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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 68

ページ: 68

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【欄外】    豊橋市史談  (今川氏の衰亡と武田氏の侵入)               百八 【本文】 《割書:信玄と里見|佐竹両氏》  らしめて愈々(いよ〳〵)親厚(しんこう)を堅(かた)むる事となつたが之(これ)より先(さ)き信玄(しんげん)は安房(あは)の里見氏(さとみし)並(ならび)に常陸(ひたち)の佐竹氏(さたけし)にも好(よしみ)を通(つう)       じて居(お)つたので此(こゝ)に至(いた)つて尚(なほ)相(あひ)結托(けつたく)して此上(このうへ)にも北条氏(ほうでうし)万一の場合(ばあひ)に備(そなへ)むとしたのであるが之(これ)で先(ま)づ        北条氏(ほうでうし)に対(たい)する政策(せいさく)は立(た)つたのであるサテ北方(ほつほう)上杉謙信(うへすぎけんしん)に対(たい)する方策(ほうさく)は如何(どう)であるかと云ふに之(これ)には 《割書:謙信に対す|る方策》   大(おほい)に本願寺(ほんぐわんじ)を利用(りよう)したのである元来(がんらい)信玄(しんげん)と本願寺(ほんぐわんじ)とは深(ふか)き縁故(ゑんこ)があるのであるが其他(そのた)にも種々(しゆ〴〵)なる理(り)        由(ゆう)を付(つ)けて其(その)力(ちから)を藉(か)りソレデ加賀(かが)越中(ゑつちう)に於(お)ける一 向宗(こうしう)の一 揆(き)を煽動(せんどう)し尚(な)ほ椎名(しゐな)、 神保(しんほ)の両氏(れうし)と結(むす)むで        謙信(けんしん)に当(あた)らしめ以(もつ)て其(その)西上(せいぜう)の途(と)を壅塞(えうさい)せしめんとしたのである加之 近江(あふみ)の浅井(あさゐ)越前(ゑつぜん)の朝倉(あさくら)二 氏(し)とも連(れん) 《割書:利足義昭と|玄信》   合(ごう)して織田信長(をたのぶなが)を牽制(けんせい)し松永久秀(まつながひさひで)と通(つう)じて将軍(せうぐん)足利義昭(あしかゞよしあきら)に取(と)り入(い)り且(か)つ義昭(よしあきら)と信長(のぶなが)との間(あひだ)を離間(りかん)せむ       ことを計(はか)つたのであるモツトモ松永久秀(まつながひさひで)の方(ほう)でも依(よつ)て以(もつ)て己(おの)れの後援(こうゑん)となさむと考(かんが)ふる処から旨(うま)く信玄(しんげん)       と義昭(よしあきら)との間(あひだ)を取(とり)なし文書(ぶんしよ)の往復(おうふく)も度々(たび〴〵)あつたもので信玄(しんげん)は遂(つひ)に駿河(するが)に於(おい)て地(ち)を義昭(よしあきら)、 久秀(ひさひで)に贈(おく)るに        至(いた)つたと云ふ訳(わけ)であるかゝる状況(ぜうけう)であつたが織田信長(をだのぶなが)と云ふ人は初(はじ)めから頗(すこぶ)る信玄(しんげん)を恐(おそ)れた様子(やうす)で之(これ) 《割書:上杉織田徳|川三氏の連》   迄(まで)勉(つと)めて其(その)歓心(くわんしん)を得(え)むことを計(はか)つたのであるが今度(このたび)も連(しき)りに家康(いへやす)に勧告(くわんこく)して浜松(はままつ)を退(しりぞ)き復(ふたゝ)び岡崎(をかざき)に拠(よ)る 合     ようにせしめむとしたのである然(しか)るに家康(いへやす)は之(これ)を肯(がへん)せざるのみならず反(かへつ)て深(ふか)く上杉謙信(うへすぎけんし)とむ結(むす)むで武田(たけだ)        氏(し)に対(たい)する策(さく)を講(こう)じたのであるソコで元亀(げんき)元年(がんねん)七月 使(し)を越後(ゑつご)に遣(つか)はしたのであるが爾来(じらい)は数々(しば〳〵)参越(さんゑつ)       の間(あひだ)に往復(おうふく)があつて其(その)翌(よく)二年には徳川氏(とくがはし)から遠州(ゑんしう)秋葉山(あきはさん)権現堂(ごんげんどう)加納(かのう)坊(ぼう)浄全(ぜうぜん)と云ふものに熊谷直高(くまがいなをたか)を副(そ)       へて越後(ゑつご)に使(つか)はし締盟(ていめい)を堅固(けんご)にせしめたのである而(しか)して信長(のぶなが)に於(おい)ても其翌三年十一月廿日 遂(つひ)に誓書(せいしよ)を        謙信(けんしん)に入(い)れ益(ます〳〵)其(その)連合(れんごう)は鞏固(けうこ)となつたので茲(こゝ)に三国の攻守同盟(こうしゆどうめい)は確立(かくりつ)するに至(いた)つたのであるが之(これ)は全(まつた)       く信玄(しんげん)が劃割策(くわくさく)の反応(はんおう)とも云ふべきもので茲(こゝ)に至(いた)つては早晩(さうはん)武田氏(たけだし)と徳川(とくがは)織田(をだ)両氏(れうし)との間(あひだ)に一 大衝突(だいせうとく)が 《割書:林十右衛門|景政》   起(おこ)らねばならぬ道理(どうり)と相成(あひな)つたのである尚(な)ほ此処(こゝ)に一寸(ちよつと)付(つ)け加(くは)へて置(お)きたいのは此(この)吉田(よしだ)に其(その)頃(ころ)林(はやし)十 右(う) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百四十二号附録    ( 明治四十四年八月廿二日発行 ) 【本文】        衛門(ゑもん)と云ふ人があつて弓(ゆみ)の達人(たつじん)であつたが此(この)元亀(げんき)二年四月 武田勢(たけだぜい)の攻入(せめいり)に際(さい)して吉田勢(よしだぜい)に加(くは)はり殊功(しゆこう)       を著(あら)はしたと云ふ事である此(この)人(ひと)は即(すなは)ち三 州(しう)吉田記(よしだき)の著者(ちよしや)林弥次右衛門(はやしやじうゑもん)一(いち)に自見(じけん)と号(ごう)した人の祖先(そせん)で右(みぎ)       の話(はなし)は其(その)吉田記(よしだき)に記(しる)されて居(を)る事であるが林家(はやしけ)は代々(だい〳〵)吉田(よしだ)の年寄役(としよりやく)又(また)は庄屋(せうや)などを勤(つと)めたので其(その)子孫(しそん)       は今(いま)も当市(とうし)に残(のこ)つて居(を)つて旧記(きうき)なども所持(しよぢ)して居(を)るのである             ⦿三方ヶ原役前後の事情        前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)き次第(しだい)で武田信玄(たけだしんげん)は元亀(げんき)一年三月 兵(へい)を遠江(とふとほみ)に出(いだ)して徳川氏(とくがはし)の領地(りようち)を攻撃(こうげき)し更(さら)に其四       月には山家(やまが)二 方(ほう)を服従(ふくじう)せしめて三河の北部(ほくぶ)に攻(せ)め入(い)り足助(あすけ)方面(ほうめん)から東三河(ひがしみかは)に転(てん)じて遂(つひ)に此(この)吉田城下(よしだじようか)迄(まで)       も侵入(しんにふ)したのであるが之(これ)は先(ま)づ斥候戦(せきこうせん)とも見(み)るべきもので信玄(しんげん)が西上(せいじよう)の計画(けいくわく)は爾来(じらい)益々(ます〳〵)進抄(しんしよう)せられた       のであるソコで徳川方(とくがはがた)に於(おい)ても之(これ)に対(たい)するの策(さく)を怠(おこた)らなかつたので織田氏(をたし)とは勿論(もちろん)深(ふか)く上杉氏(うへすぎし)とも結(けつ)        托(たく)したのであるが其(その)五月には家康(いへやす)も駿河(するが)に攻(せ)め入(い)つて島田(しまだ)附近(ふきん)に放火(はうくわ)し其翌二年三月には謙信(けんしん)も亦(ま)た        兵(へい)を武蔵(むさし)に出(いだ)して武田方(たけだがた)の同盟国(どうめいこく)たる北条氏(ほうでうし)を侵(をか)し更(さら)に信濃(しなの)に入(い)りて武田氏(たけだし)の領地(りようち)を攻撃(こうげき)したのであ       る此(こゝ)に於(おい)て家康(いへやす)は遥(はるか)に之(これ)に声援(せいゑん)して其五月 兵(へい)を東三河の北方(ほくぶ)に出(いだ)し其(その)叛将(はんせう)たる菅沼氏(すがぬまし)の長篠城(ながしのじよう)附近(ふきん)を        攻撃(こうげき)し又(ま)た岡崎(をかざき)の守備(しゆび)を増(ま)し砦(とりで)を遠江(とふとほみ)の掛塚(かけつか)附近(ふきん)に築(きづ)いて武田氏(たけだし)の水軍(すいぐん)に備(そな)ふるなど防備(ばうび)おさ〳〵怠(おこた)       らざる有様(ありさま)であつた然(しか)る処(ところ)武田信玄(たけだしんげん)に於(おい)ては準備(じゆんび)愈々(いよ〳〵)成(な)つたと云ふので今度(このたび)こそ兼(かね)ての素志(そし)である        西上(せいじよう)の目的(もくてき)を達(たつ)せむと云ふ意気込(いきご)みで先(ま)づ途(みち)を遠江(とふとほみ)参河(みかは)に取(と)ると云ふ方針(ほうしん)から元亀(げんき)三年の十月三日 愈(いよ) 《割書:信玄大軍を|率ゐて再び》   愈(いよ)自(みづか)ら兵(へい)二万を率(ひき)ひ別(べつ)に北条氏(ほうぜうし)よりの援兵(ゑんぺい)二千余人を加(くは)えて甲州(かうしう)を発(はつ)し信濃(しなの)上伊奈郡(かみいなごほり)から青崩峠(あおくずれとほげ)を越(こ) 《割書:遠江に入る|     》  えて所謂(いはゆる)秋葉路(あきはぢ)を経(へ)遠江(とふとほみ)へ侵入(しんにふ)したのであるモツトモ其(その)外(ほか)に兵(へい)五千を山縣昌景(やまがたまさかげ)に付(ふ)して九月廿九日を 【欄外】    豊橋市史談  (三方ヶ原役前後の事情)               百九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (今川氏の衰亡と武田氏の侵入) 百八 【本文】 させてついに親睦を深めることとなったが、これより先に信玄は安房の里見氏並びに常陸の佐竹氏にも友好を通じていたので、ここに至ってなお相互に結託してこの上にも北条氏の万一の場合に備えようとしたのである。これでまず北条氏に対する政策は立ったのである。さて北方の上杉謙信に対する方策はどうであるかというと、これには大いに本願寺を利用したのである。元来信玄と本願寺とは深い縁故があるのであるが、その他にも種々なる理由をつけてその力を借り、それで加賀・越中における一向宗の一揆を煽動し、なお椎名・神保の両氏と結んで謙信に当たらせ、もってその西上の途を塞がせようとしたのである。加えて近江の浅井・越前の朝倉二氏とも連合して織田信長を牽制し、松永久秀と通じて将軍足利義昭に取り入り、かつ義昭と信長との間を離間させることを計ったのである。もっとも松永久秀の方でも、これによって自分の後援とすることを考える処から、うまく信玄と義昭との間を取りなし、文書の往復も度々あったもので、信玄はついに駿河において地を義昭・久秀に贈るに至ったという訳である。 このような状況であったが、織田信長という人は初めから非常に信玄を恐れた様子で、これまで努めてその歓心を得ることを計ったのであるが、今度も盛んに家康に勧告して浜松を退き、再び岡崎に拠るようにさせようとしたのである。しかるに家康はこれを承諾しないのみならず、反って深く上杉謙信と結んで武田氏に対する策を講じたのである。そこで元亀元年七月に使者を越後に遣わしたのであるが、それ以来はしばしば往復の間に交渉があって、その翌二年には徳川氏から遠州秋葉山権現堂の加納坊浄全というものに熊谷直高を副えて越後に使者として遣わし、同盟を堅固にさせたのである。そして信長においてもその翌三年十一月二十日に、ついに誓書を謙信に入れ、ますますその連合は強固となったので、ここに三国の攻守同盟は確立するに至ったのであるが、これは全く信玄の分裂策の反動とも言うべきもので、ここに至っては早晩、武田氏と徳川・織田両氏との間に一大衝突が起こらねばならない道理となったのである。 なお、ここに少し付け加えておきたいのは、この吉田にその頃林十右 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百四十二号附録 (明治四十四年八月二十二日発行) 【本文】 衛門という人があって弓の達人であったが、この元亀二年四月武田勢の攻め入りに際して吉田勢に加わり、特別な功績を表したということである。この人は即ち『三州吉田記』の著者林弥次右衛門(号は一自見)の祖先で、右の話はその『吉田記』に記されている事であるが、林家は代々吉田の年寄役または庄屋などを勤めたので、その子孫は今も当市に残っていて、旧記なども所持しているのである。 ◉三方ヶ原の戦い前後の事情 前章に申し述べたような次第で、武田信玄は元亀元年三月に兵を遠江に出して徳川氏の領地を攻撃し、更にその四月には山間二方を服従させて三河の北部に攻め入り、足助方面から東三河に転じて、ついにこの吉田城下まで侵入したのであるが、これはまず斥候戦とも見るべきもので、信玄の西上の計画はそれ以来ますます進展させられたのである。そこで徳川方においてもこれに対する策を怠らなかったので、織田氏とは勿論、深く上杉氏とも結託したのであるが、その五月には家康も駿河に攻め入って島田付近に放火し、その翌二年三月には謙信もまた兵を武蔵に出して武田方の同盟国たる北条氏を侵し、更に信濃に入りて武田氏の領地を攻撃したのである。ここにおいて家康は遥かにこれに声援して、その五月に兵を東三河の北方に出し、その叛将たる菅沼氏の長篠城付近を攻撃し、また岡崎の守備を増し、砦を遠江の掛塚付近に築いて武田氏の水軍に備えるなど、防備をおろそかにしない有様であった。しかるところ武田信玄においては準備がついに整ったということで、今度こそ兼ねての宿願である西上の目的を達せようという意気込みで、まず途を遠江・三河に取るという方針から、元亀三年の十月三日に、ついに自ら兵二万を率い、別に北条氏よりの援兵二千余人を加えて甲州を発し、信濃上伊那郡から青崩峠を越えて、いわゆる秋葉路を経て遠江へ侵入したのである。もっともその外に兵五千を山県昌景に付して、九月二十九日に 【欄外】 豊橋市史談 (三方ヶ原役前後の事情) 百九

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Decline of the Imagawa Clan and the Invasion of the Takeda Clan) - 108 [Main Text] allowing [the hostages] to be sent and finally deepening their friendship. Prior to this, Shingen had already established good relations with the Satomi clan of Awa and the Satake clan of Hitachi, so at this point he further conspired with them to prepare for any contingency involving the Hōjō clan. Thus his policy toward the Hōjō was established. Now, as for his strategy toward Uesugi Kenshin in the north, he made great use of Hongan-ji Temple. Originally Shingen and Hongan-ji had deep connections, but for various other reasons as well, he borrowed their power to incite Ikkō-shū uprisings in Kaga and Etchū, and further allied with the Shiina and Jinbō clans to oppose Kenshin, thereby attempting to block his westward advance. Moreover, he allied with the Asai of Ōmi and the Asakura of Echizen to check Oda Nobunaga, and through Matsunaga Hisahide sought to ingratiate himself with Shōgun Ashikaga Yoshiaki while plotting to drive a wedge between Yoshiaki and Nobunaga. Matsunaga Hisahide, for his part, thinking to make this his own backing, skillfully mediated between Shingen and Yoshiaki, with frequent exchange of documents, so that Shingen eventually came to grant land in Suruga to Yoshiaki and Hisahide. Such was the situation, but Oda Nobunaga from the beginning seemed to greatly fear Shingen, and had hitherto sought to win his favor, but this time too he earnestly advised Ieyasu to withdraw from Hamamatsu and return to Okazaki. However, Ieyasu not only refused this but instead formed deep ties with Uesugi Kenshin and devised strategies against the Takeda clan. Thus in the seventh month of Genki 1, he sent an envoy to Echigo, and from then on there were frequent exchanges, so that in the following second year, the Tokugawa sent Kanō-bō Jōzen of the Akiha-san Gongen-dō in Enshū with Kumagai Naotaka as his assistant to Echigo as envoys to strengthen their alliance. Nobunaga too, on the twentieth day of the eleventh month of the following third year, finally submitted a written oath to Kenshin, and their alliance became increasingly solid, so that a three-way offensive and defensive alliance was established. This was entirely a reaction to Shingen's divide-and-conquer strategy, and at this point it became inevitable that a great collision would soon occur between the Takeda clan and the Tokugawa-Oda alliance. I would like to add here that in Yoshida at that time there was a man named Hayashi Jū- [Left Page] [Header] San'yō Shimbun No. 3842 Supplement (Published August 22, Meiji 44) [Main Text] emon who was a master archer, and during the Takeda invasion in the fourth month of Genki 2, he joined the Yoshida forces and distinguished himself with special merit. This man was the ancestor of Hayashi Yajirō-emon (who went by the name Ichijiken), author of the "Record of Yoshida in Sanshū," and the above story is recorded in that Yoshida Record. The Hayashi family served as elders or village headmen of Yoshida for generations, so their descendants remain in our city today and still possess old records. ◉ Circumstances Before and After the Battle of Mikatagahara As described in the previous chapter, Takeda Shingen in the third month of Genki 1 sent forces to Tōtōmi to attack Tokugawa territory, and further in the fourth month subdued the mountain districts and invaded northern Mikawa, turning from the Asuke region to eastern Mikawa and finally penetrating even to this Yoshida castle town. This was primarily a reconnaissance in force, and Shingen's westward plans were increasingly advanced from that time on. The Tokugawa side did not neglect countermeasures, forming deep alliances not only with the Oda but also with the Uesugi. In the fifth month, Ieyasu himself invaded Suruga and set fires near Shimada, and in the third month of the following second year, Kenshin too sent forces to Musashi to attack the Hōjō, who were allied with the Takeda, and further entered Shinano to attack Takeda territory. At this point Ieyasu gave distant support by sending forces to northern eastern Mikawa in the fifth month to attack the vicinity of Nagashino Castle held by the rebel Suganuma clan, while also reinforcing Okazaki's defenses and building fortifications near Kaketsuka in Tōtōmi to guard against Takeda naval forces - in short, neglecting no aspect of defense. However, when Takeda Shingen's preparations were finally complete, with the determination to achieve his long-cherished goal of westward advance, he decided to take the route through Tōtōmi and Mikawa, and on the third day of the tenth month of Genki 3, he finally led 20,000 troops himself, plus over 2,000 auxiliary troops from the Hōjō, departing Kōshū and crossing Aokuzure Pass from Kami-Ina District in Shinano, then entering Tōtōmi via the so-called Akiha Road. Additionally, he assigned 5,000 troops to Yamagata Masakage on the twenty-ninth day of the ninth month to [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Circumstances Before and After the Battle of Mikatagahara) - 109