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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 52

ページ: 52

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【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□(吉 田 合 戦)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□七十六 【本文】       はつて居る感状(かんぜう)によるも慥(たしか)に其事(そのこと)が証拠(せうこ)立てられるのである従(したがつ)て相互(さうご)の事実(じじつ)は錯雑(さくざつ)して前後(ぜんご)を混淆(こんこう)し       た記録(きろく)も少(すくな)くない事であるが兎(と)に角(かく)孰(いづ)れにも戦(たゝかひ)はあつたに相違(さうゐ)ない従(したがつ)て氏真(うじさね)が八 幡佐脇(はたさわき)に砦(とりで)を設(もう)け       た事 並(ならび)に家康(いへやす)か一の宮の後詰(あとづめ)の事をも矢張(やはり)今年ので出来事(できごと)であると記(しる)したものがある私は前章(ぜんせう)に此事(このこと)を        松平記(まつだひらき)並(ならび)に牧野家文書(まきのけぶんしよ)等(とう)に拠(よつ)て御話(おはなし)したのであるが朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)には官本三河記等を引用(ゐんよう)して右(みぎ)の説(せつ)       を取(と)つて居(を)るから之(これ)も御参考(ごさんこう)までに申述(もうしの)ぶるのである 御油の戦  かくて徳川方(とくがはがた)に於ては同(おな)じ永禄(えいろく)七年の三月に兵(へい)を出(いだ)して御油(ごゆ)に攻(せ)め寄(よ)せ今川方に於ては御油(ごゆ)の東台(とうだい)に       陣取(ぢんど)つて之(これ)と戦(たゝか)つたのであるが此時(このとき)は徳川方の形勢(けいせい)が非(ひ)であつたので家康(いへやす)は又た自(みづか)ら出馬(しゆつば)して味方(みかた)を 八幡の戦   援(たす)けたのであるソコで今川方の勢(せい)は兵を八 幡(はた)に引退(ひきしりぞ)けたが家康は進(すゝん)で之(これ)を攻撃(こうげき)した然(しか)るに当時(とうじ)八 幡(はた)の        砦(とりで)には板倉弾正重定(いたくらだんぜうしげさだ)が居つて城(しろ)を突(つい)て赤坂(あかさか)に出で奮戦(ふんせん)したので徳川方の先鋒(せんぽう)酒井左衛門尉忠次(さかゐさゑもんのぜうたゝつぐ)の兵は       多く討死(うちじに)して一時は敗北(はいぼく)に及(およ)むだが此時(このとき)彼(か)の渡邊半蔵守綱(わたなべはんぞうもりつな)が徳川方に後殿(しんがり)して取(とつ)て返(かへ)し勇戦(ゆうせん)したので       味方(みかた)は之(これ)に力(ちから)を得(え)て遂(つひ)に重定(しげさだ)を討取(うちとつ)て八 幡(はた)並に佐脇(さわき)の砦(とりで)を陥(おとしゐ)れたのである此時(このとき)八 幡村(はたむら)西明寺の住僧(ぢうそう)        快翁(くわいおう)と云ふ人が粥(かゆ)を煮(に)て徳川方の将士(せうし)を労(らう)し又た凱陣(がいぢん)の時(とき)家康は此寺(このてら)に宿(しゆく)したので家康(いへやす)が天下を平定(へいてい)       してから此寺(このてら)には朱印(しゆいん)廿石を与(あた)へたと云ふ話(はなし)があるソコで家康は愈々(いよ〳〵)敵(てき)の重鎮(ぢうちん)たる此(この)吉田城(よしだぜう)を攻略(こうりやく)し       ようと云ふので先(ま)づ小坂井(こさかゐ)牛久保(うしくぼ)並(ならび)に吉田へ向(むか)つて砦(とりで)を搆(かま)へ再(ふたゝ)び岡崎より出馬(しゆつば)して小坂井に於(おい)て吉田(よしだ)        城兵(ぜうへい)と衝突(せうとつ)したのであるが此時(このとき)渡邊半蔵守綱(わたなべはんぞうもりつな)蜂屋半之亟貞次(はちやはんのぜうさだつく)等(ら)は先(ま)づ鎗(やり)を合(あは)せ平岩(ひらいは)七 之助親吉(のすけちかよし)等(ら)も力(りき)        戦(せん)したので城兵(ぜうへい)は遂(つひ)に利(り)あらずして退(しりぞ)いたのであるモツトモ之(これ)等(ら)の事は三 河物語(かはものがたり)松平記(まつだひらき)等(とう)にも詳(くは)し       く記(しる)されて居るから此処(こゝ)には大要(たいえう)の筋(すぢ)だけを申述(もうしの)ぶるに留(とゝ)めておきたい置(お)きたいと思ふが之(これ)より家康(いへやす)は砦(とりで)を糟     塚 並(ならび)に喜見寺に設(もう)けて漸(やうや)く吉田城に肉薄(にくはく)せむとしたので其事は種々(しゆ〳〵)の記録(きろく)に記(しる)されて居る然(しか)るに此糟 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百八十八号附録□□□( 明治四十四年六月二十日発行 ) 【本文】 糟塚    塚と云ふのは小坂井(こさかゐ)の内(うち)にあるのであるが喜見寺(きけんじ)と云ふのは頗(すこぶ)る疑問(ぎもん)である今(いま)の豊橋市内大字新銭に 喜見寺    喜見寺(きけんじ)と云ふ寺(てら)があるが此(この)寺(てら)は古(ふる)くは鎌倉(かまくら)の建長寺(けんてうじ)門末(もんまつ)で規摸(きぼ)も宏大(くわうだい)であつたと伝(つた)へられて居る此時(このとき)        家康(いへやす)が砦(とりで)を搆(かま)へたのは即(すなは)ち此(この)寺内(じない)であると云ふ説(せつ)がある併(しか)し之(これ)は甚(はなは)だ確実(かくじつ)でない又た地形(ちけい)から推(お)して       見ても疑(うたがひ)を容(い)るべき余地(よち)があると思(おも)ふ兎に角此の如き形勢(けいせい)で吉田城は徳川勢(とくがはぜい)の攻(せ)め寄(よ)する処となつ       たのであるが当時(とうじ)二 連木(れんぎ)の戸田は宜光(よしみつ)の子(こ)重貞(しげさだ)の時で重貞(しげさだ)は主殿助(とのものすけ)と称(せう)し一に尚舎(せうしや)、 光成(みつなり)などゝ書(か)い 《割書:戸田宜光の|卒年》  たものがあるモツトモ父(ちゝ)の宜光(よしみつ)は其(その)没年(ぼつねん)が不明(ふめい)で多(おほ)くは永禄三年の卒去(そつきよ)であると伝(つた)へて居(を)るが此(この)年(とし)(       永禄七年)には未(いま)だ慥(たしか)に生存(せいぞん)して居つた証拠(せうこ)があるので戸田家系校正余録(とだかけいこうせうよろく)には永禄十一年の死(し)である       と論(ろん)じてある従(したがつ)て此時(このとき)には未(いま)だ存命(ぞんめい)であつたものと信(しん)ずるのであるが此(この)戸田氏(とだし)と徳川氏(とくがはし)との関係(くわんけい)は        前章(ぜんせう)に屡々(しば〳〵)申述(もうしの)べた通(とほ)りであるから之(これ)迄(まで)は拠(よんどころ)なく今川方に従属(じうぞく)して居(を)つたものゝ時もあらば欵(かん)を徳       川方に通(つう)せむと望(のぞ)むで居つたものであると思(おも)はれる然(しか)るに一の困難(こんなん)と云ふのは重貞(しげさだ)の母(はゝ)が吉田城に人(ひと)        質(しち)となつて居る事である凡(およ)そ人質(ひとしち)と云ふものは多(おほ)く目下(めした)のものを遣(つか)はすので其(その)母(はゝ)を質(しち)とすると云ふが 《割書:戸田重貞其|質を奪ふ》  如き事は殆(ほとん)ど稀(まれ)なる事であるから之(これ)は宜光(よしみつ)の時に於て遣(つか)はしたものに相違(さうゐ)ないと思(おも)ふが重貞(しげさだ)としては        先(ま)づ之(これ)を奪(うば)ひ返(かへ)すのが差当(さしあた)り講究(こうきう)すべき処であつたソコで重定(しげさだ)は勉(つと)めて鎮実(しげさね)に接近(せつきん)して其(その)歓心(くわんしん)を求め        弐心(ふたこゝろ)なきことを示(しめ)したが此年(このとし)(永禄七年)の五月十二日 重定(しげさだ)は例(れい)の如く吉田城(よしだぜう)に鎮実(しげさね)を訪(と)ふて共に双六(すころく)の        遊(あそび)をなし其(その)隙(すき)に従者(じうしや)をして母を盗(ぬす)み出(いだ)さしめて二 連木(れんぎ)につれ帰(かへ)つたのである此事(このこと)は古来(こらい)有名(ゆうめい)な話(はなし)であ       るから伝説(でんせつ)なども色々(いろ〳〵)であるが松平記(まつだひらき)及(およ)び三 河物語(かはものがたり)に記(き)する処は略(ほ)ほ相似(あひに)て居るので此時(このとき)重定(しげさだ)は家臣(かしん)       に長持(ながもち)を持(も)たせて之(これ)に風流(ふうるう)の道具(どうぐ)菓子(くわし)などを入(い)れ入門(にふもん)の際(さい)能(よ)く〳〵門番(もんばん)に断(ことは)つて置(お)いたので帰途(きと)には       之(これ)を咎(とが)めず通(つう)した然(しか)るに重定(しげさだ)の方(ほう)では予(かね)て計(はか)つてあることであるから家臣(かしん)等(ら)は途(みち)に之(これ)を迎(むか)へて無事(ぶじ)に 【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□(吉 田 合 戦)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□七十七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談     (吉田合戦)                    七十六 【本文】 残っている感状によってもその事が確かに証拠立てられるのである。従ってお互いの事実は錯雑して前後を混同した記録も少なくない事であるが、とにかくいずれにも戦いはあったに相違ない。従って氏真が八幡佐脇に砦を設けたこと並びに家康が一の宮の後詰のことをも、やはり今年の出来事であると記したものがある。私は前章でこのことを松平記並びに牧野家文書等に拠って話したのであるが、朝野旧聞裒稿には官本三河記等を引用して右の説を取っているから、これも参考までに申し述べるのである。 **御油の戦** こうして徳川方においては同じ永禄七年の三月に兵を出して御油に攻め寄せ、今川方においては御油の東台に陣取ってこれと戦ったのであるが、このときは徳川方の形勢が悪かったので、家康はまた自ら出馬して味方を援けたのである。 **八幡の戦** そこで今川方の勢は兵を八幡に引き退けたが、家康は進んでこれを攻撃した。然るに当時八幡の砦には板倉弾正重定が居て城を突いて赤坂に出で奮戦したので、徳川方の先鋒酒井左衛門尉忠次の兵は多く討死して一時は敗北に及んだが、このとき彼の渡邊半蔵守綱が徳川方に加勢して殿軍を務め取って返し勇戦したので、味方はこれに力を得て遂に重定を討ち取って八幡並びに佐脇の砦を陥落させたのである。 このとき八幡村西明寺の住僧快翁という人が粥を煮て徳川方の将士を労い、また凱陣のとき家康はこの寺に宿したので、家康が天下を平定してからこの寺には朱印二十石を与えたという話がある。 そこで家康は愈々敵の重鎮たるこの吉田城を攻略しようということで、先ず小坂井、牛久保並びに吉田へ向かって砦を構え、再び岡崎より出馬して小坂井において吉田城兵と衝突したのであるが、このとき渡邊半蔵守綱、蜂屋半之丞貞次等は先ず槍を合わせ、平岩七之助親吉等も力戦したので、城兵は遂に利あらずして退いたのである。 もっともこれ等のことは三河物語、松平記等にも詳しく記されているから、ここには大要の筋だけを申し述べるに留めておきたいと思うが、これより家康は砦を糟塚並びに喜見寺に設けて漸く吉田城に肉薄せんとしたので、その事は種々の記録に記されている。然るにこの糟 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百八十八号付録   (明治四十四年六月二十日発行) 【本文】 **糟塚** 塚というのは小坂井の内にあるのであるが、喜見寺というのは頗る疑問である。今の豊橋市内大字新銭に **喜見寺** 喜見寺という寺があるが、この寺は古くは鎌倉の建長寺の門末で規模も宏大であったと伝えられている。このとき家康が砦を構えたのは即ちこの寺内であるという説があるが、しかしこれは甚だ確実でない。また地形から推して見ても疑いを容るべき余地があると思う。 とにかくこのような形勢で吉田城は徳川勢の攻め寄する処となったのであるが、当時二連木の戸田は宜光の子重貞の時で、重貞は主殿助と称し、一に尚舎、光成などと書いたものがある。 **戸田宜光の卒年** もっとも父の宜光はその没年が不明で、多くは永禄三年の卒去であると伝えているが、この年(永禄七年)には未だ確かに生存していた証拠があるので、戸田家系校正余録には永禄十一年の死であると論じてある。従ってこの時には未だ存命であったものと信ずるのであるが、この戸田氏と徳川氏との関係は前章に屡々申し述べた通りであるから、これまでは拠んどころなく今川方に従属していたものの、時もあらば款を徳川方に通じようと望んでいたものであると思われる。 然るに一つの困難というのは、重貞の母が吉田城に人質となっていることである。凡そ人質というものは多く目下の者を遣わすので、その母を質とするという如き事は殆ど稀なることであるから、これは宜光の時において遣わしたものに相違ないと思うが、 **戸田重貞その質を奪う** 重貞としては先ずこれを奪い返すのが差し当たり講究すべき処であった。そこで重定は努めて鎮実に接近してその歓心を求め、二心なきことを示したが、この年(永禄七年)の五月十二日、重定は例の如く吉田城に鎮実を訪うて共に双六の遊びをなし、その隙に従者をして母を盗み出させて二連木に連れ帰ったのである。 この事は古来有名な話であるから伝説なども色々であるが、松平記及び三河物語に記する処は略ほ相似ているので、このとき重定は家臣に長持を持たせてこれに風流の道具、菓子などを入れ、入門の際よくよく門番に断って置いたので、帰途にはこれを咎めず通した。然るに重定の方では予て計ってあることであるから、家臣等は途中でこれを迎えて無事に 【欄外】 豊橋市史談     (吉田合戦)                    七十七

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Yoshida) - 76 [Main Text] ...this is clearly proven by the commendation documents that remain. Consequently, the facts from various sources are confused and there are many records that mix up the chronology, but in any case there were certainly battles in both instances. Therefore, some records state that Ujizane's establishment of fortresses at Hachiman Sawaki and Ieyasu's rear support at Ichinomiya were also events of this year. In the previous chapter, I discussed these matters based on the Matsudaira-ki and the Makino family documents, but since the Chōya Kyūbun Hōkō cites the Kanpon Mikawa-ki and other sources to support this theory, I mention it here for reference. **The Battle of Goyu** Thus, in the third month of the same Eiroku 7, the Tokugawa forces dispatched troops to attack Goyu. The Imagawa forces took positions on the eastern heights of Goyu and fought against them, but at this time the Tokugawa forces were at a disadvantage, so Ieyasu personally took the field to support his allies. **The Battle of Hachiman** The Imagawa forces then withdrew their troops to Hachiman, but Ieyasu advanced and attacked them. At that time, Itakura Danjo Shigesada was stationed at the Hachiman fortress, and he broke out of the castle to Akasaka and fought fiercely. Many soldiers of the Tokugawa vanguard under Sakai Saemon-no-jō Tadatsugu were killed in action, and they were temporarily defeated. However, at this moment, Watanabe Hanzō Moritsuna joined the Tokugawa side, served as rear guard, counterattacked, and fought bravely. The allies gained strength from this and finally killed Shigesada and captured the fortresses of Hachiman and Sawaki. At this time, a resident monk of Saimyō-ji temple in Hachiman village named Kaiō cooked rice gruel to comfort the Tokugawa generals and retainers, and during the victory celebration, Ieyasu lodged at this temple. There is a story that after Ieyasu pacified the realm, he granted this temple a vermillion seal for twenty koku of rice. Thereupon, Ieyasu was finally determined to capture Yoshida Castle, the enemy's stronghold. He first built fortresses facing Kosakai, Ushikubo, and Yoshida, then again dispatched troops from Okazaki and clashed with Yoshida castle troops at Kosakai. At this time, Watanabe Hanzō Moritsuna, Hachiya Hannosuke Sadatsugu and others first crossed spears, and Hiraiwa Shichinosuke Chikayoshi and others also fought hard, so the castle troops finally gained no advantage and withdrew. Of course, these matters are recorded in detail in works such as the Mikawa Monogatari and Matsudaira-ki, so here I wish to limit myself to mentioning only the main points. From this point, Ieyasu established fortresses at Kasazuka and Kiken-ji to gradually close in on Yoshida Castle, and this is recorded in various documents. However, this Kasa- [Left Page] [Header] San'yō Newspaper No. 3,788 Supplement (Published June 20, Meiji 44) [Main Text] **Kasazuka** -zuka is located within Kosakai, but Kiken-ji is quite questionable. There is a temple called Kiken-ji in present-day Ōaza Shinzeni within Toyohashi city. **Kiken-ji** This temple was traditionally a branch temple of Kenchō-ji in Kamakura and is said to have been quite grand in scale. There is a theory that when Ieyasu built his fortress, it was within these temple grounds, but this is not very reliable. Also, judging from the topography, I think there is room for doubt. In any case, under these circumstances, Yoshida Castle became the target of Tokugawa forces' attacks. At that time, the Toda of Nirengi were in the time of Shigesada, son of Yoshimitsu. Shigesada was called Tonomo-no-suke and was sometimes written as Shōsha or Mitsunari. **The Death Year of Toda Yoshimitsu** The death year of his father Yoshimitsu is unclear, and it is generally believed that he died in Eiroku 3, but there is evidence that he was certainly still alive in this year (Eiroku 7). Therefore, the Toda Kakei Kōsei Yoroku argues that he died in Eiroku 11. Consequently, I believe he was still alive at this time. The relationship between the Toda and Tokugawa clans was as I have repeatedly mentioned in previous chapters, so until now they had been reluctantly subordinated to the Imagawa, but they probably hoped to establish relations with the Tokugawa side when the opportunity arose. However, one difficulty was that Shigesada's mother was being held as a hostage in Yoshida Castle. Generally, hostages are usually taken from subordinates, so taking one's mother as a hostage is extremely rare. This must have been done during Yoshimitsu's time. **Toda Shigesada Rescues His Hostage** For Shigesada, recovering her was the immediate matter to be addressed. Therefore, Shigesada worked to get close to Shigezane, sought his favor, and showed that he harbored no disloyalty. On the twelfth day of the fifth month of this year (Eiroku 7), Shigesada visited Shigezane at Yoshida Castle as usual and played backgammon together. During this time, he had his retainers secretly help his mother escape and brought her back to Nirengi. This has been a famous story since ancient times, so there are various legends, but the accounts in the Matsudaira-ki and Mikawa Monogatari are quite similar. At this time, Shigesada had his retainers carry a long wooden chest containing elegant implements, sweets, and such, and when entering the gate, he carefully informed the guards. Therefore, when leaving, they let it pass without suspicion. However, since Shigesada had planned this beforehand, his retainers met them on the way and safely... [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Yoshida) - 77