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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 51

ページ: 51

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【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□(桶狭間役後の情況)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□七十四 【本文】       て居(を)るが之(これ)は右(みぎ)の十六人を合葬(がつさう)した処(ところ)だとい云ふことである 清洲の会見  扨(さて)家康(いへやす)に於ては之(これ)より先(さ)き永禄(えいろく)五年の正月に清洲(きよす)へ行(い)つて信長(のぶなが)に対面(たいめん)したのであるが引続(ひきつゞ)いて信長(のぶなが)か       らも使者(ししや)が来(き)たと云ふ訳(わけ)で其翌(そのよく)永禄(えいろく)六年三月には信長(のぶなが)の女徳姫(ぢよとくひめ)を以て信康(のぶやす)に配(はい)することに定(さだ)まつたので 家康改名  ある而(しか)して其秋(そのあき)家康(いへやす)は之(これ)迄(まで)元康(もとやす)と称(とな)へて居(を)つたのを茲(こゝ)に家康(いへやす)と改(あらた)めたのである此(この)改名(かいめい)に就(つい)ても説(せつ)は区(まち)        区( まち)であるが此年(このとし)の六月 松平(まつだひら)三 蔵信次(ざうのぶつく)に与(あた)へられた文書(ぶんしよ)にはまだ元康(もとやす)とあつて其(その)十月廿四日 松平亀千代(まつだひらかめちよ)        松井左近(まつゐさこん)に賜(たまは)つた文書(ぶんしよ)には家康(いへやす)と署名(しよめい)されてあるのだから此(この)改名(かいめい)は必(かなら)ず其(その)間(あひだ)でなくてはならぬと云ふ       のが正(たゞ)しい説(せつ)であると思(おも)ふ然(しか)るに此(この)年(とし)の九月徳川氏に取(と)りては実(じつ)に不慮(ふりよ)の災難(さいなん)とも云ふべき大事件(だいじけん)が        起(おこ)つたのである之(これ)は外(ほか)でもない彼(か)の一 向専修(こうせんしう)の乱(らん)である 《割書:一向専修の|乱》   此(この)乱(らん)の起(おこ)りは実(じつ)に一寸(ちよつと)した事で永禄(えいろく)六年の九月に菅沼藤(すがぬまとう)十 郎定顕(らうさだあき)が家康(いへやす)の旨(むね)を受(う)けて碧海郡(へきかいぐん)佐崎(ささき)と云       ふ処に砦(とりで)を搆(かま)へたのであるが兵糧(へうれう)の乏(とぼ)しい処から上宮寺(ぜうぐうじ)と云ふ寺(てら)に蓄(たくわ)へて居つた籾(もみ)を強(しひ)て徴発(てうはつ)したの       であるソコで寺僧(じそう)は怒(いかつ)て野寺(のでら)の本証寺(ほんせうじ)、 針崎(はりざき)の勝曼寺(せうまんじ)などと云ふ同宗(どうしう)の寺(てら)を語(かた)らつて衆徒(しうと)を催(もよほ)し定顕(さだあき)       が砦(とりで)に狼藉(らうぜき)したのである之(これ)が原因(げんゐん)となつて徳川方(とくがはがた)の将士(せうし)の中(なか)でも一向宗(こうしう)を信(しん)ずることの厚(あつ)きものは皆(みな)此(こ)       の寺(てら)の方(ほう)に党(とう)して之(これ)を取鎮(とりしづ)めようとする家康(いへやす)に向(むかて)鉾(ほこ)を向(む)けるに至(いた)つたのである従(したがつ)て味方(みかた)同志(どうし)が互(たがひ)に        入乱(いりみだ)れて戦(たゝか)ふこととなつたのであるから西(にし)三 河(かは)の天地(てんち)と云ふものは実(じつ)に鼎(かなへ)の沸(わ)くが如(ごと)くで吉良義昭(きらよしあきら)の如       きも矢張(やはり)寺方(てらがた)の党(とう)に組(く)みし曩(さき)には義昭(よしあきら)に隙(げき)があつたと云ふ荒川義広(あらかはよしひろ)さへも之(これ)と相(あい)党(とう)するに至(いた)つたので       あるが竹谷(たけのや)、 形原(かたのはら)、 深溝(ふかうづ)の松平氏(まつだひらし)の如きは東(ひがし)には長沢(ながさわ)御油(ごゆ)を界(さかひ)に今川方を扣(ひか)へ西(にし)には土呂(とろ)、 針崎(はりざき)の反(はん)        徒(と)と相対(あひたい)した訳(わけ)であるから腹背(ふくはい)敵(てき)を受(う)けて屡々(しば〳〵)苦戦(くせん)したのである実(じつ)に三 河国内(かはこくない)の擾乱(ぜうらん)した事は前代未(ぜんだいみ)        聞(ぶん)の事で恐(おそら)くは上神代(ぜうかみよ)から今日に至(いた)る迄(まで)にもあるまいと思(おも)ふのであるモツトモ此(この)一 揆(き)の起(おこ)りに就(つい)ては 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 □□□豊橋市史談 【本文】        矢張(やはり)異説(ゐせつ)があつて永禄(えいろく)五年の事であると云ふ説(せつ)がある三 河物語(かはものがたり)にも         永禄(えいろく)五年 壬戌(みずのえいぬ)に野寺(のでら)の寺内(じない)に徒者(いたづらもの)の有(あり)けるを坂井雅樂助(さかゐうたのすけ)押(をし)コ見(み)てケンダンシケレバ永禄(えいろく)癸亥(みづのとゐ)正月        に各々(おの〳〵)門徒衆(もんとしう)寄合(よりあひ)て土呂(とろ)、 鍼崎(はりさき)、 野寺(のでら)、 佐々起(さゝき)に取(とり)コモリて一 揆(き)をヲコシて御敵(おんてき)となる       と記(しる)してあるが社領(しやれう)寺領(じれう)の地(ち)には如何(いか)なるものが入(い)つても武家(ぶけ)が直(たゞ)ちに之(これ)を逮捕(たいほ)することが出来(でき)ぬのは        古(ふる)くよりの掟(おきて)であるが之(これ)で見(み)ると其(その)習慣(しうかん)の遺(のこ)つて居る処から此(この)一 揆(き)を惹起(ひきおこ)したようである兎(と)に角(かく)僅(わづか)の       事から大事件(だいじけん)となつたもので翌(よく)七年の初迄(はじめまで)は此(この)紛乱(ふんらん)が継続(けいぞく)されたのである然(しか)るに一時は宗教(しうけう)の為(ため)に主(しゆ)        君(くん)に反対(はんたい)した将士(せうし)等(ら)も次第(しだい)に其(その)非(ひ)を悔(く)ゐて或(あるひ)は改宗(かいしう)し或(あるひ)は詫(わび)を入(い)れて帰参(きさん)したので漸(やうや)く此(この)一 揆(き)も静(しづ)ま       るに至(いた)つたのであるがソコで家康(いへやす)は更(さら)に之(これ)より兵(へい)を東三河に出(いだ)して其(その)中堅(ちうけん)たる此(この)吉田城(よしだぜう)を攻撃(こうげき)するに        至(いた)つたのである             ⦿吉田合戦       サテ永禄(えいろく)七年の初(はじめ)に至(いたつ)て一 向専修(こうせんしう)の一 揆(き)も平定(へいてい)に皈(き)したので家康(いへやす)は其三月兵を東(ひがし)三 河(かは)に出(いだ)して先(ま)づ長(なが)       沢(さわ)の城(しろ)を破(やぶ)つたのである此(この)城(しろ)は前章(ぜんせう)に申述べた通(とほ)り永禄(えいろく)四年八月 既(すで)に徳川方(とくがはがた)に於て攻取(せめと)つたのである       が其後(そののち)西三河の紛乱(ふんらん)に際(さい)して再(ふたゝ)び今川方の勢(せい)が籠(こも)つたものと見(み)ゆるそれを今度(このたび)又々(また〳〵)徳川方(とくがはがた)に於て打破(うちやぶ)       つたのである徳川方(とくがはがた)に於(おい)てはそれから次第(しだい)に牛久保に攻寄(せめよ)せて来(き)たのであるが此(この)戦(たゝかひ)に就(つい)ても異説(ゐせつ)が       あつて此時(このとき)には長沢(ながさわ)の戦(たゝかひ)を載(の)せざる記録(きろく)が多(おほ)い又た前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた牛久保に於(お)ける牧野保成(まきのやすなり)戦死(せんし)の戦       を以て却(かへつ)て今度(このたび)の事であると記(しる)して居(を)るものがある即(すなは)ち朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)の如きも此点(このてん)に関(かん)しては其説(そのせつ)を        取(と)つて居(を)るが永禄(えいろく)四年 以来(いらい)徳川方が牛久保(うしくぼ)まで攻寄(せめよ)せて来(き)たのは度々(たび〳〵)の事で両(れう)牧野家(まきのけ)並(ならび)に其(その)家中(かちう)に伝(つた) 【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□(吉 田 合 戦)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□七十五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談     (桶狭間役後の情況)                    七十四 【本文】 ているが、これは右の十六人を合葬した処だということである。 **清洲の会見** さて家康においてはこれより先き永禄五年の正月に清洲へ行って信長に対面したのであるが、引き続いて信長からも使者が来たという訳で、その翌永禄六年三月には信長の女徳姫をもって信康に配することに定まったのである。 **家康改名** そしてその秋家康はこれまで元康と称えていたのを、ここに家康と改めたのである。この改名についても説は区々であるが、この年の六月松平三蔵信次に与えられた文書にはまだ元康とあって、その十月廿四日松平亀千代、松井左近に賜った文書には家康と署名されてあるのだから、この改名は必ずその間でなくてはならぬというのが正しい説であると思う。 然るにこの年の九月、徳川氏にとりては実に不慮の災難とも言うべき大事件が起こったのである。これは外でもない、彼の一向専修の乱である。 **一向専修の乱** この乱の起こりは実に一寸したことで、永禄六年の九月に菅沼藤十郎定顕が家康の旨を受けて碧海郡佐崎という処に砦を構えたのであるが、兵糧の乏しい処から上宮寺という寺に蓄えていた籾を強いて徴発したのである。そこで寺僧は怒って野寺の本証寺、針崎の勝曼寺などという同宗の寺を語らって衆徒を催し、定顕が砦に狼藉したのである。 これが原因となって徳川方の将士の中でも一向宗を信ずることの厚きものは皆この寺の方に党して、これを取り鎮めようとする家康に向かって鉾を向けるに至ったのである。従って味方同士が互いに入り乱れて戦うこととなったのであるから、西三河の天地というものは実に鼎の沸くが如くで、吉良義昭の如きも矢張り寺方の党に組みし、曩には義昭に隙があったという荒川義広さえもこれと相党するに至ったのである。 が竹谷、形原、深溝の松平氏の如きは東には長沢、御油を界に今川方を控え、西には土呂、針崎の反徒と相対した訳であるから、腹背敵を受けて屡々苦戦したのである。実に三河国内の擾乱したことは前代未聞のことで、恐らくは上神代から今日に至るまでにもあるまいと思うのである。もっともこの一揆の起こりについては 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 豊橋市史談 【本文】 矢張り異説があって永禄五年のことであるという説がある。三河物語にも 「永禄五年壬戌に野寺の寺内に徒者の有りけるを坂井雅楽助押し込み見て喧嘩しければ、永禄癸亥正月に各々門徒衆寄り合いて土呂、針崎、野寺、佐々起に取り籠もりて一揆を起こして御敵となる」 と記してあるが、社領寺領の地にはいかなるものが入っても武家が直ちにこれを逮捕することができぬのは古くよりの掟であるが、これで見るとその習慣の遺っている処からこの一揆を惹起したようである。とにかく僅かのことから大事件となったもので、翌七年の初めまではこの紛乱が継続されたのである。 然るに一時は宗教のために主君に反対した将士等も次第にその非を悔いて、あるいは改宗し、あるいは詫びを入れて帰参したので、漸くこの一揆も静まるに至ったのであるが、そこで家康は更にこれより兵を東三河に出してその中堅たるこの吉田城を攻撃するに至ったのである。 **○吉田合戦** さて永禄七年の初めに至って一向専修の一揆も平定に帰したので、家康はその三月兵を東三河に出して先ず長沢の城を破ったのである。この城は前章に申し述べた通り永禄四年八月既に徳川方において攻め取ったのであるが、その後西三河の紛乱に際して再び今川方の勢が籠ったものと見ゆる。それを今度また々徳川方において打ち破ったのである。 徳川方においてはそれから次第に牛久保に攻め寄せて来たのであるが、この戦いについても異説があって、この時には長沢の戦いを載せざる記録が多い。また前章に申し述べた牛久保における牧野保成戦死の戦をもって却ってこの度のことであると記しているものがある。即ち朝野旧聞裒稿の如きもこの点に関してはその説を取っているが、永禄四年以来徳川方が牛久保まで攻め寄せて来たのは度々のことで、両牧野家並びにその家中に伝 【欄外】 豊橋市史談     (吉田合戦)                    七十五

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Situation After the Battle of Okehazama) - 74 [Main Text] ...where these sixteen men were buried together. **The Meeting at Kiyosu** Now, before this, in the first month of Eiroku 5, Ieyasu had gone to Kiyosu and met with Nobunaga in person. Subsequently, envoys also came from Nobunaga, and in the third month of the following year, Eiroku 6, it was decided that Nobunaga's daughter, Princess Toku, would be wed to Nobuyasu. **Ieyasu's Name Change** That autumn, Ieyasu changed his name from Motoyasu, which he had used until then, to Ieyasu. There are various theories about this name change, but since a document given to Matsudaira Sanzo Nobitsugu in the sixth month of this year still bears the name Motoyasu, while a document granted to Matsudaira Kamechiyo and Matsui Sakon on the twenty-fourth day of the tenth month is signed Ieyasu, I believe the correct theory is that this name change must have occurred between these dates. However, in the ninth month of this year, a major incident occurred that could truly be called an unexpected disaster for the Tokugawa. This was none other than the Ikko Senshu Rebellion. **The Ikko Senshu Rebellion** The origin of this rebellion was really a trivial matter. In the ninth month of Eiroku 6, Suganuma Tojuro Sadaaki, acting on Ieyasu's orders, built a fortress at a place called Sasaki in Hekikai District. Due to a shortage of provisions, he forcibly requisitioned rice stored at a temple called Jogū-ji. The temple monks became angry and rallied with temples of the same sect such as Honsho-ji in Nodera and Shoman-ji in Harizaki, gathering their followers and attacking Sadaaki's fortress. This became the cause for even those among the Tokugawa generals and retainers who were devout believers in the Ikko sect to side with these temples and turn their spears against Ieyasu, who was trying to suppress them. Consequently, allies began fighting among themselves, and the land of Western Mikawa became like a boiling cauldron. Even Kira Yoshiakira joined the temple faction, and even Arakawa Yoshihiro, who had previously been at odds with Yoshiakira, came to ally with them. However, the Matsudaira of Takenotani, Katanohara, and Fukauzu faced the Imagawa forces beyond Nagasawa and Goyu to the east while confronting the rebels of Toro and Harizaki to the west, thus receiving attacks from front and rear and frequently struggling in hard-fought battles. Truly, such disorder within Mikawa Province was unprecedented, and I believe there has probably been nothing like it from the age of the gods until today. Of course, regarding the origins of this uprising... [Header] Mayor Oguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and tireless energy to compiling the Toyohashi City History for over a year, and now as the draft nears completion... [Left Page] [Header] Toyohashi City Historical Discussions [Main Text] ...there are indeed different theories, with some saying it occurred in Eiroku 5. The Mikawa Monogatari also records: "In Eiroku 5, year of Mizunoe-inu, there were troublemakers in the temple grounds of Nodera, and when Sakai Utanosuke pressed in to investigate and quarrels arose, in the first month of Eiroku Mizunoto-i, the various temple followers gathered and took refuge in Toro, Harizaki, Nodera, and Sasaki, raising a rebellion and becoming enemies." While it was an ancient rule that the military could not immediately arrest anyone who entered temple or shrine lands, it appears from this that the uprising was triggered by the remnants of this custom. In any case, a minor incident became a major affair, and this turmoil continued until early in the following seventh year. However, the generals and retainers who had temporarily opposed their lord for religious reasons gradually came to regret their wrongdoing, some converting their faith and others offering apologies and returning to service, so this uprising finally came to an end. Thereupon, Ieyasu further dispatched troops to Eastern Mikawa and proceeded to attack Yoshida Castle, which was its stronghold. **○ The Battle of Yoshida** Now, when early Eiroku 7 arrived and the Ikko Senshu uprising had been pacified, in the third month Ieyasu sent troops to Eastern Mikawa and first destroyed Nagasawa Castle. As mentioned in the previous chapter, this castle had already been captured by Tokugawa forces in the eighth month of Eiroku 4, but it appears that Imagawa forces had reoccupied it during the Western Mikawa disturbances. The Tokugawa forces broke through it once again this time. The Tokugawa forces then gradually advanced to attack Ushikubo, but there are different theories about this battle, and many records do not mention the Battle of Nagasawa at this time. Also, some records describe the battle where Makino Yasunari died at Ushikubo, mentioned in the previous chapter, as actually occurring at this time. Works such as the Chōya Kyūbun Hōkō take this position regarding this point, but Tokugawa forces had attacked as far as Ushikubo many times since Eiroku 4, and according to traditions of both Makino families and their retainers... [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Yoshida) - 75