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【欄外】
豊橋市史談 (今川氏の衰亡と武田氏の侵入) 百六
【本文】
して居(を)つて之(これ)を拒(ふせ)いだのである又(ま)た此時(このとき)家康(いへやす)は浜松(はままつ)から出陣(しゆつぢん)して此(この)吉田城中(よしだぜうちう)にあつたのであるが前に
二連木合戦 も一寸(ちよつと)申述(もうしの)べて置(お)いた如(ごと)く徳川実記(とくがはじつき)には御名誉聞書(ごめいよきゝがき)を引(ひ)いて此時(このとき)の戦(たゝかひ)の様(さま)が載(の)せてある後其(その)原文(げんぶん)は左(さ)
の通(とほ)りである
元亀(げんき)二年四月 武田信玄(たけだしんげん)三 州(しう)へ攻入由(せめいりしよし)聞取(きゝとり)浜松(はままつ)より吉田城(よしだぜう)へ御皈座(ごきざ)あり信玄(しんげん)の先鋒(せんぱう)山縣(やまがた)三 郎兵衛昌景(らうべゑまさかげ)
多勢(たぜい)率(ひ)きつれ攻(せ)め来(きた)る君(きみ)三の輪(わ)の櫓(やぐら)に扇(あふぎ)の御馬標(おうまじるし)立(た)て敵陣(てきぢん)の様(さま)つく〳〵御覧(ごらん)あり酒井左衛門尉忠次(さかゐさゑもんのぜうたゞつぐ)
が打(うつ)て出(いで)むと云(い)ふを制(せい)し給(たま)ひ敵陣(てきぢん)の様(さま)を見(み)るに城(しろ)を責(せ)むとにあらず我(われ)をおびき出(だ)し彼(か)の松原(まつはら)にて伏(ふく)
兵(へい)もて打(う)たむとするならんよく見(み)よ今(いま)に彼方(かなた)より武功(ぶこう)の者(もの)を出(いだ)して戦(たゝかひ)を挑(いど)むべし此方(こなた)よりも一 騎(き)
当千(とうせん)の者(もの)出(いだ)して鎗(やり)ばかり合(あは)せしめよと宣(のたま)ひしが果(はた)して敵方(てきがた)より廣瀬郷右衛門(ひろせごううゑもん)、 三枝伝右衛門(さいぐさでんうゑもん)、 孕石(はらみい)
源右衛門(しげんうゑもん)など土橋(どばし)まで進(すゝ)み来(きた)りしかば城中(ぜうちう)よりも酒井左衛門尉忠次(さかゐさゑもんのぜうたゞつぐ)、 戸田左門一西(とださもんかづあき)、 大津土左衛門(おほつどさゑもんの)
尉時隆(ぜうときたか)等(ら)打(う)つて出(い)で互(たがひ)に詞(ことば)をかはして渡(わた)り合(あ)ひしが頓(やが)て彼方(かなた)より引(ひ)き取(と)りしなり
而(しか)して試(こゝろみ)に甲陽軍鑑(かうようぐんかん)の記事(きじ)を掲(かゝげ)て見(み)ると之(こ)れ亦(ま)た前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)く
元亀(げんき)二年四月、 信玄(しんげん)吉田(よしだ)へ御馬(おんうま)を向(むけ)らる、二 連木(れんぎ)と云所(いふところ)に取出仕(とりいでつかまつり)、 家康(いへやす)衆(しう)防居(ふせぎを)る、 総軍(そうぐん)を以(もつ)て大(おほ)
手(て)へ被寄(よせられ)其上(そのうへ)搦手(からめて)へ山家(やさか)三 方(ぱう)、 小笠原(をがさはら)、 山縣衆(やまがたしう)働(はたらく)、 之(これ)を見(み)て、城(しろ)を明け、 引取(ひきとり)也
とあるのである又(ま)た当時(とうじ)山縣(やまがた)三 郎兵衛昌景(らうべゑまさかげ)から孕石主水(はらみいしもんど)へ贈(おく)つた文書(ぶんしよ)があるが之(これ)に拠(よ)るも亦(ま)た其時(そのとき)の
状況(ぜうけう)が分(わか)ると思(おも)ふから其中(そのなか)で必要(ひつえう)なる処(ところ)を左(さ)に抄出(しようしゆつ)することとする
一、足助之地、以_二御先衆_一去十五日被_二取詰_一候処、城主鈴木越後父子様々就_二懇望_一、被_レ助_二身命_一、十
九日被_レ立候、彼地一段堅固之間、御抱之為御番勢、伊奈之下條被_二指置_一候、
一、近辺之小城為_レ始浅賀井、阿須利、八桑、大沼、田代等自落、彼筋被_レ明御隙之条、至_二東三河_一
【欄外】
□豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
□□□豊橋市史談□□□□□□□□□□□□□
【本文】
被_レ遂_二御陣_一候、野田築_二執出(トリデ)_一菅沼新八郎居住候、因_レ茲山家三方衆為_二案内_一者、小笠原掃部大
夫拙者人数相添、作手を打立、夜中働候処、旗先を見付、明城城罷退候、追懸悉討取候、雖_レ然
新八郎討漏無念、(下略)
一、昨廿九日向_二吉田_一被_レ及_二御行_一候処、号_二 二連木_一 地相蹈候間、三方衆小掃拙者廻_二搦手_一、作を見
届、明_レ城敗北、切所故不_二打留_一、口惜存候、
一、後刻家康自身従_二半途_一出備候間、御屋形様御眼前之事候条、右之衆申合、二連木之際押崩、吉
田城内迄追入候、敵二千余之人数に候間、執_二切所_一退散候条、不_二討留_一、所存之外候
(前後省略)
卯 月 晦 日 山 三 兵 昌 景
孕 主 殿 (孕石主水)
御 報
此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)で信玄(しんげん)は三河に入(い)つて諸方(しよほう)を抄掠(しようれう)したが此(この)時(とき)は遂(つひ)に大合戦(たいかつせん)もなくて程(ほど)なく退軍(たいぐん)したのであ
る併(しか)し信玄(しんげん)の方(ほう)から云ふと此(この)時(とき)の戦(たゝかひ)は先(ま)づ斥候戦(せつこうせん)とも云ふべきもので所謂(いはゆる)信玄(しんげん)が西上(せいぜう)の計画(けいくわく)は之(これ)より
《割書:信玄の西上|計画》 益々(ます〳〵)進抄(しんしよう)したのである而(しか)して其(その)計画(けいくわく)と云ふものが又(ま)た中々(なか〳〵)の大仕掛(おほしかけ)であつて今度(このたび)は東(ひがし)、 北条氏(ほうぜうし)に対(たい)す
《割書:信玄北条氏|と和す》 る方策(ほうさく)を一 変(ぺん)し第一に後顧(こうこ)の患(うれひ)なからしむる為(ため)には之迄(これまで)の行(ゆ)き掛(がゝ)りがあるにも抅(かゝは)らず寧(むし)ろ之(これ)と講話(こうわ)す
るに如(し)かずとなしたのであるが北条氏(ほうぜうし)に於(おい)ても其後(そのご)謙信(けんしん)が到底(とうてい)十 分(ぶん)なる後援(こうえん)をしてくれぬ処(ところ)から矢張(やはり)
此(この)講話(こうわ)を以(もつ)て止(やむ)を得(え)ざるものとなして遂(つひ)に断然(だんぜん)武田氏(たけだし)に和(わ)を求(もと)むるの決心(けつしん)をしたのであるモツトモ当(とう)
時(じ)恰(あたか)も氏康(うぢやす)が卒去(そつきよ)したので却(かへつ)て其(その)話(はなし)が早(はや)く熟(じゆく)して元亀三年正月 氏政(うぢまさ)は其(その)二 弟(てい)氏忠(うぢたゞ)、 氏堯(うぢゆき)を甲斐(かひ)に質(しち)た
【欄外】
豊橋市史談 (今川氏の衰亡と武田氏の侵入) 百七
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談 (今川氏の衰亡と武田氏の侵入) 百六
【本文】
として居て、これを拒いだのである。またこの時家康は浜松から出陣してこの吉田城中にあったのであるが、前にも少し申し述べておいたとおり、徳川実記には御名誉聞書を引いてこの時の戦いの様子が載せてある。その原文は左の通りである。
二連木合戦:
「元亀二年四月、武田信玄が三州へ攻め入ったという知らせを聞き取り、浜松より吉田城へ御着座あり。信玄の先鋒山県三郎兵衛昌景が多勢を率い連れて攻め来る。君は三の輪の櫓に扇の御馬標を立て、敵陣の様子をつくづく御覧あり。酒井左衛門尉忠次が打って出ようというのを制し給い、敵陣の様子を見るに、城を攻めるというのではなく、我らを誘き出し、あの松原にて伏兵をもって討とうとするのであろう。よく見よ、今にあちらより武功の者を出して戦いを挑むはず。こちらよりも一騎当千の者を出して槍ばかり合わせさせよ」と仰せになったが、果たして敵方より広瀬郷右衛門、三枝伝右衛門、孕石源右衛門などが土橋まで進み来たので、城中よりも酒井左衛門尉忠次、戸田左門一西、大津土左衛門尉時隆等が打って出て、互いに言葉を交わして渡り合ったが、やがてあちらより引き取った。
そして試みに甲陽軍鑑の記事を掲げて見ると、これもまた前に申し述べたとおり、
「元亀二年四月、信玄は吉田へ御馬を向けられる。二連木という所に砦を構築し、家康の兵が防いでいる。総軍をもって大手へ寄せられ、その上搦手へ山家三方、小笠原、山県衆が働く。これを見て、城を明け、引き取り也」
とあるのである。また当時山県三郎兵衛昌景から孕石主水へ贈った文書があるが、これによってもまたその時の状況が分かると思うから、その中で必要なる所を左に抜粋することとする。
「一、足助の地、御先陣をもって去る十五日取り詰められた所、城主鈴木越後父子が様々懇望したので、身命を助けられ、十九日立ち退いた。あの地は一段堅固な間、御抱えのための御番の勢として、伊奈の下条を指し置かれた。
一、近辺の小城をはじめ浅賀井、阿須利、八桑、大沼、田代等が自落し、その筋が明けて御隙となったので、東三河に至り
英語訳
[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Decline of the Imagawa Clan and the Invasion of the Takeda Clan) - 106
[Main Text]
serving as deputy and defended against this. Also, at this time Ieyasu had marched out from Hamamatsu and was in Yoshida Castle. As I mentioned briefly before, the Tokugawa Jikki quotes the Gomeiyō Kikigaki and records the manner of battle at this time. The original text is as follows:
Battle of Rengi:
"In the fourth month of Genki 2, hearing that Takeda Shingen had invaded Sanshū, [Ieyasu] took residence in Yoshida Castle from Hamamatsu. Shingen's vanguard, Yamagata Saburōbei Masakage, came attacking with a large force. The lord erected his fan horse standard on the turret of San-no-wa and observed the enemy camp thoroughly. When Sakai Saemon-no-jō Tadatsugu said he would sally forth, [Ieyasu] restrained him, saying: 'Looking at the enemy camp, they do not intend to attack the castle but to lure us out and strike us with ambush troops in that pine grove. Watch carefully - soon they will send out warriors of merit to challenge us to battle. From our side too, send out men worth a thousand each and have them cross spears only.' As he predicted, from the enemy side Hirose Gōemon, Saegusa Den'emon, Haramiishi Gen'emon and others advanced to the earthen bridge. From within the castle, Sakai Saemon-no-jō Tadatsugu, Toda Samon Kazuaki, Ōtsu Dosaemon-no-jō Tokitaka and others sallied forth, exchanged words with each other and engaged, but soon the other side withdrew."
When we examine the account in the Kōyō Gunkan, it also states, as mentioned before:
"In the fourth month of Genki 2, Shingen directed his horse toward Yoshida. At a place called Rengi he constructed a fort, and Ieyasu's forces defended against it. He attacked the main approach with his full army, and moreover sent the mountain clans of three districts, Ogasawara forces, and Yamagata forces to work on the rear approach. Seeing this, they abandoned the castle and withdrew."
There is also a letter that Yamagata Saburōbei Masakage sent to Haramiishi Mondo at that time, and from this too we can understand the situation then, so I will excerpt the necessary parts below:
"Item: Regarding Asuke territory, it was besieged by our advance forces on the 15th, but as castle lord Suzuki Echigo and his son made various earnest appeals, their lives were spared and they departed on the 19th. Since that place is extremely fortified, Ina no Shimojō has been stationed there as garrison forces for our occupation.
Item: The small castles in the vicinity, beginning with Asagakai, Asuri, Yakuwa, Ōnuma, Tashiro and others, surrendered themselves, and since that route became clear and open, [we] advanced to eastern Mikawa