Code4Lib JAPAN ✕ みんなで翻刻

コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 70

ページ: 70

翻刻

【欄外】    豊橋市史談  (三方ヶ原役前後の事情)                   百十二 【本文】       であるが此際(このさい)一 層(そう)の事に浜松城(はままつじよう)をも攻略(こうりやく)しようではないかと云ふ議論(ぎろん)も起(おこ)つたのであるトコロが独(ひと)り        高坂昌宜(たかさかまさのぶ)は之(これ)を不可(ふか)として一日も早(はや)く兵(へい)を上国(じようこく)に進(すゝ)むるのを得策(とくさく)としたので信玄(しんげん)も初(はじ)めからの意志(いし)が        其処(そこ)にあるのであるから深(ふか)く其説(そのせつ)に同意(どうい)して即(すなは)ち廿四日には兵(へい)を刑部(をさかべ)に移(うつ)し遂(つひ)に此処(こゝ)に越年(ゑつねん)することと 《割書:信玄三河に|入り野田城》  なつて兵馬(へいば)の休養(きうやう)をなしたのであるが其(その)翌(よく)天正(てんせう)元年(がんねん)の正月には愈々(いよ〳〵)三河に侵入(しんにふ)して十一日 野田(のだ)の城(しろ)を 《割書:を囲む  | 》   攻撃(こうげき)するに至(いた)つたのである此時(このとき)山縣昌景(やまがたまさかげ)は矢張(やはり)先鋒(せんはう)として正月 早々(さう〳〵)三河に入(い)つたので昌景(まさかげ)が正月三日 大恩寺文書 付で出(いだ)した宝飯郡(ほゐぐん)御津村(みとむら)大恩寺(たいおんじ)の制札(せいさつ)か今(いま)も同寺(どうじ)に保存(ほぞん)されて居(を)るのは実(じつ)に珍(ちん)とすべきものであると        思(おも)ふ       サテ此(この)野田(のだ)の城(しろ)には前(まへ)に申述(もうしの)べた如く当時(とうじ)菅沼定盈(すがぬまさだみつ)が援将(ゑんせう)松平忠正(まつだひらたゞまさ)等(ら)と見兵(けんぺい)僅(わづか)に四百余人を以(もつ)て守備(しゆび)       して居(を)つたのであるが之(これ)を固守(こしゆ)すると共(とも)に急(きう)を浜松(はままつ)に報(ほう)じたのであるソコで家康(いへやす)は赴援(ふゑん)して八 名郡(なぐん)の        八名井(やなゐ)まで来(き)て笠頭山(りうづさん)に陣取(ぢんど)つたが何分(なにぶん)にも兵数(へいすう)が少(すくな)いので如何(いかん)ともすることが出来(でき)ぬ依(よつ)て使(し)を岐阜(ぎふ)に       やつて援(ゑん)を求(もと)めたが信長(のぶなが)は辞(じ)して之(これ)に応(おう)ぜない拠(よんどころ)なく書(しよ)を謙信(けんしん)に送(おく)つて兵を信濃(しなの)に出(いだ)し以(もつ)て信玄(しんげん)を        牽制(けんせい)せむことを請(こ)ふに至(いた)つたのである其(その)内(うち)に城(しろ)は遂(つひ)に支(さゝ)ふる事が出来(でき)ぬ処から定盈(さだみつ)等(ら)は止(やむ)を得(え)ず自(みづか)ら屠(と)        腹(ふく)して部下(ぶか)の士卒(しそつ)を宥(ゆる)さむことを武田方(たけだがた)に求(もと)めたのであるが信玄(しんげん)が之(これ)を許(ゆる)したので二月十日に定盈(さだみつ)等(ら)二 野田城落つ  将(せう)は城(しろ)を出(い)で潔(いさぎよ)く自殺(じさつ)せんとしたのである然(しか)るに信玄(しんげん)は頻(しき)りに之(これ)に降(こう)を勧(すゝ)めたが二 将(せう)は之(これ)に応(おう)ぜぬ       ので遂(つひ)に長篠(ながしの)に幽閉(ゆうへい)されたトコロが例(れい)の山家(やまが)三 方(はう)の人々(ひと〴〵)の質(しち)と云ふものはまだ浜松(はままつ)にあつたので此(この)人(ひと)        人(〴〵)から己(おの)れ等(ら)の質(しち)と此(この)二 将(せう)との交替(こうたい)をしたいと云ふ事を信玄(しんげん)に申出(もうしい)でた而(しか)して此事(このこと)は徳川方(とくがはがた)とも交渉(こうせう)       が纏(まとま)つて其(その)月(つき)の十五日に俘虜(ふりよ)の交替(こうたい)が出来(でき)たと云ふ訳(わけ)で定盈(さだみつ)等(ら)は幸(さいはひ)に一 命(めい)を全(まつた)ふして浜松(はままつ)に皈(かへ)る事       になつたのである私(わたくし)は実(じつ)に此(この)定盈(さだみつ)の忠節(ちうせつ)と云ふものに対(たい)しては常(つね)に何(なん)とも云へぬ感嘆(かんたん)の意(い)を表(ひよう)して居(を) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百四十八号附録    ( 明治四十四年八月廿九日発行 ) 【本文】 信玄病を獲 るのである蓋(けだ)し此(この)際(さい)に於(お)ける徳川方(とくがはがた)の逆境(ぎやくけう)と云ふものは頗(すこぶ)る甚(はなはだ)しかつたものであると思(おも)ふが信玄(しんげん)も        亦(ま)た此(この)野田(のだ)の城攻(しろぜ)めに於(おい)て病(やまひ)を獲(ゑ)たので之(これ)が原因(げんゐん)となつて遂(つひ)に大志(たいし)を齎(もたら)したるまゝ不皈(ふき)の客(きやく)となつた       のである兎(と)に角(かく)定盈(さだみつ)は僅(わづか)に四百余の手兵(しゆへい)を以(もつ)て三万の大軍(たいぐん)を引受(ひきう)け渺(ひよう)たる野田(のだ)の城(しろ)に籠(こも)つて三 旬(じゆん)余(よ)を        支(さゝ)えたと云ふものは莫大(ばくだい)の功(こう)で私(わたくし)は信玄(しんげん)から云ふと実(じつ)に余計(よけい)な事をして不慮(ふりよ)の大害(たいがい)を受(う)けたような       ものであると思(おも)ふのである三 河物語(かはものがたり)には        (信玄(しんげん))そこを引(ひき)のけ給(たま)ひて伊(い)の谷(や)へ入て長篠(ながしの)へ出(で)給(たま)ふ其(それ)よりおくかうりへはたらかんとて出(いで)させ給(たま)        ふ所(ところ)に爰(こゝ)にやぶの内(うち)に小城(せうじよう)有(あり)ける何城(なにじよう)ぞととはせ給(たま)へば野田之城(のだのしろ)と申(もうす)信玄(しんげん)はきゝ及(および)たる野田(のだ)は是(これ)に        て有(ある)か其(その)儀(ぎ)ならはとおりがけにふみちらせと仰(あふせ)あつて押寄(おしよせ)給(たま)へば       と書(か)いてあるが之(これ)で見(み)ると少(すくな)くとも此(この)時(とき)此(この)吉田城(よしだじよう)をば攻略(こうりやく)して然(しか)る後(のち)西上(せいぜう)せむとしたものと思(おも)はれる       モツトモ此(この)記事(きじ)が果(はた)して事実(じじつ)であるかどうか確証(かくせう)はし兼(か)ぬる事と思(おも)ふが兎(と)に角(かく)文中(ぶんちう)には如何(いか)にも信玄(しんげん)       の性格(せいかく)と其(その)新勝気鋭(しんせうきえい)の有様(ありさま)が見(み)ゆるようであるのみならず如何(いか)に野田城(のだじよう)の小(せう)なるものであつたかゞ分(わか) 信玄の卒去 るようである果(はた)して此(かく)の如(ごと)き事情(じぜう)であつたものとすれば遺憾(ゐかん)ながら信玄(しんげん)が大志(たいし)を抱(いだ)いて而(しか)も遂(つひ)に成功(せいこう)       する事が出来(でき)なかつたのも当然(とうぜん)であるとなさねばならぬのであるサテ又(ま)た此(この)信玄(しんげん)の死(し)であるが之(これ)にも        旧来(きうらい)種々(しゆ〴〵)の説(せつ)があるので松平記(まつだひらき)には         家康(いへやす)も後詰(あとづめ)として笠頭山(りうづさん)迄(まで)御出張(ごしゆつちよう)有(あり)しかとも城中(じようちう)にては是(これ)をしらす水(みづ)を呑(のま)す数日(すうじつ)過(すぎ)し程(ほど)に軍勢(ぐんぜい)人馬(じんば)         何(なん)とも不叶(かなはず)菅沼方(すがぬまがた)より敵(てき)へ使(し)を以(もつ)て申(もうし)けるは我等(われら)一 人(にん)罷出(まかりいで)腹(はら)を可切(きるべく)候間(そうろうあひだ)軍勢(ぐんぜい)をは助(たす)けのかさせ給(たまへ)        と信玄(しんげん)聞(きゝ)尤(もつとも)きとくの被申様成(もうされやうなり)とて軍勢(ぐんぜい)をはのかせ可申(もうしべく)と堅(かた)く契約(けいやく)にて菅沼新(すがぬましん)八 郎(らう)城(しろ)を出(いで)る処(ところ)に信玄(しんげん)         衆(しう)待請(まちうけ)生捕(いけどり)にしける此(この)間(あひだ)城中(じようちう)の者(もの)ともは過半(くわはん)出(いで)るを甲州衆(かうしうしう)とゝめんとすそのせり合(あひ)に信玄(しんげん)鉄砲(てつぽう)に 【欄外】    豊橋市史談  (三方ヶ原役前後の事情)                   百十三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (三方ヶ原の戦い前後の事情) 百十二 【本文】 であるが、この際一層のこと浜松城も攻略しようではないかという議論も起こったのである。ところが独り高坂昌信はこれを不可として、一日も早く兵を上国に進めるのを得策としたので、信玄も初めからの意志がそこにあるのであるから深くその説に同意して、即ち二十四日には兵を刑部に移し、ついにここに越年することとなって兵馬の休養をなしたのであるが、その翌天正元年の正月には愈々三河に侵入して十一日野田城を攻撃するに至ったのである。この時山県昌景はやはり先鋒として正月早々三河に入ったので、昌景が正月三日付で出した宝飯郡御津村大恩寺の制札が今も同寺に保存されているのは実に貴重とすべきものであると思う。 さて、この野田城には前に申し述べたように当時菅沼定盈が援将松平忠正等と見兵わずかに四百余人をもって守備していたのであるが、これを固守すると共に急を浜松に報じたのである。そこで家康は赴援して八名郡の八名井まで来て笠頭山に陣取ったが、何分にも兵数が少ないのでいかんともすることができぬ。よって使者を岐阜にやって援を求めたが、信長は辞してこれに応ぜない。よんどころなく書を謙信に送って兵を信濃に出し、もって信玄を牽制せんことを請うに至ったのである。その内に城はついに支えることができぬところから、定盈等はやむを得ず自ら屠腹して部下の士卒を赦さんことを武田方に求めたのであるが、信玄がこれを許したので、二月十日に定盈等二将は城を出て潔く自殺せんとしたのである。しかるに信玄はしきりにこれに降を勧めたが二将はこれに応ぜぬので、ついに長篠に幽閉されたところが、例の山間三方の人々の質というものはまだ浜松にあったので、この人々から己れ等の質とこの二将との交替をしたいということを信玄に申し出でた。そしてこのことは徳川方とも交渉が纏まって、その月の十五日に俘虜の交替ができたという訳で、定盈等は幸いに一命を全うして浜松に帰ることになったのである。私は実にこの定盈の忠節というものに対しては常に何ともいえぬ感嘆の意を表している 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百四十八号附録   (明治四十四年八月二十九日発行) 【本文】 のである。けだし、この際における徳川方の逆境というものは非常に甚だしかったものであると思うが、信玄もまたこの野田城攻めにおいて病を得たので、これが原因となってついに大志を抱いたまま帰らぬ人となったのである。とにかく定盈はわずかに四百余の手兵をもって三万の大軍を引き受け、小さな野田城に籠って三旬余を支えたというものは莫大の功で、私は信玄から言うと実に余計なことをして不慮の大害を受けたようなものであると思うのである。『三河物語』には 「(信玄)そこを引きのけ給いて伊の谷へ入て長篠へ出で給う。それより奥郡へ働かんとて出でさせ給う所に、ここに藪の内に小城ありける。何城ぞととわせ給えば野田之城と申す。信玄は聞き及びたる野田はこれにてあるか。その儀ならば通りがけに踏み散らせと仰せあって押し寄せ給えば」 と書いてあるが、これで見ると少なくともこの時この吉田城をば攻略して然る後西上せんとしたものと思われる。もっともこの記事が果たして事実であるかどうか確証はしかねることと思うが、とにかく文中にはいかにも信玄の性格とその新勝気鋭の有様が見えるようであるのみならず、いかに野田城の小なるものであったかが分かるようである。果たしてかくの如き事情であったものとすれば、遺憾ながら信玄が大志を抱いて而もついに成功することができなかったのも当然であるとなさねばならぬのである。 さてまたこの信玄の死であるが、これにも旧来種々の説があるので、『松平記』には 「家康も後詰として笠頭山まで御出張ありしかとも、城中にてはこれを知らず。水を呑まず数日過ぎし程に、軍勢人馬何ともかなわず。菅沼方より敵へ使をもって申しけるは、我等一人罷り出で腹を切るべく候間、軍勢をば助けのかさせ給えと。信玄聞き、もっとも奇特の申され様なりとて、軍勢をばのかせ申すべくと堅く契約にて、菅沼新八郎城を出づる処に、信玄衆待ち請け生け捕りにしける。この間城中の者どもは過半出づるを甲州衆止めんとす。その競り合いに信玄鉄砲に」 【欄外】 豊橋市史談 (三方ヶ原の戦い前後の事情) 百十三

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Circumstances Before and After the Battle of Mikatagahara) - 112 [Main Text] However, at this time an argument arose that they should go ahead and attack Hamamatsu Castle as well. But Takasaka Masanobu alone opposed this, considering it best strategy to advance troops to the capital as quickly as possible, and since Shingen's original intention lay there, he deeply agreed with this opinion. So on the twenty-fourth day he moved his forces to Osakabe, and they ended up spending the New Year there, resting their troops and horses. The following year, Tenshō 1, in the first month they finally invaded Mikawa and on the eleventh day began attacking Noda Castle. At this time Yamagata Masakage entered Mikawa in early first month as the vanguard as usual, and the prohibition notice issued by Masakage on the third day of the first month for Daion-ji temple in Mito village, Hōi District, is still preserved at that temple today - something I think should be considered truly precious. Now, at this Noda Castle, as I mentioned before, Suganuma Sadamitsu was defending with auxiliary general Matsudaira Tadamasa and others with only about 400 troops, but while firmly defending this position, he also sent urgent word to Hamamatsu. So Ieyasu came to assist, advancing as far as Yanai in Yana District and taking position on Mount Kasagashira, but with so few troops there was nothing he could do. Therefore he sent an envoy to Gifu requesting aid, but Nobunaga declined and would not respond. With no other choice, he sent a letter to Kenshin requesting that he deploy troops to Shinano to check Shingen. Meanwhile, as the castle could no longer hold out, Sadamitsu and others had no choice but to request of the Takeda forces that they be allowed to commit seppuku themselves in exchange for pardoning their subordinate soldiers. Shingen granted this, so on the tenth day of the second month, Sadamitsu and the other general left the castle intending to commit honorable suicide. However, Shingen persistently urged them to surrender, but the two generals would not comply, so they were finally imprisoned at Nagashino. But the hostages from the mountain districts mentioned earlier were still in Hamamatsu, so these people approached Shingen requesting to exchange themselves as hostages for these two generals. Negotiations were concluded with the Tokugawa side as well, and on the fifteenth of that month a prisoner exchange was accomplished, so Sadamitsu and the others fortunately preserved their lives and returned to Hamamatsu. I truly always express indescribable admiration for this loyalty of Sadamitsu [Left Page] [Header] San'yō Shimbun No. 3848 Supplement (Published August 29, 1911) [Main Text] Indeed, I believe the adverse circumstances of the Tokugawa forces at this time were extremely severe, but Shingen also contracted illness during this siege of Noda Castle, and this became the cause of his eventually becoming one who would not return home despite harboring great ambitions. In any case, Sadamitsu taking on a great army of 30,000 with merely 400 troops, holding up in tiny Noda Castle for over thirty days - this was an enormous achievement. From Shingen's perspective, I think he really did something unnecessary and suffered unexpected great harm. The "Mikawa Monogatari" states: "(Shingen) withdrew from there and entered Ii-no-ya, emerging at Nagashino. From there, intending to work in the inner districts, as he was advancing, here in the bamboo grove there was a small castle. When he asked 'What castle is this?' they replied 'Noda Castle.' Shingen said, 'Is this the Noda I have heard of? If so, trample it down in passing,' and he pressed the attack." From this it appears that he intended at minimum to capture this Yoshida Castle and then advance westward. Of course, I think it's difficult to confirm whether this account is actually factual, but in any case the text seems to show Shingen's character and his confident, spirited manner, while also indicating how small Noda Castle was. If circumstances were indeed like this, then regrettably we must conclude it was only natural that Shingen, despite harboring great ambitions, was ultimately unable to succeed. Now regarding Shingen's death, there have been various theories since ancient times. The "Matsudaira-ki" states: "Though Ieyasu also advanced to Mount Kasagashira as reinforcement, those in the castle did not know this. After several days without drinking water, the troops and horses could endure no more. The Suganuma side sent an envoy to the enemy saying, 'We will have one person come out and commit seppuku, so please spare the troops.' Hearing this, Shingen said, 'This is indeed an admirable proposal,' and made a firm agreement to spare the troops. When Suganuma Shinhachirou left the castle, Shingen's men were waiting and captured him alive. During this time, more than half the men in the castle were coming out, and the Kōshū forces tried to stop them. In this struggle, Shingen was shot by a musket" [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Circumstances Before and After the Battle of Mikatagahara) - 113