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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 66

ページ: 66

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【欄外】    豊橋市史談  (今川氏の衰亡と武田氏の侵入)                   百四 【本文】 信玄の退軍  面(めん)に敵(てき)を受(うけ)る事となつて止(やむ)を得(え)ず翌年四月の廿七日夜を以(もつ)てに竊(ひそか)に軍(ぐん)を甲州(こうしう)へ引(ひ)き退(しりぞ)けたのであるトコ       ロが北条氏(ほうぜうし)の遣(や)り方(かた)と云ふものは中々(なか〳〵)上手(ぜうづ)なので氏政(うぢまさ)の子(こ)氏直(うぢなを)を以(もつ)て今川氏真(いまがはうぢさね)の養子(やうし)となして自然(しぜん)に        其(その)領土(れうど)が己(おの)れに転(ころが)り込(こ)むで来(く)るように仕向(しむ)けたのである且(か)つ氏真(うぢさね)をば沼津城(ぬまづのしろ)に置(お)いて其(その)監視(かんし)の下(もと)にあ       らしめたのである 《割書:北条氏駿河|を占有す》   要(えう)するに武田氏(たけだし)が今度(このたび)の挙(きよ)は徳川氏(とくがはし)に遠江(とふとほみ)を取(と)らしめ北条氏(ほうぜうし)をして漁夫(ぎよふ)の利(り)を占(し)めしめたのに終(をは)つて        自己(じこ)は全然(ぜん〴〵)失敗(しつぱい)となつたので到底(とうてい)此(この)まゝ黙止(もくし)する訳(わけ)に行(ゆ)かぬのは当然(とうぜん)であるソコで永禄十二年六月 信(しん) 《割書:信玄小田原|に侵入す》   玄(げん)は再(ふたゝ)び兵を率(ひき)ゐて駿河(するが)の東部(とうぶ)に攻(せ)め入(い)つたが八月下旬には更(さら)に佐久郡(さくぐん)から西上野(にしうへの)に出で武蔵(むさし)に入り       十月には遂(つひ)に小田原(をたはら)に迫(せま)り一 色(しき)、 酒匂(さかわ)の近邑(きんゆう)に火(ひ)を放(はな)つたのである併(しか)し氏康(うぢやす)氏政(うぢまさ)父子(ふし)は既(すで)に謙信(けんしん)侵入(しんにふ)       の時に於て経験(けいけん)があるので背(そむい)て出(い)で戦(たゝか)はなかつたのである而(しか)も信玄(しんげん)に於ては小田原(をたはら)を攻(せ)むるのが目的(もくてき)       ではなく結局(けつきよく)駿河(するが)を侵略(しんりやく)する為(た)めの索制(さくせい)手段(しゆだん)であつたのだから幾何(いくばく)もなく兵を甲斐(かひ)に班(はん)したが十一月 《割書:信玄駿河の|諸城を略す》   直(たゞ)ちに又た兵を駿河(するが)に出(いだ)して北条氏(ほうぜうし)の属城(ぞくぜう)を攻(せ)めたのである然(しか)るに此方(このほう)略(りやく)か着々(ちやく〳〵)成功(せいこう)して続(つゞ)いて府中(ふちう)       を略(りやく)し蒲原城(かんばらぜう)を陥(おとしゐ)れ翌(よく)元亀元年には更(さら)に進(すゝ)むで志太郡(したぐん)花沢城(はなざわぜう)を攻(せ)めたが此(この)城(しろ)には前(まへ)にも申述(もうしの)べた如       く当時(とうじ)小原肥前守鎮実(をはらひぜんのかみしげさね)が居(を)つたのである併(しか)し之(これ)も亦(ま)た到底(とうてい)支(さゝ)ゆることが出来(でき)なくて鎮実(しづさね)は城(しろ)を捨(す)てゝ逃(のが)       れ続々(ぞく〳〵)藤枝(ふぢえだ)、 徳野(とくの)、一 色(しき)などの城(しろ)も信玄(しんげん)の占領(せんれう)する処(ところ)となつたのである信玄(しんげん)は乃(すなは)ち藤枝城(ふぢえだぜう)を修築(しうちく)して        田中城(たなかぜう)と名(な)つけ馬場信房(ばゞのぶふさ)をして之(これ)を守(まも)らしめ更(さら)に江尻(えじり)にも城(しろ)を築(きづ)いて山縣昌景(やまがたまさかげ)を之(これ)に置(お)いたのである       がかゝる有様(ありさま)で僅(わづか)の間(あひだ)に駿河国(するがのくに)は大半(たいはん)信玄(しんげん)の占有(せんゆう)する処となつたので氏康(うぢやす)父子(ふし)は小田原(をだはら)にあつて遂(つひ)に        之(これ)を救(すく)ふに遑(いとま)あらざりしのみならず連(しき)りに謙信(けんしん)に向(むかつ)て応援(おうゑん)を請(こ)つたのであるが当時(とうじ)まだ雪(ゆき)の深(ふか)かつた        為(ため)か将(は)た其他(そのた)に理由(りゆう)のあつたものか謙信(けんしん)は遂(つひ)に一兵をも動(うご)さなかつたのであるかくて武田(たけだ)徳川(とくがは)二 氏(し)は 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百三十六号附録    ( 明治四十四年八月十五日発行 ) 【本文】        自然(しぜん)に又(ま)た大井河(おほゐがは)を境(さかひ)して相対峙(あひたいたいじ)するに至(いた)つたのである        此(こゝ)に於(おい)て信玄(しんげん)は愈々(いよ〳〵)遠江(とふとほみ)三河(みかは)に侵入(しんにふ)して徳川氏の腕前(うでまへ)を試(ためし)みようとしたのであるが之(これ)には先(ま)づ後顧(こうこ)の        患(うれひ)を少(すくな)からしむる為(ため)に北条氏を脅(おびや)かして十分に其(その)勢力(せいりよく)を殺(そ)いで置(お)く必要(ひつえう)があると云ふので元亀元年四       月 伊豆(いづ)に攻(せ)め入(い)つて韮山城(にらやまぜう)を囲(かこ)み氏政(うぢまさ)と三 島(しま)に相峙(あひぢ)して軍(ぐん)を退(しりぞ)けたのである然(しか)る後(のち)イヨ〳〵兵(へい)を遠江(とふとほみ)       に入(い)れたのであるが之(これ)が即(すなは)ち信玄(しんげん)が初(はじ)めて三河に侵入(しんにふ)するに至(いた)れる経路(けいろ)である而(しか)して其(その)侵入(しんにふ)の順序(じゆんじよ)と 《割書:信玄遠江に|侵入す》  云うふものは先(ま)づ元亀二年二月に兵(へい)を出(いだ)して遠江(とふとほみ)の小山(こやま)、 相良(さがら)に城(しろ)を築(きづ)き三月には進(すゝ)むで高天神城(たかてんじんのしろ)に徳       川氏の将(せう)小笠原長忠(をがさはらながたゞ)を攻(せ)め一 方(ぱう)には水軍(すゐぐん)を編成(へんせい)して天龍川口(てんりうがはぐち)に当(あた)る掛塚(かけつか)を侵(をか)さしめたのである而(しか)して 《割書:武田氏の兵|三河を抄掠》  其四月には遠江(とふとほみ)の土兵(どへい)を煽動(せんどう)して西三河に入らしめ岩津(いわづ)、 岡崎(をかざき)二 城(ぜう)を脅(おびや)かし次(つい)で兵(へい)を率(ひき)ゐて信州(しんしう) 《割書:す    |     》  から三河の西部(せいぶ)に入(い)り先(ま)づ足助城(あすけぜう)を抜(ぬ)き更(さら)に東(ひがし)に転(てん)じて作手(つくて)方面(はうめん)から南下(なんか)して野田(のだ)、 牛久保(うしくぼ)、 長沢(ながさわ)、 《割書:家康浜松の|新城に移る》  二 連木(れんぎ)を抄掠(せうれう)して此(この)吉田城(よしだぜう)に迫(せま)つたのである之(これ)より先(さ)き元亀元年正月に浜松(はままつ)の新城(しんぜう)が落成(らくせい)して家康(いへやす)は 姉川の合戦  岡崎(をかざき)から移(うつ)つて之(これ)に居(を)り岡崎(をかざき)の城(しろ)には其子(そのこ)の信康(のぶやす)を置(お)いたのであるが其年(そのとし)の六月には有名(ゆうめい)なる姉川(あねがは)の        合戦(かつせん)があつたので織田信長(をたのぶなが)の請(こひ)によつて家康(いへやす)は勿論(もちろん)徳川氏(とくがはし)の将士(せうし)は酒井忠次(さかゐたゞつぐ)等(ら)を初(はじ)め多(おほ)く之(これ)に参加(さんか)し       て孰(いづ)れも殊功(しゆこう)を顕(あらは)したのであるモツトモ当時(とうじ)武田信玄(たけだしんげん)は前に申述べた通り恰(あたか)も伊豆(いづ)に攻(せ)め入(い)つて北条氏(ほうぜうし)       の軍(ぐん)と対峙(たいじ)せる時(とき)であつたから其後(そののち)を窺(うかゞ)ふの暇(いとま)がなかつたのであるがイヨ〳〵今度(このたび)信玄(しんげん)自(みづか)ら三河に攻(せめ) 《割書:山家三方武|田氏に属す》   入(い)つて来(く)るに就(つい)ては先(ま)づ遠江(とふとほみ)の秋山信友(あきやまのぶとも)等(ら)をして東三河の北部(ほくぶ)に於(お)ける山家(やまが)三 方(ほう)の人々を誘致(ゆうち)せしめ       たのであるソコで野田(のだ)の菅沼氏(すがぬまし)並(ならび)に菅沼定氏(すがぬまさだうぢ)等(ら)の一 類(るい)を除(のぞ)くの外(ほか)は奥平道文(おくだひらみちぶみ)等(ら)を初(はじ)め菅沼(すがぬま)の一 族(ぞく)は徳(とく)        川氏(がはし)に叛(そむ)きて武田氏(たけだし)に属(ぞく)したと云ふ訳(わけ)であるがこ之(これ)等(ら)の人々の手引(てびき)によつて遂(つひ)に吉田城(よしだぜう)に迫(せま)るに至(いた)つた 《割書:信玄吉田城|に迫る》  のである此時(このとき)二 連木(れんぎ)の城主(ぜうしゆ)戸田康長(とだやすなが)はまだ虎千代(とらちよ)と云つた頃(ころ)で僅(わづか)に十歳であつたが戸田吉国(とだよしくに)が陣代(ぢんだい)を 【欄外】    豊橋市史談  (今川氏の衰亡と武田氏の侵入)                   百五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (今川氏の衰亡と武田氏の侵入) 百四 【本文】 信玄は四方から敵を受けることとなって、やむを得ず翌年四月の二十七日夜をもって密かに軍を甲州へ引き退けたのである。ところが北条氏のやり方というものは中々上手なので、氏政の子氏直をもって今川氏真の養子となし、自然にその領土が己れに転がり込んでくるように仕向けたのである。かつ氏真を沼津城に置いてその監視の下におらしめたのである。 要するに武田氏が今度の挙は、徳川氏に遠江を取らせ、北条氏をして漁夫の利を占めさせたのに終わって、自己は全然失敗となったので、到底このまま黙止する訳にいかないのは当然である。そこで永禄十二年六月、信玄は再び兵を率いて駿河の東部に攻め入ったが、八月下旬には更に佐久郡から西上野に出て武蔵に入り、十月には遂に小田原に迫り、一色、酒匂の近郷に火を放ったのである。しかし氏康・氏政父子は既に謙信侵入の時において経験があるので、背いて出で戦わなかったのである。而も信玄においては小田原を攻めるのが目的ではなく、結局駿河を侵略するための牽制手段であったのだから、いくばくもなく兵を甲斐に返したが、十一月直ちにまた兵を駿河に出して北条氏の属城を攻めたのである。然るにこの方は着々成功して続いて府中を略し、蒲原城を陥れ、翌元亀元年には更に進んで志太郡花沢城を攻めたが、この城には前にも申し述べたとおり当時小原肥前守鎮実がいたのである。しかしこれもまた到底支えることができなくて、鎮実は城を捨てて逃れ、続々藤枝、徳野、一色などの城も信玄の占領するところとなったのである。信玄は乃ち藤枝城を修築して田中城と名づけ、馬場信房をしてこれを守らしめ、更に江尻にも城を築いて山県昌景をこれに置いたのであるが、かかる有様でわずかの間に駿河国は大半信玄の占有するところとなったので、氏康父子は小田原にあって遂にこれを救うに暇あらざりしのみならず、しきりに謙信に向かって応援を請うたのであるが、当時まだ雪の深かったためか、将た其他に理由のあったものか、謙信は遂に一兵をも動さなかったのである。かくて武田・徳川二氏は 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百三十六号附録 (明治四十四年八月十五日発行) 【本文】 自然にまた大井川を境として相対峙するに至ったのである。 ここにおいて信玄はいよいよ遠江・三河に侵入して徳川氏の腕前を試そうとしたのであるが、これには先ず後顧の憂いを少なからしめるために北条氏を脅かして十分にその勢力を殺いでおく必要があるということで、元亀元年四月、伊豆に攻め入って韮山城を囲み、氏政と三島に相峙して軍を退けたのである。然る後いよいよ兵を遠江に入れたのであるが、これが即ち信玄が初めて三河に侵入するに至れる経路である。そしてその侵入の順序というものは、先ず元亀二年二月に兵を出して遠江の小山、相良に城を築き、三月には進んで高天神城に徳川氏の将小笠原長忠を攻め、一方には水軍を編成して天竜川口に当たる掛塚を侵させたのである。そしてその四月には遠江の土兵を煽動して西三河に入らしめ、岩津、岡崎二城を脅かし、次いで兵を率いて信州から三河の西部に入り、先ず足助城を抜き、更に東に転じて作手方面から南下して野田、牛久保、長沢、二連木を抄掠してこの吉田城に迫ったのである。これより先き元亀元年正月に浜松の新城が落成して、家康は岡崎から移ってこれに居り、岡崎の城にはその子の信康を置いたのであるが、その年の六月には有名なる姉川の合戦があったので、織田信長の請いによって家康は勿論、徳川氏の将士は酒井忠次等を初め多くこれに参加して、いずれも殊功を顕したのである。もっとも当時武田信玄は前に申し述べた通り、恰も伊豆に攻め入って北条氏の軍と対峙せる時であったから、その後を窺う暇がなかったのであるが、いよいよ今度信玄自ら三河に攻め入ってくるについては、先ず遠江の秋山信友等をして東三河の北部における山家三方の人々を誘致せしめたのである。そこで野田の菅沼氏並びに菅沼定氏等の一類を除くの外は、奥平道文等を初め菅沼の一族は徳川氏に叛いて武田氏に属したという訳であるが、これ等の人々の手引によって遂に吉田城に迫るに至ったのである。この時二連木の城主戸田康長はまだ虎千代と云った頃でわずかに十歳であったが、戸田吉国が陣代を 【欄外】 豊橋市史談 (今川氏の衰亡と武田氏の侵入) 百五

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Decline of the Imagawa Clan and the Invasion of the Takeda Clan) - 104 [Main Text] Shingen's Retreat: Shingen found himself facing enemies on all four sides and had no choice but to secretly withdraw his army to Kōshū on the night of the 27th day of the fourth month of the following year. However, the Hōjō clan's methods were quite skillful - they made Ujimasa's son Ujinao the adopted son of Imagawa Ujizane, arranging it so that the territory would naturally fall into their hands. They also placed Ujizane in Numazu Castle under their surveillance. The Hōjō Occupy Suruga: In summary, the Takeda clan's recent campaign had ended up allowing the Tokugawa to take Tōtōmi and letting the Hōjō reap the benefits of being fishermen, while they themselves had completely failed. It was natural that they could not remain silent about this. So in the sixth month of Eiroku 12, Shingen again led troops and invaded the eastern part of Suruga. In late eighth month, he further advanced from Saku District to western Kōzuke, entered Musashi, and in the tenth month finally approached Odawara, setting fires in the nearby villages of Isshiki and Sakawa. However, Ujiyasu and Ujimasa, father and son, had already experienced Kenshin's invasion, so they did not come out to fight. Moreover, for Shingen, attacking Odawara was not the objective - it was ultimately a diversionary tactic for invading Suruga. So before long he returned his troops to Kai, but in the eleventh month immediately sent troops to Suruga again to attack the Hōjō's subsidiary castles. Shingen Conquers Various Castles in Suruga: This approach was steadily successful - he continued to capture Fuchū, took Kanbara Castle, and in the following first year of Genki advanced further to attack Hanazawa Castle in Shida District. In this castle, as mentioned before, Ohara Hizen-no-kami Shigesane was stationed at that time. However, he too could not possibly hold out, so Shigesane abandoned the castle and fled. Subsequently, castles such as Fujieda, Tokuno, and Isshiki also fell under Shingen's occupation. Shingen then repaired Fujieda Castle, renamed it Tanaka Castle, and had Baba Nobufusa guard it. He further built a castle at Ejiri and stationed Yamagata Masakage there. In this manner, within a short time, most of Suruga Province came under Shingen's control, so the Ujiyasu father and son at Odawara not only had no time to rescue it but also continuously requested aid from Kenshin. However, whether because the snow was still deep at that time or for other reasons, Kenshin ultimately did not move a single soldier. Thus the Takeda and Tokugawa clans [Left Page] [Header] Sanyō Shinpō No. 3836 Supplement (Published August 15, Meiji 44) [Main Text] naturally came to face each other again across the Ōi River. Shingen Invades Tōtōmi: At this point, Shingen was finally ready to invade Tōtōmi and Mikawa to test the Tokugawa clan's capabilities. For this, he first needed to threaten the Hōjō clan to sufficiently weaken their power in order to reduce concerns about the rear. So in the fourth month of Genki 1, he invaded Izu, besieged Nirayama Castle, faced off with Ujimasa at Mishima, and then withdrew his forces. After this, he finally sent troops into Tōtōmi - this was the route by which Shingen first came to invade Mikawa. The sequence of his invasion was as follows: first, in the second month of Genki 2, he sent out troops to build castles at Koyama and Sagara in Tōtōmi; in the third month he advanced to attack Tokugawa general Ogasawara Nagatada at Takatengjin Castle, while on the other hand organizing a naval force to attack Kaketsuka at the mouth of the Tenryū River. Takeda Forces Raid Mikawa: In the fourth month, he incited local soldiers of Tōtōmi to enter western Mikawa, threatening the two castles of Iwazu and Okazaki. Then leading troops from Shinshū, he entered the western part of Mikawa, first capturing Asuke Castle, then turning east and moving south from the Tsukude area to raid Noda, Ushikubo, Nagasawa, and Rengi, finally approaching Yoshida Castle. Prior to this, in the first month of Genki 1, the new castle at Hamamatsu had been completed, and Ieyasu had moved there from Okazaki, placing his son Nobuyasu in Okazaki Castle. Battle of Anegawa: In the sixth month of that year, the famous Battle of Anegawa took place, so at Oda Nobunaga's request, not only Ieyasu but also many Tokugawa generals including Sakai Tadatsugu participated and all distinguished themselves with special merit. Of course, at that time Takeda Shingen was, as mentioned before, exactly at the time when he had invaded Izu and was facing off with the Hōjō forces, so he had no time to observe what followed. The Mountain Clans of Three Districts Join the Takeda: Now that Shingen himself was about to invade Mikawa, he first had Akiyama Nobutomo and others from Tōtōmi recruit the mountain people of the three districts in northern eastern Mikawa. So except for the Suganuma clan of Noda and Suganuma Sadauji's branch, all others including Okudaira Michifumi and the Suganuma clan betrayed the Tokugawa and joined the Takeda. Through the guidance of these people, he finally came to threaten Yoshida Castle. Shingen Approaches Yoshida Castle: At this time, Toda Yasunaga, lord of Rengi Castle, was still called Torachiyo and was only ten years old, but Toda Yoshikuni served as deputy commander [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Decline of the Imagawa Clan and the Invasion of the Takeda Clan) - 105