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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 62

ページ: 62

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【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                九十六 【本文】        飯郡(ゐぐん)深溝(ふかうず)に城(しろ)を搆(かま)へて居つたのである祖父(そふ)大炊助好景(たいすいのすけよしかげ)は前にも申述べた如く曩(さき)に幡豆郡(はづぐん)善明寺(ぜんめうじ)堤(つゝみ)に於       て吉良義昭(きらよしあきら)の兵と戦(たゝかつ)て打死(うちじに)し父の伊忠(これたゞ)は長篠合戦(ながしのかつせん)で打死(うちじに)したが自分(じぶん)も亦(ま)た後(のち)に鳥居元忠(とりゐもとたゞ)と共に伏見(ふしみの)        城(しろ)を守(まも)つて遂(つひ)に戦死(せんし)したのである即(すなは)ち三 代(だい)引(ひ)き続(つゞ)いて徳川家(とくがはけ)の為(ため)に忠死(ちうし)したので之(これ)も亦(ま)た実(じつ)に同情(どうぜう)す       べき家(いへ)であると思(おも)ふ又(ま)た竹谷(たけのや)の松平氏(まつだひらし)は彼(か)の肥後守清善(ひごのかみきよよし)の家(いへ)で清善(きよよし)は信光(のぶみつ)から凡(およ)そ五 代(だい)に当(あた)るのであ       るが此人(このひと)が初(はじ)めて竹谷(たけのや)に住(ぢう)したのである而(しか)して孫(そん)の玄蕃頭家清(げんばのかみいへきよ)は後(のち)に此(この)吉田(よしだ)の城主(ぜうしゆ)に封(ほう)せられたので        詳(くは)しい事は其(その)時代(じだい)に当(あた)つて申述(もうしの)ぶる考(かんがへ)である又た形原(かたのはら)松平(まつだひら)と云ふのはの信光(のぶみつ)の第五子 佐渡守興嗣(さどのかみおきつぐ)か       ら出でゝ居るので初(はじ)め岩津殿(いわづどの)と云はれたのであるが吉田合戦(よしだかつせん)の頃(ころ)は紀伊守家嗣(きいのかみいへつぐ)と云ふ人の頃(ころ)である此(この)        人(ひと)は興嗣(おきつぐ)五代の孫(そん)で父を紀伊守家忠(きいのかみいへたゞ)と云ひ其子(そのこ)は紀伊守家信(きいのかみいへのぶ)である此(この)人々(ひと〳〵)も亦(ま)た徳川家の為(ため)には忠勤(ちうきん)       を尽(つく)したもので此(この)家(いへ)も矢張(やはり)後(のち)に諸侯(しよこう)の列(れつ)に加(くは)はつたのである 《割書:伊奈の本多|氏》   其(その)次(つぎ)が伊奈(いな)の本多氏(ほんだし)に就(つい)てであるが本多氏(ほんだし)は元来(がんらい)藤原氏(ふぢはらし)で九 条関白師輔(じょうくわんぱくもろすけ)十二世の孫(そん)助秀(すけひで)と云ふ人が        豊後国(ぶんごのくに)本多(ほんだ)と云ふ処に住(ぢう)して本多(ほんだ)を氏(うぢ)としたのが始(はじめ)であると云ふ事である其子(そのこ)に助定(すけさだ)と云ふ人があつ       て尾張国(をはりのくに)に来(きた)りそれから六 世(せ)の孫(そん)に助時(すけとき)と云ふひと人があつたが之(これ)が初(はじ)めて三河国に来(きた)つて松平長親(まつだひらながちか)に仕(つか)       へたのであると云ふのが普通(ふつう)に伝(つた)はつて居る説(せつ)である即(すなは)ち平八郎 忠勝(たゞかつ)の家(いへ)も、 前(まへ)に御話(おはなし)して置(お)いた豊(ぶん)        後守広孝(ごのかみひろたか)の家(いへ)も、 作左衛門重次(さくざゑもんしげつぐ)の家も皆(みな)同族(どうぞく)で元(もと)は互(たがひ)に分(わ)れたものである而(しか)して伊奈(いな)の本多氏(ほんだし)は正時(まさとき)       と云ふ人を祖(そ)として居つて其子(そのこ)が正助(まさすけ)其孫(そのそん)が即(すなは)ち縫殿助正忠(ぬひどのすけまさたゞ)である此人(このひと)は天文二十二年に卒去(そつきよ)した人       であるが松平清康(まつだひらきよやす)が吉田城(よしだぜう)に牧野傳蔵信成(まきのでんぞうのぶしげ)等(ら)を攻(せ)めた時には最初(さいしよ)から清康(きよやす)に属(ぞく)して戦功(せんこう)が多(おほ)くあつた 葵紋の説  のである世(よ)の伝(つた)ふる所によると此時(このとき)正忠(まさたゞ)は巳(おの)れが伊奈(いな)の城(しろ)に清康(きよやす)を請(こう)じて酒肴(しゆこう)を進(すゝ)め肴盤(こうばん)に池(いけ)なる水(みづ)        葵(あふい)の葉(は)を藉(かり)て出(だ)したのである清康(きよやす)は之(これ)を見て立葵(たちあふひ)は本多家(ほんだけ)の紋(もん)であるのに今度(こんたび)の勝利(せうり)は正忠(まさたゞ)が最初(さいしよ)に 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百十八号附録   ( 明治四十四年七月廿五日発行 ) 【本文】        味方(みかた)したからである之(これ)は誠(まこと)に吉例(きちれい)であると云ふので之(これ)から徳川氏(とくがはし)に於ては三 葵(あほひ)の紋所(もんどころ)を用ゆることにな       つたのであると云ふ事である然(しか)るに徳川家の三 葵(あほひ)の紋所(もんどころ)に就(つい)ては古来(こらい)紛々(ふん〳〵)の説(せつ)があつて殆(ほとん)ど確実(かくじつ)なる       ものがない即(すなは)ち右(みぎ)の説(せつ)の外(ほか)に此(この)葵(あほひ)の紋(もん)は最初(さいしよ)酒井左衛門尉(さかゐさゑもんのぜう)の家(いへ)から上(あ)げたものであるとも云ひ又(ま)た酒(さか)        井雅樂頭(ゐうたのかみ)家(け)からであるとも云ひ其他(そのた)本多中務大輔(ほんだなかつとたいゆう)の家(いへ)からであるとか高力村(たかりきむら)の老翁(らうおう)から献(けん)じたもので       あるとか種々(しゆ〳〵)な説(せつ)が行(おこな)はれて居るが元来(がんらい)新田家(につたけ)には古(ふる)くから葵(あほひ)の紋(もん)を用ゐた流(ながれ)があると云ふ説(せつ)がある        又(ま)た松平氏(まつだひらし)にも矢張(やはり)清康(きよやす)以前(いぜん)から既(すで)に葵(あほひ)を紋(もん)となした流(ながれ)があると云ふ説(せつ)があるので文政(ぶんせい)年間(ねんかん)に竹尾次(たけをつぐ)        春(はる)と云ふ人が著(あらは)した旧考余録(きうこうよろく)と云ふ書物(しよもつ)などには頗(すこぶ)る精細(せいさい)に此事(このこと)が考証(こうせう)してある従(したがつ)て葵(あほひ)の紋(もん)の事は        尚(な)ほ余程(よほど)研究(けんきう)の余地(よち)があるもので世(よ)の伝説(でんせつ)のみに拠(よ)り得(え)らるべきものではあるまいと信(しん)ずるのである       サテ正忠(まさたゞ)の子は忠俊(たゞとし)で忠俊(たゞとし)の子が光忠(みつたゞ)と忠次(たゞつぐ)とであるが光忠(みつたゞ)の所労(しよろう)によりて弟(おとゝ)の忠次(たゞつぐ)が父(ちゝ)の後(あと)を相続(さうぞく)       したのである兎(と)に角(かく)此家(このいへ)は歴代(れきだい)徳川氏の為(た)には忠勤(ちうきん)を励(はげ)むだものであるが忠次(たゞつぐ)の子の康俊(やすとし)と云ふのは        実(じつ)は酒井左衛門尉忠次(さかゐさゑもんのぜうたゞつぐ)の子で本多家(ほんだけ)の養子(やうし)となつたのである此(この)人々(ひと〳〵)の事に付ても話(はなし)は沢山(たくさん)にあるが矢(や)        張(はり)追々(おひ〳〵)折(をり)に触(ふ)れて申述ぶることに致(いた)したい考(かんがへ)である尚(な)ほ右(みぎ)諸家(しよけ)の外(ほか)にも西郷氏(さいごうし)の如(ごと)き御話(おはなし)したいもの       もあるが前章(ぜんせう)に於て既(すで)に略(ほ)ぼ申述(もうしの)べてあるように思(おも)ふから先(ま)づ此話(このはなし)はこゝに止(とゞ)めて酒井忠次(さかゐたゞつぐ)が吉田城(よしだぜう)       に入(はい)つてより後(のち)の状態(ぜうたい)に立戻(たともど)つて次章(じせう)から申述(もうしの)べたいと思(おも)ふのである             ⦿今川氏の衰亡と武田氏の侵入        前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如く吉田(よしだ)の城(しろ)は永禄(えいろく)八年三月 遂(つひ)に徳川家康(とくがはいへやす)の手に帰(き)し家康(いへやす)は之(これ)を酒井忠次(さかゐたゞつぐ)に与(あた)へたの       であるが今川方(いまがはがた)の小原鎮実(をはらしげさね)は此城(このしろ)を明渡(あけわた)して後(のち)暫(しばら)くは遠江(とほとふみ)鵜津山(うつやま)の城(しろ)に居(を)つたのである後(のち)に駿河国(するがのくに)花(はな) 【欄外】    豊橋市史談  (今川氏の衰亡と武田氏の侵入)             九十七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                九十六 【本文】 宝飯郡深溝に城を構えていたのである。祖父大炊助好景は前にも申し述べた如く、先に幡豆郡善明寺堤において吉良義昭の兵と戦って討死し、父の伊忠は長篠合戦で討死したが、自分もまた後に鳥居元忠と共に伏見城を守って遂に戦死したのである。即ち三代引き続いて徳川家のために忠死したので、これもまた実に同情すべき家であると思う。また竹谷の松平氏は、あの肥後守清善の家で、清善は信光からおよそ五代に当たるのであるが、この人が初めて竹谷に住したのである。而してその孫の玄蕃頭家清は後にこの吉田の城主に封せられたので、詳しい事はその時代に当たって申し述べる考えである。また形原松平というのは信光の第五子佐渡守興嗣から出でているので、初め岩津殿と云われたのであるが、吉田合戦の頃は紀伊守家嗣という人の頃である。この人は興嗣五代の孫で、父を紀伊守家忠といい、その子は紀伊守家信である。この人々もまた徳川家のためには忠勤を尽くしたもので、この家もやはり後に諸侯の列に加わったのである。 その次が伊奈の本多氏についてであるが、本多氏は元来藤原氏で、九条関白師輔十二世の孫助秀という人が豊後国本多という処に住して本多を氏としたのが始まりであるという事である。その子に助定という人があって尾張国に来り、それから六世の孫に助時という人があったが、これが初めて三河国に来て松平長親に仕えたのであるというのが普通に伝わっている説である。即ち平八郎忠勝の家も、前にお話しして置いた豊後守広孝の家も、作左衛門重次の家も皆同族で、元は互いに分れたものである。而して伊奈の本多氏は正時という人を祖として居て、その子が正助、その孫が即ち縫殿助正忠である。この人は天文二十二年に卒去した人であるが、松平清康が吉田城に牧野伝蔵信成等を攻めた時には最初から清康に属して戦功が多くあったのである。 葵紋の説 世の伝える所によると、この時正忠は自らが伊奈の城に清康を請じて酒肴を進め、肴盤に池なる水葵の葉を藉いて出したのである。清康はこれを見て「立葵は本多家の紋であるのに、今度の勝利は正忠が最初に 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百十八号附録   ( 明治四十四年七月二十五日発行 ) 【本文】 味方したからである。これは誠に吉例である」ということで、これから徳川氏においては三葵の紋所を用いることになったのであるという事である。然るに徳川家の三葵の紋所については古来紛々の説があって殆ど確実なるものがない。即ち右の説の外にこの葵の紋は最初酒井左衛門尉の家から上げたものであるとも云い、また酒井雅楽頭家からであるとも云い、その他本多中務大輔の家からであるとか高力村の老翁から献じたものであるとか種々な説が行われているが、元来新田家には古くから葵の紋を用いた流れがあるという説がある。また松平氏にもやはり清康以前から既に葵を紋とした流れがあるという説があるので、文政年間に竹尾次春という人が著した『旧考余録』という書物などには頗る精細にこの事が考証してある。従って葵の紋の事は尚余程研究の余地があるもので、世の伝説のみに拠り得らるべきものではあるまいと信ずるのである。 さて正忠の子は忠俊で、忠俊の子が光忠と忠次とであるが、光忠の所労によりて弟の忠次が父の後を相続したのである。とにかくこの家は歴代徳川氏のためには忠勤を励むだものであるが、忠次の子の康俊というのは実は酒井左衛門尉忠次の子で本多家の養子となったのである。この人々の事に付ても話は沢山にあるが、やはり追々折に触れて申し述べることにしたい考えである。尚右諸家の外にも西郷氏の如きお話ししたいものもあるが、前章において既に略ぼ申し述べてあるように思うから、先ずこの話はここに止めて酒井忠次が吉田城に入ってより後の状態に立戻って次章から申し述べたいと思うのである。 ◉今川氏の衰亡と武田氏の侵入 前章に申し述べた如く、吉田の城は永禄八年三月遂に徳川家康の手に帰し、家康はこれを酒井忠次に与えたのであるが、今川方の小原鎮実はこの城を明け渡して後、暫くは遠江鵜津山の城に居ったのである。後に駿河国花 【欄外】 豊橋市史談  (今川氏の衰亡と武田氏の侵入)             九十七

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Sakai Tadatsugu and the Retainers of Eastern Mikawa) - 96 [Main Text] had his castle in Fukauzu, Hoi District. His grandfather Ōisuke Yoshikage, as previously mentioned, had died in battle fighting against the forces of Kira Yoshiakira at Zenmyōji-tsutsumi in Hazu District, and his father Koretada died in battle at Nagashino. He himself later died defending Fushimi Castle together with Torii Mototada. Thus three generations in succession died loyally for the Tokugawa house, making this truly a family deserving of sympathy. The Matsudaira clan of Takenotani was the house of Higo-no-kami Kiyoyoshi, who was about five generations from Nobumitsu, and this person was the first to reside in Takenotani. His grandson Genba-no-kami Iekiyo was later enfeoffed as lord of this Yoshida castle, so I plan to discuss the details when we reach that period. The Katanohara Matsudaira descended from Nobumitsu's fifth son, Sado-no-kami Okitsugu, who was initially called Iwazu-dono. During the Yoshida battle, it was the time of Kii-no-kami Ietsugu. This person was Okitsugu's great-great-great-grandson, his father was called Kii-no-kami Ietada, and his son was Kii-no-kami Ienobu. These people also devoted loyal service to the Tokugawa house, and this family too later joined the ranks of daimyo. Next concerns the Honda clan of Ina. The Honda clan originally belonged to the Fujiwara lineage, and it is said that a person named Sukehide, the twelfth-generation descendant of Kujō Kampaku Morosuke, lived in a place called Honda in Bungo Province and took Honda as his clan name. His son Sukesada came to Owari Province, and his sixth-generation descendant Suketoki was the first to come to Mikawa Province and serve Matsudaira Nagachika - this is the commonly transmitted account. The house of Heihachirō Tadakatsu, the house of Bungo-no-kami Hirotaka that I mentioned earlier, and the house of Sakuzaemon Shigetsugu were all of the same clan, originally branches of each other. The Honda clan of Ina traced their ancestry to a person named Masatoki, whose son was Masasuke, and whose grandson was Nuinodosuke Masatada. This person died in Tenbun 22, but when Matsudaira Kiyoyasu attacked Makino Denzō Nobushige and others at Yoshida Castle, he belonged to Kiyoyasu from the beginning and achieved many military merits. The Theory of the Aoi Crest: According to tradition, at this time Masatada invited Kiyoyasu to his castle in Ina, offered him sake and delicacies, and served them on plates garnished with water aoi (hollyhock) leaves from the pond. Seeing this, Kiyoyasu said, "The standing aoi is the crest of the Honda house, and this victory came because Masatada was the first to [Left Page] [Header] Sanyō Shinpō Issue 3818 Supplement (Published July 25, Meiji 44) [Main Text] take our side. This is truly auspicious," and from then on the Tokugawa clan began using the three-aoi crest. However, regarding the Tokugawa family's three-aoi crest, there have been various confused theories since ancient times with hardly any certain account. Besides the above theory, it is also said that this aoi crest was first presented by the house of Sakai Saemon-no-jō, or from the house of Sakai Utanokami, or from the house of Honda Nakatsukatayū, or was献上d by an old man from Takariki village - various theories circulate. Originally there is a theory that the Nitta family had long used the aoi crest. There is also a theory that the Matsudaira clan had already used the aoi as their crest even before Kiyoyasu's time. The book "Kyūkō Yoroku" written by Takeo Tsuguharu during the Bunsei period contains quite detailed research on this matter. Therefore, the matter of the aoi crest still has considerable room for research and should not be relied upon solely on popular legends. Now, Masatada's son was Tadatoshi, and Tadatoshi's sons were Mitsutada and Tadatsugu, but due to Mitsutada's illness, his younger brother Tadatsugu succeeded their father. In any case, this house had for generations devoted loyal service to the Tokugawa clan, but Tadatsugu's son Yasutoshi was actually the son of Sakai Saemon-no-jō Tadatsugu and became an adopted son of the Honda house. There are many stories about these people too, but I would like to relate them gradually as occasions arise. Among the other houses besides those mentioned, there are families like the Saigō clan that I would like to discuss, but since I believe I have already roughly covered them in the previous chapter, I will stop this discussion here and return to the situation after Sakai Tadatsugu entered Yoshida Castle, which I wish to discuss from the next chapter. ◉The Decline of the Imagawa Clan and the Invasion of the Takeda Clan As stated in the previous chapter, Yoshida Castle finally fell into the hands of Tokugawa Ieyasu in the third month of Eiroku 8, and Ieyasu gave it to Sakai Tadatsugu. The Imagawa retainer Ohara Shigesane, after surrendering this castle, temporarily resided at Uzuyama Castle in Tōtōmi. Later he went to Hana in Suruga Province [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Decline of the Imagawa Clan and the Invasion of the Takeda Clan) - 97