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【欄外】
豊橋市史談 (酒井忠次と東三河の諸士) 八十二
【本文】
◉酒井忠次と東三河の諸士
《割書:家康が家人|に城主を命》 前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べたような訳(わけ)で吉田の城は永禄(えいろく)八年三月 家康(いへやす)の有(ゆう)に帰(き)し家康(いへやす)は之(これ)を其(その)臣(しん)酒井忠次(さかゐたゞつぐ)に与(あた)へた
ぜし濫觴 が徳川実記(とくがはじつき)には此事(このこと)に就(つい)て「之(こ)れ当家(とうけ)の御家人(ごけにん)に始(はじめ)て城主を命(めい)ぜられたる濫觴(らんてう)とぞ」と書(か)いてある之(これ)よ
本多広孝 り先(さ)き家康(いへやす)は本多豊後守広孝(ほんだぶんごのかみひろたか)をして田原(たはら)の城(しろ)を攻(せ)めしめたのであるがこゝに至(いた)つて城兵(ぜうへい)力(ちから)尽(つ)きて矢張(やはり)
城(しろ)を明渡(あけわたし)たのである当時(とうじ)田原(たはら)の城(しろ)には今川氏の城代(ぜうだい)として朝比奈肥後守元智(あさひなひごのかみもととも)と云ふ人が居(を)つたのであ
るが此人(このひと)の寄附状(きふぜう)で永禄(えいろく)八年二月九日付のものが田原神明宮(たはらしんめいぐう)の神主(じんしゆ)金田氏の家(いへ)に遺(のこ)つて居(を)ると云ふ事
《割書:田原城明渡|し》 が戸田家系校正余録(とだかけいこうせいよろく)に書いてある果(はた)して然(しか)らば田原城(たはらぜう)の明渡(あけわたし)は其(その)以後(いご)の事でなくてはならぬ事(こと)になる
ので結局(けつきよく)田原城(たはらぜう)明渡(あけわた)しに続(つづ)いての事であると信(しん)ずる而(しか)して田原(たはら)の城(しろ)は勿論(もちろん)加治(かぢ)仁崎(にさき)などの砦(とりで)をも合(あは)せ
て此(この)本多広孝(ほんだひろたか)に賜(たまは)つたのであるが牛久保(うしくぼ)の牧野成定(まきのなりさだ)牧野定成(まきのさだしげ)等(ら)の一 統(とう)も亦(ま)た公然(こうぜん)家康(いへやす)に従(したが)ふ事となり
其他(そのた)東三河の諸士(しよし)は悉(こと〴〵)く之(これ)に帰(き)したので三河一国は茲(こゝ)に初(はじ)めて家康(いへやす)の統(とう)一する処となつたのであるソ
コで酒井忠次(さかゐたゞつぐ)は此(この)吉田城(よしだぜう)に根拠(こんきよ)を搆(かま)へ東三河に於(お)ける旗頭(はたがしら)となつて采配(さいはい)を揮(ふる)つたのであるが先(ま)づ此(この)吉(よし)
豊河の架橋 田城(だぜう)を修築(しうちく)して市区(しく)の整理(せいり)をも行(おこな)つた様子(やうす)であるそれのみならず初(はじ)めて橋(はし)を豊河(とよかは)に架(か)したので之(これ)は元(げん)
亀(き)元年(距去(いまをさる)三百四十二年)の事であると云ふ説(せつ)が正(たゞ)しい様(やう)に思(おも)ふ元亀(げんき)と云ふ年号(ねんごう)は諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の通
り永禄(えいろく)の次(つぎ)に当(あた)るので永禄(えいろく)が十二年 其(その)十三 年目(ねんめ)は即(すなは)ち元亀元年であるから此(この)架橋(かきよう)は忠次(たゞつぐ)が吉田城(よしだぜう)に来
つてから六年目に当(あた)るのである当時(とうじ)架橋(かきよう)の地点(ちてん)は今(いま)の関屋(せきや)の処から対岸(たいがん)の下地へ向(むか)つたもので此事(このこと)に
就ては宝暦(ほうれき)十年大字船町の記録(きろく)にも書(か)き遺(のこ)されて居(を)るのであるが御名誉聞書(ごめいよきゝがき)幷(ならび)に甲陽軍鑑(こうようぐんかん)には元亀二
年四月 甲斐(かひ)の武田信玄(たけだしんげん)が三河に攻(せ)め入(い)つて此(この)吉田城(よしだぜう)に攻(せ)め寄(よ)せた事が記(しる)されてある其(その)中(うち)御名誉聞書(ごめいよきゝがき)の
方には武田方(たけだがた)が土橋(どばし)まで進(すゝ)み来(きた)つたと云ふ事が書(か)いてあり又(ま)た甲陽軍鑑(こうようぐんかん)の方には武田勢(たけだぜい)が総軍(そうぐん)を以て
大手(おほて)へ押寄(おしよ)せ其(その)上(うえ)搦手(からめて)の方(ほう)へも回(まは)つた事が載(の)つて居るので之(これ)を子細(しさい)に対照(たいせう)して考(かんが)ゆると此(この)土橋(どばし)と云ふ
のは所謂(いはゆる)搦手(からめて)に当(あた)るので豊河(とよかは)の架橋(かきよう)を指(さ)したものに相違(さうゐ)なく信(しん)ずるのである、シテ見(み)ると忠次(たゞつぐ)が初め
て此(この)豊河(とよかは)に架(か)したのは土橋(どばし)であつて此(この)戦(たゝかひ)の以前(いぜん)既(すで)に出来上(できあが)つて居つたものでなくてはならぬから前(まへ)
に申述(もうしのべ)た如く此(この)架橋(かきよう)を以(もつ)て元亀元年とする説(せつ)は先ず(ま)づ当(あた)つて居(を)るとせねばならぬモツトモ此(この)甲陽軍鑑(こうようぐんかん)と
云ふ書物(しよもつ)は諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如く主(おも)に武田家(たけだけ)の兵法(へいほう)などを記(しる)したものであるが之(これ)を全然(ぜんぜん)信用(しんよう)することは如(ど)
何(う)であると思(おも)ふ併(しか)し前(まへ)の記事(きじ)に就ては御名誉聞書(ごめいよきゝがき)と対照(たいせう)して大(おほい)に参考(さんこう)となると信(しん)ずるから此処(こゝ)に申述
べた次第(しだい)である又(ま)た忠次(たゞつぐ)は頻(しき)りに此(この)地方(ちほう)の神社仏閣(じんしやぶつかく)を経営(けいえい)し之(これ)に寄進(きしん)したもので今尚(いまな)ほ其(その)棟札(むなふだ)寄付状(きふぜう)
《割書:忠次夫人寄|進の画像》 などの遺(のこ)つて居(を)るものが少(すくな)くない殊(こと)に龍拈寺(りうねんじ)の什物中(じうぶつちう)に忠次(たゞつぐ)の夫人(ふじん)から寄付(きふ)になつた其(その)母堂(ぼどう)の画像(ぐわぞう)が
ある之(これ)は中々(なか〳〵)面白(おもしろ)いもので大(おほい)に歴史(れきし)の参考(さんこう)となるものであると思(おも)ふが元来(がんらい)忠次(たゞつぐ)の夫人(ふじん)と云ふのは松平(まつだひら)
清康(きよやす)の女で広忠(ひろたゞ)の妹(いもと)であるから家康(いへやす)から云ふと叔母(おば)である世(よ)に光樹夫人(こうじゆふじん)と呼(よ)ばれた人であるが此(この)清康(きよやす)
と云ふ人(ひと)は三たび夫人(ふじん)が替(かは)つたので光樹夫人(こうじゆふじん)の母(はゝ)は果(はた)して其(その)何(いづ)れであるかゞ一寸(ちよつと)分(わか)らぬのである従(したがつ)
て此(この)画像(ぐわぞう)の主(ぬし)は今(いま)明言(めいげん)が出来(でき)ぬので後日(ごじつ)調査(てうさ)して之(これ)を明(あきらか)にする考(かんがへ)であるが兎(と)に角(かく)頗(すこぶ)る貴重(きちよう)のものであ
《割書:里村紹巴の|富士紀行》 る事を信(しん)ずるのである又(ま)た話(はなし)は少(すこ)し違(ちが)ふが例(れい)の連歌師(れんがし)に有名(ゆうめい)な里村紹巴(りそんそうは)と云ふ人がある此人(このひと)は慶長(けいてう)七
年四月七十九 歳(さい)で没(ぼつ)したが此人(このひと)の永禄十年に書(か)いたので富士紀行(ふじきこう)と云ふのがあつて之(これ)は京都(けうと)から富士(ふじ)
遊覧(ゆうらん)の為(ため)に東海道(とうかいどう)を下(くだ)つた時の紀行文(きこうぶん)である其(その)中(なか)には丁度(てうど)尾張(をはり)に戦争(せんそう)があつて兵火(へいくわ)天(てん)を焦(こ)がす如き処
を望(のぞ)むで通行(つうこう)したなどゝ云ふ事が書(か)いてあるので中々(なか〳〵)参考(さんこう)となるものであるが又(ま)た其中(そのなか)に此(この)吉田(よしだ)の事
を書(か)いた処がある即(すなは)ち「同国(どうこく)吉田(よしだ)と云ふ城主(ぜうしゆ)酒井左衛門尉(さかゐさゑもんのぜう)、 同臨川(どうりんせん)、 風呂(ふろ)に入(い)り山海(さんかい)の景(けい)二 階(かい)にて眺(なが)
【欄外】
豊橋市史談 (酒井忠次と東三河の諸士) 八十三
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談 (酒井忠次と東三河の諸士) 八十二
【本文】
◉酒井忠次と東三河の諸士
**家康が家人に城主を命ぜし濫觴** 前章に申し述べたような訳で吉田の城は永禄八年三月家康の有に帰し、家康はこれをその臣酒井忠次に与えたが、『徳川実記』にはこの事について「これ当家の御家人に始めて城主を命ぜられた濫觴とぞ」と書いてある。
**本多広孝** これより先き家康は本多豊後守広孝をして田原の城を攻めさせたのであるが、ここに至って城兵力尽きて矢張り城を明け渡したのである。当時田原の城には今川氏の城代として朝比奈肥後守元智という人がいたのであるが、この人の寄附状で永禄八年二月九日付のものが田原神明宮の神主金田氏の家に遺っていると云う事が『戸田家系校正余録』に書いてある。果たして然らば田原城の明け渡しはその以後の事でなくてはならない事になるので、結局田原城明け渡しに続いての事であると信ずる。
**田原城明け渡し** 而して田原の城は勿論加治仁崎などの砦をも合せてこの本多広孝に賜ったのであるが、牛久保の牧野成定牧野定成等の一統も亦た公然家康に従う事となり、その他東三河の諸士は悉くこれに帰したので三河一国は茲に初めて家康の統一する処となったのである。そこで酒井忠次はこの吉田城に根拠を構え東三河における旗頭となって采配を揮ったのであるが、先づこの吉田城を修築して市区の整理をも行った様子である。
**豊河の架橋** それのみならず初めて橋を豊河に架したので、これは元亀元年(今を去る三百四十二年)の事であると云う説が正しい様に思う。元亀という年号は諸君もご承知の通り永禄の次に当るので永禄が十二年、その十三年目は即ち元亀元年であるから、この架橋は忠次が吉田城に来てから六年目に当るのである。当時架橋の地点は今の関屋の処から対岸の下地へ向ったもので、この事については宝暦十年大字船町の記録にも書き遺されているのであるが、『御名誉聞書』並びに『甲陽軍鑑』には元亀二年四月甲斐の武田信玄が三河に攻め入ってこの吉田城に攻め寄せた事が記されてある。その中『御名誉聞書』の方には武田方が土橋まで進み来たという事が書いてあり、また『甲陽軍鑑』の方には武田勢が総軍を以て大手へ押寄せその上搦手の方へも回った事が載っているので、これを子細に対照して考えると、この土橋というのは所謂搦手に当るので豊河の架橋を指したものに相違ないと信ずるのである。してみると忠次が初めてこの豊河に架したのは土橋であって、この戦いの以前既に出来上っていたものでなくてはならぬから、前に申し述べた如くこの架橋を以て元亀元年とする説は先ず当っているとせねばならぬ。もっともこの『甲陽軍鑑』という書物は諸君もご承知の如く主に武田家の兵法などを記したものであるが、これを全然信用することは如何であると思う。しかし前の記事については『御名誉聞書』と対照して大いに参考となると信ずるから此処に申し述べた次第である。
また忠次は頻りにこの地方の神社仏閣を経営しこれに寄進したもので、今尚その棟札寄付状などの遺っているものが少なくない。
**忠次夫人寄進の画像** 殊に龍拈寺の什物中に忠次の夫人から寄付になったその母堂の画像がある。これは中々面白いもので大いに歴史の参考となるものであると思うが、元来忠次の夫人というのは松平清康の女で広忠の妹であるから家康から云うと叔母である。世に光樹夫人と呼ばれた人であるが、この清康という人は三たび夫人が替ったので光樹夫人の母は果してその何れであるかが一寸分らぬのである。従ってこの画像の主は今明言が出来ぬので後日調査してこれを明らかにする考であるが、兎に角頗る貴重のものである事を信ずるのである。
**里村紹巴の富士紀行** また話は少し違うが例の連歌師に有名な里村紹巴という人がある。この人は慶長七年四月七十九歳で没したが、この人の永禄十年に書いたので富士紀行というのがあって、これは京都から富士遊覧の為に東海道を下った時の紀行文である。その中には丁度尾張に戦争があって兵火天を焦がす如き処を望んで通行したなどという事が書いてあるので中々参考となるものであるが、また其中にこの吉田の事を書いた処がある。即ち「同国吉田という城主酒井左衛門尉、同臨川、風呂に入り山海の景二階にて眺
【欄外】
豊橋市史談 (酒井忠次と東三河の諸士) 八十三
英語訳
[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Sakai Tadatsugu and the Retainers of Eastern Mikawa) - 82
[Main Text]
◉Sakai Tadatsugu and the Retainers of Eastern Mikawa
**The Beginning of Ieyasu Appointing Retainers as Castle Lords** As explained in the previous chapter, Yoshida Castle came under Ieyasu's control in the third month of Eiroku 8, and Ieyasu granted it to his retainer Sakai Tadatsugu. The "Tokugawa Jitsuki" states regarding this matter: "This was the beginning of our house appointing retainers as castle lords for the first time."
**Honda Hirotaka** Before this, Ieyasu had Honda Bungo-no-kami Hirotaka attack Tahara Castle, and at this point the castle garrison's strength was exhausted and they likewise surrendered the castle. At that time, Asahina Higo-no-kami Mototomo served as the Imagawa clan's castle deputy at Tahara Castle, and according to the "Toda Family Genealogy Correction Supplement," a donation document by this person dated the ninth day of the second month of Eiroku 8 remains in the house of the Kanada family, who are the head priests of Tahara Shinmei Shrine. If this is indeed true, then Tahara Castle's surrender must have occurred after that date, so I believe it ultimately followed the surrender of Tahara Castle.
**Tahara Castle's Surrender** Tahara Castle, along with the fortresses of Kaji and Nisaki, was granted to Honda Hirotaka, but the Makino Narisada and Makino Sadashige group from Ushikubo also openly submitted to Ieyasu, and all other retainers of eastern Mikawa likewise submitted to him, so the entire province of Mikawa became unified under Ieyasu's control for the first time. Therefore, Sakai Tadatsugu established his base at Yoshida Castle, became the leader in eastern Mikawa, and exercised command. He first repaired Yoshida Castle and also organized the urban districts.
**Bridging the Toyo River** Moreover, he built the first bridge over the Toyo River, and I believe the theory that this occurred in the first year of Genki (342 years ago) is correct. As you all know, the Genki era followed Eiroku, so Eiroku lasted twelve years, and its thirteenth year was the first year of Genki, making this bridge construction the sixth year after Tadatsugu came to Yoshida Castle. The bridge location at that time went from the present Sekiya area to Shimoji on the opposite bank, and this is recorded in the Hōreki 10 records of Ōaza Funamachi. The "Gomeiyō Kikigaki" and "Kōyō Gunkan" record that in the fourth month of Genki 2, Takeda Shingen of Kai invaded Mikawa and attacked Yoshida Castle. The "Gomeiyō Kikigaki" states that the Takeda forces advanced as far as the earthen bridge, while the "Kōyō Gunkan" records that the Takeda forces attacked the main gate with their entire army and also circled around to the rear approach. Comparing these accounts carefully, I believe this "earthen bridge" refers to the so-called rear approach and undoubtedly indicates the bridge over the Toyo River. This suggests that what Tadatsugu first built over the Toyo River was an earthen bridge, which must have already been completed before this battle, so the theory dating this bridge construction to the first year of Genki must be considered correct. Of course, as you know, the "Kōyō Gunkan" primarily records Takeda military tactics, and I question whether it should be completely trusted. However, I believe the aforementioned account provides valuable reference when compared with the "Gomeiyō Kikigaki," which is why I mention it here.
Tadatsugu also frequently managed and donated to local shrines and temples, and many ridge plaques and donation documents from him still remain today.
**Portrait Donated by Tadatsugu's Wife** Particularly among the temple treasures of Ryūnen-ji is a portrait of Tadatsugu's wife's mother that was donated by his wife. This is quite interesting and I believe it provides valuable historical reference. Originally, Tadatsugu's wife was a daughter of Matsudaira Kiyoyasu and sister of Hirotada, making her Ieyasu's aunt. She was known as Lady Kōju, but since Kiyoyasu had three wives, it's unclear which one was Lady Kōju's mother. Therefore, I cannot definitively identify the subject of this portrait at present, but I plan to investigate this matter in the future to clarify it. In any case, I believe it is extremely valuable.
**Satomura Shōha's Fuji Travel Record** On a somewhat different topic, there was a famous renga poet named Satomura Shōha. He died in the fourth month of Keichō 7 at age 79, and he wrote something called "Fuji Kikō" in Eiroku 10, which is a travel record of his journey down the Tōkaidō from Kyoto to view Mt. Fuji. It contains accounts of passing through areas where warfare was occurring in Owari, with military fires scorching the sky, making it quite valuable as reference material. It also contains a passage about Yoshida: "In the same province, the lord of Yoshida Castle is Sakai Saemon-no-jō, at the same Rinsen, bathing and viewing the mountain and sea scenery from the second floor..."
[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Sakai Tadatsugu and the Retainers of Eastern Mikawa) - 83