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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 72

ページ: 72

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【欄外】    豊橋市史談  (長篠役と武田氏の滅亡)                    百十六 【本文】       田信義(だのぶよし)等(ら)を寄越(よこ)して鳳来寺(ほうらいじ)の黒瀬(くろせ)辺(へん)迄(まで)入(い)り来(きた)つたのであるが遂(つひ)に及(およ)ばなかつたのである。サテ其(その)頃(ころ)作(つく) 《割書:奥平貞能の|帰降》   手(て)の城(しろ)には武田氏(たけだし)の将(せう)甘利左衛門清吉(あまりさゑもんきよよし)と云ふ人が居(を)つたが其(その)後(ご)黒瀬(くろせ)に屯(たむろ)して居(を)つた土屋右衛門直村(つちやうゑもんなをむら)も        之(これ)に移(うつ)つたのである而(しか)して兼(かね)て申述(もうしのべ)てある山家(やまが)三 方(はう)の一なる例(れい)の奥平父子(おくだひらふし)は其(その)外廓(ぐわいくわく)に居(を)つたのであ       るが奥平貞能(おくだひらさだよし)の子(こ)九八郎 貞昌(さだまさ)は後(のち)に信昌(のぶまさ)と改名(かいめい)した人であるが之(これ)より先(さ)き信玄(しんげん)死去(しきよ)の事を知(し)つて頻(しきり)り       に父(ちゝ)貞能(さだよし)に向(むか)つて徳川氏(とくがはし)へ帰降(きこう)する事を勧(すゝ)めたのである家康(いへやす)も亦(ま)た本多広孝(ほんだひろたか)仝(おなじく)信俊(のぶとし)等(ら)から勧告(くわんこく)せし       めたので貞能(さだよし)も遂(つひ)に其(その)事(こと)に決心(けつしん)したのであるが武田方(たけだがた)に於(おい)てはドウモ此(この)頃(ころ)貞能(さだよし)の挙動(きよどう)が怪(あやし)いと云ふの       で今度(このたび)黒瀬(くろせ)に滞陣中(たいぢんちう)の信豊(のぶとよ)は之(これ)を招(まね)いて詰問(きつもん)せしめたのである然(しか)るに此(この)時(とき)貞能(さだよし)は神色自若(しんしよくじじやく)として其(その)異(ゐ)        心(しん)なき旨(むね)を答(こた)へたのみならず緩々(ゆる〳〵)碁(こ)を囲(かこ)むだり茶漬(ちやづけ)を馳走(ちさう)になつたりして落付(おちつ)き払(はら)つて居(を)つたのであ       るそれのみならず貞能(さだよし)の従者(じうしや)が門外(もんぐわい)に蹲踞(そんきよ)して主人(しゆじん)の出(い)づるのを待(ま)つて居(を)つたのに向(むかつ)て御前方(おまへがた)の主人(しゆじん)       は今(いま)其(その)叛逆(はんぎやく)が現(あら)はれて討(う)たれたぞと嚇(おど)したトコロが従者共(じうしやども)は驚(おどろ)かない一 向(こう)平気(へいき)で微笑(びせう)して居(を)つたとの       事である之(これ)は貞能(さだよし)が平常(へいぜう)従者(じうしや)に向(むかつ)て武田方(たけだがた)のものから何(なん)と申掛(もうしかけ)らるゝ事があつても決(けつ)して自分(じぶん)の首(くび)を        見(み)ぬ中(うち)は驚(おどろ)くではないぞと申付(もうしつ)けて深(ふか)く戒(いまし)めてあつた結果(けつくわ)であると云ふ事であるが此(この)事(こと)は武徳編年集(ぶとくへんねんしう)        成(せい)などにも記(しる)してあるかゝる様(さま)であつたから武田方(たけだがた)に於(おい)ても半信半疑(はんしんはんぎ)の中(うち)に此(この)時(とき)貞能(さだよし)を皈(き)したのであ       るが貞能(さだよし)は作手(つくて)に皈(かへ)るや否(いな)や今(いま)は猶予(ゆうよ)すべきではないと云ふので直(たゞ)ちに一 族郎党(ぞくらうとう)を挙(あ)げて瀧山(たきやま)の砦(とりで)に走(はし)       つたので家康(いへやす)は兵(へい)を遣(つか)はして之(これ)を迎(むか)へしめたのであるソコで武田方(たけだがた)に於(おい)ては之(これ)を追(おつ)て小戦争(せうせんさう)があつた 《割書:家康長篠城|を修し奥平》  が悉(こと〴〵)く打(う)ち退(しりぞ)けられたので遂(つひ)に怒(いかつ)て貞能(さだよし)の質(しち)子(こ)仙千代(せんちよ)初(はじ)めを鳳来寺(ほうらいじ)に於(おい)て磔殺(ろころ)したのである此(かく)の如(ごと) 《割書:貞昌をして|之を守らし》  き訳(わけ)で貞能(さだよし)は勿論(もちろん)信昌(のぶまさ)も亦(ま)た益々(ます〳〵)家康(いへやす)に重(おもん)せらるゝに至(いた)つたのであるが特(とく)に信昌(のぶまさ)は弱年(じやくねん)ながら大(おほい)に見(みど) 《割書:む    | 》  処(ころ)のあるものであると云ので其(その)翌々年(よく〳〵ねん)即(すなは)ち天正三年の二月 長篠城(ながしのじよう)の改築(かいちく)が成(な)つてイヨ〳〵此(この)城(しろ)を以(もつ)て 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百五十四号附録    ( 明治四十四年九月五日発行 ) 【本文】        甲信軍(かうしんぐん)侵入(しんにう)の要衝(えうしよ)に当(あた)らしめむとするに方(あた)つて其(その)守将(しゆせう)を命(めい)ぜられたのである       サテ長篠城(ながしのじよう)が家康(いへやす)の手に入つて後(のち)の事(こと)であるが遠江(とふとほみ)方面(ほうめん)に於(おい)て数々(しば〴〵)徳川(とくがは)武田(たけだ)二 氏(し)の間(あひだ)にセリ合(あ)ひがあ 《割書:高天神城武|田氏に降る》  つたが天正二年五月 勝頼(かつより)は兵(へい)三万を率(ひき)いて高天神城(たかてんじんのしろ)を包囲(はうゐ)したのであるソコで家康(いへやす)は急(きう)を聞(き)いて援(ゑん)を        信長(のぶなが)に求(もと)めたので信長(のぶなが)は之(これ)を援(たす)くる為(ため)に自(みづか)ら兵(へい)を率(ひき)ひて其(その)先鋒(せんはう)は六月十八日に今切(いまぎり)の渡(わたし)までやつて来(き)       たが高天神(たかてんじん)の守将(しゆせう)小笠原長忠(をがさはらながたゞ)は其(その)以前(いぜん)遂(つひ)に勝頼(かつより)に降(くだ)つたので信長(のぶなが)は途中(とちう)から引(ひ)き返(かへ)したのである此(この)時(とき)        家康(いへやす)は之(これ)を出迎(でむか)へたが酒井左衛門尉忠次(さかゐさゑもんのぜうたゞつぐ)は此(この)吉田(よしだ)の城(しろ)に於(おい)て信長(のぶなが)を饗(けう)し信長(のぶなが)は又(ま)た此(この)城(しろ)の広間(ひろま)に於(おい)て        黄金(わうごん)一 袋(ふくろ)を家康(いへやす)に贈(おく)り貞宗(さだむね)の刀(かたな)を酒井忠次(さかゐたゞつぐ)に授(さづ)けたと云ふ事である之(こ)れ亦(ま)た松平記(まつだひらき)及(およ)び武徳編年集成(ぶとくへんねんしうせい)       などに記(しる)されてある 《割書:織田武田諸|氏と足利将》   然(しか)るに当時(とうじ)上方(かみがた)に於(おい)ては既(すで)に前(まへ)にも申述(もうしのべ)た通(とほ)り信長(のぶなが)と将軍(せうぐん)義昭(よしあきら)との間柄(あひだがら)が益(ます〳〵)険悪(けんあく)となつて頗(すこぶ)る危急(ききう) 《割書:軍との関係| 》  に迫(せま)つて居(を)るので義昭(よしあきら)は又た屡々(しば〳〵)書(しよ)を勝頼(かつより)に送(おく)つて一日も早(はや)く上京(ぜうけう)して己(おの)れを助(たす)くる様(やう)にと申送(もうしおく)つた       のであるソコで勝頼(かつより)は父(ちゝ)の志(こゝざし)を継(つ)いで是非(ぜひ)共(とも)其(その)旗(はた)を京師(けうし)に立(た)てたいものであると云ふ志(こゝろざし)は益々(ます〳〵)盛(さかん)       になつて来(き)たものに相違(さうゐ)ないが其(その)頃(ころ)の形勢(けいせい)に就(つい)ては徳川実記(とくがはじつき)の註(ちう)に於(おい)て既(すで)に成島司直(なりしましちよく)も左(さ)の如(ごと)く論(ろん)じ       て居(を)るのである         当時(とうじ)天下(てんか)の形勢(けいせい)を考(かんが)ふるに織田殿(をたどの)足利義昭(あしかゞよしあきら)将軍(せうぐん)を̪翅戴(したい)し三好(みよし)松永(まつなが)を降参(こうさん)せしめ佐々木(さゝき)六 角(かく)を討(う)ち亡(ほろ)        し足利家(あしかゞけ)恢復(くわいふく)の功(こう)をなすに至(いた)り強傲専肆(けうがうせんし)かぎりなく跋扈(ばつこ)のふるまひ多(おほ)きを以(もつ)て義昭(よしあきら)殆(ほとんど)これにうみ         苦(うる)しみ陽(やう)には織田殿(をたどの)を任用(にんよう)するといへどもその実(じつ)は是(これ)を傾覆(けいふく)せんとして潜(ひそか)に越前(ゑつぜん)の朝倉(あさくら)近江(あふみ)の浅井(あさゐ)         甲州(かうしう)の武田(たけだ)に含(ふく)めらるゝ密旨(みつし)ありこれ姉川(あねがは)の戦(たゝかひ)起(おこ)る所以(ゆゑん)なりその明証(めいせう)は高野山(かうやさん)蓮華定院(れんげてうゐん)吉野山(よしのやま)勝(せう)         光院(こうゐん)に存(ぞん)する文書(ぶんしよ)に見(み)ゑさ又(また)其(その)後(のち)に至(いた)り甲州(かうしう)の武田(たけだ)越後(ゑつご)の上杉(うへすぎ)相模(さがみ)の北条(ほうでう)は関東(くわんとう)北国(ほくこく)割拠(かつきよ)中(ちう)最(もつとも)第 【欄外】    豊橋市史談  (長篠役と武田氏の滅亡)                    百十七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (長篠の戦いと武田氏の滅亡) 百十六 【本文】 田信義などを派遣して鳳来寺の黒瀬辺りまで入って来たのであるが、ついに間に合わなかったのである。さて、その頃作手の城には武田氏の将甘利左衛門清吉という人がいたが、その後黒瀬に駐屯していた土屋右衛門直村もこれに移ったのである。そして、かねて申し述べてある山家三方の一つである例の奥平父子はその外廓にいたのであるが、奥平貞能の子九八郎貞昌は後に信昌と改名した人であるが、これより先、信玄死去のことを知って頻りに父貞能に向かって徳川氏へ帰降することを勧めたのである。家康もまた本多広孝、同じく信俊などから勧告させたので、貞能もついにその事に決心したのであるが、武田方においてはどうもこの頃貞能の挙動が怪しいということで、今度黒瀬に滞陣中の信豊はこれを招いて詰問させたのである。しかるにこの時貞能は神色自若として、その異心なき旨を答えたのみならず、ゆっくりと碁を囲んだり茶漬けをご馳走になったりして落ち着き払っていたのである。それのみならず、貞能の従者が門外に蹲踞して主人の出づるのを待っていたのに向かって、「お前方の主人は今、その叛逆が現れて討たれたぞ」と脅したところが、従者共は驚かない。一向平気で微笑していたとのことである。これは貞能が平常従者に向かって、「武田方の者から何と申し掛けられることがあっても、決して自分の首を見ない内は驚くではないぞ」と申し付けて深く戒めてあった結果であるということであるが、この事は『武徳編年集成』などにも記してある。かかる様であったから、武田方においても半信半疑の内に、この時貞能を帰したのであるが、貞能は作手に帰るや否や、今は猶予すべきではないということで、直ちに一族郎党を挙げて瀧山の砦に走ったので、家康は兵を遣わしてこれを迎えさせたのである。そこで武田方においてはこれを追って小戦争があったが、ことごとく打ち退けられたので、ついに怒って貞能の質子仙千代を初めとして鳳来寺において磔殺したのである。このような訳で貞能は勿論、信昌もまた益々家康に重んぜられるに至ったのであるが、特に信昌は弱年ながら大いに見処のある者であるということで、その翌々年即ち天正三年の二月、長篠城の改築が成ってこの城をもって 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百五十四号附録 (明治四十四年九月五日発行) 【本文】 甲信軍侵入の要衝に当たらせようとするに方って、その守将を命ぜられたのである。 さて長篠城が家康の手に入って後のことであるが、遠江方面において数々徳川・武田二氏の間に競り合いがあったが、天正二年五月、勝頼は兵三万を率いて高天神城を包囲したのである。そこで家康は急を聞いて援を信長に求めたので、信長はこれを援けるために自ら兵を率いて、その先鋒は六月十八日に今切の渡しまでやって来たが、高天神の守将小笠原長忠はその以前、ついに勝頼に降ったので、信長は途中から引き返したのである。この時家康はこれを出迎えたが、酒井左衛門尉忠次はこの吉田の城において信長を饗し、信長はまたこの城の広間において黄金一袋を家康に贈り、貞宗の刀を酒井忠次に授けたということである。これもまた『松平記』及び『武徳編年集成』などに記されてある。 しかるに当時上方においては、既に前にも申し述べた通り、信長と将軍義昭との間柄が益々険悪となって頗る危急に迫っているので、義昭はまた屡々書を勝頼に送って、「一日も早く上京して己を助くる様に」と申し送ったのである。そこで勝頼は父の志を継いで、是非ともその旗を京師に立てたいものであるという志は益々盛んになって来たものに相違ないが、その頃の形勢については『徳川実記』の註において、既に成島司直も左の如く論じているのである。 「当時天下の形勢を考えるに、織田殿足利義昭将軍を奉戴し、三好・松永を降参させ、佐々木六角を討ち亡ぼし、足利家恢復の功をなすに至り、強傲専肆限りなく跋扈の振る舞い多きをもって、義昭殆どこれに倦み苦しみ、陽には織田殿を任用するといえども、その実はこれを傾覆せんとして潜かに越前の朝倉、近江の浅井、甲州の武田に含められる密旨あり。これ姉川の戦い起こる所以なり。その明証は高野山蓮華定院、吉野山勝光院に存する文書に見えさ。また、その後に至り、甲州の武田、越後の上杉、相模の北条は関東・北国割拠中最も第」 【欄外】 豊橋市史談 (長篠の戦いと武田氏の滅亡) 百十七

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Nagashino and the Fall of the Takeda Clan) - 116 [Main Text] da Nobuyoshi and others to the vicinity of Kurose near Hōrai-ji Temple, but they ultimately could not arrive in time. Now, at that time at Tsukude Castle there was a Takeda general named Amari Saemon Kiyoyoshi, and later Tsuchiya Uemon Naomura, who had been stationed at Kurose, also moved there. The aforementioned Okudaira father and son, one of the three Yamaga strongholds I mentioned before, were in the outer bailey. Okudaira Sadayoshi's son Kyūhachirō Sadamasa, who later changed his name to Nobumasa, had learned of Shingen's death beforehand and frequently urged his father Sadayoshi to surrender and return to the Tokugawa. Ieyasu also had Honda Hirotaka and likewise Nobutoshi make recommendations, so Sadayoshi finally resolved on this course. However, the Takeda side found Sadayoshi's behavior suspicious around this time, so Nobutoy, who was encamped at Kurose, summoned and interrogated him. At this time, however, Sadayoshi remained completely composed, not only answering that he harbored no treacherous intentions, but leisurely playing go and enjoying tea over rice, remaining perfectly calm. Moreover, when Sadayoshi's retainers were crouching outside the gate waiting for their master to emerge, someone threatened them saying "Your master's rebellion has now been exposed and he has been executed," but the retainers showed no alarm whatsoever - they remained completely unperturbed and even smiled. This was the result of Sadayoshi's usual instruction to his retainers: "No matter what the Takeda people may say to you, do not be alarmed until you actually see my severed head," with which he had deeply cautioned them. This incident is also recorded in works like the "Butoku Hennen Shūsei." Because of this behavior, the Takeda side remained half-believing and half-doubting when they let Sadayoshi return, but as soon as Sadayoshi returned to Tsukude, saying there was no time to delay, he immediately fled with his entire clan and retainers to Takiyama fortress. Ieyasu sent troops to welcome them. The Takeda side pursued them and there was a small battle, but they were completely repelled, so in anger they crucified Sadayoshi's hostage son Senchiyo and others at Hōrai-ji Temple. For these reasons, not only Sadayoshi but also Nobumasa came to be increasingly valued by Ieyasu. Particularly Nobumasa, though young, was seen as having great promise, so in the second month of Tenshō 3, two years later, when the reconstruction of Nagashino Castle was completed, he was appointed as its garrison commander to make this castle [Left Page] [Header] San'yō Shimbun No. 3854 Supplement (Published September 5, Meiji 44) [Main Text] serve as a key strategic point against invasions by Kai-Shinano armies. Now, after Nagashino Castle fell into Ieyasu's hands, there were frequent clashes between the Tokugawa and Takeda clans in the Tōtōmi region. In the fifth month of Tenshō 2, Katsuyori led 30,000 troops to besiege Takatenjin Castle. When Ieyasu heard of this emergency, he sought aid from Nobunaga, who led troops himself to help. His vanguard reached the Imagiri ferry by the eighteenth day of the sixth month, but Takatenjin's garrison commander Ogasawara Nagatada had already surrendered to Katsuyori before then, so Nobunaga withdrew midway. At this time Ieyasu went out to meet him, and Sakai Saemon-no-jō Tadatsugu entertained Nobunaga at this Yoshida Castle. Nobunaga in turn presented a bag of gold to Ieyasu and granted a Sadamune sword to Sakai Tadatsugu in the castle's main hall. This is also recorded in the "Matsudaira-ki" and "Butoku Hennen Shūsei." However, at that time in the capital region, as I mentioned before, relations between Nobunaga and Shogun Yoshiaki had become increasingly hostile and quite critical. Yoshiaki repeatedly sent letters to Katsuyori urging him to "come to the capital as soon as possible to assist me." Therefore Katsuyori's desire to continue his father's ambitions and plant his banner in the capital certainly grew ever stronger. Regarding the situation at that time, Narishima Shichoku had already argued as follows in his annotations to the "Tokugawa Jikki": "Considering the situation of the realm at that time, Lord Oda supported Shogun Ashikaga Yoshiaki, forced the surrender of Miyoshi and Matsunaga, destroyed Sasaki Rokkaku, and accomplished the restoration of the Ashikaga house. However, his arrogant and willful behavior knew no bounds and his tyrannical conduct was excessive, so Yoshiaki grew weary and troubled by this. Outwardly he employed Lord Oda, but in reality he sought to overthrow him and secretly sent confidential orders to Asakura of Echizen, Asai of Ōmi, and Takeda of Kai. This is why the Battle of Anegawa occurred. Clear proof of this can be seen in documents preserved at Renge-jōin of Mount Kōya and Shōkō-in of Mount Yoshino. Furthermore, afterward the Takeda of Kai, Uesugi of Echigo, and Hōjō of Sagami were the most prominent among those controlling territories in Kantō and the northern provinces" [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Nagashino and the Fall of the Takeda Clan) - 117