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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 64

ページ: 64

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【欄外】    豊橋市史談  (今川氏の衰亡と武田氏の侵入)                   百 【本文】       したのみならず漸(やうや)く北進(ほくしん)して十七年二月には埴科郡(はにしなぐん)葛尾(かつを)の城主(ぜうしゆ)村上義清(むらかみよしきよ)と上田原(うへだはら)に対陣(たいぢん)し其(その)七月には        小笠原勢(をがさはらぜい)を塩尻峠(しほじりとほげ)に破(やぶ)つたのであるかゝる次第(しだい)で村上(むらかみ)小笠原(をがさはら)二 氏(し)も其(その)勢(せい)漸(やうや)く慼(ちゞ)まつて長時(ながとき)は廿一年十 上杉謙信  二月 義清(よしきよ)は廿二年八月に孰(いづ)れも越後(えちご)に逃(のが)れて上杉謙信(うへすぎけんしん)に依(よ)つたのであるが之(これ)が抑(そもそ)も川中島合戦(かはなかじまかつせん)の起(おこ)る 川中島合戦  原因(げんゐん)である此(この)川中島合戦(かはなかじまかつせん)に就(つい)ても旧来(きうらい)多(おほ)く甲陽軍鑑(かうようぐんかん)又(また)は甲越軍記(かうえつぐんき)川中島(かはなかじま)五 戦記(せんき)などの説(せつ)が行(おこな)はれて居       るので甚(はなは)た誤(あやまり)を伝(つた)へられて居る事が多い然(しか)るに近来(きんらい)は段々(だん〳〵)之(これ)に関係(くわんけい)ある根本史料(こんぽんしりよう)も発見(はつけん)され田中義(たなかよし)        成(なり)博士(はかせ)などの考証(こうせう)もあるが之(これ)等(ら)は余(あま)り本史談(ほんしだん)に関係(くわんけい)もないように思(おも)ふから私(わたくし)の如(ごと)き専門(せんもん)の智識(ちしき)がない       ものが此処(こゝ)に申述(もうしの)ぶるのは却(かへつ)て宜敷(よろし)くあるまいかと思(おも)ふ        兎(と)に角(かく)川中島合戦(かはなかじまかつせん)の初度(しよど)は弘治(こうぢ)元年(がんねん)七月であるが此時(このとき)は其(その)年(とし)の閏(うるふ)十月 迄(まで)相対峙(あひたいじ)したものである併(しか)し今(いま)        川義元(がはよしもと)の調停(てうてい)で一たびは解(と)け去(さ)つたが其(その)後(ご)七年を経(へ)て永禄(えいろく)四年十月 再(ふたゝ)び相衝突(あひせうとつ)して激戦(げきせん)があつたので       あるモツトモ其七年間には尚(な)ほ幾多(いくた)の小戦(せうせん)はあつた様子(やうす)であるが此(この)間(あひだ)に双方(そうはう)が他(た)の方面(はうめん)に向(むかつ)て活動(かつどう)し       た事は又(ま)た格別(かくべつ)であつたのである 北条氏   ソコで少(すこ)しく北条氏(ほうじようし)の話(はなし)を述(の)べねばならぬ事になつたのであるが初(はじ)め北条早雲(ほうじようさううん)と云ふ人は今川氏(いまがはし)の将(せう)       で遂(つひ)に自(みづか)ら伊豆(いづ)を定(さだ)め小田原(おだはら)を略(りやく)し将(まさ)に関東(くわんとう)八 州(しう)を席巻(せきくわん)せむとする勢(いきほひ)で屡々(しば〳〵)甲州(かうしう)へも攻(せ)め入(い)つたの 北条氏綱  である永正(えいせう)十六年八月に卒(そつ)したが其子(そのこ)の氏綱(うぢつな)は父のあと後(あと)を嗣(つ)いで益々(ます〳〵)版図(はんと)を拡張(くわくてう)し大永(たいえい)四年正月 江戸城(えどぜう)       を抜(ぬ)き天文六年七月 河越(かはごゑ)を陥(おとしい)れ七年十月 鴻(こう)の台(だい)に勝(か)つて既(すで)に伊豆(いづ)相模(さがみ)武蔵(むさし)を併(あは)せ上総(かづさ)下総(しもおさ)の一 部(ぶ)を        略(りやく)し次第(しだい)に上州(ぜうしう)に及(およ)ばむとしたのであるトコロで武田信虎(たけだのぶとら)は当時(とうじ)到底(とうてい)之(これ)に抗(こう)することの出来(でき)ぬのを慮(おもんば)つ       て深(ふか)く今川氏(いまがはし)に結(むす)むで防禦(ぼうぎよ)の策(さく)を立(た)てたのあるが氏綱(うぢつな)に於(おい)ては此(この)二 氏(し)の連合(れんごう)を以(もつ)て己(おの)れに不利(ふり)であ 北条氏康  るとなして更(さら)に駿河(するが)に攻(せ)め入(い)つたのである然(しか)るに氏綱(うぢつな)も天文(てんぶん)十年七月に卒去(そつきよ)したので其子(そのこ)の氏康(うぢやす)が嗣(し) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百三十号附録  ( 明治四十四年八月八日発行 ) 【本文】        立(りつ)したが此(この)氏康(うぢやす)と云ふ人は文武両道(ぶんぶれうどう)に達(たつ)した人で有名(ゆうめい)なる武将(ぶせう)であつた此(この)人(ひと)の著(ちよ)で武蔵野紀行(むさしのきこう)などゝ       云ふものがあるが之(これ)は諸君(しよくん)が御承知(ごせうち)の事と思ふ而(しか)して氏康(うぢやす)嗣立(しりつ)の時は恰(あたか)も二十六歳であつたが前(まへ)にも        申述(もうしのべ)た如く丁度(ちようど)此年(このとし)に武田信玄(たけだしんげん)は二十一歳で自立(じりつ)したのである而(しか)も信濃(しなの)攻略(こうりやく)忙(せわ)しかつたから寧(むし)ろ北(ほう)        条氏(ぜうし)と和(わ)するに如(し)かずと考(かんが)へたので天文十三年十二月 小林宮内助(こばやしくなひすけ)と云ふものに旨(むね)を啣めて欵(くわん)を通(つう)ぜん        事(こと)を求(もと)めしめたのであるが其頃(そのころ)今川義元(いまがはよしもと)は上杉憲政(うへすぎのりまさ)と相約(あいやく)して北条氏(ほうぜうし)を爽撃(さうげき)せむとし兵(へい)を出(いだ)したので        信玄(しんげん)は却(かへつ)て其間(そのあひだ)にあつて調停(ちようてい)したと云ふ訳(わけ)で之(これ)も一時は相和(あひわ)するに至(いた)つたのである然(しか)るに其後(そののち)氏康(うぢやす)は 《割書:北條氏康駿|河に侵入す》   益々(ます〳〵)関東(くわんとう)に志(こゝろざし)を得(え)て天文二十三年二月 今川義元(いまがはよしもと)が自(みづか)ら三河に出陣(しゆつぢん)した其(その)隙(げき)に乗(じよう)じ復(ま)た兵(へい)を遣(つか)はして        駿河(するが)に侵入(しんにふ)したのである此時(このとき)信玄(しんげん)は義元(よしもと)の請(こひ)に依(よつ)て出(い)でゝ刈屋川(かりやがは)に陣(ぢん)し河(かは)を隔(へだ)てゝ相(あひ)戦(たゝか)つたが北条勢(ほうぜうぜい) 《割書:今川武田北|条三氏の連》  の破(やぶ)る処(ところ)となつて退却(たいきやく)したのである此際(このさい)瀬古(せこ)の善徳寺(ぜんとくじ)の和尚(おしよう)は雪斎(せつさい)長老(ちようらう)の兄弟(けいてい)であつたので今川(いまがは)武田(たけだ) 《割書:合|善徳寺の会》   北条(ほうぜう)の三 氏(し)の間(あひだ)に奔走(ほんさう)して更(さら)に調停(ちようてい)の労(らう)を取(と)り三 氏(し)も各々(おの〳〵)利害関係(りがいくわんけい)の上(うへ)から之(これ)を承諾(しようだく)して互(たがひ)に相連合(あひれんごう) 《割書:盟| 》    するのを望(のぞ)むだので其三月三人の大将(たいしよう)は此(この)善徳寺(ぜんとくじ)に相会合(あひくわいごう)して盟約(めいやく)を結(むす)むだのである之(これ)より武田(たけだ)今川(いまがは)        北条(ほうぜう)の三 氏(し)は各々(おの〳〵)後顧(こうこ)の患(うれい)を去(さ)つたのでソレ〴〵向(むか)ふ処(ところ)に突進(とつしん)したのであるが氏康(うぢやす)は其年(そのとし)の十月 兵(へい)を 《割書:北条氏の関|東征略》   発(はつ)し下総(しもふさ)の古河城(こがじよう)を攻(せ)め遂(つひ)に足利晴氏(あしかゞはるうぢ)を虜(とりこ)にし之(これ)を相州(さうしう)の波多野(はだの)に幽閉(ゆうへい)した併(しか)し後(のち)に其子(そのこ)の義氏(よしうぢ)を        奉(ほう)じて古河城(こがじよう)に復(ふく)し晴氏(はるうぢ)の幽閉(ゆうへい)をも解(と)いて下総(しもふさ)の関宿城(せきじくじよう)に居(を)らしめたが此(かく)の如(ごと)くして一方には関東(くわんとう)     の人心(じんしん)を収攬(しうらん)し一方には勢力推移(せいりよくすゐい)の方法(はうほう)となしたのである而(しか)して武田氏(たけだし)に於(おい)ては前(まへ)にも御話(おはなし)した通(とほ)り 《割書:武田氏の飛|騨侵略》   之(これ)から川中島(かはなかじま)の合戦(かつせん)が起(おこ)つたにも拘(かゝは)らず着々(ちやく〳〵)信濃(しなの)を平定(へいてい)することを勉(つと)めたので遂(つひ)には兵(へい)を飛騨(ひだ)に出(いだ)して      永禄(えいろく)七年七月には其(その)将(しよう)山縣政昌景(やまがたまさかげ)を遣(つか)はして千光寺(ちくわうじ)と云ふ有名(ゆうめい)なる寺院(じゐん)を焼(や)いて大(おほい)に松倉城主(まつくらじようしゆ)三木自綱(みきよりつな)       の勢力(せいりよく)を殺(そ)いだのである又(ま)た今川義元(いまがはよしもと)の方(はう)はドウであるかと云ふに之(こ)れ亦(ま)た前(まへ)に申述べた如く今(いま)は後(こう) 【欄外】    豊橋市史談  (今川氏の衰亡と武田氏の侵入)                   百一

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談  (今川氏の衰亡と武田氏の侵入)                   百 【本文】 しただけでなく、次第に北進して十七年二月には埴科郡葛尾の城主村上義清と上田原で対陣し、その七月には小笠原勢を塩尻峠で破ったのである。このような次第で村上・小笠原二氏もその勢力が次第に縮まって、長時は廿一年十二月、義清は廿二年八月にいずれも越後に逃れて上杉謙信に頼ったのであるが、これがそもそも川中島合戦の起こる原因である。 この川中島合戦についても従来多く『甲陽軍鑑』又は『甲越軍記』『川中島五戦記』などの説が行われているので、甚だ誤りを伝えられていることが多い。然るに近来は段々これに関係ある根本史料も発見され、田中義成博士などの考証もあるが、これらは余り本史談に関係もないように思うから、私のような専門の知識がないものがここに申し述べるのは却って宜しくあるまいかと思う。 とにかく川中島合戦の初度は弘治元年七月であるが、この時はその年の閏十月まで相対峙したものである。しかし今川義元の調停で一旦は解け去ったが、その後七年を経て永禄四年十月、再び相衝突して激戦があったのである。もっともその七年間には尚ほ幾多の小戦はあった様子であるが、この間に双方が他の方面に向かって活動したことは又格別であったのである。 そこで少しく北条氏の話を述べねばならない事になったのであるが、初め北条早雲という人は今川氏の将で、遂に自ら伊豆を定め小田原を略し、将に関東八州を席巻せんとする勢いで屡々甲州へも攻め入ったのである。永正十六年八月に卒したが、その子の氏綱は父の跡を継いで益々版図を拡張し、大永四年正月江戸城を抜き、天文六年七月河越を陥れ、七年十月鴻の台に勝って、既に伊豆・相模・武蔵を併せ、上総・下総の一部を略し、次第に上州に及ばんとしたのである。ところで武田信虎は当時到底これに抗することの出来ぬのを慮って、深く今川氏に結んで防御の策を立てたのであるが、氏綱においてはこの二氏の連合を以て己れに不利であるとなして、更に駿河に攻め入ったのである。然るに氏綱も天文十年七月に卒去したので、その子の氏康が嗣 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百三十号附録  (明治四十四年八月八日発行) 【本文】 立したが、この氏康という人は文武両道に達した人で有名なる武将であった。この人の著で『武蔵野紀行』などというものがあるが、これは諸君が御承知の事と思う。而して氏康嗣立の時は恰も二十六歳であったが、前にも申し述べた如く丁度この年に武田信玄は二十一歳で自立したのである。而も信濃攻略忙しかったから、寧ろ北条氏と和するに如かずと考えたので、天文十三年十二月、小林宮内助というものに旨を含めて款を通ぜん事を求めしめたのであるが、その頃今川義元は上杉憲政と相約して北条氏を挟撃せんとし兵を出したので、信玄は却ってその間にあって調停したという訳で、これも一時は相和するに至ったのである。 然るにその後氏康は益々関東に志を得て、天文二十三年二月今川義元が自ら三河に出陣したその隙に乗じ、復た兵を遣わして駿河に侵入したのである。この時信玄は義元の請いによって出でて刈屋川に陣し、河を隔てて相戦ったが、北条勢の破る処となって退却したのである。この際瀬名の善徳寺の和尚は雪斎長老の兄弟であったので、今川・武田・北条の三氏の間に奔走して更に調停の労を取り、三氏も各々利害関係の上からこれを承諾して、互いに相連合するのを望んだので、その三月三人の大将はこの善徳寺に相会合して盟約を結んだのである。 これより武田・今川・北条の三氏は各々後顧の患いを去ったので、それぞれ向かう処に突進したのであるが、氏康はその年の十月兵を発し下総の古河城を攻め、遂に足利晴氏を虜にし、これを相州の波多野に幽閉した。しかし後にその子の義氏を奉じて古河城に復し、晴氏の幽閉をも解いて下総の関宿城に居らしめたが、このようにして一方には関東の人心を収攬し、一方には勢力推移の方法となしたのである。而して武田氏においては前にもお話した通り、これから川中島の合戦が起こったにも拘らず、着々信濃を平定することを勉めたので、遂には兵を飛騨に出して、永禄七年七月にはその将山県政昌景を遣わして千光寺という有名なる寺院を焼いて、大いに松倉城主三木自綱の勢力を殺いだのである。 また今川義元の方はどうであるかというに、これまた前に申し述べた如く今は後 【欄外】 豊橋市史談  (今川氏の衰亡と武田氏の侵入)                   百一

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Decline of the Imagawa Clan and the Invasion of the Takeda Clan) - 100 [Main Text] Not only that, but gradually advancing northward, in the second month of the 17th year he faced off with Murakami Yoshikiyo, lord of Katsuo Castle in Hanishina District, at Uedahara, and in the seventh month of that year defeated the Ogasawara forces at Shiojiri Pass. Due to these circumstances, the power of the Murakami and Ogasawara clans gradually diminished, with Nagatoki fleeing to Echigo in the twelfth month of the 21st year and Yoshikiyo in the eighth month of the 22nd year, both relying on Uesugi Kenshin. This was the fundamental cause of the Kawanakajima battles. Regarding these Kawanakajima battles, theories from works like the "Kōyō Gunkan," "Kōetsu Gunki," and "Kawanakajima Gosen-ki" have been widely circulated, so many errors have been transmitted. However, in recent times, fundamental historical materials related to this have been gradually discovered, and there have been scholarly studies by Dr. Tanaka Yoshinari and others, but since these seem to have little relation to our present historical discussion, I think it would be inappropriate for someone like me without specialized knowledge to discuss them here. In any case, the first Kawanakajima battle was in the seventh month of Kōji 1, and at this time they remained in opposition until the intercalary tenth month of that year. However, it was temporarily resolved through Imagawa Yoshimoto's mediation, but seven years later in the tenth month of Eiroku 4, they clashed again and fierce battles occurred. Of course, during those seven years there seem to have been many smaller battles, but the activities of both sides in other directions during this period were quite remarkable. Here it becomes necessary to discuss the Hōjō clan a little. Initially, a man named Hōjō Sōun was a general of the Imagawa clan who eventually established himself in Izu, conquered Odawara, and with momentum to sweep across the eight provinces of Kantō, frequently invaded Kōshū as well. He died in the eighth month of Eishō 16, but his son Ujitsuna succeeded his father and increasingly expanded his territory. In the first month of Taiei 4 he captured Edo Castle, in the seventh month of Tenbun 6 he took Kawagoe, in the tenth month of the 7th year he won at Kō-no-dai, already combining Izu, Sagami, and Musashi, conquering parts of Kazusa and Shimōsa, and gradually extending toward Jōshū. At this time, Takeda Nobutora, considering that he could never resist this, allied deeply with the Imagawa clan and established defensive strategies, but Ujitsuna, viewing this alliance of the two clans as disadvantageous to himself, further invaded Suruga. However, Ujitsuna also died in the seventh month of Tenbun 10, so his son Ujiyasu succeeded [Left Page] [Header] Sanyō Shinpō No. 3830 Supplement (Published August 8, Meiji 44) [Main Text] to leadership. This Ujiyasu was a person accomplished in both literary and martial arts and a famous military commander. There is a work called "Musashino Kikō" by this person, which I believe you gentlemen are familiar with. When Ujiyasu succeeded, he was exactly twenty-six years old, but as I mentioned before, it was precisely in this year that Takeda Shingen established his independence at age twenty-one. Since he was busy with the Shinano conquest, he thought it better to make peace with the Hōjō clan, so in the twelfth month of Tenbun 13 he had someone named Kobayashi Kunanosuke carry his message to seek diplomatic relations. At that time, Imagawa Yoshimoto had agreed with Uesugi Norimasa to launch a pincer attack on the Hōjō clan and sent out troops, so Shingen acted as mediator between them, and this too temporarily resulted in reconciliation. However, afterward Ujiyasu increasingly achieved his ambitions in Kantō, and in the second month of Tenbun 23, when Imagawa Yoshimoto personally went on campaign to Mikawa, taking advantage of this opportunity he again sent troops to invade Suruga. At this time, Shingen responded to Yoshimoto's request and took position at Kariya River, fighting across the river, but was defeated by the Hōjō forces and retreated. On this occasion, the abbot of Zentoku-ji in Sena was a brother of Elder Sesshū, so he worked between the three clans of Imagawa, Takeda, and Hōjō to mediate once more. The three clans, each considering their interests, agreed to this and desired mutual alliance, so in the third month the three commanders met at this Zentoku-ji temple and concluded a pact. From this time, the three clans of Takeda, Imagawa, and Hōjō each removed their rear concerns and advanced toward their respective targets. Ujiyasu launched troops in the tenth month of that year, attacked Koga Castle in Shimōsa, finally captured Ashikaga Haruuji and confined him in Hadano in Sagami Province. However, he later restored Haruuji's son Yoshiuji to Koga Castle and also released Haruuji from confinement, having him reside in Sekijuku Castle in Shimōsa. In this way, he both won the hearts of Kantō people and made this a method of power transition. As for the Takeda clan, as I mentioned before, although the Kawanakajima battles began from this point, they steadily worked to pacify Shinano, eventually sending troops to Hida. In the seventh month of Eiroku 7, they sent their general Yamagata Masakage to burn the famous temple called Senkō-ji, greatly weakening the power of Matsukura castle lord Miki Yoritsuna. As for what happened with Imagawa Yoshimoto, as I mentioned before, now... [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Decline of the Imagawa Clan and the Invasion of the Takeda Clan) - 101