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【欄外】
豊橋市史談 (吉 田 合 戦) 八十
【本文】
前(ぜん)であると云ふのが普通(ふつう)行(おこな)はるゝ説(せつ)であるがよく〳〵考(かんが)へて見(み)ると此(この)城責(しろせめ)が五月の十四日に初(はじ)まつて
廿日に片付(かたづ)いては余(あま)りに早過(はやす)ぐる様(よう)である其上(そのうへ)二 連木(れんぎ)の戸田重貞(とだしげさだ)は永禄(えいろく)七年十一月十二日 吉田(よしだ)に於て
戦死(せんし)して居(を)るのである併(しか)し之(これ)は戦死(せんし)ではないように記(しる)したものもあるが寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)を初(はじ)め比較的(ひかくてき)
信(しん)ずべきものには多(おほ)く戦死(せんし)となつて居(を)るのであるサスレが此(この)城責(しろぜめ)はまだ其頃(そのころ)迄(まで)も続(つゞ)いたものと思(おも)はね
ばならぬ又(ま)た前章(ぜんせう)に申述べた取替兵糧(とりかへへうれう)の書付(かきつけ)の如きは果(はた)して当時(とうじ)のものであるか否(いな)や元(もと)より疑問(ぎもん)では
あるが若(も)し之(これ)を事実(じじつ)のものとすれば永禄(えいろく)八年二月のものであるから其頃(そのころ)までは今川方(いまがはがた)に於て吉田城(よしだぜう)を
保(たも)つて居(を)つた事に見(み)ねばならぬ一 説(せつ)には此城(このしろ)の明渡(あけわたし)に就(つい)ては戸田丹波守(とだたんばのかみ)が主(おも)に双方(そうはう)の間(あひだ)に立(た)つて斡旋(あつせん)
の労(らう)を取(と)つたものであるが此(この)丹波守(たんばのかみ)と云ふのは重貞(しげさだ)を指(さ)したものでなくてはならぬ従(したがつ)て其(その)結末(けつまつ)は重(しげ)
貞(さだ)死去(しきよ)以前(いぜん)の事であるべき道理(どうり)であると云つて居る勿論(もちろん)此(この)論者(ろんしや)は重貞(しげさだ)の死(し)を以(もつ)て戦死(せんし)でないとして居(を)
るのであらうが私は此(この)城明渡(しろあけわたし)の斡旋者(あつせんしや)は重貞(しげさだ)でなくて其(その)父(ちゝ)の宜光(よしみつ)であると信(しん)ずるのである前(まへ)にも申述(もうしの)
べた如く宜光(よしみつ)は多(おほ)く永禄(えいろく)三年に死(し)むたものとして伝(つた)へられては居(を)るが其実(そのじつ)は永禄(えいろく)十一年まで生存(せいぞん)して
居(を)つたのであるから重貞(しげさだ)戦死(せんし)の後(のち)宜光(よしみつ)の斡旋(あつせん)になつたものであるとするのは強(あなが)ちに理(り)のない説(せつ)ではな
いと思(おも)ふ其他(そのた)以下(いか)に述(の)ぶるような種々(しゆ〳〵)の事情(じぜう)から推測(すゐそく)すると益(ます〳〵)此城(このしろ)の明渡(あけわたし)は永禄(えいろく)八年五月 説(せつ)が正(たゞ)し
いように信(しん)ずるのである
合戦の結果 サテ合戦(かつせん)結末(けつまつ)の時日に就(つい)ては右(みぎ)の如(ごと)くであるが戸田丹波守(とだたんばのかみ)の外(ほか)に本多彦(ほんだひこ)八 郎忠次(らうたゞつぐ)等(ら)も鎮実(しげさね)に勧告(かんこく)して
結局(けつきよく)城(しろ)を明渡(あけわた)さしむることとなつたのである然(しか)るに鎮実(しげさね)に於(おい)ては和議(わぎ)を取結(とりむす)むで城(しろ)を明渡(あけわた)す事には異議(ゐぎ)
がないが其(その)替(かは)りとして人質(ひとしち)を得(え)たいものであると云ふ要求(えうきう)をしたのであるソコで徳川方(とくがはがた)に於(おい)ては家康(いへやす)
の異父弟(いふてい)松平源(まつだひらげん)三 郎勝俊(らうかつとし)並(ならび)に酒井忠次(さかゐたゞつぐ)の女阿風(ぢよおふう)と云ふのを人質(ひとしち)として今川方(いまがはがた)に遣(つか)はすことなつて之(これ)で
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千七百九十四号附録 ( 明治四十四年六月二十七日発行 )
【本文】
《割書:家康吉田城|を酒井忠次》 一 段落(だんらく)を告(つ)げ城(しろ)は全(まつた)く家康(いへやす)の手(て)に帰(き)して家康(いへやす)は之(これ)を酒井忠次(さかゐたゞつぐ)に賜(たま)はつたのであるが此城(このしろ)を賜(たま)はるに就
に賜ふ て家康(いへやす)が忠次(たゞつぐ)に与(あた)へたと云ふ文書(ぶんしよ)は松平記(まつだひらき)に載(の)つて居(を)るものと治世元記(ぢせいもとき)に載(の)つて居(を)るものとは文句(もんく)に
多少(たせう)の相違(さうゐ)がある併(しか)し日付(ひづけ)は孰(いづ)れも前(まへ)に申述(もうしの)べた如く永禄(えいろく)七年六月廿二日 付(つけ)であるソウすると此(この)城(しろ)の
明渡(あけわたし)を以(もつ)て永禄(えいろく)八年であるとなすのは不合理(ふごうり)であるようであるが戦国時代(せんごくじだい)にあつては其(その)城(しろ)を取(と)る事(こと)を
予期(よき)してまだ之(これ)を取(と)り終(をは)らざる以前(いぜん)に其(その)授与(じゆよ)を家臣(かしん)に約(やく)したことは外(ほか)に例(れい)のない事ではないのでかゝる
文書(ぶんしよ)を俗(ぞく)宛文(あてぶみ)と称(せう)するそうであるが私(わたくし)は此時(このとき)家康(いへやす)が忠次(たゞつぐ)に与(あた)へた文書(ぶんしよ)の中(なか)に「到吉田小郷一円出置
候其上於入城者新知可申付」 云々(うんぬん)となる処などから考(かんが)へて之(これ)も矢張(やはり)其(その)類(るい)のものであると信(しん)ずる次第(しだい)で
ある松平記(まつだひらき)所載(しよさい)の文書(ぶんしよ)は其(その)全文(ぜんぶん)左(さ)の如(ごと)くである
吉田東三河之義申付候異見可仕候到吉田小郷一円出置候其上於入城者新知可申付之由来如承山中之
義可有所務之縦借銭等向候共不可有異議者也仍如件
永禄七甲子 蔵 人
六月廿二日 家 康
酒井左衛門尉殿
尚(な)ほ此処(こゝ)に御断(おことは)りして置(お)きたいのは前(まへ)に此(この)吉田城(よしだぜう)明渡(あけわたし)の時日に就(つい)て永禄(えいろく)八年 五(〇)月を正(たゞし)いように申上げ
て置いたのであるが之(これ)は全(まつた)く永禄(えいろく)八年 三(〇)月の誤(あやまり)で私の申違(もうしちが)ひである而(しか)して此説(このせつ)は藩翰譜(はんかんふ)元禄随筆(げんろくずゐしつ)三
河紀聞(かはきぶん)岡崎古記(をかざきこき)吉田城主考(よしだぜうしゆこう)等(とう)の説(せつ)であるから其事(そのこと)に御承知(ごせうち)を願(ねが)ひたいのである
【欄外】
豊橋市史談 (吉 田 合 戦) 八十一
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談 (吉田合戦) 八十
【本文】
前であるというのが普通行われる説であるが、よくよく考えてみると、この城攻めが五月の十四日に始まって二十日に片付いては余りに早すぎるようである。その上、二連木の戸田重貞は永禄七年十一月十二日吉田において戦死しているのである。しかしこれは戦死ではないように記したものもあるが、『寛政重修諸家譜』を初め比較的信ずべきものには多く戦死となっているのである。そうすると、この城攻めはまだその頃まで続いたものと思わねばならない。
また前章に申し述べた取替兵糧の書付の如きは、果たして当時のものであるか否や元より疑問ではあるが、若しこれを事実のものとすれば永禄八年二月のものであるから、その頃までは今川方において吉田城を保っていた事と見ねばならぬ。
一説にはこの城の明け渡しについては戸田丹波守が主に双方の間に立って斡旋の労を取ったものであるが、この丹波守というのは重貞を指したものでなくてはならぬ。従ってその結末は重貞死去以前の事であるべき道理であると言っている。勿論この論者は重貞の死を以て戦死でないとしているのであろうが、私はこの城明け渡しの斡旋者は重貞でなくてその父の宜光であると信ずるのである。前にも申し述べた如く宜光は多く永禄三年に死んだものとして伝えられてはいるが、その実は永禄十一年まで生存していたのであるから、重貞戦死の後、宜光の斡旋になったものであるとするのは強ち理のない説ではないと思う。その他以下に述べるような種々の事情から推測すると益々この城の明け渡しは永禄八年五月説が正しいように信ずるのである。
**合戦の結果** さて合戦結末の時日については右の如くであるが、戸田丹波守の外に本多彦八郎忠次等も鎮実に勧告して、結局城を明け渡させることとなったのである。然るに鎮実においては和議を取り結んで城を明け渡す事には異議がないが、その替りとして人質を得たいものであるという要求をしたのである。そこで徳川方においては家康の異父弟松平源三郎勝俊並びに酒井忠次の女阿風というのを人質として今川方に遣わすこととなって、これで
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千七百九十四号附録 (明治四十四年六月二十七日発行)
【本文】
**家康吉田城を酒井忠次に賜う** 一段落を告げ、城は全く家康の手に帰して、家康はこれを酒井忠次に賜ったのであるが、この城を賜うについて家康が忠次に与えたという文書は『松平記』に載っているものと『治世元記』に載っているものとは文句に多少の相違がある。しかし日付はいずれも前に申し述べた如く永禄七年六月二十二日付である。そうするとこの城の明け渡しを以て永禄八年であるとなすのは不合理であるようであるが、戦国時代にあってはその城を取ることを予期してまだこれを取り終らざる以前にその授与を家臣に約したことは外に例のない事ではないので、かかる文書を俗に宛文と称するそうであるが、私はこの時家康が忠次に与えた文書の中に「到吉田小郷一円出置候其上於入城者新知可申付」云々となる処などから考えて、これも矢張りその類のものであると信ずる次第である。『松平記』所載の文書はその全文左の如くである。
「吉田東三河之義申付候異見可仕候到吉田小郷一円出置候其上於入城者新知可申付之由来如承山中之義可有所務之縦借銭等向候共不可有異議者也仍如件
永禄七甲子 蔵人
六月廿二日 家康
酒井左衛門尉殿」
なお此処にお断りして置きたいのは、前にこの吉田城明け渡しの時日について永禄八年五月を正しいように申し上げて置いたのであるが、これは全く永禄八年三月の誤りで私の申し違いである。而してこの説は『藩翰譜』『元禄随筆』『三河紀聞』『岡崎古記』『吉田城主考』等の説であるから、その事にご承知を願いたいのである。
【欄外】
豊橋市史談 (吉田合戦) 八十一
英語訳
[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Yoshida) - 80
[Main Text]
...before that date is the commonly accepted theory, but when we consider it carefully, if this castle siege began on the fourteenth day of the fifth month and was concluded by the twentieth, it seems far too quick. Moreover, Toda Shigesada of Nirengi died in battle at Yoshida on the twelfth day of the eleventh month of Eiroku 7. While some records do not describe this as death in battle, most reliable sources including the "Kansei Chōshū Shokafu" record it as death in battle. Therefore, we must think that this castle siege continued until that time.
Also, regarding the food exchange documents mentioned in the previous chapter, while it is naturally questionable whether they are authentic documents from that time, if we accept them as factual, they date to the second month of Eiroku 8, which means the Imagawa side must have held Yoshida Castle until that time.
One theory states that regarding the surrender of this castle, Toda Tanba-no-kami primarily served as mediator between both sides, but this Tanba-no-kami must refer to Shigesada. Therefore, the conclusion should logically have occurred before Shigesada's death. Of course, this theorist probably does not consider Shigesada's death to be death in battle, but I believe that the mediator for this castle's surrender was not Shigesada but his father Yoshimitsu. As I mentioned earlier, while Yoshimitsu is widely believed to have died in Eiroku 3, he actually lived until Eiroku 11, so it is not unreasonable to say that Yoshimitsu's mediation occurred after Shigesada's death in battle. Considering various other circumstances that I will describe below, I increasingly believe that the Eiroku 8 fifth month theory for this castle's surrender is correct.
**Results of the Battle** Now, regarding the timing of the battle's conclusion as described above, besides Toda Tanba-no-kami, Honda Hikohachirō Tadatsugu and others also advised Shigezane, ultimately leading to the castle's surrender. However, Shigezane had no objection to concluding peace negotiations and surrendering the castle, but he demanded hostages in return. Therefore, the Tokugawa side decided to send Ieyasu's half-brother Matsudaira Genzaburō Katsutoshi and Sakai Tadatsugu's daughter Ofū as hostages to the Imagawa side, and with this...
[Left Page]
[Header] Sanyo Shimbun No. 3794 Supplement (Published June 27, Meiji 44)
[Main Text]
**Ieyasu Grants Yoshida Castle to Sakai Tadatsugu** ...the matter was settled, the castle completely came under Ieyasu's control, and Ieyasu granted it to Sakai Tadatsugu. However, regarding the document that Ieyasu gave to Tadatsugu when granting him this castle, there are some differences in wording between the version in the "Matsudaira-ki" and that in the "Jisei Motoki," but both are dated the twenty-second day of the sixth month of Eiroku 7 as I mentioned earlier. This would seem to make it unreasonable to date the castle's surrender to Eiroku 8, but in the Sengoku period, it was not uncommon to promise the grant of a castle to a retainer before actually completing its capture, anticipating its fall. Such documents are commonly called "atefumi" (preliminary grants). I believe that the document Ieyasu gave to Tadatsugu at this time, containing phrases like "I have stationed troops throughout the Yoshida area, and when the castle is entered, I will grant new lands," is also of this type. The complete text of the document in the "Matsudaira-ki" is as follows:
"I have ordered the administration of Yoshida and eastern Mikawa. You should provide counsel. I have stationed troops throughout the Yoshida area, and when the castle is entered, I will grant new lands as promised. You should carry out your duties in the mountains as before. Even if there are borrowed debts and such matters, there shall be no objection. Written accordingly.
Eiroku 7, Year of Wood-Rat Kurandō
Sixth month, 22nd day Ieyasu
To Sakai Saemon-no-jō-dono"
I must make a correction here: I previously stated that Eiroku 8, fifth month was correct for the timing of Yoshida Castle's surrender, but this was completely my error - it should be Eiroku 8, third month. This theory is found in the "Hankanfu," "Genroku Zuihitsu," "Mikawa Kibun," "Okazaki Koki," "Yoshida Jōshu-kō" and other works, so I ask for your understanding of this matter.
[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Yoshida) - 81