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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 53

ページ: 53

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【欄外】    豊橋市史談     (吉 田 合 戦)                    七十八 【本文】       二 連木城(れんぎぜう)に引取(ひきと)つたとの事であるモツトモ母(はゝ)を容(い)れたものに就(つい)ては長持(ながもち)ではなく具足櫃(ぐそくひつ)であると云ふ        説(せつ)があつて現(げん)に戸田子爵家(とだしゝやくけ)には今(いま)尚(な)ほ其(その)櫃(ひつ)が所蔵(しよぞう)せられてあるとの事であるが或(あるひ)は初(はじ)め長持(ながもち)に入れて        盗(ぬす)み出(だ)し途中(とちう)から具足櫃(ぐそくひつ)に入(い)れ替(か)へて遁(のが)れたものであろうと云ふような事は雑話筆記(ざつわひつき)と云ふ本にも書(か)       いてある又(ま)た三 河物語(かはものがたり)松平記(まつだひらき)は孰(いづ)れも此事に就て戸田丹波守(とだたんばのかみ)を当事者(とうじしや)として記(しる)して居る丹波守(たんばのかみ)と云へ       ば宜光(よしみつ)の事になるのてあるが此時(このとき)宜光(よしみつ)はまだ存命(ぞんめい)であつたにしても既(すで)に重貞(しげさだ)が当主(とうしゆ)であつたのである       から之(これ)は重貞(しげさだ)説(せつ)が正(たゞ)しい事と信(しん)ずる兎(と)に角(かく)此の如き訳(わけ)で首尾(しゆび)克(よ)くは母を奪(うば)ひ返(かへ)したから重貞(しげさだ)は直(たゞ)ちに火       を放(はな)つて之(これ)を徳川方(とくがはがた)に報(ほう)じ翌日 家康(いへやす)から三千貫の地 幷(ならび)に誓書(せいしよ)を与(あた)へられたのであるかくて徳川方(とくがはがた)に於       ては愈々(いよ〳〵)此(この)吉田城(よしだぜう)を包囲(はうゐ)して攻撃(こうげき)にかゝつたが今川方に於(おい)ても城(しろ)を突(つい)て出戦(しゆつせん)し五月十四日に下地(しもぢ)に於 《割書:本多忠勝牧|野宗次郎と》  て合戦(かつせん)があつたのである此時(このとき)家康(いへやす)の将(せう)本多平(ほんだへい)八 郎忠勝(らうたゞかつ)はまだ十七歳であつたが今川方(いまがはがた)の牧野宗次郎(まきのそうじらう)と 《割書:一番鎗を合|す》  一番に鎗(やり)を合(あは)せたのである武徳編年集成(ぶとくへんねんしうせい)などには此(この)牧野宗次郎(まきのそうじらう)と云ふのも矢張(やはり)此時(このとき)十七歳であつたと        記(しる)してあるが此人(このひと)に就(つい)ては旧来(きうらい)から疑問(ぎもん)があつて参謀本部(さんぼうほんぶ)の日本戦史(にほんせんし)桶狭間役補伝(おけはざまえきほでん)には本多家武功聞(ほんだけぶこうきゝ)        書(がき)を引き牧宗次郎(まきそうじらう)の立志(りし)と題(だい)して此(この)宗次郎(そうじらう)は牧孫左衛門(まきまござゑもん)と云ふ人の子(こ)であるが父(ちゝ)の同僚(どうれう)城所助之允(きどころすけのぜう)の        武勇(ぶゆう)を聞(き)いて志(こゝろざし)を起(おこ)して遂(つひ)に此(この)吉田合戦(よしだかつせん)に於て本多忠勝(ほんだたゞかつ)と鎗(やり)を合(あは)するに至(いた)つたと云ふ事が詳説(せうせつ)してあ      る然(しか)るに寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)幷(ならび)に牧野家々譜(まきのけかふ)によると田邉牧野家(たなべまきのけ)の祖(そ)定成(さだしげ)の子(こ)康成(やすしげ)は恰(あたか)も此(この)宗次郎(そうじらう)に相当(さうとう)       するのである元来(がんらい)此(この)康成(やすしげ)と云ふ人は本多忠勝(ほんだたゞかつ)と同年の生(うま)れで此頃(このころ)父(ちゝ)と共(とも)に牛久保(うしくぼ)に居つたが此(この)戦(たゝかひ)には        牛久保(うしくぼ)を引上(ひきあ)げて吉田城中(よしだぜうちう)に籠(こも)つたのである而(しか)も武勇抜群(ぶゆうばつぐん)の人で能(よ)く忠勝(たゞかつ)と角(かく)したのである而(しか)して城(き) 城所助之丞  所助之丞(じよすけのぜう)と云ふのは康成(やすしげ)の家臣(かしん)であつて曩(さき)に牛久保(うしくぼ)に於て一 度(ど)忠勝(たゞかつ)と鎗(やり)を合(あは)せた事があるが此時(このとき)も亦(ま)       た互(たがひ)に鎗(やり)を合(あは)せたのである然(しか)るに忠勝(たゞかつ)の家臣(かしん)が横合(よこあひ)から助之丞(すけのぜう)の腕(うで)に斬付(きづつ)けたので康成(やすしげ)は直(たゞ)ちに進(すゝ)む 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際                               【左頁】 【欄外】    豊橋市史談            □□□□ 【本文】       で自(みづか)ら忠勝(たゞかつ)と力戦(りきせん)し共に創(きづ)を被(かうむ)つたが時に康成(やすしげ)は既(すで)に徳川方(とくがはがた)に属(ぞく)したいと云ふ志(こゝろざし)があつたので竊(ひそか)に       其(その)志(こゝろざし)を忠勝(たゞかつ)に告(つ)げて引退(ひきしりぞ)いたとのことである之(これ)は前(まへ)にも申述(もうしのべ)た通(とほ)り寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)等(とう)の説(せつ)であるが康(やす)        成(しげ)は初(はじ)め惣次郎(さうじらう)、 半右衛門(はんうゑもん)と称(せう)し後(のち)に讃岐守(さぬきのかみ)となつたので宗(そう)と惣(さう)と字(じ)の違(ちが)ひはあるが時代(じだい)其他(そのた)の事情(じぜう)       から推(お)して私(わたくし)は此(この)一番 鎗(やり)の宗次郎(そうじらう)と云ふのは前(まへ)に述(の)べた康成(やすしげ)の事であると信(しん)ずるものであるサテ此時(このとき) 《割書:蜂屋貞次戦|死》   徳川方の蜂屋半之丞貞次(はちやはんのぜうさだつぐ)も真先(まつさき)に進(すゝ)むだが忠勝(たゞかつ)の為(ため)に一番 鎗(やり)の功(こう)を得(え)られたと云ふので鎗(やり)を捨(す)て刀(かたな)を        抜(ぬ)いて敵陣(てきじん)に切(き)り込(こ)むだ然(しか)るに今川方の河合正徳(かあひせうとく)と云ふものゝ為(ため)に鉄砲(てつぽう)に打(う)たれて疵(きづ)を被(かうむ)つたのであ        る多(おほ)くの記録(きろく)には此時(このとき)半之丞(はんのぜう)は即死(そくし)したとも云ひ陣営(じんえい)に皈(かへ)つて死(し)むだともあるが寛永譜(かんえいふ)には故郷(こけう)三 州(しう)       ムツナ村に於(おい)て其(その)疵(きづ)の為(ため)に死(し)すと記(しる)してある年(とし)は僅(わづか)に廿六であつたが其(その)母(はゝ)か実(じつ)に女丈夫(ぢよぜうぶ)である三 河物(かはもの) 貞次の母   語(がたり)によると半之丞(はんのぜう)が討死(うちじに)したと云ふ事を母(はゝ)の方(ほう)へ知(し)らせた時(とき)其(その)母(はゝ)は半之丞(はんのぜう)が打死(うちじに)の事は承知(せうち)しました       が扨(さて)最後(さいご)の様(さま)は如何(どう)であつたかと云つて問(と)ひ返(かへ)したソコで其(その)者(もの)から比類(ひるい)なき働(はたらき)であつた事を話(はな)した       処が母は誠(まこと)に安心(あんしん)してソレでこそ嬉敷(うれしく)思(おも)ふのである打死(うちじに)は武士(ぶし)の習(ならひ)であるから悔(くや)むには及(およ)ばぬが若(も)し        半之丞(はんのぜう)が最後(さいご)悪(あ)しくと聞(き)くならば我(われ)も命(いのち)長(なが)らへて詮(せん)もなきことであると云つたとの事である実(じつ)に当時(とうじ)の        武人(ぶじん)の母を代表(だいひよう)して居(を)るものと云つてよいと思(おも)ふ其他(そのた)此(この)合戦(かつせん)に於ては敵味方(てきみかた)共(とも)に数多(あまた)の死傷(しせう)があつた      が五月廿日には家康(いへやす)自(みづか)ら出馬(しゆつば)して益々(ます〳〵)此(この)城(しろ)を攻撃(こうげき)し殊(こと)に先手(さきて)の大将(たいせう)たる酒井左衛門尉忠次(さかゐさゑもんのぜうたゞつぐ)の鉾先(ほこさき)は中(なか)        中(なか)鋭(するど)かつたもので鎮実(しげさね)も遂(つひ)に力(ちから)及(およ)ばずなつたのである然(しか)るに此(この)戦(たゝかひ)の始末(しまつ)は何時(いつ)ついたか其年月に関(くわん) 《割書:吉田城明渡|の年月》  しては頗(すこぶ)る疑問(ぎもん)がある即(すなは)ち此(この)城(しろ)の明渡(あけわた)しとなつたのは此年(このとし)の五月廿日であると云ふのと六月であると       云ふのと其翌(そのよく)八年の五月であると云ふのと大体(だい〳〵)に於(おい)ても既(すで)に三 説(せつ)あるモツトモ家康(いへやす)が酒井忠次(さかゐたゞつぐ)に此(この)城(しろ)       を与(あた)へた文書(ぶんしよ)が諸書(しよ〳〵)に載(の)つて居るのでそれが永禄(えいろく)七年六月廿二日 付(づけ)であるから此(この)城(しろ)の明渡(あけわたし)はむ無論(むろん)其(その)以(い) 【欄外】    豊橋市史談     (吉 田 合 戦)                    七十九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談     (吉田合戦)                    七十八 【本文】 二連木城に引き取ったということである。もっとも母を入れたものについては長持ではなく具足櫃であるという説があって、現に戸田子爵家には今なおその櫃が所蔵されているということであるが、或いは初め長持に入れて盗み出し、途中から具足櫃に入れ替えて逃れたものであろうということは『雑話筆記』という本にも書いてある。 また『三河物語』『松平記』はいずれもこの事について戸田丹波守を当事者として記している。丹波守といえば宜光のことになるのであるが、この時宜光はまだ存命であったにしても、既に重貞が当主であったのであるから、これは重貞説が正しいことと信ずる。 とにかくこのような訳で首尾よく母を奪い返したから、重貞は直ちに狼煙を上げてこれを徳川方に報じ、翌日家康から三千貫の地並びに誓書を与えられたのである。 こうして徳川方においては愈々この吉田城を包囲して攻撃にかかったが、今川方においても城を出て戦い、五月十四日に下地において合戦があったのである。 **本多忠勝と牧野宗次郎** この時家康の将本多平八郎忠勝はまだ十七歳であったが、今川方の牧野宗次郎と**一番槍を合わせた**のである。『武徳編年集成』などにはこの牧野宗次郎というのもやはりこの時十七歳であったと記してあるが、この人については旧来から疑問があって、参謀本部の『日本戦史桶狭間役補伝』には『本多家武功聞書』を引き、「牧宗次郎の立志」と題してこの宗次郎は牧孫左衛門という人の子であるが、父の同僚城所助之丞の武勇を聞いて志を起こして遂にこの吉田合戦において本多忠勝と槍を合わせるに至ったという事が詳説してある。 然るに『寛政重修諸家譜』並びに『牧野家々譜』によると田辺牧野家の祖定成の子康成は恰もこの宗次郎に相当するのである。元来この康成という人は本多忠勝と同年の生まれで、この頃父と共に牛久保にいたが、この戦いには牛久保を引き上げて吉田城中に籠ったのである。而も武勇抜群の人でよく忠勝と対等に戦ったのである。 **城所助之丞** そして城所助之丞というのは康成の家臣であって、曩に牛久保において一度忠勝と槍を合わせた事があるが、この時も又互いに槍を合わせたのである。然るに忠勝の家臣が横合から助之丞の腕に斬りつけたので、康成は直ちに進ん 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ほ成るに際 【左頁】 【欄外】 豊橋市史談 【本文】 で自ら忠勝と力戦し共に創を被ったが、時に康成は既に徳川方に属したいという志があったので、窃かにその志を忠勝に告げて引退したとのことである。これは前にも申し述べた通り『寛政重修諸家譜』等の説であるが、康成は初め惣次郎、半右衛門と称し後に讃岐守となったので、宗と惣と字の違いはあるが、時代その他の事情から推して私はこの一番槍の宗次郎というのは前に述べた康成のことであると信ずるものである。 **蜂屋貞次戦死** さてこの時徳川方の蜂屋半之丞貞次も真先に進んだが、忠勝のために一番槍の功を得られたというので槍を捨て刀を抜いて敵陣に切り込んだ。然るに今川方の河合正徳というもののために鉄砲に打たれて疵を被ったのである。多くの記録にはこの時半之丞は即死したとも言い、陣営に帰って死んだともあるが、『寛永譜』には故郷三州ムツナ村においてその疵のために死すと記してある。年は僅かに二十六であった。 **貞次の母** がその母が実に女丈夫である。『三河物語』によると半之丞が討死したということを母の方へ知らせた時、その母は「半之丞が打死の事は承知しましたが、さて最後の様はどうであったか」と言って問い返した。そこでその者から比類なき働きであった事を話した処が、母は誠に安心して「それでこそ嬉しく思うのである。打死は武士の習いであるから悔やむには及ばぬが、若し半之丞が最後悪しくと聞くならば我も命長らえて詮もなきことである」と言ったとのことである。実に当時の武人の母を代表していると言ってよいと思う。 その他この合戦においては敵味方共に数多の死傷があったが、五月二十日には家康自ら出馬して益々この城を攻撃し、殊に先手の大将たる酒井左衛門尉忠次の鋒先は中々鋭かったもので、鎮実も遂に力及ばずなったのである。 **吉田城明渡の年月** 然るにこの戦いの始末は何時ついたか、その年月に関しては頗る疑問がある。即ちこの城の明渡しとなったのは、この年の五月二十日であるというのと六月であるというのと、その翌八年の五月であるというのと、大体においても既に三説ある。もっとも家康が酒井忠次にこの城を与えた文書が諸書に載っているのでそれが永禄七年六月二十二日付であるから、この城の明渡しは勿論その以 【欄外】 豊橋市史談     (吉田合戦)                    七十九

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Yoshida) - 78 [Main Text] ...withdrew to Nirengi Castle. However, regarding what the mother was placed in, there is a theory that it was not a long chest but an armor chest (gusoku-hitsu), and indeed the Toda viscount family still preserves that chest today. Perhaps initially she was smuggled out in a long chest and then transferred to an armor chest partway through the escape - this kind of account is also written in a book called "Zatsuwa Hikki" (Miscellaneous Notes). Also, both the "Mikawa Monogatari" and "Matsudaira-ki" record Toda Tanba-no-kami as the person involved in this incident. Tanba-no-kami would refer to Yoshimitsu, but even if Yoshimitsu was still alive at this time, Shigesada was already the head of the family, so I believe the Shigesada theory is correct. In any case, having successfully rescued his mother in this manner, Shigesada immediately lit signal fires to report this to the Tokugawa side, and the next day he received from Ieyasu land worth 3,000 kan and a written pledge. Thus the Tokugawa forces finally surrounded Yoshida Castle and began their attack, but the Imagawa side also sortied from the castle to fight, and on the fourteenth day of the fifth month there was a battle at Shimoji. **Honda Tadakatsu and Makino Sōjirō** At this time, Ieyasu's general Honda Heihachirō Tadakatsu was still only seventeen years old, but he **crossed spears first** with Makino Sōjirō of the Imagawa side. The "Butoku Hennen Shūsei" and other works record that this Makino Sōjirō was also seventeen years old at this time, but there has long been doubt about this person. The General Staff's "Nihon Senshi Okehazama-eki Hoden" quotes the "Honda-ke Bukō Kikigaki" and under the title "Maki Sōjirō's Aspiration" gives a detailed account of how this Sōjirō was the son of Maki Magozaemon, but hearing of the martial prowess of his father's colleague Kidokoro Sukenosuke, he was inspired and eventually came to cross spears with Honda Tadakatsu in this Battle of Yoshida. However, according to the "Kansei Chōshū Shokafu" and "Makino-ke Kafu," Yasushige, son of Sadashige who was the ancestor of the Tanabe Makino family, corresponds exactly to this Sōjirō. Originally this Yasushige was born in the same year as Honda Tadakatsu and was staying in Ushikubo with his father at this time, but for this battle he withdrew from Ushikubo and took refuge in Yoshida Castle. Moreover, he was a person of outstanding martial prowess who could fight on equal terms with Tadakatsu. **Kidokoro Sukenosuke** Kidokoro Sukenosuke was Yasushige's retainer who had once before crossed spears with Tadakatsu at Ushikubo, and at this time they again crossed spears with each other. However, one of Tadakatsu's retainers struck at Sukenosuke's arm from the side, so Yasushige immediately advanced... [Header] Mayor Ōguchi Kiroku of Toyohashi has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi for more than a year, and now as his manuscript nears completion... [Left Page] [Header] Toyohashi City Historical Discussions [Main Text] ...and personally engaged in fierce combat with Tadakatsu, with both receiving wounds. At that time, Yasushige already had the desire to join the Tokugawa side, so he secretly told Tadakatsu of his intention and withdrew. This is the account from the "Kansei Chōshū Shokafu" and other sources as I mentioned before. Yasushige was initially called Sōjirō and Hanemon, and later became Sanuki-no-kami, so while there is a difference in characters between "Sō" and "Sō," based on the period and other circumstances, I believe this Sōjirō who gained first spear honors was the Yasushige I mentioned earlier. **Hachiya Sadatsugu's Death in Battle** Now at this time, Hachiya Hannosuke Sadatsugu of the Tokugawa side also advanced at the forefront, but since Tadakatsu had gained the honor of first spear, he threw down his spear, drew his sword, and cut into the enemy lines. However, he was shot and wounded by one called Kawai Shōtoku of the Imagawa side. Many records say that Hannosuke died instantly at this time, while others say he returned to camp and died there, but the "Kan'ei-fu" records that he died from his wounds in his hometown village of Mutsuna in Sanshū. He was only twenty-six years old. **Sadatsugu's Mother** His mother was truly a heroic woman. According to the "Mikawa Monogatari," when news of Hannosuke's death in battle was brought to his mother, she said, "I understand that Hannosuke died in battle, but how did he conduct himself at the end?" When the messenger told her of his incomparable performance, the mother was truly relieved and said, "That makes me truly happy. Death in battle is the way of warriors, so there is no need for regret, but if I heard that Hannosuke's end was poor, there would be no point in my living longer." This truly represents the mothers of warriors of that time. Besides this, in this battle there were many casualties on both sides, but on the twentieth day of the fifth month, Ieyasu personally took the field and intensified the attack on the castle. Especially the spearpoint of Sakai Saemon-no-jō Tadatsugu, the commander of the vanguard, was quite sharp, and Shigezane finally could no longer hold out. **The Year and Month of Yoshida Castle's Surrender** However, when this battle was concluded - there is considerable doubt about the year and month. That is, there are already three theories about when this castle was surrendered: this year's fifth month twentieth day, June of the same year, or the fifth month of the following eighth year of Eiroku. However, since documents recording Ieyasu's grant of this castle to Sakai Tadatsugu appear in various books dated the twenty-second day of the sixth month of Eiroku 7, the surrender of this castle was naturally before... [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Yoshida) - 79