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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 69

ページ: 69

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【欄外】    豊橋市史談  (三方ヶ原役前後の事情)                   百十 【本文】 《割書:山縣昌景三|河の北部に》   以(もつ)て甲州(かうしう)を発(はつ)せしめ先(ま)づ上伊那郡(かみいなごほり)から東三河の北部(ほくぶ)に入(い)らしめ山家(やまが)三 方(はう)の兵(へい)を合(あは)せしめて更(さら)に遠江(とふとほみ)に 《割書:入る   |遠江侵略 》   出(い)で本軍(ほんぐん)に会(くわい)せしめたのであるが信玄(しんげん)は十月十日 遠江(とふとほみ)に入(い)り只来(たゞらい)飯嶋(ゐゝしま)の二 城(じよう)を攻(せ)め降(くだ)し更(さら)に南下(なんか)して        太田川(おほたがは)の左岸(さがん)木原(きはら)、 西島(にしじま)幷(ならび)に袋井(ふくろゐ)地方(ちほう)に分屯(ぶんとん)しそれから久野(くの)の城(しろ)を攻(せ)めたのであるソコで家康(いへやす)は十三       日に大久保忠世(おほくぼたゝよ)本多忠勝(ほんだたゞかつ)内藤信成(ないとうのぶなり)の三人に兵(へい)三千を率(ひき)ゐて敵(てき)の様子(やうす)を偵察(ていさつ)せしめたのであるが之(これ)が三 一言坂の戦 ケ野原(のはら)の高地(こうち)に於(おい)て敵軍(てきぐん)に発見(はつけん)され退(しりぞ)いて見付(みつけ)の一 言坂(ことざか)に来(きた)つた処(ところ)で両軍(れうぐん)衝突(せうとつ)したので徳川方(とくがはがた)は殆(ほとん)ど        衆寡(しうくわ)敵(てき)せざる場合(ばあひ)であつたが本多忠勝(ほんだたゞかつ)の働(はたらき)と云ふものは実(じつ)に目覚(めざ)ましかつたもので遂(つひ)に全隊(ぜんたい)を傷(きづゝ)け       ずして偵察(ていさつ)の任務(にんむ)を終(を)えて浜松(はままつ)に皈(かへ)つたのである有名(ゆうめい)なる見付一言坂(みつけひとことざか)の戦(たゝかひ)と云ふのは即(すなは)ち之(これ)であるが       かくて信玄(しんげん)は本軍(ほんぐん)を進(すゝ)めて二 俣城(またじよう)を攻(せ)め山縣昌景(やまがたまさかげ)も亦(ま)た東三河から来(きた)り会(くわい)したので家康(いへやす)は松平清善(まつだひらきよよし)を       して宇津山(うつやま)の砦(とりで)を守(まも)らしめて遠参(ゑんさん)の連絡(れんらく)を保(たも)ち又た松平忠正(まつだひらたゝまさ)設楽貞通(したらさだみち)を野田(のだ)に遣(つか)はして菅沼定盈(すがぬまさだみつ)を輔(たす)       けしめたが自(みづか)らは兵を率(ひき)ゐて二 俣城(またじよう)に声援(せいゑん)したのである然(しか)るに二 俣城(またじよう)は遂(つひ)に支(さゝ)ふる事が出来(でき)なくて開城(かいじよう)       するに至(いた)つたのであるが之(これ)で信玄(しんげん)は殆(ほとん)ど徳川氏(とくがはし)を牽制(けんせい)するに足(た)るべき手段(しゆだん)を終(をは)つたので此(この)新占領地(しんせんれうち)は       一々 其(その)部下(ぶか)の将士(せうし)をして之(これ)を守備(しゆび)せしめ十二月廿二日を以(もつ)てイヨ〳〵其(その)営(えい)を撤(てつ)して路(みち)を祝田(しゆくだ)刑部(をさかべ)に取(と) 《割書:信玄東三河|に入らむと》  り井伊谷(いゐのや)を経(へ)て遂(つひ)に東三河に出(い)でむとしたのである元来(がんらい)信玄(しんげん)が今回(こんくわい)の挙(きよ)は前(まへ)にも度々(たび〳〵)申述(もうしの)べた如く其 《割書:す    |     》   目的(もくてき)は旗(はた)を京師(けうし)に樹(た)つるにあるので強(しい)て徳川氏(とくがはし)を滅亡(めつぼう)して其(その)領地(れうち)を併(あは)せむとするが如き訳(わけ)ではない殊(こと)      に武田方(たけだがた)の偵察(ていさつ)では此際(このさい)織田(をた)の援軍(ゑんぐん)と云ふものは数隊(すうたい)既(すで)に浜松(はままつ)に到着(とうちやく)し居(を)つて且(か)つ此(この)吉田(よしだ)から白須(しらす)        賀(が)にかけては其(その)兵(へい)が充満(じうまん)して居(を)ると云ふ事を信(しん)じて居(を)つたので漫(みだ)りに徳川氏の根拠(こんきよ)たる浜松城(はままつじよう)などを        攻撃(こうげき)して日数(につすう)を取(と)つて居(を)る内(うち)には益々(ます〳〵)織田(をた)の援軍(ゑんぐん)が集(あつま)つて我(わ)が疲労(ひらう)に乗(ぜう)ずる事になるであろうソウす       ると西上(せいぜう)の目的(もくてき)は大(おほい)に此処(こゝ)で阻害(そがい)せれる事になるから寧(むし)ろ無益(むえき)の攻戦(こうせん)は避(さ)けて最後(さいご)の目的(もくてき)に急(いそ)いだ方(ほう) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       がよいと云ふのが信玄(しんげん)の意見(いけん)であつたものと思(おも)はれる然(しか)るに家康(いへやす)に於(おい)ては如何(いか)に衆寡(しうくわ)敵(てき)せざる場合(ばあひ)な       るにもせよ敵軍(てきぐん)が近(ちか)く城外(じようくわい)を踏藉(とうせき)するのに之(これ)に一 矢(し)をも加(くは)へぬと云ふのは武士(ぶし)の面目(めんもく)でない勝敗(せうはい)は        天(てん)に在(あ)ると云ふので老臣(らうしん)等(ら)の諌(いさめ)をも斥(しりぞ)けて遂(つひ)に出戦(しゆつせん)に決(けつ)したのであるが徳川方(とくがはがた)の兵数(へいすう)は此時(このとき)織田氏(をたし)の        援軍(ゑんぐん)約(やく)三千を加(くは)ふるも尚(な)ほ一万 内外(ないぐわい)しかなかつたのである 《割書:三方ヶ原の|戦》  ソコで家康(いへやす)は兵(へい)を三方(みかた)ヶ原(はら)に出(いだ)して犀(さい)ケ崖(くぼ)の北方(ほくほう)に布陣(ふぢん)し武田方(たけだがた)の通過(つうくわ)を待(ま)つて居(を)たのであるが此時(このとき)        酒井忠次(さかゐたゝつぐ)は吉田衆(よしだしう)を率(ひき)ゐて織田氏(をたし)の援将(ゑんせう)佐久間(さくま)平手(ひらて)瀧川(たきがは)等(ら)と共(とも)に其(その)右翼(うよく)となり石川数正(いしかはかずまさ)小笠原長忠(をがさはらながたゞ)松(まつ)        平家忠(だひらいへたゞ)本多忠勝(ほんだたゞかつ)等(ら)は其(その)左翼(さよく)となり家康(いへやす)は自(みづか)ら予備隊(よびたい)を率(ひき)ゐて横隊(わうたい)に陣取(ぢんど)つたのである然(しか)るに信玄(しんげん)は之(これ)       を見(み)て尚(な)ほ二三の武将(ぶせう)に其(その)要撃(えうげき)を拒(ふせ)がしめつゝ本隊(ほんたい)は行進(こうしん)を続(つゞ)けようとしたのであるが連(しき)りに其(その)偵察(ていさつ)       が徳川方(とくがはがた)の微弱(びじやく)なるを報(ほう)じた処から遂(つひ)に会戦(くわいせん)するに至(いた)つたのである而(しか)して其(その)結果(けつくわ)は諸君(しよくん)が御承知(ごせうち)の通(とほ)       り武田方(たけだがた)の勝利(せうり)と相成(あひな)つたのであるが併(しか)し信玄(しんげん)の立(た)ち場(ば)から云ふと結局(けつきよく)此(この)戦(たゝかひ)は余(あま)り利盛(りえき)ではなかつ       たものと信(しん)ずるのである       サテ此(この)戦(たゝかひ)に就(つい)ては色々(いろ〳〵)書(か)いたものがあつて三 河物語(かはものがたり)の如(ごと)きにも頗(すこぶ)る味(あぢは)ふべき記事(きじ)があるが茲(こゝ)には余(あま)       り必要(ひつえう)がないと思(おも)ふから只(た)だ其(その)経路(けいろ)だけを申述ぶるに止(とゞ)めたいと思(おも)ふ而(しか)して此(この)戦(たゝかひ)のあつたのは諸君(しよくん)       も知(し)らるゝ通(とほ)り十二月の廿二日で午後(ごゞ)四時 頃(ごろ)から始(はじ)まつて仝六時頃には既(すで)に終(をは)つたのであるが戦(たゝかひ)終(をは)       つて家康(いへやす)は城中(じようちう)に退(しりぞ)いた後(のち)城廓(じようくわく)の各(かく)入口(いりぐち)を鎖(とざ)さしめずに置(お)いたので武田方(たけだがた)から追撃(つひげき)して来(き)た馬場(ばゞ)、        山縣(やまがた)などの将(せう)が却(かへつ)て躊躇(ちうちよ)してそれより内(うち)には攻(せ)め入(い)らなかつた事(こと)並(ならび)に此夜(このよ)天野康景(あまのやすかげ)、 大久保忠世(おほくぼたゝよ)等(ら)が        銃手(じうしゆ)を集(あつ)めて武田方(たけだがた)の陣(ぢん)を犀(さい)ケ崖(くぼ)に射撃(しやげき)して奇捷(きせう)を得(え)た等(とう)の事(こと)があるが之(これ)は有名(ゆうめい)なる話(はなし)であるから言(い)       ふ迄(まで)もなく諸君(しよくん)は既(すで)に御承知(ごせうち)の事であると思(おも)ふソコで其(その)翌(よく)廿三日 武田方(たけだがた)に於(おい)ては色々(いろ〳〵)評議(ひようぎ)があつたの 【欄外】    豊橋市史談  (三方ヶ原役前後の事情)                   百十一

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (三方ヶ原の戦い前後の事情) 百十 【本文】 山県昌景を甲州から出発させ、まず上伊那郡から東三河の北部に入らせ、山間三方の兵を合わせさせて更に遠江に出て本軍に合流させたのである。信玄は十月十日に遠江に入り、只来・飯島の二城を攻め落とし、更に南下して太田川の左岸の木原・西島並びに袋井地方に分屯し、それから久野の城を攻めたのである。そこで家康は十三日に大久保忠世・本多忠勝・内藤信成の三人に兵三千を率いて敵の様子を偵察させたのであるが、これが三ヶ野原の高地において敵軍に発見され、退いて見付の一言坂に来たところで両軍が衝突したので、徳川方は殆ど多勢に無勢の場合であったが、本多忠勝の働きというものは実に目覚ましかったもので、ついに全隊を傷つけずして偵察の任務を終えて浜松に帰ったのである。有名な見付一言坂の戦いというのは即ちこれであるが、こうして信玄は本軍を進めて二俣城を攻め、山県昌景もまた東三河から来て合流したので、家康は松平清善をして宇津山の砦を守らせて遠江・三河の連絡を保ち、また松平忠正・設楽貞通を野田に遣わして菅沼定盈を補佐させたが、自らは兵を率いて二俣城に声援したのである。しかるに二俣城はついに支えることができなくて開城するに至ったのであるが、これで信玄は殆ど徳川氏を牽制するに足るべき手段を終えたので、この新占領地は一々その部下の将士をして守備させ、十二月二十二日をもってついにその営を撤して、路を祝田・刑部に取り、井伊谷を経てついに東三河に出ようとしたのである。 元来信玄が今回の挙は前にも度々申し述べたように、その目的は旗を京師に樹てるにあるので、強いて徳川氏を滅亡させてその領地を併せようとするような訳ではない。殊に武田方の偵察では、この際織田の援軍というものは数隊既に浜松に到着していて、かつこの吉田から白須賀にかけてはその兵が充満していると信じていたので、みだりに徳川氏の根拠たる浜松城などを攻撃して日数を取っている内には、ますます織田の援軍が集まって我が疲労に乗ずることになるであろう。そうすると西上の目的は大いにここで阻害されることになるから、むしろ無益の攻戦は避けて最後の目的に急いだ方 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその博学なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年余り、今やその稿略成るに際し 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し、参陽新報読者諸君に進呈する 【本文】 がよいというのが信玄の意見であったものと思われる。しかるに家康においては、いかに多勢に無勢の場合なるにもせよ、敵軍が近く城外を踏みにじるのにこれに一矢をも加えぬというのは武士の面目ではない、勝敗は天にあるというので、老臣等の諌めをも退けてついに出戦に決したのであるが、徳川方の兵数はこの時織田氏の援軍約三千を加えても、なお一万内外しかなかったのである。 そこで家康は兵を三方ヶ原に出して犀ヶ崖の北方に布陣し、武田方の通過を待っていたのであるが、この時酒井忠次は吉田衆を率いて織田氏の援将佐久間・平手・滝川等と共にその右翼となり、石川数正・小笠原長忠・松平家忠・本多忠勝等はその左翼となり、家康は自ら予備隊を率いて横隊に陣取ったのである。しかるに信玄はこれを見て、なお二三の武将にその要撃を防がせつつ本隊は行進を続けようとしたのであるが、しきりにその偵察が徳川方の微弱なるを報じたところから、ついに会戦するに至ったのである。そしてその結果は諸君がご承知の通り武田方の勝利となったのであるが、しかし信玄の立場から言うと、結局この戦いはあまり利益ではなかったものと信ずるのである。 さてこの戦いについては色々書いたものがあって、『三河物語』のようなものにも非常に味わうべき記事があるが、ここにはあまり必要がないと思うから、ただその経路だけを申し述べるに止めたいと思う。そしてこの戦いのあったのは諸君も知られる通り十二月の二十二日で、午後四時頃から始まって同六時頃には既に終わったのであるが、戦い終わって家康は城中に退いた後、城郭の各入口を鎖させずに置いたので、武田方から追撃して来た馬場・山県などの将が却って躊躇してそれより内には攻め入らなかった事、並びにこの夜天野康景・大久保忠世等が銃手を集めて武田方の陣を犀ヶ崖に射撃して奇勝を得た等の事があるが、これは有名な話であるから言うまでもなく諸君は既にご承知の事であると思う。そこでその翌二十三日、武田方においては色々評議があったの 【欄外】 豊橋市史談 (三方ヶ原の戦い前後の事情) 百十一

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Circumstances Before and After the Battle of Mikatagahara) - 110 [Main Text] [Shingen] had Yamagata Masakage depart from Kōshū, first entering northern eastern Mikawa from Kami-Ina District, combining with forces from the three mountain districts, then advancing to Tōtōmi to join the main army. Shingen entered Tōtōmi on the tenth day of the tenth month, attacking and capturing the two castles of Tadrai and Iijima, then moving further south to establish divided camps at Kihara and Nishijima on the left bank of the Ōta River as well as in the Fukuroi region, from where he attacked Kuno Castle. At this point, on the thirteenth day, Ieyasu had Ōkubo Tadayo, Honda Tadakatsu, and Naitō Nobunari lead 3,000 troops to reconnoiter the enemy situation. They were discovered by enemy forces on the heights of Mikano-hara and, retreating to Hitokoto-zaka at Mitsuke, both armies clashed. Though the Tokugawa forces were vastly outnumbered, Honda Tadakatsu's performance was truly remarkable, and he managed to complete the reconnaissance mission and return to Hamamatsu with the entire unit intact. This is the famous Battle of Mitsuke Hitokoto-zaka. Shingen then advanced his main army to attack Futamata Castle, and Yamagata Masakage also came from eastern Mikawa to join forces. Ieyasu had Matsudaira Kiyoyoshi defend Utsuyama fortress to maintain communications between Tōtōmi and Mikawa, sent Matsudaira Tadamasa and Shitara Sadamichi to Noda to assist Suganuma Sadamitsu, while he himself led troops to support Futamata Castle. However, Futamata Castle ultimately could not hold and surrendered. With this, Shingen had largely completed the measures sufficient to check the Tokugawa, so he had his subordinate generals garrison this newly occupied territory one by one, and on the twenty-second day of the twelfth month finally struck camp, taking the route through Shukuda and Osakabe, passing through Ii-no-ya, and attempting to emerge into eastern Mikawa. Originally, Shingen's current undertaking, as I have mentioned repeatedly before, had as its purpose the planting of his banner in the capital, so it was not a matter of forcibly destroying the Tokugawa and annexing their territory. Particularly, according to Takeda reconnaissance, several units of Oda reinforcements had already arrived in Hamamatsu, and they believed that troops were massed from this Yoshida to Shiratsuka, so if they recklessly attacked places like Hamamatsu Castle, the Tokugawa stronghold, and spent many days doing so, more and more Oda reinforcements would gather and take advantage of their fatigue. In that case, the objective of westward advance would be greatly hindered here, so it would be better to avoid pointless battles and hurry toward the final objective [Header margin] Mayor of Toyohashi Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as that manuscript is nearly complete... [Left Page] [Header] This Toyohashi City Historical Discussion is published once weekly (on Tuesdays) and presented to readers of the San'yō Shimbun [Main Text] - this seems to have been Shingen's opinion. However, for Ieyasu, no matter how outnumbered he might be, to allow enemy forces to trample near the castle walls without shooting even a single arrow at them would be beneath a warrior's dignity. Victory or defeat rests with Heaven, so he rejected the remonstrations of his senior retainers and finally decided to go to battle. The Tokugawa forces at this time numbered only about 10,000 even including approximately 3,000 Oda reinforcements. So Ieyasu deployed his forces on Mikatagahara, taking position north of Sai-ga-kubo and waiting for the Takeda forces to pass. At this time Sakai Tadatsugu led the Yoshida forces along with Oda auxiliary generals Sakuma, Hirate, Takigawa and others to form the right wing, while Ishikawa Kazumasa, Ogasawara Nagatada, Matsudaira Ietada, Honda Tadakatsu and others formed the left wing, and Ieyasu himself led the reserves deployed in a horizontal formation. However, when Shingen saw this, he intended to have two or three generals repel any attack while the main force continued its advance, but as his scouts persistently reported the weakness of the Tokugawa forces, he finally decided to give battle. The result was, as you all know, victory for the Takeda forces, but from Shingen's standpoint, I believe this battle was ultimately not very profitable. Now, regarding this battle, various accounts have been written, and works like the "Mikawa Monogatari" contain quite interesting records, but as I don't think it's particularly necessary here, I'd like to limit myself to just describing the course of events. This battle took place, as you all know, on the twenty-second day of the twelfth month, beginning around 4 PM and already finished by around 6 PM. After the battle ended and Ieyasu had withdrawn into the castle, he left the various entrances to the castle grounds unlocked, so the Takeda generals Baba and Yamagata who had pursued them actually hesitated and did not attack further inside. Also that night, Amano Yasukage, Ōkubo Tadayo and others gathered musketeers to shoot at the Takeda camp at Sai-ga-kubo and achieved a surprise victory - these are famous stories that I'm sure you all already know. So on the following twenty-third day, there was much deliberation among the Takeda forces [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Circumstances Before and After the Battle of Mikatagahara) - 111