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【欄外】
豊橋市史談 (酒井忠次と東三河の諸士) 九十四
【本文】
定盛 伊賀守 定勝 《割書:久■伊賀守入道源長井道の砦に住し|永禄四年小原鎮実小法師が新城を来》
《割書:り攻むる時一族と共に之を拒ぎ敵兵|松井某を打取る》
某 《割書:孫太夫|弘治元年大膳亮 ■と共に奥平貞勝に与》
《割書:みし今川氏に叛き二年八月廿一日定継と|同じく自殺す》
三照 定房
某 定重
三春 以下略
ザツト右(みぎ)の通(とほり)であるが頗(すこぶ)る入り組むだ系図(けいづ)である従(したがつ)て文明(ぶんめ)の頃(ころ)から元亀(げんき)天正(てんせう)の頃(ころ)に亘(わた)つて此(この)菅沼氏(すがぬまし)
の一 族(ぞく)と云ふものは東三河の山方(やまがた)へは瀰満(びまん)したものである然(しか)るに地勢(ちせい)の関係(くわんけい)から常(つね)に大勢(おほぜい)に逆(さから)ふ事が
多(おほ)く不幸(ふこう)に陥(おちゐ)つて居る状態(ぜうたい)である独(ひと)り野田(のだ)の菅沼氏(すがぬまし)は終始(しうし)一 貫(かん)克(よ)く徳川氏の為(ため)に忠勤(ちうきん)を尽(つく)して今川氏(いまがはうぢ)
実(さね)や武田信玄(たけだしんげん)などに容易(ようい)ならず苦(くるし)められたが遂(つひ)には最後(さいご)の勝利者(せうりしや)となつたのである然(しか)るに田峯(たみね)長篠(ながしの)な
どの菅沼氏(すがぬまし)は頗(すこぶ)る大勢(たいせい)に通(つう)せず又は到底(たうてい)独立(どくりつ)の出来(でき)難(がた)い処(ところ)から初(はじ)め今川義元(いまがはよしもと)に叛(そむ)いて失敗(しつぱい)し永禄(えいろく)四年
の変(へん)に徳川方(とくがはがた)に属(ぞく)して幸(さいはひ)に好都合(こうつごう)であつたものも後(のち)には又た武田信玄(たけだしんげん)に従(したが)つて其身(そのみ)を亡(ほろぼ)すに至つた
ものがあるので実(じつ)に気(き)の毒(どく)千万に思(おも)はるゝのである殊(こと)に徳川氏が天下(てんが)を平定(へいてい)してから後(のち)幸(さいはひ)に諸侯(しよこう)の
列(れつ)に加(くわ)はつた家(いへ)も悉(こと〴〵)く嗣(よつぎ)なくして断絶(だんぜつ)に及(およ)ぶなど菅沼氏(すがぬまし)の一 族(ぞく)に対(たい)しては同情(どうぜう)に堪(た)へぬのである
奥平氏 ソコで此(この)菅沼氏(すがぬまし)と共に山家(やまが)三 方(はう)の中に数(かぞ)へられて居る奥平氏(おくだひらし)は如何(いか)なる筋合(すじあひ)の家(いへ)であるかと云ふに其(その)
出所(しゆつしよ)に就(つい)ては之にもイロ〳〵の説があるが貞能(さだよし)四 世(せ)の祖(そ)の左衛門尉貞俊(さゑもんのぜうさだとし)と云ふ人が初(はじ)めて上野国(かうづけのくに)から
【欄外】
□豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【本文】
此三河国に来(き)て作手(つくて)を領(れう)したとの事である貞能(さだよし)の子は後(のち)に長篠籠城(ながしのろうぜう)で有名(ゆうめい)なる信昌(のぶまさ)であるが貞能(さだよし)の父
と云ふのは監物貞勝(かんもつさだかつ)で後(のち)に入道(にふどう)して道文(どうもん)と云つた人である此(この)道文(どうもん)と云ふ人は初(はじ)め松平清康(まつだひらきよやす)に従つた事
があるが後(のち)に今川氏に属(ぞく)した然(しか)るに貞能(さだよし)は永禄(えいろく)八年の頃(ころ)から再(ふたゝ)び今川氏真(いまがはうぢさね)に叛(そむ)いて徳川氏に従(したが)ひ中々(なか〳〵)
戦功(せんこう)があつたが元亀(げんき)二年に至(いた)つて父(ちゝ)道文(どうもん)初(はじ)め一 族(ぞく)と共に武田信玄(たけだしんげん)に属(ぞく)したのであるトコロが中途(ちうと)にし
て志(こゝろざし)を決(けつ)して一 族(ぞく)のものと別(わか)れ再(ふたゝ)び家康(いへやす)に属(ぞく)したのである之等(これら)の事に就(つい)ては詳(くは)しい話(はなし)もあるがソレ
《割書:深溝松平氏|竹谷松平氏》 は追々(おひ〳〵)に申述(もうしの)ぶる事として次(つぎ)に深溝(ふかふづ)、 竹谷(たけのや)、 形原(かたのはら)などの松平氏(まつだひらし)の事を申述べたいと思(おも)ふ此(この)三 松平家(まつだひらけ)は
《割書:形原松平氏| 》 前章(ぜんせう)にも申述(もうしの)べたと通(とほ)り松平和泉守信光(まつだひらいづみのかみのぶみつ)から出(で)たものであるが信光(のぶみつ)の子 親忠(ちかたゞ)其子(そのこ)の長親(ながちか)及(およ)び其子(そのこ)の信忠(のぶたゞ)
の代(だい)にもそれ〳〵分家(ぶんけ)したもので之(これ)が孰(いづ)れも松平(まつだひら)を名乗(なの)つたのである今(いま)多(おゝ)く人(ひと)の知(し)つて居るものに就(つい)
て其(その)流(ながれ)を分(わか)つて見(みる)ると大略(たいりやく)左(さ)の如(ごと)くである
〇信光の流
竹 谷 形 原 大 草 深 溝 能 見 長 沢
〇親忠の流
大 給 西福釜 安 祥 瀧 脇
〇長親の流
福 釜 桜 井 東 條 藤 井
〇信忠の流
三 木 鵜 殿
而(しか)して度々(たび〳〵)引(ひ)き合(あ)ひに出(だ)される家忠日記(いへたゞにつき)の記者(きしや)松平家忠(まつだひらいへたゞ)と云ふ人は此(この)深溝(ふかうず)松平氏(まつだひらし)であるが御承知(ごせうち)の宝(ほ)
【欄外】
豊橋市史談 (酒井忠次と東三河の諸士) 九十五
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談 (酒井忠次と東三河の諸士) 九十四
【本文】
定盛 伊賀守 定勝 《久■伊賀守入道源長、井道の砦に住し永禄四年小原鎮実小法師が新城を来り攻むる時一族と共にこれを拒ぎ敵兵松井某を討ち取る》
某 《孫太夫・弘治元年大膳亮■と共に奥平貞勝に与みし今川氏に叛き二年八月二十一日定継と同じく自殺す》
三照 定房
某 定重
三春 以下略
ざっと右の通りであるが、頗る入り組んだ系図である。従って文明の頃から元亀天正の頃に亘って、この菅沼氏の一族というものは東三河の山方へは瀰満したものである。然るに地勢の関係から常に大勢に逆らうことが多く、不幸に陥っている状態である。独り野田の菅沼氏は終始一貫、よく徳川氏のために忠勤を尽くして今川氏実や武田信玄などに容易ならず苦しめられたが、遂には最後の勝利者となったのである。然るに田峯、長篠などの菅沼氏は頗る大勢に通せず、又は到底独立の出来難いところから、初め今川義元に叛いて失敗し、永禄四年の変に徳川方に属して幸いに好都合であったものも、後には又武田信玄に従ってその身を亡ぼすに至ったものがあるので、実に気の毒千万に思われるのである。殊に徳川氏が天下を平定してから後、幸いに諸侯の列に加わった家も悉く嗣なくして断絶に及ぶなど、菅沼氏の一族に対しては同情に堪えぬのである。
奥平氏 そこでこの菅沼氏と共に山家三方の中に数えられている奥平氏は如何なる筋合いの家であるかというに、その出所については、これにもいろいろの説があるが、貞能四世の祖の左衛門尉貞俊という人が初めて上野国から
【欄外】
□豊橋市長大口喜六氏は、その該博なる智識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際し□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【本文】
この三河国に来て作手を領したとの事である。貞能の子は後に長篠籠城で有名なる信昌であるが、貞能の父というのは監物貞勝で、後に入道して道文といった人である。この道文という人は初め松平清康に従ったことがあるが、後に今川氏に属した。然るに貞能は永禄八年の頃から再び今川氏真に叛いて徳川氏に従い、中々戦功があったが、元亀二年に至って父道文初め一族と共に武田信玄に属したのである。ところが中途にして志を決して一族のものと別れ、再び家康に属したのである。これらの事については詳しい話もあるが、それは追々に申し述べることとして、次に深溝、竹谷、形原などの松平氏の事を申し述べたいと思う。この三松平家は前章にも申し述べた通り、松平和泉守信光から出たものであるが、信光の子親忠、その子の長親及びその子の信忠の代にもそれぞれ分家したもので、これがいずれも松平を名乗ったのである。今多くの人の知っているものについて、その流を分って見ると、大略左の如くである。
〇信光の流
竹 谷 形 原 大 草 深 溝 能 見 長 沢
〇親忠の流
大 給 西福釜 安 祥 瀧 脇
〇長親の流
福 釜 桜 井 東 條 藤 井
〇信忠の流
三 木 鵜 殿
而して度々引き合いに出される家忠日記の記者松平家忠という人は、この深溝松平氏であるが、御承知の宝
【欄外】
豊橋市史談 (酒井忠次と東三河の諸士) 九十五
英語訳
[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Sakai Tadatsugu and the Retainers of Eastern Mikawa) - 94
[Main Text]
Sadamori Iga-no-kami Sadakatsu 《Hisa■ Iga-no-kami, monk name Genchō, lived at Idō fort, and in Eiroku 4 when Ohara Shigeari Kohōshi came to attack Shinshiro, together with his clan resisted them and killed enemy soldier Matsui》
Someone 《Magodayū - In Kōji 1, together with Daizenno-suke ■, allied with Okudaira Sadakatsu, rebelled against the Imagawa clan, and on August 21 of the second year committed suicide like Sadatsugu》
Mitsuaki Sadafusa
Someone Sadashige
Miharu [remainder omitted]
Roughly as described above, this is an extremely complex genealogy. Therefore, from the Bunmei period through the Genki and Tenshō periods, the Suganuma clan spread throughout the mountainous regions of Eastern Mikawa. However, due to geographical circumstances, they often opposed the dominant forces and fell into unfortunate circumstances. Only the Noda Suganuma clan consistently maintained loyalty to the Tokugawa throughout, and though severely troubled by Imagawa Ujizane and Takeda Shingen, ultimately became the final victors. However, the Suganuma clans of Tamine and Nagashino were quite unable to understand the general situation, or were in positions where independence was impossible. They initially rebelled against Imagawa Yoshimoto and failed, and though they fortunately joined the Tokugawa side during the Eiroku 4 incident, later some followed Takeda Shingen and brought about their own destruction, which is truly pitiable. Particularly after the Tokugawa pacified the realm, even those houses that fortunately joined the ranks of daimyo all died out without heirs, and one cannot help but sympathize with the Suganuma clan.
The Okudaira Clan: So regarding the Okudaira clan, which together with the Suganuma clan is counted among the Yamaga Sanpō, what kind of family lineage was this? Concerning their origins, there are various theories about this as well, but it is said that Sadayoshi's great-great-grandfather, Saemon-no-jō Sadatoshi, first came from Kōzuke Province
[Header note] □Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku, dedicating his extensive knowledge and inexhaustible energy to the compilation of Toyohashi city history for over a year, now as the manuscript is nearly complete...□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
[Left Page]
[Main Text]
to this Mikawa Province and took control of Tsukude. Sadayoshi's son was Nobumasa, who later became famous for the siege of Nagashino, but Sadayoshi's father was Kenmotsu Sadakatsu, who later became a monk and was called Dōmon. This Dōmon initially served Matsudaira Kiyoyasu but later belonged to the Imagawa clan. However, from around Eiroku 8, Sadayoshi again rebelled against Imagawa Ujizane and followed the Tokugawa, achieving considerable military merit. But in Genki 2, his father Dōmon and the rest of the clan joined Takeda Shingen. However, midway through, Sadayoshi resolved to separate from his clansmen and rejoined Ieyasu. There are detailed stories about these matters, but I will relate those gradually. Next, I would like to discuss the Matsudaira clans of Fukauzu, Takenotani, and Katanohara. These three Matsudaira houses, as mentioned in the previous chapter, descended from Matsudaira Izumi-no-kami Nobumitsu. Branch families were established during the generations of Nobumitsu's son Chikatada, his son Nagachika, and his son Nobutada, all of whom took the Matsudaira name. Looking at the lineages of those well-known today, they are roughly as follows:
○Nobumitsu's line:
Takenotani Katanohara Ōkusa Fukauzu Nōmi Nagasawa
○Chikatada's line:
Ōkyū Nishifukugama Anjō Takiwaki
○Nagachika's line:
Fukugama Sakurai Tōjō Fujii
○Nobutada's line:
Miki Udono
The author of the Ietada Nikki (Ietada's Diary), which is frequently referenced, Matsudaira Ietada, belonged to this Fukauzu Matsudaira clan, and as you know, the treasure...
[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Sakai Tadatsugu and the Retainers of Eastern Mikawa) - 95