Code4Lib JAPAN ✕ みんなで翻刻

コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 59

ページ: 59

翻刻

【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                 九十 【本文】        記(き)には此(この)話(はなし)も亦(ま)た成定(なりさだ)であるように記(しる)してあるが之(これ)は康成(やすしげ)であると云ふ説が有力(ゆうりよく)であるように思ふ之(これ)       に拠(よ)れば馬標(うまじるし)の起(おこ)りは田邉牧野家(たなべまきのけ)の方(ほう)にあるとなすのが穏当(おんとう)であると思(おも)ふが同家(どうけ)の伝説(でんせつ)も亦(ま)た之(これ)と同(どう)        様(よう)である而(しか)して其後(そのご)康成(やすしげ)は徳川氏のものと区別(くべつ)する為(ため)に従前(じうぜん)五本 骨(ほね)であつた金扇(きんせん)を七本 骨(ほね)に改(あらた)め作(つく)つ       て指物(さしもの)に用(もち)ゐたとの事で今(いま)も尚(な)ほ同家(どうけ)に所蔵(しよぞう)せられて居る之(これ)と同時(どうじ)に私(わたくし)は前(まへ)に申述(もうしの)べた家康(いへやす)の具足(ぐそく)        初(はじ)めに関(くわん)する起因(きゐん)と云ふものは却(かへつ)て長岡牧野家(ながをかまきのけ)の成定(なりさだ)より出(い)でたもので之(これ)にも矢張(やはり)金扇(きんせん)が伴(ともな)つて居(を)る       ものであると云ふ事を信(しん)ずるのである 《割書:牛久保に於|ける牧野氏》   尚(な)ほ此処(こゝ)に此(この)両(れう)牧野家(まきのけ)の家系(かけい)に就(つい)て少(すこ)しく申述べたいのであるが元来(がんらい)此(この)両家(れうけ)は屡々(しば〳〵)前章(ぜんせう)に申述べた如 の家系   く平家(へいけ)の士(し)田口成能(たぐちしげよし)から出(い)でたので牧野古白(まきのこはく)の家(いへ)とは全(まつた)く同系統(どうけいとう)であることに伝(つた)へられて居(を)る然(しか)るに古(こ)        来(らい)其(その)由(よつ)て来(きた)る処(ところ)に分明(ぶんめい)ならざる点(てん)があつて寛永系図(かんえいけいづ)及(およ)び寛政重修諸家譜(かんせいちやうしうしよかふ)にも共に其(その)流(ながれ)を異(こと)にして掲載(けいさい)       してある殊(こと)に武徳編年集成(ぶとくへんねんしうせい)の如きは此(この)両(れう)牧野氏(まきのし)を以て孰(いづ)れも元(もと)と眞木氏(まきし)であつて後(のち)に牧野(まきの)に改(あらた)めたも       ので古白(こはく)の家(いへ)とは自(おのづか)ら其(その)系統(けいとう)を異(こと)にするものであるとなして居る併(しか)し乍(なが)ら此(この)説(せつ)は余程(よほど)離(はな)れた説(せつ)で容(よう)        易(い)に断(だん)ずることは出来(でき)ぬ兎(と)に角(かく)其(その)祖先(そせん)が孰(いづ)れの家(いへ)も成能(しげよし)であると云ふことは先(ま)ず争(あらそ)はれぬ事と信(しん)ずるがサ       テ其後(そのご)初(はじ)めて三 河国(かはのくに)に来(きた)つたのは果(はた)して誰(たれ)であつたかと云ふ事に就(つい)ては各々(おの〳〵)家伝(かでん)に相違(さうゐ)があつて頗(すこぶ)る        研究(けんきう)を要(えう)することと思ふ寛政重修諸家譜(かんせいちやうしうしよかふ)によると古白(こはく)の家(いへ)は前章(ぜんせう)に詳(くは)しく御話(おはなし)して置(お)いた通(とほ)り成能(しげよし)の子       に教能(のりよし)と云ふ人があつて其(その)後胤(こうゐん)成保(しげやす)の子 成清(しげきよ)までは代々(だい〳〵)讃岐国(さぬきのくに)に居つたが其子(そのこ)成富(しげとみ)が初(はじ)めて三河国に        来(き)たので之(これ)が即(すなは)ち古白(こはく)の父(ちゝ)であると云ふ事になつて居る田邉牧野家(たなべまきのけ)の譜(ふ)は略(ほ)ほ之(これ)と同(どう)一であるが長岡(ながをか)        牧野家(まきのけ)の譜(ふ)は少(すこ)しく之(これ)と違(ちが)つて成能(しげよし)が後胤(こうゐん)成朝(しげとも)に至つて初(はじ)めて三河国に来(きた)つたが成朝(しげとも)から成定(なりさだ)の父(ちゝ)氏(うぢ)        勝(かつ)までは世系(せいけい)が詳(つまびらか)でないとしてある然(しか)るに此(この)長岡(ながをか)田邉(たなべ)両牧野家(れうまきのけ)に就(つい)て其(その)家譜(かふ)を調(しら)べて見(み)ると頗(すこぶ)る精密(せいみつ) 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【本文】       なものがあるのみならず旧来(きうらい)余程(よほど)研究(けんきう)が重(かさ)ねてあるように見(み)ゆる殊(こと)に長岡牧野家(ながをかまきのけ)の御系図類記(おんけいづるいき)と云ふ       ものは考証(こうせう)も正確(せいかく)で拠(よ)るべき点が少(すくな)くないと思うふ之(これ)等(ら)に就(つい)て見(み)ると成朝(しげとも)と云ふ人は成能(しげよし)の嫡孫(ちやくそう)で教能(のりよし)       の子であると記(しる)してあるスルト此(この)牧野氏(まきのし)と云ふものは余程(よほど)古(ふる)くから三河国に来(きた)つたもので此(この)説(せつ)は実(じつ)に        研究上(けんきうぜう)価値(かち)あるものであると信(しん)ずる如何(いかん)となれば古白(こはく)の父(ちゝ)成富(しげとみ)が始(はじ)めて三河国へ来(きた)つたにしては古白(こはく)        時代(じだい)に於ける牧野党(まきのとう)の繁殖(はんしよく)が余(あま)りに過大(くわだい)であると信(しん)ずるのであつて之(これ)は私(わたくし)の常(つね)に疑(うたがひ)を懐(いだ)いて居つ       た処である又(ま)た此(この)両牧野家(れうまきのけ)の調査(てうさ)によると古白(こはく)の父(ちゝ)成富(しげとみ)と成清(しげきよ)との間(あひだ)に成方(なりかた)と云ふ人が一 代(だい)あるので       あるが之(これ)も或(あるひ)は其(その)方(ほう)が正(たゞ)しいであろうと思(おも)ふ要(えう)するに牧野(まきの)の一 党(とう)と云ふものは宝飯郡(ほゐぐん)牧野村(まきのむら)から起(おこ)つ       て後(のち)に牛久保(うしくぼ)に拠(よ)つたのであるが当時(とうじ)其(その)一 族(ぞく)中(ちう)の主(おも)なるものであつた古白(こはく)は城(しろ)を今(いま)の豊橋の地に築(きづ)い       て之(これ)に移(うつ)り牛久保は長岡牧野家(ながをかまきのけ)の祖先(そせん)初(はじ)めが守(まも)つたのである然(しか)るに豊橋の方は前(まへ)に申述べた如く一 時(じ)        敗亡(はんぼう)に皈(き)したが牛久保(うしくぼ)の方(ほう)は継続(けいぞく)して今日に至(いた)つたと云ふ次第(しだい)であるサテ其(その)次(つぎ)が菅沼氏(すがぬまし)の話(はなし)である前(まへ)       に申述(もうしの)べて置いた通(とほ)り有名(ゆうめい)なる東三河の山家(やまが)三 方(ほう)と云はれたのは当時(とうじ)段峯(だみね)(《割書:一に|田峯》)に居つた菅沼氏(すがぬまし)並(ならび)に 《割書:段峯の菅沼|長篠の菅沼》   長篠(ながしの)に居つた菅沼氏(すがぬまし)及(およ)び作手(つくて)の奥平氏(おくだひらし)であるモツトモ野田(のだ)の菅沼氏(すがぬまし)をも之(これ)に加(くは)へた記事(きじ)が朝野旧聞裒(てうやきうぶんほう) 《割書:野田の菅沼|     》   稿(こう)の中(なか)に見(み)へて居(を)るがそれは同(おな)じ菅沼氏(すがぬまし)の一 族(ぞく)であるから右(みぎ)の如き場合(ばあひ)もあつたかと思(おも)ふ兎(と)に角(かく)菅沼(すがぬま)        氏(し)と云ふものは段峯(だみね)が元(もと)でそれから長篠(ながしの)野田(のだ)などゝ分(わか)れたものである今(いま)寛政重修諸家譜(かんせいちやうしうしよかふ)によつて系図(けいづ) 菅沼氏系図 の大要(たいえう)を示(しめ)せば左(さ)の通(とほり)である         〇資長《割書:伊賀守|田峯に住す》         定成 文明七年十一月十五日死                         満成《割書:三郎左衛門|長篠に住す長篠菅沼と称す》 【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                 九十一

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                 九十 【本文】 記録にはこの話もまた成定であるように記してあるが、これは康成であるという説が有力であるように思う。これによれば馬標の起こりは田辺牧野家の方にあるとなすのが穏当であると思うが、同家の伝説もまたこれと同様である。而してその後康成は徳川氏のものと区別するために、従前五本骨であった金扇を七本骨に改め作って指物に用いたとの事で、今も尚同家に所蔵されている。これと同時に私は前に申し述べた家康の具足初めに関する起因というものは、却って長岡牧野家の成定より出たもので、これにも矢張り金扇が伴っているものであるという事を信じるのである。 **牛久保における牧野氏の家系** 尚ここにこの両牧野家の家系について少しく申し述べたいのであるが、元来この両家は屡々前章に申し述べた如く平家の士田口成能から出たので、牧野古白の家とは全く同系統であることに伝えられている。然るに古来その由って来る処に分明ならざる点があって、寛永系図及び寛政重修諸家譜にも共にその流れを異にして掲載してある。殊に武徳編年集成の如きは、この両牧野氏を以ていずれも元と眞木氏であって後に牧野に改めたもので、古白の家とは自ずからその系統を異にするものであるとなしている。しかし乍らこの説は余程離れた説で、容易に断ずることは出来ぬ。兎に角その祖先がいずれの家も成能であるということは、まず争われぬ事と信ずるが、さてその後初めて三河国に来たのは果たして誰であったかという事については、各々家伝に相違があって頗る研究を要することと思う。 寛政重修諸家譜によると、古白の家は前章に詳しくお話して置いた通り、成能の子に教能という人があって、その後胤成保の子成清までは代々讃岐国にいたが、その子成富が初めて三河国に来たので、これが即ち古白の父であるということになっている。田辺牧野家の譜は略ほこれと同一であるが、長岡牧野家の譜は少しくこれと違って、成能が後胤成朝に至って初めて三河国に来たが、成朝から成定の父氏勝までは世系が詳らかでないとしてある。然るにこの長岡・田辺両牧野家について、その家譜を調べて見ると頗る精密 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 【左頁】 【本文】 なものがあるのみならず、旧来余程研究が重ねてあるように見ゆる。殊に長岡牧野家の御系図類記というものは考証も正確で、拠るべき点が少なくないと思う。これ等について見ると、成朝という人は成能の嫡孫で教能の子であると記してある。すると此の牧野氏というものは余程古くから三河国に来たもので、この説は実に研究上価値あるものであると信ずる。如何となれば、古白の父成富が始めて三河国へ来たにしては、古白時代における牧野党の繁殖が余りに過大であると信ずるのであって、これは私の常に疑いを懐いて居た処である。 またこの両牧野家の調査によると、古白の父成富と成清との間に成方という人が一代あるのであるが、これも或いはその方が正しいであろうと思う。要するに牧野の一党というものは宝飯郡牧野村から起こって後に牛久保に拠ったのであるが、当時その一族中の主なるものであった古白は、城を今の豊橋の地に築いてこれに移り、牛久保は長岡牧野家の祖先初めが守ったのである。然るに豊橋の方は前に申し述べた如く一時敗亡に帰したが、牛久保の方は継続して今日に至ったという次第である。 さてその次が菅沼氏の話である。前に申し述べて置いた通り、有名なる東三河の山家三方と言われたのは、当時段峯(一に田峯)にいた菅沼氏並びに長篠にいた菅沼氏及び作手の奥平氏である。 **段峯の菅沼・長篠の菅沼・野田の菅沼** もっとも野田の菅沼氏をもこれに加えた記事が朝野旧聞裒稿の中に見えているが、それは同じ菅沼氏の一族であるから右の如き場合もあったかと思う。兎に角菅沼氏というものは段峯が元で、それから長篠・野田などと分かれたものである。 今寛政重修諸家譜によって系図の大要を示せば左の通りである。 **菅沼氏系図** 〇資長《伊賀守・田峯に住す》      定成 文明七年十一月十五日死                   満成《三郎左衛門・長篠に住す長篠菅沼と称す》 【欄外】 豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                 九十一

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Sakai Tadatsugu and the Retainers of Eastern Mikawa) - 90 [Main Text] In the records, this story is also recorded as involving Narisada, but I think the theory that it was Yasushige is more credible. According to this, it would be reasonable to consider that the origin of the horse standard lies with the Tanabe Makino family, and that family's tradition is also the same. Thereafter, Yasushige, to distinguish from those of the Tokugawa clan, modified the golden fan from the previous five ribs to seven ribs and used it as a standard, and it is still preserved in that family today. At the same time, I believe that the origin of what I mentioned earlier regarding Ieyasu's first donning of armor actually came from Narisada of the Nagaoka Makino family, and this too was accompanied by golden fans. **The Genealogy of the Makino Clan at Ushikubo** I would like to mention a little about the genealogies of these two Makino families here. Originally, these two families, as I have repeatedly mentioned in previous chapters, descended from the Taira retainer Taguchi Shigeyoshi, so they are said to be of exactly the same lineage as the house of Makino Kohaku. However, there have long been unclear points about their origins, and both the Kan'ei Genealogies and the Kansei Revised Genealogies of Various Families record them as having different lineages. In particular, works like the Butoku Chronological Collection consider both Makino clans to have originally been the Maki clan, later changed to Makino, and thus naturally different in lineage from Kohaku's house. However, this theory is quite far-fetched and cannot be easily determined. In any case, I believe it is indisputable that the ancestor of all these families was Shigeyoshi, but as for who first came to Mikawa Province thereafter, there are differences in each family's traditions that require considerable research. According to the Kansei Revised Genealogies of Various Families, in Kohaku's house, as I discussed in detail in the previous chapter, Shigeyoshi had a son named Noriyoshi, and his descendant Shigeyasu's son Shigekiyo lived in Sanuki Province for generations, but his son Shigetomi was the first to come to Mikawa Province, and he was Kohaku's father. The genealogy of the Tanabe Makino family is roughly the same, but the genealogy of the Nagaoka Makino family differs slightly in that Shigeyoshi's descendant Shigetomo was the first to come to Mikawa Province, but the lineage from Shigetomo to Narisada's father Ujikatsu is unclear. However, when examining the genealogies of these Nagaoka and Tanabe Makino families, they are not only quite detailed [Header] □Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku, applying his extensive knowledge and inexhaustible energy to the compilation of Toyohashi city history for over a year, now as his manuscript is nearly complete [Left Page] [Main Text] but also appear to have considerable accumulated research from long ago. Particularly, the Nagaoka Makino family's "Record of Genealogical Categories" has accurate research and many reliable points. According to these sources, Shigetomo was Shigeyoshi's legitimate grandson and Noriyoshi's son. This means the Makino clan came to Mikawa Province quite early, and I believe this theory has real research value. This is because if Shigetomi, Kohaku's father, was the first to come to Mikawa Province, the proliferation of the Makino party during Kohaku's time would be excessively large, which I have always doubted. Also, according to investigations by these two Makino families, there was one generation of a person named Narikata between Shigetomi, Kohaku's father, and Shigekiyo, and I think this may be correct. In essence, the Makino party originated from Makino village in Hoi District, later established themselves at Ushikubo, and among the prominent members of that clan, Kohaku built a castle at the present site of Toyohashi and moved there, while Ushikubo was initially guarded by the ancestors of the Nagaoka Makino family. However, the Toyohashi side temporarily fell to ruin as I mentioned before, but the Ushikubo side continued to the present day. Next is the story of the Suganuma clan. As I mentioned before, the famous "three mountain families of Eastern Mikawa" were the Suganuma clan residing at Damine (also called Tamine), the Suganuma clan at Nagashino, and the Okudaira clan at Tsukude. **Damine Suganuma, Nagashino Suganuma, Noda Suganuma** There is also an account in the "Chōya Kyūbun Hōkō" that includes the Suganuma clan of Noda, but since they were the same Suganuma clan family, such cases might have occurred. In any case, the Suganuma clan originated from Damine and then branched out to Nagashino, Noda, and other places. The outline of their genealogy according to the Kansei Revised Genealogies of Various Families is as follows: **Suganuma Clan Genealogy** 〇Sukenaĝa《Iga-no-kami, resided at Tamine》     Sadanari, died November 15, Bunmei 7                   Mitsunari《Saburōzaemon, resided at Nagashino, called Nagashino Suganuma》 [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Sakai Tadatsugu and the Retainers of Eastern Mikawa) - 91