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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 65

ページ: 65

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【欄外】    豊橋市史談  (今川氏の衰亡と武田氏の侵入)                   百二 【本文】 《割書:今川義元の|西上》   顧(こ)の患(うれひ)も少(すくな)く準備(じゆんび)も十 分(ぶん)であると云ふので愈々(いよ〳〵)西上(せいじやう)の目的(もくてき)を達(たつ)せむとの意気込(いきこみ)から尾張(をはり)に入つたが永 《割書:桶狭間の敗|死》  禄三年五月 桶狭間(おけはざま)に於(おい)て織田信長(をだのぶなが)の為(ため)に敢(はか)なく最後(さいご)を遂(と)げたのである        之(こ)れが先(ま)づ話(はなし)の大要(たいえう)であるが当時(とうじ)は言(い)ふ迄(まで)もなく戦国(せんごく)策士(さくし)の集(あつま)りで由来(ゆらい)多(おほ)く術数(じゆつすう)の行(おこな)はれた時代(じだい)であ 《割書:武田氏駿河|を窺ふ》  るから今川氏真(いまがはうぢさね)の国政(こくせい)が紊(みだ)るゝに方(あたつ)ては三 氏(し)の盟約(めいやく)も決(けつ)して此(この)まゝに継続(けいぞく)さるゝ筈(はづ)はないので武田氏(たけだし)       は漸(やうや)く其機(そのき)に乗(じよう)じて爪牙(さうが)を駿遠(すんゑん)の地(ち)に逞(たくまし)ふせむと企(くはだ)てたのであるモツトモ当時(とうじ)信虎(のぶとら)はまだ駿河(するが)に居(を)       つて常(つね)に今川氏(いまがはし)の内情(ないじやう)を信玄(しんげん)に報(ほう)じ又た将士(しようし)の内応(ないおう)を媒介(ばいかい)して先(ま)づ氏真(うぢさね)を追(お)はむとしたのである然(しか)る       に庵原安房守(あんばらあはのかみ)と云ふ人があつて其(その)才略(さいりやく)を以(もつ)て却(かへつ)て信虎(のぶとら)を斥(しりぞ)けたので信虎(のぶとら)は一たび京都(きようと)に逃(のが)れたのであ       るが連(しき)りに謀(はかりごと)を信玄(しんげん)に通(つう)じて駿河(するが)に侵入(しんにふ)せしめたのである之(これ)より先(さ)き信玄(しんげん)は使(し)を北条氏(ほうぜうし)に遣(つか)はして        駿河(するが)を分取(ぶんしゆ)せる事を申込(もうしこ)むだのであるが北条氏(ほうぜうし)に於(おい)ては之(これ)に応(おう)ぜざるのみならず今川氏(いまがはし)は自家防禦(じかぼうぎよ)の 《割書:北条氏今川|氏を助く》   前衛(ぜんゑい)とでも云ふべき訳(わけ)であるから寧(むし)ろ前約(ぜんやく)を守(まも)り氏真(うぢさね)を助(たす)けて武田氏(たけだし)に当(あた)るの策(さく)に出(い)でたのである併(しか)       しソレが中々(なか〳〵)旨(うま)いので一 方(ほう)には今川氏(いまがはし)の嬴弱(えいじやく)なるに乗(ぜう)じて恩(おん)を施(ほどこ)し義(ぎ)を結(むす)び勉(つと)めて懐柔(くわいじう)の策(さく)を取(と)り而(しか)       して一方には陰(ゐん)に術策(じゆつさく)を施(ほどこ)して其(その)領土(れうど)を得(え)む事(こと)を計(はか)つたのである又(ま)た信玄(しんげん)に於(おい)ては徳川氏(とくがはし)に対(たい)しても       永禄七年十一月 既(すで)に下條弾正信氏(しもぢようたんぜうのぶうぢ)を使(し)として酒井忠次(さかゐたゞつぐ)の処(ところ)まで書(しよ)を送(おく)つて好(よしみ)を求(もと)めたのであるが十一 《割書:徳川真田二|氏の盟約》  年二月に至(いた)り更(さら)に大井河(おほゐがは)を境界(けうかい)として駿遠(すんゑん)分割(ぶんかつ)の事を徳川方(とくがはがた)と盟約(めいやく)し互(たがひ)に誓書(せいしよ)を交換(こうくわん)するに至(いた)つたの       である其(その)時(とき)信玄(しんげん)から家康(いへやす)に送(おく)つた文書(ぶんしよ)は左(さ)の通(とほ)りである        聊雖不存疑心候、誓紙之儀所望申候処則調給候祝着候、信玄事茂如案文書写於使者眼前致血判進之        候弥御入魂所希候恐々謹言          二月十六日                        信   玄   判 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□□□□□□□□□ 【本文】            徳   川   殿 《割書:武田氏駿河|に侵入す》  ソコで信玄(しんげん)は其(その)十二月の六日に甲府(こうふ)を出発(しゆつぱつ)して駿河(するが)に攻入(せめい)り家康(いへやす)も亦(ま)た十二月十一日 吉田城(よしだじよう)に於て諸(しよ)        将(しよう)を部署(ぶしよ)し兵(へい)を遠江(とふとうみ)に進(すゝ)めて其(その)西北部(せいほくぶ)を略(りやく)し井伊谷(いゐのや)、 鵜津山(うづやま)、 刑部(おさかべ)、 白須賀(しらすが)等(とう)の地を占領(せんれう)したのであ 《割書:徳川氏遠江|に侵入す》  るが此際(このさい)に於ける菅沼定盈(すがぬまさだみつ)の周旋(しうせん)は最(もつと)も有功(ゆうこう)のものであつたのである此(こゝ)に於(おい)て北条氏(ほうぜうし)は坐師(ざし)する訳(わけ)に        行(ゆ)かぬので氏康(うぢやす)は其(その)子(こ)氏政(うぢまさ)と共(とも)に兵(へい)を駿河(するが)に出(いだ)して信玄(しんげん)に対抗(たいこう)したのであるが氏真(うぢさね)は遂(つひ)に武田勢(たけだぜい)の為 《割書:北条今川二|氏援を謙信》  に破(やぶ)られて遠江(とふとほみ)掛川(かけがは)の城(しろ)に逃(のが)れ更(さら)に家康(いへやす)の為に囲(かこ)まるゝに至(いた)つたのであるかゝる始末(しまつ)であるから今川 《割書:に求む  | 》  氏 並(ならび)に北条氏(ほうぜうし)に於ては孰(いづ)れも援(ゑん)を越後(えちご)の上杉氏(うへすぎし)に求(もとむ)るより外(ほか)にはないと云ふので連(しき)りに使(し)を謙信(けんしん)に送(おく)       つたのであるがサテ謙信(けんしん)に於ては之(これ)よりズツト以前(いぜん)天文廿一年正月に上杉憲政(うへすぎのりまさ)が来(きた)り投(とう)じたので之(これ)を        輔(たす)け兵(へい)を上野(うへの)に出し厩橋(うまやばし)に牙城(がじよう)を保(たも)つて屡々(しば〳〵)北条氏(ほうぜうし)と戦(たゝか)つたものであるそれのみならず憲政(のりまさ)と父子(ふし)の        約(やく)を結(むす)むで上杉氏(うへすぎし)を冒(おか)し一方には信玄(しんげん)と信濃(しなの)に対峙(たいじ)せるにも拘(かゝは)らず永禄二年四月 入京(にふきよう)して天子(てんし)、 将軍(せうぐん)       に謁見(えつけん)し関東管領(くわんとうくわんれう)の命(めい)を拝(はい)し永禄四年三月には十一万の兵を率(ひき)ひ遂(つひ)に長駆(ちようく)して北条氏(ほうぜうし)の根拠(こんきよ)たる小(お)        田原(たはら)に迫(せま)つたのである然(しか)るに其(その)頃(ころ)は武田(たけだ)北条(ほうぜう)二 氏(し)の連合(れんごう)が成(な)つて居(を)つたのでサスガの謙信(けんしん)も志(こゝろざし)を得       る事が出来(でき)なかつたのであるが今度(こんど)却(かへつ)て北条氏から頻(しき)りに連合(れんごう)の事を申込(もうしこ)むだと云ふ訳(わけ)である併(しか)し当(とう) 《割書:信玄家康の|盟約破る》   時(じ)は恰(あたか)も雪(ゆき)が深(ふか)くて謙信(けんしん)も容易(ようい)に之(これ)に応(おう)ずる事が出来(でき)なかつたのである然(しか)るに一方に於(おい)て信玄(しんげん)家康(いへやす)二       人の関係(くわんけい)は右(みぎ)の如(ごと)くであつたにも拘(かゝは)らず動(やゝ)もすれば信玄(しんげん)の方で約(やく)を破(やぶ)つて遠江(とふとほみ)に迄(まで)も切(き)り込(こ)む形勢(けいせい)が       あるので家康(いへやす)は遂(つひ)に之(これ)を怒(おこ)つて相絶(あひた)つに至(いた)つたのである而(しか)も之(これ)と同時(どうじ)に氏真(うぢさね)に勧告(くわんこく)して遠江(とふとほみ)全国(ぜんこく)を譲(ゆづ) 《割書:家康今川氏|眞と和す》  り受(う)くる約束(やくそく)を結(むす)むで之(これ)と講話(こうわ)し之(これ)も亦(ま)た使(し)を謙信(けんしん)に送(おく)つて相連合(あひれんごう)せむことを申込(もうしこ)むだのみならず武田(たけだ)        氏(し)の将(せう)山縣(やまがた)三 郎兵衛昌景(ろべゑまさかげ)を府中(ふちう)に攻(せ)めてこ之(これ)を追(お)ひ更(さら)に北条氏とも結(むす)むだのであるソコで信玄(しんげん)は全(まつた)く四 【欄外】    豊橋市史談  (今川氏の衰亡と武田氏の侵入)                   百三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (今川氏の衰亡と武田氏の侵入) 百二 【本文】 後顧の憂いも少なく準備も十分であるということで、いよいよ西上の目的を達成しようとの意気込みから尾張に入ったが、永禄三年五月、桶狭間において織田信長のために儚なく最期を遂げたのである。 これがまず話の大要であるが、当時は言うまでもなく戦国策士の集まりで、由来多く計略が行われた時代であるから、今川氏真の国政が乱れるにあたっては、三氏の盟約も決してこのまま継続されるはずはないので、武田氏は次第にその機に乗じて爪牙を駿遠の地に振るおうと企てたのである。もっとも当時信虎はまだ駿河にいて、常に今川氏の内情を信玄に報告し、また将士の内応を仲介して、まず氏真を追おうとしたのである。然るに庵原安房守という人があって、その才略をもって却って信虎を斥けたので、信虎は一旦京都に逃れたのであるが、しきりに謀を信玄に通じて駿河に侵入させたのである。 これより先、信玄は使者を北条氏に遣わして駿河を分割して取ることを申し込んだのであるが、北条氏においてはこれに応じないのみならず、今川氏は自家防御の前衛とでもいうべき訳であるから、むしろ前約を守り氏真を助けて武田氏に当たる策に出たのである。しかしそれが中々巧妙で、一方には今川氏の衰弱に乗じて恩を施し義を結び、努めて懐柔の策を取り、そして一方には陰に計略を施してその領土を得ることを計ったのである。 また信玄においては徳川氏に対しても、永禄七年十一月、既に下條弾正信氏を使者として酒井忠次のところまで書を送って好を求めたのであるが、十一年二月に至り更に大井川を境界として駿遠分割の事を徳川方と盟約し、互いに誓書を交換するに至ったのである。その時信玄から家康に送った文書は次の通りである。 「いささか疑いの心を抱くものではありませんが、誓紙の儀をお願い申し上げたところ、すぐに調えてくださり祝着に存じます。信玄のことも案文の如く書写して、使者の眼前で血判を致し進上いたします。いよいよご懇情を希望いたします。恐々謹言」 二月十六日                信玄(判) 徳川殿 【左頁】 そこで信玄はその十二月の六日に甲府を出発して駿河に攻め入り、家康もまた十二月十一日、吉田城において諸将を部署し兵を遠江に進めてその西北部を略し、井伊谷、鵜津山、刑部、白須賀等の地を占領したのであるが、この際における菅沼定盈の周旋は最も有功のものであったのである。ここにおいて北条氏は座視する訳にいかないので、氏康はその子氏政と共に兵を駿河に出して信玄に対抗したのであるが、氏真は遂に武田勢のために破られて遠江掛川の城に逃れ、更に家康のために囲まれるに至ったのである。 このような始末であるから、今川氏並びに北条氏においてはいずれも援軍を越後の上杉氏に求めるより他にはないということで、しきりに使者を謙信に送ったのであるが、さて謙信においてはこれよりずっと以前、天文廿一年正月に上杉憲政が来て投じたので、これを輔け兵を上野に出し、厩橋に牙城を保って屡々北条氏と戦ったものである。それのみならず憲政と父子の約を結んで上杉氏を名乗り、一方には信玄と信濃に対峙したにも拘らず、永禄二年四月入京して天子、将軍に謁見し、関東管領の命を拝し、永禄四年三月には十一万の兵を率いて遂に長駆して北条氏の根拠たる小田原に迫ったのである。然るにその頃は武田・北条二氏の連合が成っていたので、流石の謙信も志を得ることが出来なかったのであるが、今度は却って北条氏からしきりに連合のことを申し込んだという訳である。しかし当時は恰も雪が深くて謙信も容易にこれに応ずることが出来なかったのである。 然るに一方において信玄・家康二人の関係は右の如くであったにも拘らず、ややもすれば信玄の方で約を破って遠江にまでも切り込む形勢があるので、家康は遂にこれを怒って相絶つに至ったのである。而もこれと同時に氏真に勧告して遠江全国を譲り受ける約束を結んでこれと講話し、これもまた使者を謙信に送って相連合せんことを申し込んだのみならず、武田氏の将山県三郎兵衛昌景を府中に攻めてこれを追い、更に北条氏とも結んだのである。そこで信玄は全く四 【欄外】 豊橋市史談 (今川氏の衰亡と武田氏の侵入) 百三

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Decline of the Imagawa Clan and the Invasion of the Takeda Clan) - 102 [Main Text] With few concerns about the rear and sufficient preparations, he entered Owari with the determination to finally achieve his goal of advancing westward, but in the fifth month of Eiroku 3, he met his tragic end at the hands of Oda Nobunaga at Okehazama. This is the general outline of the story, but needless to say, those times were an assembly of Sengoku strategists, an era when many schemes were traditionally employed. Therefore, when Imagawa Ujizane's national administration became disordered, the alliance of the three clans could not possibly continue as it was, so the Takeda clan gradually sought to seize the opportunity to extend their influence into the territories of Suruga and Tōtōmi. At that time, Nobutora was still in Suruga, constantly reporting on the internal affairs of the Imagawa clan to Shingen, and also mediating the collaboration of generals and retainers to first drive out Ujizane. However, there was a man named Ihara Awa-no-kami who, with his strategic skills, instead expelled Nobutora, so Nobutora once fled to Kyoto, but continuously communicated schemes to Shingen to make him invade Suruga. Prior to this, Shingen had sent envoys to the Hōjō clan proposing to divide and take Suruga, but the Hōjō clan not only did not respond to this but also, since the Imagawa clan could be called the vanguard of their own defense, rather chose the strategy of keeping their previous agreement, helping Ujizane, and confronting the Takeda clan. However, this was quite skillful - on one hand, taking advantage of the Imagawa clan's weakness, they bestowed favors and formed bonds of duty, striving to employ appeasement strategies, while on the other hand, they secretly employed schemes to plan to obtain their territory. Moreover, regarding the Tokugawa clan, Shingen had already sent Shimojō Danjō Nobuuji as an envoy in the eleventh month of Eiroku 7 to deliver a letter to Sakai Tadatsugu seeking friendship, but in the second month of the 11th year, he further made a pact with the Tokugawa side regarding the division of Suruga and Tōtōmi with the Ōi River as the boundary, and they exchanged written oaths. The document Shingen sent to Ieyasu at that time is as follows: "Although I harbor not the slightest doubt, regarding the matter of the oath document you requested, you have promptly prepared it, which I find most gratifying. As for Shingen's part, I have copied it according to the draft and affixed my blood seal before the envoy's eyes and present it to you. I earnestly hope for your continued goodwill. Respectfully and humbly stated." Second month, 16th day Shingen (seal) To Lord Tokugawa [Left Page] So Shingen departed from Kōfu on the sixth day of that twelfth month and invaded Suruga, and Ieyasu also on the eleventh day of the twelfth month stationed his generals at Yoshida Castle and advanced his troops into Tōtōmi, conquering its northwestern part and occupying territories such as Iinoya, Uzuyama, Osakabe, and Shirasuka. The mediation of Suganuma Sadamitsu was most meritorious on this occasion. At this point, the Hōjō clan could not remain idle, so Ujiyasu, together with his son Ujimasa, sent troops to Suruga to oppose Shingen, but Ujizane was finally defeated by the Takeda forces and fled to Kakegawa Castle in Tōtōmi, where he was further besieged by Ieyasu. Given these circumstances, both the Imagawa and Hōjō clans had no choice but to seek aid from the Uesugi clan in Echigo, so they continuously sent envoys to Kenshin. Now, regarding Kenshin, much earlier, in the first month of Tenbun 21, Uesugi Norimasa had come to him for refuge, so he assisted him, sent troops to Kōzuke, maintained a stronghold at Umayabashi, and frequently fought with the Hōjō clan. Not only that, but he formed a father-son bond with Norimasa, took the Uesugi name, and while confronting Shingen in Shinano on one side, in the fourth month of Eiroku 2 he entered Kyoto, had audiences with the Emperor and Shogun, received the appointment as Kantō Kanrei, and in the third month of Eiroku 4 led 110,000 troops and finally made a long march to approach Odawara, the stronghold of the Hōjō clan. However, at that time the alliance between the Takeda and Hōjō clans had been formed, so even the formidable Kenshin could not achieve his objectives, but now conversely the Hōjō clan was frequently proposing alliance. However, at that time the snow happened to be deep, and Kenshin could not easily respond to this. Meanwhile, although the relationship between Shingen and Ieyasu was as described above, there was a tendency for Shingen to break agreements and make incursions even into Tōtōmi, so Ieyasu finally became angry and broke relations with him. At the same time, he advised Ujizane and made an agreement to receive all of Tōtōmi province, making peace with him, and also sent envoys to Kenshin proposing an alliance, and moreover attacked Takeda general Yamagata Saburōbei Masakage at Fuchū and drove him out, further allying with the Hōjō clan as well. Thus Shingen was completely surrounded by four [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Decline of the Imagawa Clan and the Invasion of the Takeda Clan) - 103