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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 58

ページ: 58

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【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                 八十八 【本文】        先(さ)きに御話(おはなし)した出羽守保成(ではのかみやすなり)は牛久保原(うしくぼはら)の合戦(かつせん)で打死(うちじに)したものでなくまだ生存(せいぞん)して居(を)つたものであると       云ふ説(せつ)をなすものがあるが之(これ)は其(その)文書(ぶんしよ)をヨク〳〵翫味(ぎんみ)すれば決(けつ)してソウ云ふ訳(わけ)でない事が分(わか)る即ち此       出羽殿父子と云ふのは出羽守成元(ではのかみなりもと)と及び其子を指(さ)したものであると信(しん)ずる併(しか)し此事(このこと)は余(あま)り本市史(ほんしし)には        関係(くわんけい)が少(すくな)いからこの位(くらゐ)で止(と)めて置(お)きたいと思(おも)ふ次(つぎ)に田邉牧野家(たなべまきのけ)の祖(そ)定成(さだしげ)の話(はなし)であるが此人(このひと)は前(まへ)にも申(もう)        述(しのべ)た如く同家(どうけ)の系譜(けいふ)に古白(こはく)の孫(そん)と記(しる)してある而(しか)して古河系図(ふるかはけいづ)に拠(よ)ると松平清康(まつだひらきよやす)が吉田城(よしだぜう)を攻(せ)めて牧野(まきの)        傳蔵信成(でんぞうのぶしげ)等(ら)が戦死(せんし)した時(とき)定成(さだしげ)は吉田城軍(よしだぜうぐん)の中(なか)にあつて創(きづ)を被(かうむ)り古河村(ふるかはむら)(《割書:今の大村|付近》)辺(へん)まで退(しりぞ)いたが此時(このとき)古(ふる)        河家(かはけ)の祖先(そせん)古河勝通(ふるかはかつみち)と云ふ人が之(これ)を援(たす)けて牛久保城(うしくぼぜう)に入(い)れたとのことである爾来(じらい)此(この)勝通(かつみち)は定成(さだしげ)に属(ぞく)して        家臣(かしん)同様(どうやう)になつたのである定成(さだしげ)は初(はじ)めは八 太夫(たゆう)と称(せう)し後(のち)に山城守(やましろのかみ)と云つたが之れ亦(ま)た牛久保(うしくぼ)に於(おい)て錚々(そう〳〵) 《割書:牧野惣次郎|康成》  たるものとなつたのである此人(このひと)は天正(てんせう)元年(がんねん)八月十三日に没(ぼつ)し其(その)子(こ)の康成(やすしげ)と云ふのは初(はじ)め惣次郎(そうじらう)半右衛(はんうゑ)        門(もん)後(のち)に讃岐守(さぬきのかみ)と云つたので頗(すこぶ)る武勇(ぶゆう)の人であつた即(すなは)ち永禄(えいろく)八年に父(ちゝ)と共(とも)に徳川氏(とくがはし)に属(ぞく)し爾来(じらい)戸田康長(とだやすなが) 過銭の茶壺  牧野新次郎康成(まきのしんじらうやすなり)等(ら)と共(とも)に数(しば〳〵)の戦功(せんこう)を尽(つく)したのであるが此人(このひと)に就(つい)ては一つ面白(おもしろ)い話(はなし)があるそれはズツト        晩年(ばんねん)の事であるが嘗(かつ)て高価(こうか)の茶壷(ちやつぼ)を買入(かひい)れたのを豊太閤(ほうたいこう)が聴(き)き込(こ)まれて一つには欽羨(きんせん)の余(あま)り戯(たはむ)れにか       ゝる翫物(がんぶつ)に高価(こうか)を払(はら)ふのは益(えき)もないことであるから過銭(くわせん)として黄金(おうごん)一 枚(まい)を出(だ)して罪(つみ)を贖(あがな)へと云はれて遂(つひ)       に過料(くわりよう)を取(と)られたのである其後(そのご)数々(しば〳〵)家康(いへやす)が此事(このこと)を話(はな)し出(だ)しては笑(わら)ひ興(けう)じたとの事で今(いま)も其(その)壷(つぼ)は田邉牧(たなべまき)        野家(のけ)に蔵(ぞう)せられて過銭(くわせん)の茶壷(ちやつぼ)と名(な)づけられて居(を)るのである而(しか)して当時(とうじ)牛久保(うしくぼ)の牧野氏(まきのし)には前述(ぜんじゆつ)の如く        同時代(どうじだい)に同(おな)じ名乗(なのり)の人やよく似(に)た名前(なまへ)の人があつたのである即(すなは)ち長岡牧野家(ながをかまきのけ)に於ては貞成(さだなり)、 成定(なりさだ)、 康(やす)        成(なり)と続(つゞ)いて此(この)康成(やすなり)も初(はじ)めは祖父(そふ)と同(おな)じく貞成(さだなり)と云つた而(しか)も田邉牧野家(たなべまきのけ)に於ても定成(さだしげ)、 康成(やすしげ)と続(つゞ)いたの 金扇馬標  であるから間々(まゝ)その事蹟(じせき)の混淆(こんこう)されて居る事があると思(おも)はれる現(げん)に家康(いへやす)の馬標(うまじるし)たる金扇(きんせん)の出所(でどころ)に就(つい)ても 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百六号附録   ( 明治四十四年七月十一日発行 ) 【本文】        種々(しゆ〳〵)な説(せつ)があるので頗(すこぶ)る惑(まどひ)を生(せう)ずるのである此(この)金扇(きんせん)の事に就(つい)て牛久保密談記(うしくぼみつだんき)には前後(ぜんご)二ケ所(しよ)に記(しる)され       てあるので最初(さいしよ)には永禄(えいろく)八年 家康(いへやす)が吉田城(よしだぜう)を攻(せ)めた時 下地(しもぢ)の聖眼寺(せうげんじ)に休憩(きうけい)したのであるが其(その)時(とき)成定(なりさだ)は        家康(いへやす)に属(ぞく)してから初(はじ)めての軍(いくさ)であるから一 手抦(てがら)なくてはとて聖徳太子(せうとくたいし)の尊前(そんぜん)で祈念(きねん)して金扇(きんせん)二 本(ほん)を籠(こ)       め置(お)いて退(しりぞ)いたが此事(このこと)は誰(だれ)も知(し)るものがなく後(のち)に至(いた)つて寺僧(じそう)が此(この)金扇(きんせん)を発見(はつけん)して家康(いへやす)に告(つ)げたので不(ふ)        思儀(しぎ)の事である吉兆(きつちよう)だと云ふので此時(このとき)から家康(いへやす)は之(これ)を馬標(うまじるし)に用(もち)ゆる事となつた又(ま)た成定(なりさだ)は家康(いへやす)の命(めい)で        小原鎮実(をはらしげさね)に城(しろ)の明渡(あけわた)しを交渉(こうせう)して大(だい)なる手抦(てがら)を現(あら)はしたのであると書(か)いてあるが前(まへ)にも申述(もうしの)ぶる如く        当時(とうじ)成定(なりさだ)は裏面(りめん)は兎(と)に角(かく)表向(おもてむ)きはまだ今川方であつたのであるからドウモ此(この)記事(きじ)には疑(うたがひ)なき事(こと)能(あた)は       ずであ■併(しか)し乍(なが)ら此時(このとき)扇(あふぎ)の吉兆(きちちよう)があつて家康(いへやす)が此(この)戦(たゝかひ)に金扇(きんせん)を以(もつ)て採配(さいはい)の代(かは)りとなしたと云ふ事は徳(とく) 《割書:徳川家の具|足祝日》   川家(がはけ)にも伝(つた)へられて居る説(せつ)で朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)にも之(これ)が廿日の日であつたから爾来(じらい)家康(いへやす)は廿日を以(もつ)て具足(ぐそく)        祝(いはひ)の日(ひ)と定(さだ)められたと記(しる)してあるシテ見(み)れば当時(とうじ)成定(なりさだ)は既(すで)に欵(くわん)を家康(いへやす)に通(つう)ぜる場合(ばあひ)で竊(ひそ)かに一 身(しん)の前(ぜん)        途(と)を太子(たいし)の尊前(そんぜん)に祈(いの)つたと云うふ事は強(あなが)ちに捨(す)つべからざる説(せつ)であるソレに密談記(みつだんき)がイロ〳〵と説(せつ)を付(ふ)        加(か)したから反(かへ)つて疑(うたがひ)を増(ま)した訳(わけ)ではなかろうかと思(おも)ふ又(ま)た密談記(みつだんき)に記(しる)してある第二の説と云ふのは       天正十八年 小田原(おだはら)攻(ぜめ)の時 家康(いへやす)は牧野半右衛門(まきのはんうゑもん)が巳(おの)れに遠慮(えんりよ)して其(その)家(いへ)伝来(でんらい)の扇(あふぎ)の馬標(うまじるし)を用ゐて居らぬの       を見(み)て曩(さき)に下地(しもぢ)聖眼寺(せうげんじ)太子堂(たいしどう)にての事を話(はな)し出(だ)して決(けつ)して苦(くる)しからぬから汝(なんぢ)も亦(ま)た扇(あふぎ)の馬標(うまじるし)を用ゆる       ようにせよと云はれたとの事柄(ことがら)である因(よつ)て考(かんが)ふるに此(この)半右衛門(はんうゑもん)と云ふのは即(すなは)ち田邉牧野家(たなべまきのけ)の祖(そ)康成(やすしげ)の       事で長岡牧野家(ながをかまきのけ)の成定(なりさだ)とは自(おのづか)ら別人(べつじん)である然(しか)るに此処(こゝ)に太子堂(たいしどう)云々(うんぬん)の事を持(も)ち出(だ)してあるのは疑(うたがひ)に        堪(た)へぬが併(しか)し半右衛門康成(はんうゑもんやすしげ)が家康(いへやす)の為(ため)に金扇(きんせん)を請(こ)はれたのは永禄(えいろく)八年の事で吉田合戦(よしだかつせん)の後(のち)康成(やすしげ)は家康(いへやす)       に属(ぞく)し其(その)十二月 初(はじ)めて岡崎(をかざき)へ行(い)つて面謁(めんえつ)した時の話(はなし)であるモツトモ此時(このとき)は成定(なりさだ)も同行(どうこう)したので公儀(こうぎ)日(につ) 【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                 八十九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                 八十八 【本文】 先にお話しした出羽守保成は牛久保原の合戦で打ち死にしたものでなく、まだ生存していたものであるという説をなすものがあるが、これはその文書をよくよく吟味すれば決してそういう訳でない事が分かる。即ちこの出羽殿父子というのは出羽守成元および其子を指したものであると信じる。しかしこの事は余り本市史には関係が少ないからこの位で止めて置きたいと思う。 次に田辺牧野家の祖定成の話であるが、この人は前にも申し述べた如く同家の系譜に古白の孫と記してある。而して古河系図によると、松平清康が吉田城を攻めて牧野傳蔵信成等が戦死した時、定成は吉田城軍の中にあって創を被り、古河村(今の大村付近)辺まで退いたが、この時古河家の祖先古河勝通という人がこれを援けて牛久保城に入れたとのことである。爾来この勝通は定成に属して家臣同様になったのである。定成は初めは八太夫と称し、後に山城守といったが、これまた牛久保において錚々たるものとなったのである。この人は天正元年八月十三日に没し、その子の康成というのは初め惣次郎半右衛門、後に讃岐守といったので頗る武勇の人であった。即ち永禄八年に父と共に徳川氏に属し、爾来戸田康長、牧野新次郎康成等と共に数々の戦功を尽くしたのである。 **過銭の茶壺** この人については一つ面白い話がある。それはずっと晩年の事であるが、嘗て高価の茶壷を買い入れたのを豊太閤が聞き込まれて、一つには欽羨の余り、戯れにかかる翫物に高価を払うのは益もないことであるから過銭として黄金一枚を出して罪を贖えと言われて、遂に過料を取られたのである。その後数々家康がこの事を話し出しては笑い興じたとの事で、今もその壷は田辺牧野家に蔵せられて過銭の茶壷と名づけられている。 而して当時牛久保の牧野氏には前述の如く同時代に同じ名乗の人やよく似た名前の人があったのである。即ち長岡牧野家においては貞成、成定、康成と続いてこの康成も初めは祖父と同じく貞成といった。而も田辺牧野家においても定成、康成と続いたのであるから、間々その事蹟の混淆されている事があると思われる。 **金扇馬標** 現に家康の馬標たる金扇の出所についても 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百六号附録   (明治四十四年七月十一日発行) 【本文】 種々な説があるので頗る惑いを生ずるのである。この金扇の事について『牛久保密談記』には前後二ヶ所に記されてあるので、最初には永禄八年家康が吉田城を攻めた時、下地の聖眼寺に休憩したのであるが、その時成定は家康に属してから初めての軍であるから一手柄なくてはとて、聖徳太子の尊前で祈念して金扇二本を籠め置いて退いたが、この事は誰も知るものがなく、後に至って寺僧がこの金扇を発見して家康に告げたので、不思議の事である吉兆だというので、この時から家康はこれを馬標に用いる事となった。また成定は家康の命で小原鎮実に城の明渡しを交渉して大なる手柄を現したのであると書いてあるが、前にも申し述べる如く当時成定は裏面は兎に角、表向きはまだ今川方であったのであるから、どうもこの記事には疑いなきこと能わずである。 しかし乍らこの時扇の吉兆があって家康がこの戦に金扇を以って采配の代りとなしたという事は、 **徳川家の具足祝日** 徳川家にも伝えられている説で、『朝野旧聞裒稿』にもこれが二十日の日であったから爾来家康は二十日を以って具足祝の日と定められたと記してある。してみれば当時成定は既に款を家康に通ぜる場合で、窃かに一身の前途を太子の尊前に祈ったという事は強ち捨つべからざる説である。それに密談記が色々と説を付加したから反って疑いを増した訳ではなかろうかと思う。 また密談記に記してある第二の説というのは、天正十八年小田原攻めの時、家康は牧野半右衛門が己れに遠慮してその家伝来の扇の馬標を用いて居らぬのを見て、曩に下地聖眼寺太子堂にての事を話し出して、決して苦しからぬから汝もまた扇の馬標を用ゆるようにせよと言われたとの事柄である。因って考えるにこの半右衛門というのは即ち田辺牧野家の祖康成の事で、長岡牧野家の成定とは自ずから別人である。然るにここに太子堂云々の事を持ち出してあるのは疑いに堪えぬが、しかし半右衛門康成が家康のために金扇を請われたのは永禄八年の事で、吉田合戦の後康成は家康に属し、その十二月初めて岡崎へ行って面謁した時の話である。もっともこの時は成定も同行したので、公儀日 【欄外】 豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                 八十九

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Sakai Tadatsugu and the Retainers of Eastern Mikawa) - 88 [Main Text] Some make the theory that the previously mentioned Dewa-no-kami Yasunari did not die in battle at Ushikubohara but was still alive, but if one carefully examines those documents, it becomes clear that this is certainly not the case. That is, I believe this "Dewa-dono father and son" refers to Dewa-no-kami Narimoto and his son. However, since this matter has little relation to our city's history, I would like to stop here. Next is the story of Sadashige, ancestor of the Tanabe Makino family. As I mentioned before, this person is recorded in that family's genealogy as the grandson of Kohaku. According to the Furukawa genealogy, when Matsudaira Kiyoyasu attacked Yoshida Castle and Makino Denzō Nobushige and others died in battle, Sadashige was among the Yoshida Castle forces, was wounded, and retreated to the vicinity of Furukawa village (near present-day Ōmura), where Furukawa Katsumichi, an ancestor of the Furukawa family, helped him and brought him into Ushikubo Castle. From then on, this Katsumichi served under Sadashige like a retainer. Sadashige was initially called Hachidayū, later Yamashiro-no-kami, and also became a prominent figure at Ushikubo. This person died on the thirteenth day of the eighth month of Tenshō 1, and his son Yasushige was initially called Sōjirō Hanemon, later Sanuki-no-kami, and was quite a valorous person. That is, in Eiroku 8 he joined the Tokugawa clan together with his father, and thereafter achieved numerous military achievements alongside Toda Yasunaga, Makino Shinjirō Yasunari, and others. **The Tea Jar Fine** There is an interesting story about this person. This happened much later in his life, but when Taikō heard that he had purchased an expensive tea jar, partly out of envy and partly in jest, he said that paying high prices for such playthings was unprofitable, so he should pay one gold piece as an excess payment fine to atone for his transgression, and he was ultimately fined. Afterward, Ieyasu would often bring up this matter and laugh about it, and even now that jar is preserved in the Tanabe Makino family and is called "the excess payment tea jar." At that time, the Makino clan at Ushikubo had people with the same names or very similar names in the same period, as mentioned before. That is, in the Nagaoka Makino family the succession went Sadanari, Narisada, Yasunari, and this Yasunari was also initially called Sadanari like his grandfather. Moreover, in the Tanabe Makino family the succession went Sadashige, Yasushige, so their achievements are sometimes confused. **The Golden Fan Horse Standard** Indeed, regarding the origin of the golden fan that was Ieyasu's horse standard, [Left Page] [Header] Sanyo Shinpō No. 3806 Supplement (Published July 11, Meiji 44) [Main Text] there are various theories that cause considerable confusion. Regarding this golden fan, the "Ushikubo Secret Discussions Record" records it in two places. The first states that in Eiroku 8 when Ieyasu attacked Yoshida Castle, he rested at Shōgen Temple in Shimoji, and at that time Narisada, since this was his first battle after joining Ieyasu, thought he must achieve some merit, so he prayed before Prince Shōtoku and left two golden fans as offerings before departing. No one knew of this, but later a temple monk discovered these golden fans and reported it to Ieyasu, who said it was a mysterious and auspicious omen, and from then on Ieyasu used them as horse standards. It also states that Narisada, on Ieyasu's orders, negotiated the surrender of the castle with Ohara Shigezane and achieved great merit. However, as I mentioned before, at that time Narisada, whatever his private dealings, was still officially on the Imagawa side, so I cannot help but doubt this account. However, the story that there was an auspicious omen with fans at this time and that Ieyasu used golden fans instead of a war fan in this battle is a tradition preserved in the Tokugawa family. **The Tokugawa Family's Armor Celebration Day** The "Chōya Kyūbun Hōkō" also records that since this occurred on the twentieth day, Ieyasu thereafter designated the twentieth as the day for armor celebrations. Considering this, Narisada had already established communication with Ieyasu at that time, and the idea that he secretly prayed for his personal future before Prince Shōtoku is not entirely dismissible. The Secret Discussions Record may have added various explanations that actually increased doubts. The second theory recorded in the Secret Discussions Record states that during the attack on Odawara in Tenshō 18, Ieyasu saw that Makino Hanemon was refraining from using his family's traditional fan horse standard out of deference to him, so he brought up the previous incident at Shimoji Shōgen Temple's Prince Hall and told him it was perfectly acceptable for him to also use a fan horse standard. Considering this, this Hanemon was none other than Yasushige, ancestor of the Tanabe Makino family, and naturally a different person from Narisada of the Nagaoka Makino family. However, bringing up the Prince Hall matter here is questionable, but Hanemon Yasushige's receiving golden fans from Ieyasu occurred in Eiroku 8, and after the Battle of Yoshida, Yasushige joined Ieyasu and first went to Okazaki for an audience in the twelfth month of that year. Of course, Narisada also accompanied him at this time, so in the official records... [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Sakai Tadatsugu and the Retainers of Eastern Mikawa) - 89