Code4Lib JAPAN ✕ みんなで翻刻

コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 57

ページ: 57

翻刻

【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                 八十六 【本文】        戦(たゝかひ)に打死(うちじに)したので其(その)当時(とうじ)は父(ちゝ)の宜光(よしみつ)はまだ生存(せいぞん)して居(を)つたが結局(けつきよく)重貞(しげさだ)の後(あと)は弟(おとゝ)の忠重(たゞしげ)が継(つ)いだので       ある此人(このひと)は初(はじ)め甚平(じんぺい)後(のち)に弾正(だんぜう)と称(せう)したが永禄(えいろく)十年五月廿五日二 連木(れんぎ)に於て没(ぼつ)したので其子(そのこ)の虎千代(とらちよ)が 戸田康長   後(あと)を継(つ)いだのである此(この)虎千代(とらちよ)は後(のち)に康長(やすなが)と称(せう)し丹波守(たんばのか)と云つたが家康(いへやす)から特(とく)に松平(まつだひら)の姓(せい)を賜(たまは)つたので       ある然(しか)るに相続(さうぞく)の当時(とうじ)はまだ六歳であつたので戸田伝(とだでん)十 郎吉国(らうよしくに)が陣代(ぢんだい)の役(やく)を勤(つと)めて此(この)康長(やすなが)を補佐(ほさ)して        居(を)つたのである蓋(けだ)し此(この)康長(やすなが)は多(おほ)くのものに忠重(たゞしげ)の子(こ)であると記(しる)してあるが実(じつ)は重貞(しげさだ)の子で重貞(しげさだ)戦死(せんし)の       時はまだ生(うま)れなかつたものであるとの説(せつ)がある之(これ)は戸田家系校正余録(とだかけいこうせいよろく)の説(せつ)であるが甚(はなは)だ耳新(みゝあたら)しい説(せつ)であ       るから申添(もうしそ)へて置(お)きたいと思(おも)ふ尚(な)ほ此処(こゝ)に御話(おはなし)したいのは維新前(ゐしんぜん)大垣(おほがき)の藩主(はんしゆ)であられた今(いま)の戸田伯爵(とだはくしやく)        家(け)祖先(そせん)の事である此(この)家(いへ)は一西(かづあき)と云ふ人を以(もつ)て中興(ちうこう)の祖(そ)として居(を)るが寛政重修諸家譜(かんせいちようしうしよかふ)には一西(かづあき)の祖父(そふ)氏(うぢ) 戸田氏輝   輝(てる)から系図(けいづ)が起(おこ)してある此(この)氏輝(うじてる)と云ふ人は新(しん)二 郎(らう)又(ま)た孫右衛門(まごうゑもん)と称(とな)へ享禄(けうろく)二年から松平清康(まつだひらきよやす)に仕(つか)へ後(のち)       に至(いた)つて広忠(ひろたゞ)にも仕(つか)へたのである弘治(こうぢ)三年七月六十五歳で没(ぼつ)したのであるが戸田宗光(とだむねみつ)四世の孫(そん)である       と伝え(つた)へられて居る何分(なにぶん)にも古(ふる)く吉田(よしだ)に於(おい)て火災(くわさい)に罹(か)つて系図(けいづ)類(るい)を悉(こと〴〵)く失(うしな)つたから寛政重修諸家譜(かんせいちようしうしよかふ)に 戸田氏光  も詳(くは)しく分(わか)り難(がた)いと記(しる)してあるが此人(このひと)の子の吉兵衛氏光(きちべゑうぢみつ)と云ふ人は永禄(えいろく)七年 家康(いへやす)が此(この)吉田城(よしだぜう)を攻(せ)む       るに当(あた)つて其(その)母(はゝ)が今川方に質(しち)となつて城中(ぜうちう)にあるにも拘(かゝは)らず累世(るいせ)の恩義(おんぎ)を重(をも)むじて力(ちから)を徳川方に尽(つく)し        其(その)後(のち)も屡々(しば〳〵)戦場(せんぜう)に臨(のぞ)むで凡(およ)そ三十六所に疵(きづ)を被(かうむ)るに至(いた)つたとの事である天正(てんせう)十五年(或(あるひ)は十七年とも 戸田一西  云ふ)九月八日に年(とし)七十五で没(ぼつ)したが其子(そのこ)が即(すなは)ち一西(かづあき)である此(この)一西(かづあき)と云ふ人は初(はじ)め政成(まさなり)、 信世(のぶよ)、 康次(やすつぐ)       などゝ名乗(なの)り又(ま)た新二郎、十 兵衛(べゑ)、 左門(さもん)、 采女正(うねめせう)と称(とな)へ天文(てんぶん)十年 此(この)吉田(よしだ)に於(おい)て生(うま)れたのである徳川氏(とくがはし)       の為(ため)には頗(すこぶ)る戦功(せんこう)のあつた人で最後(さいご)に近江国(あふみのくに)膳所(ぜぜ)に城(きづ)いて之(これ)に居(を)り三万石を領(れう)したが慶長(けいてう)八年七月廿       五日六十二 歳(さい)で卒去(そつきよ)したのである然(しか)るにズツト前章(ぜんせう)に申述べて置いた通(とほ)り牧野傳蔵信成(まきのでんぞうのぶしげ)が松平清康(まつだひらきよやす)の 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【本文】        為(ため)に敗亡(はいぼう)した時 其(その)弟(おとゝ)に新次(しんじ)、 新蔵(しんぞう)と云ふのがあつて新次(しんじ)は牛久保(うしくぼ)に退(しりぞ)いたが新蔵(しんぞう)は八名郡(やなぐん)赤岩(あかいわ)の法言(ほうげん)        寺(じ)に逃(のが)れて後(のち)に戸田氏を継(つ)ぎ戸田左門(とださもん)と云ふたとの事を書(か)いたものがある戸田左門(とださもん)と云へば此(この)一西(かづあき)の       事に当(あた)るのであるが併(しか)し此(この)説(せつ)は到底(とうてい)取(と)るに足(た)らぬ説(せつ)であると思(おも)ふ時代(じだい)も合(は)はず其他(そのた)反証(はんせう)もあつて前(まへ)に 牧新兵衛   御話(おはなし)した如(ごと)く藩翰譜(はんかんふ)にも論評(ろんひよう)がある通(とほ)りである只(た)だ此(この)戸田氏(とだし)は代々(だい〴〵)幼名(ようめよう)を新(しん)二 郎(らう)と称(とな)へた事と氏光(うぢみつ)の        弟(おとゝ)氏好(うぢよし)が牧新兵衛(まきしんべゑ)と称(とな)へて子孫(しそん)が宗家(そうけ)の家臣(かしん)となつた事などから引(ひ)き付(つ)けて右(みぎ)の様(よう)な伝説(でんせつ)が起(おこ)つたも       のではなかろうか兎(と)に角(かく)此(この)伝説(でんせつ)は法言寺(ほうげんじ)なとには今(いま)尚ほ伝(つた)はつて居(を)るのであるから一 言(げん)付加(ふか)して置(お)き       たいと思(おも)ふ此(この)一西(かづあき)の事に就(つい)てはまだ御話(おはなし)したい事もあるが追々(おい〳〵)に申述(もうしの)ぶる事としてサテ当時(とうじ)牛久保(うしくぼ)の 《割書:牛久保に於|ける牧野党》   方(ほう)は如何(どう)であつたかと云ふに之(こ)れ亦(ま)た前章(ぜんせう)に度々(たび〳〵)申述(もうしの)べた如く長岡牧野家(ながをかまきのけ)の祖(そ)、 成定(なりさだ)と田邊牧野家(たなべまきのけ)の        祖(そ)、 定成(さだしげ)とが其(その)主(おも)なるもので 成定(なりさだ)は既(すで)に吉田(よしだ)合戦(がつせん)の当時(とうじ)から竊(ひそか)に欵(かん)を徳川氏に通(つう)じて居つた様子(ようす)に信(しん)       ぜられるが而(しか)して吉田城(よしだぜう)明渡(あけわたし)後(ご)は両家(れうけ)共(とも)に公然(こうぜん)徳川方(とくがはがた)に属(ぞく)するに至(いた)つたのである成定(なりさだ)は初(はじ)め新次郎(しんじらう)と       云ひ後(のち)に民部丞(みんぶのぜう)又は右馬允(うまのぜう)と云つたが頗(すこぶ)る勢力(せいりよく)のあつたもので牧野党(まきのとう)の領袖(りようしゆ)であつた然(しか)るに永禄(えいろく)九年 《割書:牧野成定の|墳墓》  十月廿三日 牛久保(うしくぼ)に於て年(とし)四十二で卒去(そつきよ)したのである今(いま)も其(その)墳(つか)が牛久保(うしくぼ)の光輝庵(こうきあん)の裏手(うらで)にあるモツト       モ成定(なりさだ)の墓(はか)は上州(ぜうしう)大胡(おほご)の養林寺(やうりんじ)と云ふにもあると云ふ事であるが之(これ)は恐(おそら)くは天正(てんせう)十八年 牧野家(まきのけ)が大胡(おほご)       に封(ほう)ぜられてから後(のち)に移(うつ)されたもので事実(じじつ)に葬(ほうむ)られたのは此(この)牛久保(うしくぼ)であるに相違(さうゐ)ない光輝庵(こうきあん)の墓表(ぼひよう)は        貞享(ていけう)元年其三世の孫女(そんぢよ)の建(た)てられたもので松(まつ)の大木(たいぼく)も残(のこ)つて居る然(しか)るに此(この)成定(なりさだ)卒去(そつきよ)の後(のち)遺領(ゐりよう)の争(あらそひ)が 《割書:牧野新次郎|康成》  あつた様子(やうす)で之(これ)は前(まへ)に申述(もうしの)べた出羽守保成(ではのかみやすしげ)の子(こ)出羽守成元(ではのかみなりもと)から起(おこ)つた訴訟(そせう)であるが結局(けつきよく)家康(いへやす)の裁断(さいだん)で        成定(なりさだ)の子(こ)新次郎康成(しんじらうやすなり)が之(これ)を続(つ)いだのである此時(このとき)水野下野守信元(みずのしもつけのかみのぶもと)から贈(おく)つた文書(ぶんしよ)が今(いま)も長岡牧野家(ながをかまきのけ)に保(ほ)        存(ぞん)されて居るが其中(そのなか)に「就其出羽殿父子従何方帰宅有度之由訴訟候共云々」と云ふ事が書(か)いてあるので 【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                 八十七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                 八十六 【本文】 戦いに打ち死にしたので、その当時は父の宜光はまだ生存していたが、結局重貞の後は弟の忠重が継いだのである。この人は初め甚平、後に弾正と称したが、永禄十年五月二十五日二連木において没したので、その子の虎千代が後を継いだのである。 **戸田康長** この虎千代は後に康長と称し丹波守といったが、家康から特に松平の姓を賜ったのである。然るに相続の当時はまだ六歳であったので、戸田伝十郎吉国が陣代の役を勤めてこの康長を補佐していたのである。蓋しこの康長は多くのものに忠重の子であると記してあるが、実は重貞の子で重貞戦死の時はまだ生まれなかったものであるとの説がある。これは『戸田家系校正余録』の説であるが、甚だ耳新しい説であるから申し添えて置きたいと思う。 尚ここでお話ししたいのは維新前大垣の藩主であられた今の戸田伯爵家祖先の事である。この家は一西という人を以って中興の祖としているが、『寛政重修諸家譜』には一西の祖父氏輝から系図が起こしてある。 **戸田氏輝** この氏輝という人は新二郎又た孫右衛門と称へ、享禄二年から松平清康に仕え、後に至って広忠にも仕えたのである。弘治三年七月六十五歳で没したのであるが、戸田宗光四世の孫であると伝えられている。何分にも古く吉田において火災に罹って系図類を悉く失ったから、『寛政重修諸家譜』にも詳しく分かり難いと記してある。 **戸田氏光** この人の子の吉兵衛氏光という人は、永禄七年家康がこの吉田城を攻むるに当たって、その母が今川方に質となって城中にあるにも拘らず、累世の恩義を重んじて力を徳川方に尽くし、その後も屡々戦場に臨んで凡そ三十六所に疵を被るに至ったとの事である。天正十五年(或いは十七年とも云う)九月八日に年七十五で没したが、その子が即ち一西である。 **戸田一西** この一西という人は初め政成、信世、康次などと名乗り、また新二郎、十兵衛、左門、采女正と称へ、天文十年この吉田において生まれたのである。徳川氏のためには頗る戦功のあった人で、最後に近江国膳所に城いてこれに居り三万石を領したが、慶長八年七月二十五日六十二歳で卒去したのである。 然るにずっと前章に申し述べて置いた通り、牧野傳蔵信成が松平清康の 【欄外】 ○豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【本文】 ために敗亡した時、その弟に新次、新蔵というのがあって、新次は牛久保に退いたが、新蔵は八名郡赤岩の法言寺に逃れて後に戸田氏を継ぎ戸田左門といったとの事を書いたものがある。戸田左門といえばこの一西の事に当たるのであるが、しかしこの説は到底取るに足らぬ説であると思う。時代も合わず、その他反証もあって、前にお話しした如く『藩翰譜』にも論評がある通りである。 **牧新兵衛** ただこの戸田氏は代々幼名を新二郎と称へた事と、氏光の弟氏好が牧新兵衛と称へて子孫が宗家の家臣となった事などから引き付けて右の様な伝説が起ったものではなかろうか。兎に角この伝説は法言寺なとには今尚お伝わっているのであるから一言付加して置きたいと思う。この一西の事については まだお話ししたい事もあるが、追々に申し述べる事として、さて当時牛久保の **牛久保における牧野党** 方はどうであったかというに、これまた前章に度々申し述べた如く、長岡牧野家の祖、成定と田辺牧野家の祖、定成とがその主なるもので、成定は既に吉田合戦の当時から窃かに款を徳川氏に通じていた様子に信じられるが、而して吉田城明渡し後は両家共に公然徳川方に属するに至ったのである。成定は初め新次郎といい、後に民部丞又は右馬允といったが、頗る勢力のあったもので牧野党の領袖であった。然るに永禄九年十月二十三日牛久保において年四十二で卒去したのである。 **牧野成定の墳墓** 今もその墳が牛久保の光輝庵の裏手にある。もっとも成定の墓は上州大胡の養林寺というにもあるという事であるが、これは恐らくは天正十八年牧野家が大胡に封ぜられてから後に移されたもので、事実に葬られたのはこの牛久保であるに相違ない。光輝庵の墓表は貞享元年その三世の孫女の建てられたもので、松の大木も残っている。然るにこの成定卒去の後、遺領の争いがあった様子で、これは前に申し述べた出羽守保成の子出羽守成元から起った訴訟であるが、結局家康の裁断で成定の子新次郎康成がこれを続いだのである。 **牧野新次郎康成** この時水野下野守信元から贈った文書が今も長岡牧野家に保存されているが、その中に「就其出羽殿父子従何方帰宅有度之由訴訟候共云々」という事が書いてあるので 【欄外】 豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                 八十七

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Sakai Tadatsugu and the Retainers of Eastern Mikawa) - 86 [Main Text] died in battle, so at that time his father Yoshimitsu was still alive, but ultimately Shigesada's position was succeeded by his younger brother Tadashige. This person was initially called Jinpei, later Danjō, but died at Nirengi on the twenty-fifth day of the fifth month of Eiroku 10, so his son Torachiyo succeeded him. **Toda Yasunaga** This Torachiyo later took the name Yasunaga and was called Tamba-no-kami, and was specially granted the Matsudaira surname by Ieyasu. However, at the time of succession he was only six years old, so Toda Den'jūrō Yoshikuni served as deputy commander (jindai) and assisted Yasunaga. Most sources record that Yasunaga was Tadashige's son, but there is a theory that he was actually Shigesada's son and had not yet been born at the time of Shigesada's death in battle. This is the theory of the "Toda Family Genealogy Correction Supplement" (Toda Kakei Kōsei Yoroku), which is quite a novel theory that I would like to mention. What I would like to discuss here is the ancestors of the current Count Toda family, who were lords of Ōgaki before the Meiji Restoration. This family considers Kazuaki as their restoration ancestor, and the "Kansei Chōshū Shokafu" begins the genealogy from Kazuaki's grandfather Ujiteru. **Toda Ujiteru** This Ujiteru was called Shinjirō or Magoemon, served Matsudaira Kiyoyasu from Kyōroku 2, and later also served Hirotada. He died in the seventh month of Kōji 3 at age sixty-five, and is said to have been the fourth-generation descendant of Toda Munemitsu. Since ancient records were completely lost in a fire at Yoshida long ago, the "Kansei Chōshū Shokafu" notes that details are difficult to ascertain. **Toda Ujimitsu** This person's son, Kichibei Ujimitsu, when Ieyasu attacked Yoshida Castle in Eiroku 7, despite his mother being held hostage by the Imagawa forces within the castle, devoted his strength to the Tokugawa side out of respect for generations of obligations, and subsequently faced numerous battlefields, reportedly sustaining wounds in about thirty-six places. He died on the eighth day of the ninth month of Tenshō 15 (or possibly 17) at age seventy-five, and his son was Kazuaki. **Toda Kazuaki** This Kazuaki initially took names such as Masanari, Nobuyo, and Yasutugu, and was also called Shinjirō, Jūbei, Samon, and Uneme-no-shō. He was born at Yoshida in Tenbun 10. He had considerable military achievements for the Tokugawa clan, and finally established a castle at Zeze in Ōmi Province where he resided and controlled 30,000 koku, but died on the twenty-fifth day of the seventh month of Keichō 8 at age sixty-two. However, as I mentioned much earlier, when Makino Denzō Nobushige was defeated serving Matsudaira Kiyoyasu... [Margin Note] ○Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling Toyohashi city history for over a year, and now his manuscript is nearly complete... [Left Page] [Main Text] ...there were his younger brothers named Shinji and Shinzō. Shinji retreated to Ushikubo, but Shinzō fled to Hōgen Temple at Akaiwa in Yana District and later succeeded the Toda clan, calling himself Toda Samon. Toda Samon would correspond to this Kazuaki, but I believe this theory is completely unreliable. The timeline doesn't match, and there is other contradicting evidence, as discussed in the "Hankanfu" as I mentioned before. **Maki Shinbei** It's possible that such legends arose from the fact that the Toda clan traditionally used the childhood name Shinjirō and that Ujimitsu's younger brother Ujiyoshi called himself Maki Shinbei, whose descendants became retainers of the main family. In any case, since this legend is still transmitted at places like Hōgen Temple, I wanted to add a word about it. There are still more things I'd like to discuss about Kazuaki, but I'll mention them gradually. Now, what was the situation at Ushikubo at that time? **The Makino Party at Ushikubo** As I have repeatedly mentioned in previous chapters, the main figures were Narisada, ancestor of the Nagaoka Makino family, and Sadashige, ancestor of the Tanabe Makino family. Narisada is believed to have secretly communicated with the Tokugawa clan even during the Battle of Yoshida, and after the surrender of Yoshida Castle, both families openly joined the Tokugawa side. Narisada was initially called Shinjirō, later Minbu-no-jō or Uma-no-jō, and was quite powerful as the leader of the Makino party. However, he died at Ushikubo on the twenty-third day of the tenth month of Eiroku 9 at age forty-two. **The Tomb of Makino Narisada** His grave still exists behind Kōki-an at Ushikubo. Although Narisada's tomb is also said to be at Yōrin Temple in Ōgo, Jōshū Province, this was probably moved there after the Makino family was enfeoffed at Ōgo in Tenshō 18, and he was actually buried at Ushikubo. The tombstone at Kōki-an was erected by his third-generation granddaughter in Jōkyō 1, and large pine trees still remain. However, after Narisada's death, there appears to have been a dispute over the inheritance, which was a lawsuit initiated by Dewa-no-kami Narimoto, son of the previously mentioned Dewa-no-kami Yasushige, but ultimately Narisada's son Shinjirō Yasunari succeeded through Ieyasu's judgment. **Makino Shinjirō Yasunari** A document sent by Mizuno Shimotsuke-no-kami Nobumoto at this time is still preserved in the Nagaoka Makino family, and it contains the passage "Concerning the matter of Dewa-dono father and son's lawsuit about returning home from somewhere, etc." [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Sakai Tadatsugu and the Retainers of Eastern Mikawa) - 87