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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 71

ページ: 71

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【欄外】    豊橋市史談  (三方ヶ原役前後の事情)                    百十四 【本文】        あたり給(たま)ひ山城(やまじろ)なれば誰(たれ)か打(うち)けん落矢(おや)に打(うたれ)けるそれより色々(いろ〳〵)養生(やうぜう)有(あり)しと聞(きこ)えし      とあるが武徳編年修成(ぶとくへんねんしうせい)には又(ま)た其(その)頃(ころ)の伝説(でんせつ)を記(しる)して        爰(こゝ)に勢州(せいしう)山田(やまだ)の住人(ぢうにん)村松芳休(むらまつほうきう)と云者(いふもの)適々(たま〳〵)野田(のた)の城内(じようない)に在(あ)りて毎夜(まいよ)笛(ふえ)を吹(ふき)其(その)音(ね)精妙(せいみよう)なるゆへ敵軍(てきぐん)喜(よろこ)び         聞(きく)一日 兵士(へいし)来(きたり)て紙(かみ)を竹竿(たけさを)に掲(かゝげ)て丘上(きゆうぜう)に建置(たてをき)けるを城中(じようちう)鳥居(とりゐ)三 左衛門(ざゑもん)是(これ)を見咎(みとが)め疑(うたが)ふらくは蜜々(みつ〳〵)主将(しゆせう)         来(きたつ)て笛(ふゑ)を聞(きく)の符(ふ)ならん歟(か)と彼(かの)竹竿(たけざを)を標的(ひようてき)として火砲(くわはう)を備(そな)へ相待処(あひまつところ)に其(その)夜(よ)果(はた)して芳休(ほうきう)笛(ふゑ)を吹(ふき)けれは信(しん)         玄(げん)彼(かの)丘上(きうぜう)に来(きた)りて笛(ふゑ)を聞処(きくところ)鳥居(とりゐ)火砲(くわはう)を発(はつ)し其(その)耳(みゝ)の際(きは)をかすり打殪(うちなほ)し即(すなはち)絶入(ぜつにふ)す敵(てき)大(おほい)に周章(しうせう)し陣営(ぢんえん)に         携(たづさ)へ皈(かへ)り医療(ゐれう)を尽(つく)す       としてある然(しか)るに文学士(ぶんがくし)渡邊世祐君(わたなべせゆうくん)の安土桃山時代史(あづちもゝやまじだいし)には右(みぎ)の両説(れうせつ)を評(ひよう)して         前者(ぜんしや)は余(あま)りに詩的(してき)後者(こうしや)は実際(じつさい)あり難(がた)き不合理(ふごうり)の事たり元来(がんらい)両説(れうせつ)とも当時(とうじ)の伝説(でんせつ)なれは直(たゝち)に否定(ひてい)し難(がた)        きも尚(な)ほ彼(か)の武家事記所載(ぶけじきしよさい)の御宿大監物(みしゆくだいけんもつ)の書中(しよちう)の説(せつ)史料(しれう)として前(ぜん)二 者(しや)より正確(せいかく)にして又(また)実際(じつさい)の事実(じじつ)        と思(おも)はるゝには若(し)かざるなり監物(けんもつ)の書中(しよちう)に「元来玄公懸_二望干天下_一胸呑_二於四海_一巻_二舌於九河_一振_二家        名於海内_一可_レ被貽_二名於後代_一襟懐徹_二骨髄_一由_レ苦_二肺肝_一病患忽萌腹心不_レ安切也由_レ是尽_二倉公華佗        術_一雖_レ用_二君臣佐使之薬_一業病更不_レ愈追_レ日沈_二病枕_一」と云ふ文(ぶん)あり此(これ)に依(よ)り其(その)病気(びようき)なりしを知(し)るを         得(え)ん       と記(しる)してあるのである之(これ)は如何(いか)にも正(たゞ)しき説(せつ)であると思(おも)ふサテ信玄(しんげん)は病(やまひ)起(おこ)るの後(のち)二月十六日を以(もつ)て鳳(ほう)        来寺(らいじ)に移(うつ)つて療養(れうやう)したが当時(とうじ)将軍(せうぐん)義昭(よしあきら)は織田信長(をだのぶなが)と不和(ふわ)で之(これ)を除(のぞ)かむ事を画(はか)つて居(を)つたのであるから        従(したがつ)て信玄(しんげん)の上京(ぜうけう)を促(うなが)すことが急(きう)であつたそれのみならず伊勢(いせ)の北畠具教(きたはたけとものり)の如(ごと)きは信玄(しんげん)の上洛(ぜうらく)に就(つい)ては        船(ふね)を此(この)吉田(よしだ)まで回(まわ)してもよいと云ふ事を申送(もうしおく)つた位(くらゐ)であるソコで信玄(しんげん)は一 度(ど)は勝頼(かつより)をして徳川方(とくがはがた)に当(あた) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       らしめて本軍(ほんぐん)をば直(たゞ)ちに西(にし)へ進(すゝ)ましめむとしたのであるが再(ふたゝ)び病(やまひ)が重(おも)つたので遺憾(ゐかん)極(きはま)りない事であつ       たであろうが遂(つひ)に国(くに)に引返(ひきかへ)す事となつて其(その)途中(とちう)四月十二日を以(もつ)て信州(しんしう)駒場(こまば)に於(おい)て卒去(そつきよ)したのである併(しか)       し之(これ)にも旧来(きうらい)波合(なみあひ)に於(おい)て卒去(そつきよ)されたと云ふ説(せつ)があるが今(いま)は前説(ぜんせつ)が先(ま)づ確(たしか)な事となつて居(を)る様(やう)である             ◉長篠役と武田氏の滅亡        前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如く武田信玄(たけだしんげん)は天正(てんせう)元年(がんねん)四月 卒去(そつきよ)し其(その)子(こ)の勝頼(かつより)が其(その)後(あと)を襲(つ)いたが父(ちゝ)の遺命(ゐめい)によりて固(かた)       く其(その)喪(も)を秘(ひ)したのである然(しか)るに徳川家康(とくがはいへやす)はイヨ〳〵武田勢(たけだぜい)が東三河を去(さつ)つたのを見(み)て其(その)翌月(よくげつ)には兵(へい)を        駿河(するが)に出(いだ)して岡部(をかべ)附近(ふきん)に放火(はうくわ)し更(さら)に自(みづか)ら此(この)吉田(よしだ)の城(しろ)に屯(たむろ)して東三河の北部(ほくぶ)に於(お)ける敵状(てきぜう)を偵察(ていさつ)し又(ま)た 《割書:家康長篠城|を復す》   遠州(ゑんしう)二 俣(また)の敵城(てきぜう)に対(たい)しても社山(やしろやま)、 合代島(あひしろじま)、 渡島(どんど)などゝ云ふ処(ところ)に砦(とりで)を設(もう)けて之(これ)に備(そな)へ七月に至(いた)つて長篠(ながしの)        城(じよう)を攻撃(こうげき)したのである此(この)長篠城(ながしのじよう)は前(まへ)にも申述(もうしの)べた通(とほ)り菅沼(すがぬま)三 郎左衛門満成(らうさゑもんみつなり)が初(はじ)めて住(ぢう)した処(ところ)で之(これ)は田(た)        峯(みね)の支流(しりう)であるが其(その)年代(ねんだい)は詳(つまびらか)でない併(しか)し文明(ぶんめい)年間(ねんかん)の頃(ころ)であると推定(すいてい)せられるモツトモ此処(こゝ)に城(しろ)の出(で)        来(き)たのは永正(えいせう)五年の五月で其(その)子(こ)元成(もとなり)の時(とき)であると云ふ説(せつ)があるが当時(とうじ)は今川氏(いまがはし)に属(ぞく)したものである然(しか)       るに永禄(えいろく)四 年(ねん)満成(みつなり)五 世(せ)の孫(そん)貞景(さだかげ)に至(いた)つて初(はじ)めて徳川家康(とくがはいへやす)に属(ぞく)したのである此(この)人(ひと)は其(その)十二年正月に家康(いへやす)       か今川氏真(いまがはうぢさね)を遠江国(とふとほみのくに)掛川城(かけがはじよう)に攻(せ)むるに方(あた)つて徳川氏(とくがはし)の為(ため)に天王山(てんわうざん)に於(おい)て討死(うちじに)したのであるが其(その)子(こ)の        新(しん)九 郎正貞(らうまささだ)は元亀(げんき)二年に至(いた)つて武田信玄(たけだしんげん)の誘導(ゆうどう)に応(おう)じ家康(いへやす)に叛(そむ)いて遂(つひ)に之(これ)に属(ぞく)するに至(いた)つたので今度(このたび)        却(かへつ)て家康(いへやす)の攻撃(こうげき)を受(う)くることとなつたのである此(この)時(とき)徳川方(とくがはがた)に於(おい)ては試(こゝろみ)に火箭(くわせん)を放(はな)つて城(しろ)を攻(せ)めたので       あるが之(これ)が予想外(よそうぐわい)に成功(せいこう)し城兵(じようへい)は遂(つひ)に支(さゝ)へ兼(か)ねて降伏(こうふく)したので三 河物語(かはものがたり)には七月十九日に徳川方(とくがはがた)に於(おい)       て城(しろ)を受取(うけと)つたと書(か)いてあるモツトモ武田勝頼(たけだかつより)は城兵(じようへい)の応援(おうゑん)として其(その)族将(ぞくせう)武田信豊(けだのぶとよ)幷(ならび)に馬場信春(ばゞのぶはる)小山(こやま) 【欄外】    豊橋市史談  (長篠役と武田氏の滅亡)                    百十五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (三方ヶ原の戦い前後の事情) 百十四 【本文】 当たり給い、山城なれば誰が撃ったのであろうか、落矢に撃たれたのである。それより色々養生があったと聞こえている」 とあるが、『武徳編年集成』にはまたその頃の伝説を記して 「ここに勢州山田の住人村松芳休という者が、たまたま野田城内にあって毎夜笛を吹き、その音が精妙なるゆえ敵軍が喜んで聞いていた。ある日兵士が来て紙を竹竿に掲げて丘上に建て置いたのを、城中の鳥居三左衛門がこれを見咎め、疑うらくは密かに主将が来て笛を聞くの符であろうかと、かの竹竿を標的として火砲を備え相待つところに、その夜果たして芳休が笛を吹いたので、信玄がかの丘上に来て笛を聞くところ、鳥居が火砲を発し、その耳の際をかすり撃ち倒し、即ち絶入した。敵は大いに周章し陣営に携え帰り医療を尽くした」 としてある。しかるに文学士渡辺世祐君の『安土桃山時代史』には右の両説を評して 「前者は余りに詩的、後者は実際あり難き不合理の事なり。元来両説とも当時の伝説なれば直ちに否定し難きも、なお彼の『武家事記』所載の御宿大監物の書中の説、史料として前二者より正確にして又実際の事実と思わるるには及かざるなり。監物の書中に『元来玄公懸望干天下胸呑於四海巻舌於九河振家名於海内可被貽名於後代襟懐徹骨髄由苦肺肝病患忽萌腹心不安切也由是尽倉公華佗術雖用君臣佐使之薬業病更不愈追日沈病枕』という文あり。これにより其の病気なりしを知るを得ん」 と記してあるのである。これはいかにも正しき説であると思う。さて信玄は病気の後、二月十六日をもって鳳来寺に移って療養したが、当時将軍義昭は織田信長と不和でこれを除かんことを図っていたのであるから、従って信玄の上京を促すことが急であった。それのみならず伊勢の北畠具教の如きは、信玄の上洛については船をこの吉田まで回してもよいということを申し送った位である。そこで信玄は一度は勝頼をして徳川方に当たらしめて、本軍をば直ちに西へ進ましめんとしたのであるが、再び病が重くなったので、遺憾極りない事であったであろうが、ついに国に引き返すこととなって、その途中四月十二日をもって信州駒場において卒去したのである。しかしこれにも旧来浪合において卒去されたという説があるが、今は前説がまず確かな事となっている様である。 ◉長篠の戦いと武田氏の滅亡 前章に申し述べた如く武田信玄は天正元年四月卒去し、その子の勝頼がその後を襲ったが、父の遺命によって固くその喪を秘したのである。しかるに徳川家康はいよいよ武田勢が東三河を去ったのを見て、その翌月には兵を駿河に出して岡部附近に放火し、更に自ら此の吉田城に屯して東三河の北部における敵状を偵察し、また遠州二俣の敵城に対しても社山、合代島、渡島などという処に砦を設けてこれに備え、七月に至って長篠城を攻撃したのである。この長篠城は前にも申し述べた通り菅沼三郎左衛門満成が初めて住した処で、これは田峯の支流であるが、その年代は詳らかでない。しかし文明年間の頃であると推定される。もっともここに城のできたのは永正五年の五月で、その子元成の時であるという説があるが、当時は今川氏に属したものである。しかるに永禄四年満成五世の孫貞景に至って初めて徳川家康に属したのである。この人はその十二年正月に家康が今川氏真を遠江国掛川城に攻むるに方って、徳川氏のために天王山において討死したのであるが、その子の新九郎正貞は元亀二年に至って武田信玄の誘導に応じ家康に叛いて、ついにこれに属するに至ったので、今度かえって家康の攻撃を受くることとなったのである。この時徳川方においては試みに火箭を放って城を攻めたのであるが、これが予想外に成功し、城兵はついに支え兼ねて降伏したので、『三河物語』には七月十九日に徳川方において城を受け取ったと書いてある。もっとも武田勝頼は城兵の応援として、その族将武田信豊並びに馬場信春、小山 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し、参陽新報読者諸君に進呈する 【本文】 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる智識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際し... 【欄外】 豊橋市史談 (長篠の戦いと武田氏の滅亡) 百十五

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Circumstances Before and After the Battle of Mikatagahara) - 114 [Main Text] was hit. Since it was in the mountains, who could have shot it? He was struck by a stray arrow. From then on there was various medical treatment, it is said." However, the "Butoku Hennen Shūsei" records a legend from that time: "Here there was a man named Muramatsu Hōkyū, a resident of Yamada in Ise Province, who happened to be inside Noda Castle and played the flute every night. Because the sound was exquisite, the enemy forces enjoyed listening. One day a soldier came and raised paper on a bamboo pole, placing it on a hill. Torii Sanzaemon in the castle noticed this and suspected it might be a signal for the commander to secretly come and listen to the flute. Taking that bamboo pole as a target, he prepared a cannon and waited. That night Hōkyū indeed played his flute, so Shingen came to that hilltop to listen to the flute. Torii fired the cannon, grazing near his ear and striking him down, causing him to lose consciousness immediately. The enemy was greatly alarmed and carried him back to camp, exhausting all medical efforts." However, scholar Watanabe Seyū in his "Azuchi-Momoyama Period History" evaluates both theories: "The former is too poetic; the latter is an unreasonable impossibility. Originally both theories are legends from that time, so they cannot be immediately denied, but the theory in Mishuku Daikenbutsu's writings recorded in the 'Buke Jiki' is more accurate as historical material than the previous two and seems closer to actual fact. In Kenbutsu's writings it states: 'Originally Duke Shingen harbored ambitions for the realm, his heart swallowing the four seas, his tongue encompassing the nine rivers, establishing his family name throughout the land, leaving a name for posterity. His aspirations penetrated to his very bones, but from suffering in his heart and liver, illness suddenly sprouted, his abdomen and heart became uneasy. Therefore, though he exhausted the arts of Cang Gong and Hua Tuo and used medicines of sovereign, minister, assistant, and envoy, his illness did not improve and day by day he sank into his sickbed.' From this we can know that he was ill." This seems to be quite the correct theory. Now, after falling ill, Shingen moved to Hōrai-ji Temple on the sixteenth day of the second month for treatment. At that time, Shogun Yoshiaki was at odds with Oda Nobunaga and plotting to remove him, so it was urgent to encourage Shingen's advance to the capital. Moreover, even Kitabatake Tomonori of Ise had sent word that he would send ships as far as this Yoshida for Shingen's advance to the capital. So Shingen once intended to have Katsuyori engage the Tokugawa forces while immediately advancing the main army westward, but when his illness worsened again, though it must have been extremely regrettable, he finally had to return to his domain, and on the way, on the twelfth day of the fourth month, he died at Komaba in Shinano Province. However, there is also an old theory that he died at Namiai, but now the former theory seems to be generally accepted as correct. ◉The Battle of Nagakute and the Fall of the Takeda Clan As stated in the previous chapter, Takeda Shingen died in the fourth month of Tenshō 1, and his son Katsuyori succeeded him, but following his father's dying instructions, he kept the death strictly secret. However, when Tokugawa Ieyasu finally saw that the Takeda forces had left eastern Mikawa, in the following month he deployed troops to Suruga and set fires near Okabe, and furthermore personally stationed himself at this Yoshida Castle to scout enemy conditions in northern eastern Mikawa. He also established fortresses at places called Yashiroyama, Aishirojima, and Dondo to defend against the enemy castle at Futamata in Enshū, and in the seventh month attacked Nagashino Castle. This Nagashino Castle, as I mentioned before, was where Suganuma Saburozaemon Mitsunari first resided, being a branch of the Tamine family, though the exact date is unclear. However, it is estimated to be around the Bunmei era. Though there is a theory that the castle was actually built in the fifth month of Eishō 5 during the time of his son Motonari, at that time it belonged to the Imagawa clan. However, in Eiroku 4, Mitsunari's fifth-generation descendant Sadakage first came to serve Tokugawa Ieyasu. This man died in battle at Mount Tennō for the Tokugawa in the first month of that twelfth year when Ieyasu was attacking Imagawa Ujizane at Kakegawa Castle in Tōtōmi Province. But his son Shinkurō Masasada responded to Takeda Shingen's inducements in Genki 2, rebelled against Ieyasu and came to serve Shingen, so this time he instead came under attack by Ieyasu. At this time the Tokugawa forces tried using fire arrows to attack the castle, which succeeded beyond expectations, and the castle garrison finally could not hold out and surrendered. The "Mikawa Monogatari" states that the Tokugawa forces took possession of the castle on the nineteenth day of the seventh month. However, Takeda Katsuyori sent his clan generals Takeda Nobutoy together with Baba Nobuharu and Koyama [Left Page] [Header] This Toyohashi City Historical Discussion is published once weekly (Tuesdays) and presented to readers of the San'yō Shimbun [Main Text] [Header] Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling Toyohashi city history for over a year, and now as his manuscript nears completion... [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Nagakute and the Fall of the Takeda Clan) - 115