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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 50

ページ: 50

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【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□(桶狭間役後の情況)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□七十二 【本文】 《割書:牧野保成戦|死》   馬允(まのじよう)をして出羽守保成(ではのかみやすなり)に従て戦(たゝか)はしめたのであるが此(この)戦(たゝかひ)に於て保成(やすなり)は遂(つひ)に戦死(せんし)したのであると云ふ       ことが記(しる)されてある或(あるひ)は之(これ)は保成(やすなり)が強硬(けうこう)で徳川氏に属(ぞく)することを承知(せうち)せぬ処から止(やむ)を得(え)ず右馬允(うまのじよう)が殺(ころ)した       ものであるそれ故(ゆゑ)に此(この)戦(たゝかひ)の後(のち)右馬允(うまのじよう)は暫(しばら)く遠江(とふとほみ)の鵜津山(うつやま)朝比奈紀伊守(あさひなきいのかみ)の処に退(しりぞ)いて居(を)つたのである       と云ふ伝説(でんせつ)がある併(しか)し之(これ)は全(まつた)く俗説(ぞくせつ)で到底(とうてい)信(しん)ずる事の出来(でき)ぬ話(はなし)であると思(おも)ふが此(この)保成(やすなり)と云ふ人は余程(よほど)       の勇者(ゆうしや)であつた様子(やうす)で殊(こと)に牛久保(うしくぼ)に於ては最(もつと)も勢力(せいりよく)のあつたものと信(しん)ぜられる宝飯郡(ほゐぐん)御津村(みとむら)大恩寺(だいおんじ)阿(あ)        弥陀堂(みだどう)の棟札(むなふだ)にも                   牧野出羽守保成   家督伝三郎成元          大檀那                   牧野右馬允成守          天文廿二丑年五月十三日       と云ふのが残(のこ)つて居(を)る而(しか)して前(まへ)の密談記(みつだんき)にある民部丞成継(みんぶのぜうしげつぐ)及(およ)び其子(そのこ)の右馬允(うまのじよう)と云ふのは果(はた)して誰(たれ)を指(さ)       したものであろうか疑問(ぎもん)ではあるが長岡牧野家(ながをかまきのけ)に於ては祖先(そせん)以来(いらい)代々(だい〳〵)新次郎、 右馬允(うまのじよう)、 民部丞(みんぶのぜう)と称(とな)へ       たので此(この)時代(じだい)は丁度(てうど)貞成(さだなり)幷(ならび)に其子の成定(なりさだ)の時に相当(さうとう)するのである或(あるひ)は成継(しげつぐ)と云ふのは成勝(しげかつ)一に氏勝(うじかつ)と       云つた人の事であるとの説(せつ)があるが果(はた)してソウなると時代(じだい)が合(あ)はぬから密談記(みつだんき)の記事(きじ)が誤(あやまり)であると       云ふ事になるのである又た此(この)棟札(むなふだ)に成守(なりもり)とあるのは牛久保密談記(うしくぼみつだんき)によれば貞成(さだなり)に当(あた)るようでもあるが 《割書:牛久保の諸|士》   併(しか)し之(これ)は成定(なりさだ)の事であるとの説(せつ)が正(たゞ)しいと信(しん)ずる而(しか)して当時(とうじ)牛窪(うしくぼ)には如何(いか)なる人々が主(おも)なるものであ       つたかと云ふに永禄(えいろく)八年の二月 氏真(うぢさね)が出した吉田城中取替兵糧(よしだぜうちうとりかへへうれう)の文書(ぶんしよ)があつて左(さ)の連名(れんめい)が記(しる)されて居(を)       るのである              吉田城中取替兵糧之事 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百八十二号附録□□□( 明治四十四年六月十三日発行 ) 【本文】         合参百俵         右此内貮百俵者鵜殿休庵大原弥左衛門相残百俵ハ隠岐越前守立合城中江入候間忠節之至也然レバ         此返済之事於望之地申付者也           永禄八乙丑二月二日                牧野右馬允殿                牧野山城守殿                野瀬丹羽守殿                岩瀬和泉守殿                眞木越中守殿                眞木善兵衛殿       これ等(ら)の人々は皆(みな)牛久保(うしくぼ)に居(を)つたので此時(このとき)はまだ孰(いづ)れも今川方であつたものと見(み)へる勿論(もちろん)保成(やすなり)は既(すで)に        戦死(せんし)の後(のち)であるが此(この)右馬允(うまのぜう)と云ふのは即(すなは)ち前(まへ)にも申述(もうしの)べた成定(なりさだ)の事で山城守(やましろのかみ)と云ふのは之(これ)亦(ま)たズツト        前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた田邉牧野家(たなべまきのけ)の祖先(そせん)定成(さだしげ)の事である而(しか)して其他(そのた)の人々は其後(そのご)孰(いづ)れも長岡牧野家(ながをかまきのけ)の家臣(かしん)と       なつたので今日も尚(な)ほ子孫(しそん)が長岡(ながをか)の家中(かちう)に遺(のこ)つて居(を)るとの事である尚(なほ)此処(こゝ)に御話(おはなし)して置(お)きたいのは其(その) 《割書:稲垣平右衛|門》   頃(ころ)牛久保(うしくぼ)に稲垣平右衛門(いながきへいうゑもん)と云ふ人があつた事である此人(このひと)は亦(ま)た余程(よほど)の勇者(ゆうしや)で保成(やすなり)戦死(せんし)の時(とき)部下(ぶか)の者(もの)十       六人は悉(こと〴〵)く討死(うちじに)し自分(じぶん)も深手(ふかで)を負(あ)ふたが幸(さいはひ)に全快(ぜんかい)して後(のち)に長岡牧野家(ながをかまきのけ)が上州(ぜうしう)の大胡(おほご)に移封(いふう)せられて       から其処(こそ)で終(をはり)を全(まつた)ふしたのであるが当時(とうじ)氏真(うぢさね)から此人(このひと)に与(あた)へた感状(かんぜう)は幾通(いくつう)もあつて今(いま)長岡(ながをか)の牧野子爵(まきのしゝやく)        家(け)に遺(のこ)つて居るが毎度(まいど)激賞(げきせう)の意味(いみ)が書(か)かれて居(を)るのである又た牛窪(うしくぼ)に今(いま)も「ウブメ塚」と云ふのが残(のこ)つ 【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□(桶狭間役後の情況)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□七十三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談     (桶狭間役後の情況)                    七十二 【本文】 馬允をして出羽守保成に従って戦わせたのであるが、この戦いにおいて保成は遂に戦死したのであるということが記されてある。あるいはこれは保成が強硬で徳川氏に属することを承知しない処から、やむを得ず右馬允が殺したものであるため、この戦いの後右馬允は暫く遠江の鵜津山朝比奈紀伊守の処に退いていたのであるという伝説がある。 しかしこれは全く俗説で、到底信ずることのできない話であると思うが、この保成という人は余程の勇者であった様子で、殊に牛久保においては最も勢力のあったものと信ぜられる。宝飯郡御津村大恩寺阿弥陀堂の棟札にも        大檀那 牧野出羽守保成  家督伝三郎成元            牧野右馬允成守        天文廿二丑年五月十三日 というのが残っている。そして前の密談記にある民部丞成継及びその子の右馬允というのは果たして誰を指したものであろうか疑問ではあるが、長岡牧野家においては祖先以来代々新次郎、右馬允、民部丞と称えたので、この時代は丁度貞成並びにその子の成定の時に相当するのである。 あるいは成継というのは成勝一に氏勝といった人の事であるとの説があるが、果たしてそうなると時代が合わぬから密談記の記事が誤りであるということになるのである。またこの棟札に成守とあるのは牛久保密談記によれば貞成に当たるようでもあるが、しかしこれは成定の事であるとの説が正しいと信ずる。 そして当時牛窪にはいかなる人々が主なるものであったかというに、永禄八年の二月氏真が出した吉田城中取替兵糧の文書があって左の連名が記されているのである。        吉田城中取替兵糧之事 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百八十二号附録   ( 明治四十四年六月十三日発行 ) 【本文】      合参百俵  右この内弐百俵は鵜殿休庵大原弥左衛門、相残百俵は隠岐越前守立合城中へ入り候間忠節の至りなり。然らばこの返済の事、望みの地において申し付けるものなり。        永禄八乙丑二月二日            牧野右馬允殿            牧野山城守殿            野瀬丹羽守殿            岩瀬和泉守殿            眞木越中守殿            眞木善兵衛殿 これ等の人々は皆牛久保にいたので、この時はまだいずれも今川方であったものと見える。勿論保成は既に戦死の後であるが、この右馬允というのは即ち前にも申し述べた成定の事で、山城守というのはこれまたずっと前章に申し述べた田辺牧野家の祖先定成の事である。そしてその他の人々はその後いずれも長岡牧野家の家臣となったので、今日も尚お子孫が長岡の家中に遺っているとの事である。 なおここにお話しして置きたいのは、その頃牛久保に稲垣平右衛門という人があった事である。この人はまた余程の勇者で、保成戦死の時部下の者十六人は悉く討死し、自分も深手を負うたが幸いに全快して、後に長岡牧野家が上州の大胡に移封されてからその処で終を全うしたのであるが、当時氏真からこの人に与えた感状は幾通もあって、今長岡の牧野子爵家に遺っているが、毎度激賞の意味が書かれているのである。 また牛窪に今も「ウブメ塚」というのが残っ 【欄外】 豊橋市史談     (桶狭間役後の情況)                    七十三

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Situation After the Battle of Okehazama) - 72 [Main Text] ...had his son Uma-no-jo fight alongside Dewa-no-kami Yasunari, but in this battle Yasunari ultimately died in combat, as is recorded. There is a legend that perhaps this occurred because Yasunari was obstinate and refused to agree to serve the Tokugawa, so Uma-no-jo was compelled to kill him, and therefore after this battle Uma-no-jo temporarily withdrew to Utsu-yama under Asahina Kii-no-kami in Totomi. However, I believe this is entirely folklore and a story that cannot possibly be believed. This Yasunari appears to have been quite a brave warrior and is believed to have held the greatest power in Ushikubo. A ridge plaque at Daion-ji Amida Hall in Mito Village, Hoi District, still remains with the inscription: Great Patron: Makino Dewa-no-kami Yasunari, Heir Densaburo Narimoto Makino Uma-no-jo Narimori Tembun 22, Year of the Ox, Fifth Month, Thirteenth Day It is questionable exactly who the Minbu-no-jo Shigetsugu and his son Uma-no-jo mentioned in the earlier secret discussion records refer to, but since the Nagaoka Makino family has traditionally used the names Shinjiro, Uma-no-jo, and Minbu-no-jo generation after generation since their ancestors, this period corresponds precisely to the time of Sadanari and his son Narisada. There is a theory that Shigetsugu refers to a person called Shigekatsu, also known as Ujikatsu, but if that were true, the dates would not match, meaning the secret discussion records would be in error. The name Narimori on this ridge plaque might correspond to Sadanari according to the Ushikubo Secret Discussion Records, but I believe the theory that this refers to Narisada is correct. As for what people were prominent in Ushikubo at that time, there is a document issued by Ujizane in the second month of Eiroku 8 regarding provisions for Yoshida Castle, with the following names listed: Document Regarding Provisions for Yoshida Castle [Left Page] [Header] Sanyo Shimbun No. 3782 Supplement (Published June 13, Meiji 44) [Main Text] Total: 300 bags Of these, 200 bags were from Udono Kyuan and Ohara Yazaemon, and the remaining 100 bags were brought into the castle by Oki Echizen-no-kami, showing the utmost loyalty. Therefore, repayment shall be ordered at the desired location. Eiroku 8, Year of the Ox, Second Month, Second Day To: Makino Uma-no-jo Makino Yamashiro-no-kami Nose Tanba-no-kami Iwase Izumi-no-kami Maki Etchu-no-kami Maki Zenbei All these people lived in Ushikubo and appear to have still been on the Imagawa side at this time. Of course, Yasunari had already died in battle by then, but this Uma-no-jo refers to Narisada mentioned earlier, and Yamashiro-no-kami refers to Sadashige, the ancestor of the Tanabe Makino family mentioned in an earlier chapter. The other people all later became retainers of the Nagaoka Makino family, and it is said their descendants still remain in the Nagaoka household today. I would also like to mention here that at that time there was a person named Inagaki Heiuemon in Ushikubo. This man was also quite a brave warrior, and when Yasunari died in battle, all sixteen of his subordinates were killed and he himself suffered severe wounds, but fortunately recovered completely. Later, when the Nagaoka Makino family was transferred to Ogo in Joshu Province, he lived out his days there. The commendation letters given to this man by Ujizane at the time number many and are preserved in the Makino Viscount family of Nagaoka, all containing words of high praise. Also, something called "Ubume Mound" still remains in Ushikubo... [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Situation After the Battle of Okehazama) - 73