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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 63

ページ: 63

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【欄外】    豊橋市史談  (今川氏の衰亡と武田氏の侵入)                  九十八 【本文】        沢(さわ)の城(しろ)に籠(こも)り武田氏(たけだし)の為(ため)に攻(せめ)られて高天神(たかてんじん)に走(はし)りて討死(うちじに)したのであるが元来(がんらい)此(この)鎮実(しげさね)と云ふ人は如何(いか)な 《割書:小原鎮実の|素性》  る素性(すぜう)のものであるか種々(しゆ〴〵)の説(せつ)があつて甚(はなは)だ確(たしか)でない併(しか)し今川家(いまがはけ)に於ては中々(なか〳〵)勢力(せいりよく)のあつたもので松(まつ)        平記(だひらき)に拠(よ)ると初(はじ)め近江(あふみ)の住人(ぢうにん)で小倉(をぐら)三 河守(かはのかみ)と云ふ人が伊豆(いづ)の熱海(あたみ)に湯治(とうぢ)をした時(とき)図(はか)らず義元(よしもと)に遇(あ)つて        召抱(めしかゝ)へられる事になつたが自分(じぶん)は老人(らうじん)であると云ふので其子(そのこ)の與助(よすけ)と云ふものを薦(すゝ)めたのである鎮実(しげさね) 《割書:三浦右衛門|佐》  も亦(ま)た近江(あふみ)の人で即(すなは)ち此(この)與助(よすけ)の紹介(せうかい)で今川家に仕(つか)ゆるに至(いた)つたのである而(しか)して其子(そのこ)の右衛門佐(うゑもんすけ)と云ふ       のは今川家(いまがはけ)の家老(からう)三浦次郎右衛門(みうらじらううゑもん)の遺跡(ゐせき)を継(つ)いで武勇(ぶゆう)もあつたが特(とく)に美男(びだん)であつたので氏真(うぢさね)の嬖臣(へいしん)で       あつたと云ふ事である又(ま)た同書(どうしよ)によれば永禄(えいろく)十年の頃(ころ)から駿河国(するがのくに)には風流(ふうりう)の踊(おどり)が流行(りうこう)して氏真(うぢさね)は之(これ)等(ら) 《割書:駿河国政の|紊乱》  の嬖臣(へいしん)と踊(おど)り囃(はや)して日夜(にちや)遊宴(ゆうゑん)に耽(ふけ)つて居つたと云ふ事である併(しか)し之(これ)等(ら)の事柄(ことがら)に就(つい)ては頗(すこぶ)る他(た)に説(せつ)があ       るから深(ふか)き研究(けんきう)もなくて断定(だんてい)はし兼(か)ぬるが兎(と)に角(かく)駿河(するが)の国政(こくせい)と云ふものは其頃(そのころ)に至(いた)つて大(おほい)に紊乱(びんらん)し人(じん)        心(しん)は漸(やうや)く離反(りはん)せむとしたのである此機(このき)に乗(ぜう)じて逸早(いつはや)く駿河(するが)を窺(うかゞ)つたのは甲斐(かひ)の武田信玄(たけだしんげん)であつた 《割書:武田氏侵入|の経路》   之(これ)より武田氏(たけだし)侵入(しんにふ)の事を申述(もうしのべ)るに就(つい)ては其(その)経路(けいろ)として武田氏(たけだし)の事は勿論(もちろん)関東(くわんとう)諸将(しよせう)の事に就(つい)て少(すこ)しく申       述べねばならぬと思(おも)ふが武田信玄(たけだしんげん)の事に就(つい)ては私(わたくし)が申上(もうしあ)ずとも既(すで)に諸君(しよくん)が能(よ)く御承知(ごせうち)の事であると思(おも) 武田信虎  ふ元来(がんらい)信玄(しんげん)の父(ちゝ)信虎(のぶとら)と云ふ人は頗(すこぶ)る武威(ぶゐ)を振(ふる)つたもので甲斐国内(かひのこくない)の諸族(しよぞく)を威服(ゐふく)したのである此人(このひと)は実(じつ)       に強暴(けうぼう)不慈(ふじ)の行(おこない)が多(おほ)く国人(こくじん)の怨望(えんぼう)が甚(はなはだ)しかつた処から天文(てんぶん)十年六月四十八歳の時(とき)に駿河(するが)に退隠(たいゐん)し 甲陽軍鑑  たのであるが此(この)事(こと)に関(くわん)し従来(じうらい)甲陽軍鑑(かうようぐんかん)などの説(せつ)が最(もつと)も世(よ)に流布(るふ)せられて居るので信玄(しんげん)が父(ちゝ)を遂(を)つて自(じ)        立(りつ)したものであるように伝(つた)へられて居る併(しか)し前(まへ)にも申述(もうしの)べた如く甲陽軍鑑(かうようぐんかん)と云ふ書物(しよもつ)は十 分(ぶん)に信用(しんよう)す       ることの出来(でき)ぬもので其(その)著者(ちよしや)に就(つい)ても色々(いろ〳〵)の説(せつ)がある史家(しか)の通説(つうせつ)としては木幡勘兵衛景憲(こはたかんべゑかげのり)と云ふ人が武(たけ)        田家(だけ)の兵法(へいほう)を寓(ぐう)し合戦(かつせん)の輸嬴韜略(ゆえいたうりやく)の得失(とくしつ)などを述(の)べて信玄(しんげん)の遺風(ゐふう)を伝(つた)へむが為(た)めに高坂弾正(たかさかだんぜう)の遺記(ゐき)だ 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 □□□豊橋市史談         □□□□ 【本文】 《割書:山本勘介の|子》  の山本勘介(やまもとかんすけ)の子(こ)関山(せきやま)僧(そう)学文(がくぶん)の覚書(おぼえがき)だのを斟酌(しんしやく)し之(これ)に仮托架空(かたくかくう)の潤飾(じゆんしよく)を加(くは)へたものであると云ふ事で       ある従(したがつ)て其(その)書(しよ)に拠(よ)れる説(せつ)は信(しん)じ難(がた)いのみならず西原文書(にしはらぶんしよ)幷(ならび)に妙法寺記(みようほうじき)などによると信虎(のぶとら)退隠(たいゐん)に就(つい)て       は武田家(たけだけ)の老臣(らうしん)と今川家(いまがけ)の家老(からう)岡部美濃守(をかべみのゝかみ)幷(ならび)に雪斎(せつさい)長老(てうらう)などとの計(はか)らひで先(ま)づ信虎(のぶとら)を駿河(するが)に招(まね)いて退(たい)        隠(ゐん)を勧(すゝ)めたので信虎(のぶとら)も遂(つひ)に之(これ)を承諾(せうだく)したものであると云うのが事実(じじつ)であるように思(おも)ふモツトモ当時(とうじ)駿(する) 《割書:武田今川二|氏の連合》   河(が)に於(おい)ては今川義元(いまがはよしもと)が盛(さかん)な時代(じだい)で義元(よしもと)の妻(つま)は即(すなは)ち信虎(のぶとら)の女(ぢよ)であるので武田(たけだ)今川(いまがは)二 氏(し)の間(あひだ)は和親(わしん)が固(かた)か 山本勘介  つたのであるからかゝる計(はか)らひに出(い)でたものと信(しん)ぜられるのであるソコで一寸(ちょつと)御話(おはなし)して置(お)きたいのは        山本勘介(やまもとかんすけ)の事であるが今日の研究(けんきう)によると此人(このひと)にはドウモ旧来(きうらい)世(よ)に称(せう)せられて居(を)るような形跡(けいせき)はない       ので此人(このひと)は全(まつた)く山縣(やまがた)三 郎兵衛昌景(らうべうゑまさかげ)の一 兵卒(へいそつ)であつたに過(す)ぎなかつた様子(やうす)である然(しか)るに前(まへ)に申述(もうしの)べた        如(ごと)く其子(そのこ)の学文(がくぶん)と云ふ僧(そう)が稍々(やゝ)文筆(ぶんひつ)のあつたもので父(ちゝ)の事蹟(じせき)を色々(いろ〳〵)と潤飾(じゆんしよく)して記録(きろく)して置(お)いたので       あるが甲陽軍鑑(かうようぐんかん)の著者(ちよしや)が更(さら)にソレを材料(ざいりよう)に架空(かくう)の説(せつ)を加(くは)えたので遂(つひ)に今日(こんにち)行(おこな)はれて居(を)るような伝説(でんせつ)を        生(う)み出(いだ)したものであると云ふ説(せつ)が正(たゞし)い事(こと)と信(しん)ずる例(れい)の東海道名所図絵(とうかいどうめいしよづゑ)などには恰(あたか)も劉元徳(りうげんとく)が孔明(こうめい)の処       へ三 顧(こ)せる図(づ)のようなものが載(の)せてあつて信玄(しんげん)が勘介(かんすけ)を牛久保(うしくぼ)の僑居(きようきよ)へ訪問(ほうもん)した様(さま)が書(かい)いてあるが之(これ)        等(ら)は無論(むろん)仮托(かたく)の説(せつ)で取(と)るに足(た)らぬにも拘(かゝは)らず却(かへつ)て世(よ)に誤(あやま)れる伝説(でんせつ)の流布(るふ)せる原因(げんゐん)ともなつて居(を)る事と 信玄自立   思(おも)ふサテ信玄(しんげん)は大永(たいえい)元年(がんねん)巳(み)の歳(とし)の生(うまれ)であるから父(ちゝ)信虎(のぶとら)に替(かは)つて甲斐国主(かひのこくしゆ)となつた時は廿一歳であつた 《割書:武田北条二|氏の連合》  が夙(つと)に旗(はた)を京畿(けいき)に立(た)つる志(こゝろざし)があつたソレには路(みち)を信濃(しなの)飛騨(ひだ)に取(と)るより外(ほか)には差当(さしあた)り方法(はうほう)がないと云       ふので却(かへつ)て関東(くわんとう)の北条氏(ほうじようし)とは和親(わしん)を結(むす)むで専(もつぱ)ら信濃(しなの)攻略(こうりやく)に力(ちから)を用(もち)ゐたのであるソコで天文十一年に兵(へい) 《割書:信玄の信濃|侵略》  を信濃(しなの)に出(いだ)して己(おの)れの妹聟(いもとむこ)である諏訪頼重(すはよりしげ)を亡(ほろ)ぼしたのを初(はじ)めとして十二年には深志(ふかし)の城主(ぜうしゆ)(《割書:今の松|本の地》)小(を)        笠原長時(がさはらながとき)を破(やぶ)り十四年十五年には引続(ひきつゞ)いて兵(へい)を伊奈(いな)佐久(さく)の両地方(れうちはう)に出(いだ)したが十六年には二 回(くわい)の出兵(しゆつへい)を 【欄外】    豊橋市史談  (今川氏の衰亡と武田氏の侵入)                  九十九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談  (今川氏の衰亡と武田氏の侵入)                  九十八 【本文】 沢の城に籠もり、武田氏のために攻められて高天神に走って討死したのであるが、元来この鎮実という人はいかなる素性のものであるか、種々の説があって甚だ確かでない。しかし今川家においては中々勢力のあったもので、『松平記』によると、初め近江の住人で小倉三河守という人が伊豆の熱海に湯治をした時、図らず義元に遇って召し抱えられる事になったが、自分は老人であるというので、その子の与助というものを薦めたのである。鎮実もまた近江の人で、即ちこの与助の紹介で今川家に仕えるに至ったのである。而してその子の右衛門佐というのは、今川家の家老三浦次郎右衛門の跡を継いで武勇もあったが、特に美男であったので氏真の寵臣であったということである。 また同書によれば、永禄十年の頃から駿河国には風流の踊りが流行して、氏真はこれらの寵臣と踊り囃して日夜遊宴に耽っていたということである。しかしこれらの事柄については頗る他に説があるから、深い研究もなくて断定はしかねるが、とにかく駿河の国政というものは、その頃に至って大いに紊乱し、人心は漸く離反しようとしたのである。 この機に乗じて逸早く駿河を窺ったのは甲斐の武田信玄であった。これより武田氏侵入の事を申し述べるについては、その経路として武田氏の事は勿論、関東諸将の事について少しく申し述べねばならぬと思うが、武田信玄の事については私が申し上げずとも、既に諸君がよく御承知の事であると思う。 元来信玄の父信虎という人は、頗る武威を振るったもので甲斐国内の諸族を威服したのである。この人は実に強暴不慈の行いが多く、国人の怨望が甚だしかった処から、天文十年六月四十八歳の時に駿河に退隠したのであるが、この事に関し、従来『甲陽軍鑑』などの説が最も世に流布されているので、信玄が父を追って自立したものであるように伝えられている。しかし前にも申し述べた如く、『甲陽軍鑑』という書物は十分に信用することの出来ぬもので、その著者についても色々の説がある。史家の通説としては、木幡勘兵衛景憲という人が武田家の兵法を寓し、合戦の輸贏韜略の得失などを述べて、信玄の遺風を伝えんがために、高坂弾正の遺記だ 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は、その該博なる智識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 豊橋市史談 【本文】 の山本勘介の子関山僧学文の覚書だのを斟酌し、これに仮托架空の潤飾を加えたものであるということである。従ってその書に拠れる説は信じ難いのみならず、『西原文書』並びに『妙法寺記』などによると、信虎退隠については武田家の老臣と今川家の家老岡部美濃守並びに雪斎長老などとの計らいで、先ず信虎を駿河に招いて退隠を勧めたので、信虎も遂にこれを承諾したものであるというのが事実であるように思う。もっとも当時駿河においては今川義元が盛んな時代で、義元の妻は即ち信虎の女であるので、武田今川二氏の間は和親が固かったのであるから、かかる計らいに出でたものと信ぜられるのである。 そこで一寸お話しして置きたいのは山本勘介の事であるが、今日の研究によると、この人にはどうも旧来世に称せられているような形跡はないので、この人は全く山県三郎兵衛昌景の一兵卒であったに過ぎなかった様子である。然るに前に申し述べた如く、その子の学文という僧が稍々文筆のあったもので、父の事蹟を色々と潤飾して記録して置いたのであるが、『甲陽軍鑑』の著者が更にそれを材料に架空の説を加えたので、遂に今日行われているような伝説を生み出したものであるという説が正しい事と信ずる。 例の『東海道名所図絵』などには、恰も劉元徳が孔明の処へ三顧せる図のようなものが載せてあって、信玄が勘介を牛久保の僑居へ訪問した様が書いてあるが、これらは無論仮托の説で取るに足らぬにも拘らず、却って世に誤れる伝説の流布せる原因ともなっている事と思う。 さて信玄は大永元年巳の歳の生まれであるから、父信虎に替って甲斐国主となった時は廿一歳であったが、夙に旗を京畿に立つる志があった。それには路を信濃飛騨に取るより外には差し当たり方法がないということで、却って関東の北条氏とは和親を結んで、専ら信濃攻略に力を用いたのである。そこで天文十一年に兵を信濃に出して、己れの妹聟である諏訪頼重を亡ぼしたのを初めとして、十二年には深志の城主(今の松本の地)小笠原長時を破り、十四年十五年には引き続いて兵を伊奈佐久の両地方に出したが、十六年には二回の出兵を 【欄外】 豊橋市史談  (今川氏の衰亡と武田氏の侵入)                  九十九

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Decline of the Imagawa Clan and the Invasion of the Takeda Clan) - 98 [Main Text] zawa Castle, was attacked by the Takeda clan, fled to Takatengjin, and died in battle there. Originally, there are various theories about what kind of background this person Shigesane had, and it is quite uncertain. However, he had considerable influence within the Imagawa house, and according to the "Matsudaira-ki," initially a resident of Ōmi named Ogura Mikawa-no-kami was taking hot spring baths in Atami, Izu, when he unexpectedly encountered Yoshimoto and was invited to serve him. Since he said he was an old man, he recommended his son named Yosuke. Shigesane was also from Ōmi, and through this Yosuke's introduction came to serve the Imagawa house. His son Uemon-no-suke succeeded the position of Imagawa house elder Miura Jirō Uemon, had military prowess, but was particularly handsome, so he was Ujizane's favorite retainer. Also according to the same book, from around Eiroku 10, elegant dancing became popular in Suruga Province, and Ujizane spent day and night indulging in banquets, dancing and making music with these favorite retainers. However, regarding these matters, there are quite different theories, so without deep research I cannot make definitive judgments, but in any case, Suruga's national administration became greatly disordered around that time, and the people's hearts were gradually beginning to turn away. Taking advantage of this opportunity, the one who quickly set his sights on Suruga was Takeda Shingen of Kai. In discussing the Takeda clan's invasion, I think I must first briefly discuss not only the Takeda clan but also the generals of Kantō as background, but regarding Takeda Shingen, I believe you gentlemen are already well acquainted with his story without my explanation. Originally, Shingen's father, a man named Nobutora, wielded considerable military authority and brought the various clans of Kai Province under his control. This person had many truly tyrannical and merciless acts, and the resentment of the people was extreme, so in the sixth month of Tenbun 10 at age 48, he retired to Suruga. Regarding this matter, theories from the "Kōyō Gunkan" and similar works have been most widely circulated, so it has been transmitted that Shingen expelled his father and established himself independently. However, as I mentioned before, the book called "Kōyō Gunkan" cannot be fully trusted, and there are various theories about its author. The general scholarly consensus is that a person named Kohata Kanbei Kagenori, in order to preserve Shingen's legacy by recording Takeda military methods and discussing the gains and losses of battle strategies, incorporated the posthumous records of Takasaka Danjō and [Header] Mayor of Toyohashi, Mr. Ōguchi Kiroku, has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as his manuscript is nearly complete [Left Page] [Header] Toyohashi City Historical Discussions [Main Text] the memoirs of Yamamoto Kansuke's son, the monk Sekiyama Gakubun, adding fictional embellishments to them. Therefore, theories based on that book are not only hard to believe, but according to the "Nishihara Documents" and the "Myōhōji-ki," regarding Nobutora's retirement, it was arranged by Takeda house elders and Imagawa house elder Okabe Mino-no-kami along with Elder Sesshū, who first invited Nobutora to Suruga and advised him to retire, and Nobutora finally accepted this - this seems to be the truth. At that time, Suruga was in the prosperous era of Imagawa Yoshimoto, and Yoshimoto's wife was Nobutora's daughter, so the alliance between the Takeda and Imagawa clans was firm, which is why such an arrangement was believed to have been made. Here I would like to briefly discuss Yamamoto Kansuke. According to current research, this person does not seem to have the kind of background traditionally attributed to him, and apparently he was merely a common soldier under Yamagata Saburōbei Masakage. However, as mentioned before, his son, a monk named Gakubun, had some literary ability and recorded his father's deeds with various embellishments. The author of "Kōyō Gunkan" further used this as material and added fictional theories, thus giving birth to the legends that circulate today - this theory I believe to be correct. In works like the "Tōkaidō Meisho Zue," there are illustrations resembling Liu Xuande's three visits to Zhuge Liang, showing Shingen visiting Kansuke at his temporary residence in Ushikubo, but these are of course fictional theories not worth considering, yet they have become causes for the spread of erroneous legends. Now, Shingen was born in the first year of Taiei, year of the Snake, so when he replaced his father Nobutora as lord of Kai Province, he was twenty-one years old, but he had long harbored ambitions to plant his banner in the capital region. For this, the only immediate method was to take the route through Shinano and Hida, so instead he formed an alliance with the Hōjō clan of Kantō and devoted his efforts exclusively to conquering Shinano. Thus in Tenbun 11 he sent troops to Shinano and first destroyed his brother-in-law Suwa Yorishige, then in the 12th year defeated Ogasawara Nagatoki, lord of Fukashi Castle (present-day Matsumoto), and in the 14th and 15th years continued to send troops to both the Ina and Saku regions, but in the 16th year made two military expeditions [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Decline of the Imagawa Clan and the Invasion of the Takeda Clan) - 99