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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 56

ページ: 56

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【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                 八十四 【本文】       め釣竿(つりさを)を取(と)り寄(よ)せ来(く)る湊(みなと)なれば味(あぢ)一入(ひとしほ)なり」と記(しる)してあるが文章(ぶんせう)は極(きは)めて簡短(かんたん)である併(しか)し当時(とうじ)に於け       る此地(このち)の状況(ぜうけう)が何(なん)となく窺(うかゞ)ひ知(し)られるように思(おも)はれるので当時(とうじ)既(すで)に此地(このち)は湊(みなと)として余程(よほど)繁盛(はんせい)の状態(ぜうたい)を        示(しめ)して居(を)つたものではなかろうかと思(おも)ふ又(ま)た之迄(これまで)度々(たび〳〵)申述(もうしの)べてある家忠日記(いへたゞにつき)と云ふ書物(しよもつ)は天正(てんせう)以後(いご)の       事を書(か)いたものであるが其中(そのなか)にも此(この)記者(きしや)たる家忠(いへたゞ)が数々(しば〳〵)吉田へ来(きた)つた事が載(の)つて居る殊(こと)に其中(そのなか)に「吉(よし)        田(だ)へ借銭納所(しやくせんのうしよ)へ人(ひと)をつかはし候」などゝ云ふ記事(きじ)がある即(すなは)ち其頃(そのころ)忠次(たゞつぐ)が東三河の旗頭(はたがしら)であつて此(この)城(しろ)が       東三の重鎮(ぢうちん)たりし有様(ありさま)が推察(すいさつ)さるゝように思(おも)はるゝのである 酒井氏系図  以上(いぜう)は忠次(たゞつぐ)が吉田在城(よしだざいぜう)の頃(ころ)に於ける状況(ぜうけう)の大要(だいえう)であるがサテ此処(こゝ)に忠次(たゞつぐ)の系図(けいづ)に就(つい)て少(すこ)しく御話(おはなし)して       置く必要(ひつえう)があると思(おも)ふ元来(がんらい)酒井氏(さかゐし)は徳川家(とくがはけ)に取(と)つては容易(ようい)ならぬ関係(くわんけい)のある家である併(しか)し徳川家の系(けい)        図(づ)と云ふものに就(つい)ては旧来(きうらい)疑問(ぎもん)であつて容易(ようい)に解決(かいけつ)する事は出来(でき)ぬのである従(したがつ)て酒井氏(さかゐし)の系図(けいづ)も同様(どうよう)       であるが旧来(きうらい)伝(つと)ふる処(ところ)によれば此(この)両家(れうけ)の関係(くわんけい)は先(ま)づコウである徳川氏(とくがはし)は元(も)と新田氏(につたし)で新田氏(につたし)と云ふの       は即(すなは)ち源義家(みなもとよしいへ)から出(い)でたのである義家(よしいへ)の子(こ)の義国(よしくに)が上野国(かうづけのくに)に居つて新田(につた)足利(あしかゞ)両邑(れうゆう)を領(れう)したが其子(そのこ)に        義重(よししげ)義康(よしやす)の二人があつて義重(よししげ)は新田(につた)の邑(ゆう)を領(れう)し義康(よしやす)は足利(あしかゞ)の邑(ゆう)を領(れう)した之(これ)が孰(いづ)れも新田(につた)足利(あしかゞ)両氏(れうし)の祖(そ)       である而(しか)して義重(よししげ)の第四子に義季(よしすへ)と云ふ人があつたが其(その)六 世(せい)の孫(そん)に有親(ありちか)と云ふ人があつて之(これ)が足利(あしかゞし)       の為(ため)に窮追(きうつひ)せられて遂(つひ)に三河に来(きた)つた其之(そのこ)に親氏(ちかうぢ)泰親(やすちか)の二人があつて親氏(ちかうぢ)は酒井家(さかゐけ)の養子(やうし)となり泰親(やすちか)       は松平家(まつだひらけ)の子(こ)となつたが之(これ)が酒井(さかゐ)松平(まつだひら)両家(れうけ)の祖(そ)となつたのであると云ふのが一 説(せつ)で之(これ)は日本外史(にほんぐわいし)にも        記(しる)されてある然(しか)るに他(た)の説(せつ)は親氏(ちかうぢ)と云ふ人が初(はじ)めて三河に来(きた)つたので初(はじ)め酒井家(さかゐけ)に入(い)つて男(だん)広親(ひろちか)を生(う)       み更(さら)に松平家(まつだひらけ)に入つて男(だん)泰親(やすちか)を生(う)むだのであると云つて居る尚(な)ほ藩翰譜(はんかんふ)などには酒井家(さかゐけ)に就(つい)ても異説(ゐせつ)       を並(なら)べて記(しる)してある如く何(いづ)れが確実(かくじつ)やら私共(わたくしども)では元(もと)より断定(だんてい)し兼(か)ぬるのである而(しか)して此(この)忠次(たゞつぐ)の家(いへ)に 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百号附録   ( 明治四十四年七月四日発行 ) 【本文】        就(つい)て寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)には左(さ)の如(ごと)くに載(の)せられてある         親氏二男        〇広 親《割書:徳太郎|小五郎》    氏 忠 小五郎     忠 勝《割書:小五郎|左衛門尉》                  政 親 雅樂頭の祖        康 忠《割書:小五郎|左衛門尉》   忠 親 左衛門尉    忠 善 左衛門尉                             忠 次《割書:小平次|小五郎》                                《割書:左衛門尉|    》        然(しか)るに此(この)系図(けいづ)が又た酒井雅樂頭(さかゐうたのかみ)の家(いへ)の系図(けいづ)とは符号(ふごう)せぬ点(てん)があるので之(これ)に就ては寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)にも        疑(うたがひ)が存(ぞん)してある次第(しだい)である        忠次(たゞつぐ)の系図(けいづ)に就(つい)ては先(ま)づザツト右(みぎ)の如(ごと)くであるが忠次(たゞつぐ)の兄(あに)忠善(たゞよし)の子に忠尚(たゞなほ)と云ふ人があつて此人(このひと)は徳(とく)        川氏(がはし)が今川方と離(はな)れて織田氏(をたし)と提携(ていけい)するのを危(あやぶ)むだので遂(つひ)に徳川氏に叛(そむ)いて駿河(するが)に奔(はし)るに至(いた)つたので       あるが忠次(たゞつぐ)は徳川氏に取(と)りては終始(しうし)一 貫(くわん)無(む)二の忠臣(ちうしん)で兄(あに)の家(いへ)が右(みぎ)の如(ごと)くであるから其(その)後(のち)を受(う)けて家(いへ)を        継(つ)いだのである而(しか)して忠次(たゞつぐ)は大永(たいえい)七年に生(うま)れ慶長(けいてう)元年(がんねん)十月 年(とし)七十で卒去(そつきよ)したので吉田城主(よしだぜうしゆ)となつたの       は恰(あたか)も其(その)三十九 歳(さい)の時に相当(さうとう)するのであるモツトモ忠次(たゞつぐ)の戦功(せんこう)に関(くわん)しては一々 茲(こゝ)に申述(もうしのぶ)るのは余(あま)り長(なが)       くなることであるから之(こ)れ以後(いご)の事柄(ことがら)は追々(おい〳〵)に其(その)時代(じだい)々々に当(あた)つて御話(おはなし)することに致(いた)したいと思(おも)ふが尚(な)ほ 《割書:東三河に於|ける諸士》   此処(こゝ)に東三河に於(お)ける諸士(しよし)の家(いへ)に就(つい)て稍々(やゝ)申述(もうしの)べて置(お)く必要(ひつえう)があると思(おも)ふ 戸田忠重  前(まへ)にも度々(たび〳〵)申述(もうしの)べた通(とほ)り吉田(よしだ)の城(しろ)に接近(せつきん)して二 連木(れんぎ)の城(しろ)があつたので此(この)二 連木(れんぎ)の戸田氏は爾来(じらい)酒井氏(さかゐし)       に属(ぞく)して徳川家(とくがはけ)の為(た)めに尽(つく)したのであるが前(まへ)に御話(おはなし)した戸田主殿助重貞(とだとのものすけしげさだ)は永禄(えいろく)七年十一月 吉田城下(よしだぜうか)の 【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                 八十五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                 八十四 【本文】 め釣竿を取り寄せ来る湊なれば味一入なり」と記してあるが、文章は極めて簡短である。しかし当時におけるこの地の状況が何となく窺い知られるように思われるので、当時既にこの地は湊として余程繁盛の状態を示していたものではなかろうかと思う。 また今まで度々申し述べてある『家忠日記』という書物は天正以後の事を書いたものであるが、その中にもこの記者たる家忠が数々吉田へ来た事が載っている。殊にその中に「吉田へ借銭納所へ人をつかはし候」などという記事がある。即ちその頃忠次が東三河の旗頭であって、この城が東三河の重鎮たりし有様が推察されるように思われるのである。 **酒井氏系図** 以上は忠次が吉田在城の頃における状況の大要であるが、さてここに忠次の系図について少しくお話しして置く必要があると思う。元来酒井氏は徳川家にとっては容易ならぬ関係のある家である。しかし徳川家の系図というものについては旧来疑問であって容易に解決する事は出来ぬのである。従って酒井氏の系図も同様であるが、旧来伝うる処によればこの両家の関係は先ずこうである。 徳川氏は元々新田氏で、新田氏というのは即ち源義家から出でたのである。義家の子の義国が上野国にいて新田足利両邑を領したが、その子に義重義康の二人があって義重は新田の邑を領し義康は足利の邑を領した。これがいずれも新田足利両氏の祖である。而して義重の第四子に義季という人があったが、その六世の孫に有親という人があって、これが足利氏のために窮追せられて遂に三河に来た。その子に親氏泰親の二人があって親氏は酒井家の養子となり泰親は松平家の子となったが、これが酒井松平両家の祖となったのであるという一説で、これは『日本外史』にも記されてある。 然るに他の説は親氏という人が初めて三河に来たので、初め酒井家に入って男広親を生み更に松平家に入って男泰親を生んだのであると云っている。尚『藩翰譜』などには酒井家についても異説を並べて記してある如く、いずれが確実やら私共では元より断定し兼ねるのである。而してこの忠次の家に 【欄外】 ○豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百号附録   ( 明治四十四年七月四日発行 ) 【本文】 について『寛政重修諸家譜』には左の如くに載せられてある 親氏二男  ○広親(徳太郎・小五郎) 氏忠(小五郎) 忠勝(小五郎・左衛門尉) 政親 雅楽頭の祖 康忠(小五郎・左衛門尉) 忠親(左衛門尉) 忠善(左衛門尉) 忠次(小平次・小五郎・左衛門尉) 然るにこの系図がまた酒井雅楽頭の家の系図とは符号せぬ点があるので、これについては『寛政重修諸家譜』にも疑いが存してある次第である。 忠次の系図については先ずざっと右の如くであるが、忠次の兄忠善の子に忠尚という人があって、この人は徳川氏が今川方と離れて織田氏と提携するのを危ぶむので遂に徳川氏に叛いて駿河に奔るに至ったのであるが、忠次は徳川氏にとりては終始一貫無二の忠臣で兄の家が右の如くであるからその後を受けて家を継いだのである。 而して忠次は大永七年に生れ慶長元年十月年七十で卒去したので、吉田城主となったのは恰もその三十九歳の時に相当するのである。もっとも忠次の戦功に関しては一々ここに申し述べるのは余り長くなることであるから、これ以後の事柄は追々にその時代々々に当って御話しすることに致したいと思うが、尚ここに東三河における諸士の家について稍々申し述べて置く必要があると思う。 **東三河における諸士** **戸田忠重** 前にも度々申し述べた通り吉田の城に接近して二連木の城があったので、この二連木の戸田氏は爾来酒井氏に属して徳川家のために尽したのであるが、前にお話しした戸田主殿助重貞は永禄七年十一月吉田城下の 【欄外】 豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                 八十五

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Sakai Tadatsugu and the Retainers of Eastern Mikawa) - 84 [Main Text] ...viewing [the scenery] and having fishing rods brought over, being a harbor, the taste is especially delightful." The writing is extremely brief, but it somehow allows us to glimpse the situation of this area at the time, so I believe this place was already showing considerable prosperity as a harbor by then. Also, the book called "Ieyasu Diary" (Ietada Diary) that I have mentioned repeatedly records events from the Tenshō era onward, and it contains many accounts of its author, Ietada, coming to Yoshida. Particularly, it includes entries such as "sent people to Yoshida for loan collection office matters." This suggests that Tadatsugu was the leader of eastern Mikawa at that time, and we can infer how this castle served as the stronghold of eastern Mikawa. **The Sakai Family Genealogy** The above represents the general situation during Tadatsugu's residence at Yoshida Castle, but I believe it necessary to discuss Tadatsugu's genealogy here. Originally, the Sakai family had an extraordinary relationship with the Tokugawa house. However, the Tokugawa family genealogy has long been questionable and cannot be easily resolved. Therefore, the Sakai family genealogy is similarly problematic, but according to traditional accounts, the relationship between these two families is roughly as follows: The Tokugawa clan originally belonged to the Nitta clan, which descended from Minamoto no Yoshiie. Yoshiie's son Yoshikuni resided in Kōzuke Province and controlled both Nitta and Ashikaga districts. He had two sons, Yoshishige and Yoshiyasu: Yoshishige controlled Nitta district and Yoshiyasu controlled Ashikaga district. These became the ancestors of both the Nitta and Ashikaga clans. Yoshishige had a fourth son named Yoshisue, whose sixth-generation descendant was named Arichika. He was pursued by the Ashikaga and finally came to Mikawa. His sons were Chikaoji and Yasuchika: Chikaoji became an adopted son of the Sakai family and Yasuchika became a son of the Matsudaira family, thus becoming the ancestors of both the Sakai and Matsudaira families. This theory is also recorded in the "Nihon Gaishi." However, another theory states that Chikaoji was the first to come to Mikawa, initially entering the Sakai family and producing a son named Hirochika, then entering the Matsudaira family and producing a son named Yasuchika. Furthermore, works like the "Hankanfu" present various alternative theories about the Sakai family, and we naturally cannot determine which is accurate. Regarding Tadatsugu's family line, the "Kansei Chōshū Shokafu" records the following: Chikaoji's second son: ○Hirochika (Tokutaro, Kogorō) - Ujitada (Kogorō) - Tadakatsu (Kogorō, Saemon-no-jō) Masachika - ancestor of Utano-kami Yasutada (Kogorō, Saemon-no-jō) - Tadachika (Saemon-no-jō) - Tadayoshi (Saemon-no-jō) Tadatsugu (Koheiji, Kogorō, Saemon-no-jō) However, this genealogy does not match that of the Sakai Utano-kami family at certain points, and the "Kansei Chōshū Shokafu" acknowledges these discrepancies. Regarding Tadatsugu's genealogy, this is roughly the situation. Tadatsugu's brother Tadayoshi had a son named Tadanao, who opposed the Tokugawa alliance with the Oda clan after breaking with the Imagawa, eventually rebelling against the Tokugawa and fleeing to Suruga. However, Tadatsugu remained a consistently loyal retainer to the Tokugawa throughout, and because of his brother's family situation, he inherited the family line. Tadatsugu was born in Taiei 7 and died in Keichō 1, tenth month, at age 70, so he became lord of Yoshida Castle at exactly age 39. While Tadatsugu's military achievements could be discussed extensively, it would be too lengthy to detail them all here, so I plan to discuss subsequent events chronologically in their respective periods. However, I believe it necessary to discuss the families of the various retainers in eastern Mikawa here. **The Retainers of Eastern Mikawa** **Toda Tadashige** As I have mentioned repeatedly, Nirengi Castle was located near Yoshida Castle, and the Toda clan of Nirengi subsequently served under the Sakai clan and devoted themselves to the Tokugawa house. The previously mentioned Toda Tonomo-no-suke Shigesada, in the eleventh month of Eiroku 7, at Yoshida Castle town... [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Sakai Tadatsugu and the Retainers of Eastern Mikawa) - 85