの)の二 子(し)と信康(のぶやす)とを交換(こうくわん)することが成立(なりた)つて信(のぶ)        康(やす)は初(はじ)めて国(くに)に帰(かへ)る事が出来(でき)関口氏(せきぐちし)も程(ほど)なく三河に来(きた)つたのである此(こゝ)に於(おい)て家康(いへやす)は益々(ます〳〵)兵(へい)を東三河に        出(いだ)したが長岡牧野家(ながをかまきのけ)及(およ)び田邉牧野家(たなべまきのけ)に蔵(ぞう)する氏真(うぢさね)の感状(かんぜう)によると其後(そのご)永禄(えいろく)五年五月七日 富永(とみなが)、同九月       廿九日八 幡(はた)、同九月廿二日 夜(よ)より廿三日 大塚(おほつか)、同六年四月 牛窪(うしくぼ)に於(おい)て孰(いづ)れも徳川(とくがは)今川(いまがは)両勢(れうせい)の間(あひだ)に合戦(かつせん)       があつたものであるかゝる有様(ありさま)であるから今川方(いまがはがた)に於ては佐脇(さわき)八 幡(はた)に新砦(しんさい)を設(もう)け徳川方に於(おい)ても一の 《割書:家康一の宮|の後詰》   宮(みや)に砦(とりで)を搆(かま)へて本多(ほんだ)百 助信俊(すけのぶとし)をして之(これ)を守(まも)らしめたのである彼(か)の家康(いへやす)が一の宮(みや)の後詰(あとづめ)とて有名(ゆうめい)なる話(はなし)       も亦(ま)た其頃(このころ)の事で松平記(まつだひらき)によると永禄(えいろく)五年六月であつたと見(み)えるが此話(このはなし)は三 河物語(かはものがたり)にも記(しる)されて居(を)る       事である即(すなは)ち氏真(うぢさね)が一 万余騎(まんよき)を率(ひき)ゐて牛久保に張陣(てうぢん)し一の宮は僅(わづか)に五六百の人数(にんず)で実(じつ)に危急(ききん)を告(つ)げた       ので家康(いへやす)は自(みづか)ら手兵(しゆへい)三千 許(ばかり)を以(もつ)て八 幡佐脇(はたさわき)の敵前(てきぜん)を過(す)ぎて此一の宮に応援(おうえん)したあるが此時(このとき)老臣(ろうしん)等(ら)       は切(しき)りに其(その)危険(きけん)なることを諌(いさ)めたのである然(しか)るに家康(いへやす)が言(い)ふには家人(けじん)に敵地(てきち)の番(ばん)をさせて置(おき)ながら敵(てき)寄(よ)       せ来(く)ると聞(きい)て救(すく)はざらむには信(しん)も義(ぎ)もなきと云ふものなり万(まん)一 後詰(あとづめ)を仕損(しそん)じ討死(うちじに)せんも天命(てんめい)なり適(てき)の        大軍(たいぐん)も小勢(せうぜい)も云ふべき処(ところ)にあらずとて顧(かへり)みなかつたとの事である之(これ)は信義(しんぎ)を重(おもん)ずると云ふ事に就(つい)て一       の美談(びだん)として後世(こうせい)迄(まで)も伝(つた)はつて居(を)る処である而(しか)して牛久保密談記(うしくぼみつだんき)によると其翌(そのよく)六年の三月六日に又た        牛久保原(うしくぼはら)に合戦(かつせん)があつて家康(いへやす)自(みづか)ら千五百 余騎(よき)を率(ひき)ひて攻(せ)め来(きた)つたのであるが当時(とうじ)牧野新次郎(まきのしんじらう)は民部丞(みんぶのぜう)        成継(しげつぐ)と云つた頃(ころ)であるが既(すで)に心(こゝろ)を徳川方に傾(かたむ)けて居(を)つたから病(やまひ)と称(せう)して此(この)戦(たゝかひ)には加(くは)はらず其子(そのこ)の右(う) 【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□(桶狭間役後の情況)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□七十一

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談     (桶狭間役後の情況)                    七十 【本文】 そこで定盈は西郷正勝の子、孫六郎元正と共にこれを固守したが、敵から和を求められたので、到底衆寡敵せざる場合であったから遂にこれに応じ、城を明け渡して自らは元正と共に正勝の処へ引き退いたのである。しかし鎮実は更に新城に菅沼定直を攻めたのである。もっとも定直は当時段峯に根拠を構えていたのであるから、新城には城代がいた事であろうが、菅沼伊賀守定勝などが奮戦したので鎮実は遂に軍を退けた。その後定盈は自ら西郷の高城に砦を設け、正勝は同じ八名郡の堂山という所に居を構えたので、今川方においては牛久保の牧野出羽守保成、同新次郎貞成を先陣としてこれを攻めさせたという訳で、戦争の絶える間はなかったのである。 その後正勝はまた城を中山の五本松(八名郡)という処と嵩山の月谷という処に築いて、自らは五本松におり、その子の元正をして月谷におらしめたが、この年の九月廿六日に今川方の将朝比奈紀伊守泰長がやって来て、西郷氏が新たに構えたこの五本松の城を攻め、正勝、元正は皆これに戦死したので、自然月谷の城も陥ちたのである。しかしその翌永禄五年の六月二日には菅沼定盈が夜に乗じて野田の城を襲撃し、今川勢を追って復びこれに根拠を構えたのである。そこで今川方においてはまたこれを攻撃したが、今度は到底抜くことが出来ない。 新城聞書によると新城攻めのあったのはこの時の事で、当時、新城、段峯の菅沼氏は款を武田氏に通じたものであると記してあるが、この説は容易く信せられぬように思う。とにかくその頃におけるこの地方というものは紛乱を極めたので、史実の混淆は言うまでもなく、従って年月などの相違は記するものによって異なっているのであるから、研究者の最も苦しむ処である。 かかる場合に当たって家康はまた屡々兵を東三河に進めたので、永禄四年四月十一日に牛窪に襲来したのであるが、その八月には長沢の鳥屋根の城を陥れ、更に十月晦日には牛窪原において合戦があったのである。そして同五年の二月には宝飯郡上郷村の鵜殿藤太郎長照を攻めてこれを陥れ、長照は討死をしたのであるが、その二子は遂に徳川方に生け捕りとなったのである。この長照と 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその博学なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 豊橋市史談 【本文】 いうのは長持の子で、三河物語にはこの時討死したのを長持であるとしてあるが、松平記その他にも捕虜となったのを藤太郎及びその弟であると記してある。しかしこれについては前に述べたのが事実であると思う。 然るに当時家康の長子の信康はまだ竹千代といっていたが、母関口氏と共に駿河にあったので、実に危急の有様であった。そこで石川数正の計らいで今川氏実に説いて、この鵜殿の二子と信康とを交換することが成立って、信康は初めて国に帰ることが出来、関口氏も程なく三河に来たのである。 ここにおいて家康は益々兵を東三河に出したが、長岡牧野家及び田辺牧野家に蔵する氏実の感状によると、その後永禄五年五月七日富永、同九月廿九日八幡、同九月廿二日夜より廿三日大塚、同六年四月牛窪において、いずれも徳川今川両勢の間に合戦があったものである。 かかる有様であるから今川方においては佐脇八幡に新砦を設け、徳川方においても一の宮に砦を構えて本多百助信俊をしてこれを守らしめたのである。かの家康が一の宮の後詰として有名なる話もまたその頃の事で、松平記によると永禄五年六月であったと見えるが、この話は三河物語にも記されている事である。 即ち氏実が一万余騎を率いて牛久保に張陣し、一の宮は僅かに五六百の人数で実に危急を告げたので、家康は自ら手兵三千ばかりを以て八幡佐脇の敵前を過ぎて、この一の宮に応援した。しかしこの時老臣等は切りにその危険なることを諌めたのである。然るに家康が言うには「家臣に敵地の番をさせて置きながら、敵寄せ来ると聞いて救わざらむには信も義もなきというものなり。万一後詰を仕損じ討死せんも天命なり。敵の大軍も小勢も云うべき処にあらず」とて顧みなかったとの事である。これは信義を重んずるということについて一の美談として後世までも伝わっている処である。 そして牛久保密談記によると、その翌六年の三月六日にまた牛久保原に合戦があって、家康自ら千五百余騎を率いて攻め来たのであるが、当時牧野新次郎は民部丞成継といった頃であるが、既に心を徳川方に傾けていたから、病と称してこの戦いには加わらず、その子の右 【欄外】 豊橋市史談     (桶狭間役後の情況)                    七十一

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Situation After the Battle of Okehazama) - 70 [Main Text] There, Sadamitsu defended the castle firmly together with Saigo Masakatsu's son, Magoshichiro Motomasa, but when the enemy sought peace, since they were vastly outnumbered, they finally agreed to these terms, surrendered the castle, and withdrew together with Motomasa to where Masakatsu was. However, Shigezane further attacked Suganuma Sadanao at Shinshiro. Since Sadanao was based at Damine at the time, there must have been a castle deputy at Shinshiro, but because Suganuma Iga-no-kami Sadakatsu and others fought valiantly, Shigezane was eventually forced to withdraw his army. Afterwards, Sadamitsu built a fortress at Takashiro in Saigo, while Masakatsu established his residence at a place called Doyama in the same Yana District. The Imagawa forces had Makino Dewa-no-kami Yasunari and Makino Shinjiro Sadanari from Ushikubo lead the vanguard to attack them, so there was no respite from warfare. Later, Masakatsu built additional castles at places called Gohonmatsu in Nakayama (Yana District) and Tsukino-ya in Suse-yama. He stationed himself at Gohonmatsu while having his son Motomasa reside at Tsukino-ya. However, on September 26th of that year, the Imagawa general Asahina Kii-no-kami Yasunaga arrived and attacked this newly constructed Gohonmatsu castle of the Saigo clan. Both Masakatsu and Motomasa died in battle, causing Tsukino-ya castle to fall naturally as well. However, on June 2nd of the following year, Eiroku 5, Suganuma Sadamitsu launched a night attack on Noda castle, drove out the Imagawa forces, and reestablished his base there. The Imagawa side attacked again, but this time they could not possibly capture it. According to the Shinshiro Kikigaki, the attack on Shinshiro occurred at this time, and it records that the Suganuma clan of Shinshiro and Damine had made overtures to the Takeda clan. However, I find this theory difficult to believe. In any case, this region was in extreme turmoil at that time, so the confusion of historical facts goes without saying, and consequently the differences in dates vary according to different records, which is what troubles researchers most. Under such circumstances, Ieyasu repeatedly advanced troops into eastern Mikawa. He attacked Ushikubo on April 11th of Eiroku 4, captured Toyone castle at Nagasawa in the eighth month, and fought a battle at Ushikubohara on the last day of the tenth month. In the second month of the same fifth year, he attacked Udono Totaro Nagateru of Kamigo Village in Hoi District, captured the castle, and Nagateru died in battle, but his two sons were taken alive by the Tokugawa forces. This Nagateru [Header margin note] Mayor Oguchi Kiroku of Toyohashi City has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as the manuscript is nearly complete... [Left Page] [Header] Toyohashi City Historical Discussions [Main Text] ...was the son of Nagamochi. The Mikawa Monogatari states that it was Nagamochi who died in battle at this time, but the Matsudaira Chronicles and other sources record that it was Totaro and his younger brother who were captured. However, I believe what I stated earlier is the truth. At that time, Ieyasu's eldest son Nobuyasu was still called Takechiyo and was in Suruga with his mother from the Sekiguchi clan, creating a truly perilous situation. Through Ishikawa Kazumasa's arrangements, they persuaded Imagawa Ujizane to exchange these two sons of Udono for Nobuyasu, enabling Nobuyasu to return to his homeland for the first time, with the Sekiguchi lady also coming to Mikawa before long. From this point, Ieyasu increasingly deployed troops to eastern Mikawa. According to commendation letters from Ujizane preserved by the Nagaoka Makino family and Tanabe Makino family, there were battles between Tokugawa and Imagawa forces at Tominaga on May 7th of Eiroku 5, at Hachiman on September 29th of the same year, at Otsuka from the night of September 22nd to the 23rd, and at Ushikubo in the fourth month of the sixth year. Given this situation, the Imagawa side built new fortifications at Sawaki Hachiman, while the Tokugawa side also constructed a fortress at Ichinomiya and had Honda Hyakusuke Nobutoshi defend it. The famous story of Ieyasu's reinforcement of Ichinomiya also occurred around this time, appearing to have been in June of Eiroku 5 according to the Matsudaira Chronicles, and this tale is also recorded in the Mikawa Monogatari. Ujizane led over ten thousand horsemen and encamped at Ushikubo, while Ichinomiya had only five to six hundred men and was in truly desperate straits. Ieyasu personally led about three thousand of his own troops, passed through the enemy lines at Hachiman Sawaki, and reinforced Ichinomiya. However, at this time his senior retainers earnestly warned him of the danger. Yet Ieyasu said: "Having stationed retainers to guard enemy territory, to hear that enemies are approaching and not rescue them would show neither loyalty nor righteousness. Should I fail in the reinforcement and die in battle, that too would be Heaven's will. Whether the enemy has a large army or small forces is not the issue." He paid no heed to their warnings. This has been handed down to posterity as a tale of virtue regarding the importance of loyalty and righteousness. According to the Ushikubo Secret Discussion Records, on March 6th of the following sixth year, there was another battle at Ushikubohara, with Ieyasu personally leading over fifteen hundred horsemen in the attack. At that time, Makino Shinjiro was called Minbu-no-jo Shigetsugu, but since he had already inclined his heart toward the Tokugawa side, he claimed illness and did not participate in this battle, while his son... [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Situation After the Battle of Okehazama) - 71