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【欄外】
豊橋市史談 (長篠役と武田氏の滅亡) 百十八
【本文】
一の豪傑(ごうけつ)なる由(よし)聞(き)きてこの三国へ大和淡路守(やまとあわぢのかみ)等(ら)を密使(みつし)として信長(のぶなが)誅伐(ちうばつ)の事をたのまれけるその文書(ぶんしよ)
も又(また)吉野山(よしのやま)勝光院(せうこうゐん)に存(ぞん)す然(しか)れば織田氏(をたし)を誅伐(ちうばつ)せんには当時(とうじ)徳川家(とくがはけ)興国(こうこく)の第一にて織田氏(をだし)のたのむ所(ところ)
は徳川家(とくがはけ)なり故(ゆへ)に先(まづ)徳川家(とくがはけ)を傾(かたむ)けて後(のち)尾州(びしう)へ攻(せ)め入(い)りて織田(をだ)を亡(ほろぼ)し中国(ちうごく)へ旗(はた)を挙(あ)げんとて信玄(しんげん)盟約(めいやく)
を背(そむ)き無名(むめい)の軍(いくさ)興(おこ)し遠(ゑん)三を侵掠(しんれう)せんとす是(これ)三方ヶ原の大戦(たいせん)起(おこ)る所以(ゆゑん)なり勝頼(かつより)が時(とき)に至(いた)り又(また)義昭(よしあきら)より
北条氏(ほうでう)謀(はかりごと)を同(おな)じくして織田(をた)を滅(ほろぼ)すべき事を頼(たの)まるゝその使(つかひ)は眞木島玄蕃允(まきしよげんばのすけ)なり此(この)文書(ぶんしよ)又(また)勝光院(せうこうゐん)に
伝(つた)ふ是(これ)勝頼(かつより)がしば〳〵三 遠(ゑん)を襲(おそ)はんとする所(ところ)にて長篠大戦(ながしのたいせん)の起(おこ)る所以(ゆえん)なり義昭(よしあきら)終(つひ)に本意(ほんい)を遂(と)げず後(のち)
に芸州(げいしう)へ下(くだ)り毛利(もうり)を頼(たの)まるこれ豊臣氏(とよとみし)中国(ちうごく)語征伐(ごせいばつ)の起(おこ)る所(ところ)なり然(しか)れば姉川(あねがは)三 方(かた)ヶ原(はら)長篠(ながしの)の三 大戦(たいせん)は
当家(とうけ)においては剣難危急(けんなんききう)なりといへどもその実(じつ)は足利義昭(あしかゞよしあきら)の作謀(さくぼう)に起(おこ)り朝倉(あさくら)武田(たけだ)等(ら)巳(おのれ)が姦計(かんけい)を以(もつ)て
又(また)簒奪(さんだつ)の志(こゝざし)を成就(せうじゆ)せんとせしものなりすべて等持院(とうぢゐん)将軍(せうぐん)よりこのかた室町気(むろまちけ)は人の力(ちから)をかりて功(こう)
をなしその功成(こうな)りて後(のち)又(また)他人(たにん)の手(て)をかりてその功臣(こうしん)を除(のぞ)くを以(もつ)て万古不易(ばんこふえき)の良法(れうほう)として国(くに)を建(た)てし
余習(よしふ)十五 代(だい)の間(あひだ)其(その)故智(こち)を用(もち)ひざる者(もの)なし終(つひ)に其(その)故智(こち)を以(もつ)て国家(こくか)をも失(うしな)ひしこと豈(あに)天(てん)ならずや
《割書:大賀弥四郎|の叛逆》 此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であるが其(その)頃(ころ)徳川氏(とくがはし)の代官(だいくわん)に大賀弥(おほがや)四 郎(らう)と云ふものがあつて奥郡(おくごほり)廿 余郷(よこう)の賦租(ぶそ)を支配(しは)して
何不足(なにふそく)もないのに頗(すこぶ)る非望(ひぼう)を懐(いだ)いて竊(ひそか)に武田氏(たけだし)に内応(ないおう)し岡崎城(をかざきじよう)を奪略(だつりやく)しようと云ふような事を謀(はか)つた
《割書:武田勝頼の|侵入》 のであるが之(これ)等(ら)も一つの近因(きんゐん)となつたので天正(てんせう)三年の四月 勝頼(かつより)はイヨ〳〵一万二千余の大軍(たいぐん)を率(ひき)ゐて
信濃(しなの)から三 河(かは)に攻(せ)め入(い)つたのである然(しか)るに之(これ)に先(さきだ)つて大賀(おほが)は事が露顕(ろけん)に及(およ)むで一 類(るい)孰(いづ)れも捕(とら)へられた
ので勝頼(かつより)も此(この)事(こと)は少(すこ)しく当(あ)てがはづれた形(かたち)であつたがソレ等(ら)には頓着(とんちやく)なく直(たゞ)ちに二千 余(よ)の兵(へい)を分(わか)つて
先(ま)づ長篠城(ながしのじよう)を囲(かこ)ましめ自(みづか)らは其(その)余(よ)の大軍(たいぐん)を引連(ひきつ)れて五月六日 牛久保(うしくぼ)並(ならび)に二 連木(れんぎ)に放火(はうくわ)し此(この)吉田城(よしだじよう)に攻(せ)
め寄(よ)せたのである
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
二連木の戦 此(この)時(とき)家康(いへやす)は浜松(はままつ)から来(きた)つて吉田城(よしだじよう)にあつたのであるが先(ま)づ武田氏(たけだし)の兵(へい)と二 連木(れんぎ)の兵(へい)との戦(たゝかひ)があつた
もので二 連木(れんぎ)城主(じようしゆ)戸田康長(とだやすなが)はまだ幼少(ようせう)であつたが其(その)家臣(かしん)等(ら)ハ敵(てき)の首(くび)十八 級(きう)を獲(ゑ)て家康(いへやす)の台覧(たいらん)に供(そな)へた
と云ふ事は寛政重修諸家譜(かんせいちようしうしよかふ)中(ちう)康長(やすなが)の譜(ふ)に載(の)つて居(を)る処(ところ)である又(ま)た三 河物語(かはものがたり)にもは薑(はじかみ)ケ原(はら)に於(おい)て戦闘(せんとう)が
あつた事が記(しる)してあるが此(この)薑(はじかみ)ケ原(はら)と云ふのは即(すなは)ち今(いま)の二 連木(れんぎ)の地(ち)である其(その)時(とき)家康(いへやす)は五千の兵(へい)を以(もつ)て
吉田(よしだ)の郊外(こうぐわい)に陣(ぢん)したが酒井忠次(さかゐたゞつぐ)の意見(いけん)で兵(へい)を城中(じようちう)に引(ひ)き入(い)るゝ事となつて忠次(たゝつぐ)が殿(しんがり)の役(やく)を勤(つと)めたの
であるトコロで武田方(たけだがた)の先鋒(せんぽう)山縣昌景(やまがたまさかげ)は之(これ)を追撃(つひげき)したので忠次(たゝつぐ)は馬(うま)を返(かへ)して之(これ)と戦(たゝか)ひ全軍(ぜんぐん)を傷(きづゝ)けずし
て兵(へい)を城中(じようちう)に収(をさ)めたが其(その)翌日(よくじつ)も亦(ま)た両軍(れうぐん)の戦(たゝか)ふことが三度(みたび)で忠次(たゝつぐ)と昌景(まさかげ)とは互(たがひ)に言(げん)を交(か)はして戦(たゝかひ)を決(けつ)す
《割書:勝頼長篠城|を包囲す》 ることか再度(さいど)に及(およ)むだとの事である然(しか)るに勝頼(かつより)は敢(あへ)て城(しろ)に逼(せま)ることをなさず其(その)翌(よく)八日には全軍(ぜんぐん)を長篠(ながしの)に集(あつ)
《割書:家康信康旗|を野田に進》 めて茲(こゝ)に長篠城(ながしのじよう)を重囲(ぢうゐ)するに至(いた)つたのである其(その)時(とき)家康(いへやす)の長子(てうし)信康(のぶやす)は出(い)でゝ山中(やまなか)の法蔵寺(ほうざうじ)に陣取(ぢんど)つて居(を)
《割書:む | 》 つたが三 河物語(かはものがたり)によるとそれより家康(いへやす)、 信康(のぶやす)両旗(れうき)にて野田(のだ)へ押寄(おしよ)させ給(たま)ふとなつて居(を)るが一 方(はう)には又(ま)
《割書:織田信長の|来援》 た十日に早馬(はやうま)を以(もつ)て援軍(ゑんぐん)を織田信長(をたのぶなが)に請(こ)つたと云ふ事が松平記(まつだひらき)に書(か)いてあるソコで信長(のぶなが)は応援(おうゑん)の為(ため)に
岐阜(ぎふ)を出立(しゆつたつ)したのが十三日で其(その)夜(よ)は熱田(あつた)に宿(しゆく)し翌(よく)十四日 其(その)子(こ)信忠(のぶたゝ)が岡崎(をかざき)に到着(とうちやく)した頃(ころ)自分(じぶん)は知立(ちりう)に来(きた)
つたのである松平記(まつだひらき)には信長(のぶなが)の岡崎(をかざき)到着(とうちやく)は十五日だと書(か)いてあるが参謀本部(さんばうほんぶ)の日本戦史(にほんせんし)長篠役(ながしのえき)に十
四日の内(うち)に着(ちやく)した事になつて居(を)る兎(と)に角(かく)信長(のぶなが)が十五日に岡崎(をかざき)にあつた事は事実(じじつ)と信(しん)ぜられるのである
此(この)時(とき)に当(あた)つて長篠城中(ながしのじようちう)の有様(ありさま)は如何(どう)であつたかと云ふと奥平信昌(おくだひらのぶまさ)(貞昌)が大将(たいせう)で松平景忠次(まつだひらかげたゞ)伊昌(いせう)父子(ふし)並(ならび)
に松平親俊(まつだひらちかとし)が之(これ)を輔(たす)けて居(を)つたが兵数(へいすう)は僅(わづか)に五百 内外(ないぐわい)で兎(と)に角(かく)一万参千の大軍(たいぐん)を敵(てき)に扣(ひか)へて(《割書:勝頼の兵|数は二万》
《割書:であると称して居るが事実は一|万三千余であつた事と信ずる》)糧食(れうしよく)は此(この)上(うへ)僅(わづか)に四五日 分(ぶん)より外(ほか)ないと云ふ始末(しまつ)であるから是非(ぜひ)此(この)事情(じぜう)を家(いへ)
康(やす)に報(ほう)じ更(さら)に織田(をた)の援軍(ゑんぐん)が何(いづ)れの辺(へん)まで来(き)たかを確(たしか)めたいと云ふので武田方(たけだがた)の総攻撃(そうこうげき)のあつた十四日
【欄外】
豊橋市史談 (長篠役と武田氏の滅亡) 百十九
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談 (長篠の戦いと武田氏の滅亡) 百十八
【本文】
一の豪傑であると聞いて、この三国へ大和淡路守などを密使として信長誅伐のことを頼まれた。その文書もまた吉野山勝光院に存している。そうであれば織田氏を誅伐するには当時徳川家が興国の第一であって、織田氏の頼む所は徳川家である。故にまず徳川家を傾けて後、尾州へ攻め入って織田を亡ぼし、中国へ旗を挙げようとして信玄は盟約に背き、無名の軍を興し、遠江・三河を侵略しようとした。これが三方ヶ原の大戦が起こる所以である。勝頼の時に至り、また義昭より北条氏と謀略を同じくして織田を滅ぼすべきことを頼まれた。その使者は真木島玄蕃允である。この文書もまた勝光院に伝わっている。これが勝頼がしばしば三河・遠江を襲おうとする所であって、長篠大戦の起こる所以である。義昭は終に本意を遂げず、後に芸州へ下り毛利を頼んだ。これが豊臣氏中国征伐の起こる所である。そうであれば姉川・三方ヶ原・長篠の三大戦は当家においては剣難危急であるといえども、その実は足利義昭の作謀に起こり、朝倉・武田等が己が奸計をもって、また簒奪の志を成就しようとしたものである。すべて等持院将軍よりこのかた室町家は人の力を借りて功をなし、その功成りて後、また他人の手を借りてその功臣を除くことをもって万古不易の良法として国を建てた余習、十五代の間その故智を用いない者はない。終にその故智をもって国家をも失ったことは、あに天でなかろうか。
このような訳であるが、その頃徳川氏の代官に大賀弥四郎というものがあって、奥郡二十余郷の賦租を支配して何不足もないのに、頗る非望を懐いて窃かに武田氏に内応し、岡崎城を奪略しようというような事を謀ったのであるが、これ等も一つの近因となったので、天正三年の四月、勝頼はいよいよ一万二千余の大軍を率いて信濃から三河に攻め入ったのである。しかるにこれに先立って大賀は事が露見に及んで一類いずれも捕えられたので、勝頼もこの事は少しく当てが外れた形であったが、それ等には頓着なく直ちに二千余の兵を分かって、まず長篠城を囲ませ、自らはその余の大軍を引き連れて五月六日、牛久保並びに二連木に放火し、この吉田城に攻め寄せたのである。
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際
【左頁】
【欄外】
この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し、参陽新報読者諸君に進呈する。
【本文】
二連木の戦い この時家康は浜松から来て吉田城にあったのであるが、まず武田氏の兵と二連木の兵との戦いがあったもので、二連木城主戸田康長はまだ幼少であったが、その家臣等は敵の首十八級を獲て家康の台覧に供えたということは『寛政重修諸家譜』中康長の譜に載っている所である。また『三河物語』にも薑ヶ原において戦闘があった事が記してあるが、この薑ヶ原というのは即ち今の二連木の地である。その時家康は五千の兵をもって吉田の郊外に陣したが、酒井忠次の意見で兵を城中に引き入れることとなって、忠次が殿の役を勤めたのである。ところで武田方の先鋒山県昌景はこれを追撃したので、忠次は馬を返してこれと戦い、全軍を傷つけずして兵を城中に収めたが、その翌日もまた両軍の戦うことが三度で、忠次と昌景とは互いに言を交わして戦いを決することが再度に及んだとのことである。しかるに勝頼は敢えて城に迫ることをなさず、その翌八日には全軍を長篠に集めて、ここに長篠城を重囲するに至ったのである。その時家康の長子信康は出でて山中の法蔵寺に陣取っていたが、『三河物語』によるとそれより家康・信康両旗にて野田へ押し寄せさせ給うとなっているが、一方にはまた十日に早馬をもって援軍を織田信長に請うたということが『松平記』に書いてある。そこで信長は応援のために岐阜を出立したのが十三日で、その夜は熱田に宿し、翌十四日、その子信忠が岡崎に到着した頃、自分は知立に来たのである。『松平記』には信長の岡崎到着は十五日だと書いてあるが、参謀本部の『日本戦史長篠役』に十四日の内に着いた事になっている。兎に角、信長が十五日に岡崎にあった事は事実と信ぜられるのである。
この時に当たって長篠城中の有様はどうであったかというと、奥平信昌(貞昌)が大将で、松平景忠・次伊昌父子並びに松平親俊がこれを輔けていたが、兵数は僅かに五百内外で、兎に角一万三千の大軍を敵に控えて(勝頼の兵数は二万であると称しているが、事実は一万三千余であったことと信ずる)、糧食はこの上僅かに四、五日分より外ないという始末であるから、是非この事情を家康に報じ、更に織田の援軍がいずれの辺まで来たかを確かめたいということで、武田方の総攻撃のあった十四日
【欄外】
豊橋市史談 (長篠の戦いと武田氏の滅亡) 百十九
英語訳
[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Nagashino and the Fall of the Takeda Clan) - 118
[Main Text]
hearing that they were the most outstanding heroes, [Yoshiaki] sent secret envoys including Yamato Awaji-no-kami to these three provinces requesting the assassination of Nobunaga. Those documents are also preserved at Shōkō-in of Mount Yoshino. Given this situation, to eliminate the Oda clan, the Tokugawa house was the foremost rising power at the time, and the Tokugawa house was what the Oda clan relied upon. Therefore, [the plan was] first to overthrow the Tokugawa house, then invade Owari Province to destroy the Oda and raise banners in the Chūgoku region. For this purpose, Shingen broke his alliance, raised an unjustified army, and attempted to invade Tōtōmi and Mikawa. This is why the great battle of Mimatagahara occurred. When Katsuyori's time came, Yoshiaki again requested that he join with the Hōjō clan in a conspiracy to destroy the Oda. The messenger for this was Makishima Genba-no-suke. These documents are also preserved at Shōkō-in. This is why Katsuyori frequently attempted to attack Mikawa and Tōtōmi, and why the great battle of Nagashino occurred. Yoshiaki ultimately failed to achieve his objectives and later went down to Geishū to rely on the Mōri. This became the cause of the Toyotomi clan's Chūgoku campaign. Therefore, while the three great battles of Anegawa, Mimatagahara, and Nagashino represented mortal crises for our house, in reality they originated from Ashikaga Yoshiaki's schemes, with Asakura, Takeda and others using their treacherous plots to attempt to fulfill their usurpation ambitions. In general, from the Tōji-in Shogun onward, the Muromachi house made it their eternal and unchanging policy to accomplish their objectives by borrowing others' power, and after achieving success, to use other people's hands to eliminate those who had served them. This practice continued for fifteen generations without anyone abandoning this old stratagem. That they ultimately lost the nation through these same old schemes - was this not Heaven's will?
Such being the case, around this time there was a Tokugawa deputy named Ōga Yashirō who controlled the taxes of over twenty villages in the interior districts. Though he lacked for nothing, he harbored considerable unreasonable ambitions and secretly collaborated with the Takeda clan, plotting to seize Okazaki Castle. This also became one of the immediate causes, so in the fourth month of Tenshō 3, Katsuyori finally led a great army of over twelve thousand troops to invade Mikawa from Shinano. However, prior to this, Ōga's plot was exposed and all his family members were captured, so this was somewhat of a setback for Katsuyori's plans. Nevertheless, undeterred by such matters, he immediately divided off over two thousand troops to first besiege Nagashino Castle, while he himself led the remaining large army and on the sixth day of the fifth month set fire to Ushikubo and Rengi, then attacked this Yoshida Castle.
[Header] Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as his draft nears completion...
[Left Page]
[Header] This Toyohashi City Historical Discussion is published once weekly (Tuesdays) and presented to readers of the San'yō Shimbun.
[Main Text]
The Battle of Rengi: At this time Ieyasu had come from Hamamatsu and was at Yoshida Castle. First there was a battle between Takeda troops and the defenders of Rengi. Though Rengi's castle lord Toda Yasunaga was still young, his retainers obtained eighteen enemy heads and presented them for Ieyasu's inspection. This is recorded in Yasunaga's genealogy in the "Kansei Revised Genealogies of Various Houses." The "Mikawa Monogatari" also records that there was fighting at Hajikamigahara, and this Hajikamigahara refers to the present location of Rengi. At that time Ieyasu positioned five thousand troops in the suburbs of Yoshida, but on Sakai Tadatsugu's advice, they decided to withdraw the troops into the castle, with Tadatsugu serving as rear guard. The Takeda vanguard Yamagata Masakage pursued them, so Tadatsugu turned his horse to fight him, successfully bringing all troops safely into the castle without casualties. The following day the two armies fought three more times, and it is said that Tadatsugu and Masakage exchanged words and decided battles twice. However, Katsuyori did not dare press the attack on the castle, and on the following eighth day gathered his entire army at Nagashino, completely surrounding Nagashino Castle. At that time Ieyasu's eldest son Nobuyasu had come out and taken position at Hōzō-ji temple in the mountains. According to the "Mikawa Monogatari," from there both Ieyasu and Nobuyasu's banners advanced toward Noda. On the other hand, it is also written in the "Matsudaira-ki" that on the tenth day they sent fast horses to request reinforcements from Oda Nobunaga. Therefore Nobunaga departed Gifu on the thirteenth to provide assistance, spent that night at Atsuta, and on the following fourteenth day, when his son Nobutada arrived at Okazaki, he himself came to Chiryū. The "Matsudaira-ki" states that Nobunaga's arrival at Okazaki was on the fifteenth, but the General Staff's "Japanese Military History: The Nagashino Campaign" indicates he arrived within the fourteenth day. In any case, it can be considered fact that Nobunaga was at Okazaki on the fifteenth.
At this time, what was the situation inside Nagashino Castle? Okudaira Nobumasa (Sadamasa) was the commander, assisted by Matsudaira Kagetada, his son Jiseichō, and Matsudaira Chikatoshi, but the troop strength was only around five hundred. Facing an enemy force of thirteen thousand (Katsuyori's force was said to be twenty thousand, but I believe the actual number was over thirteen thousand), with food supplies sufficient for only four or five more days, they desperately needed to report this situation to Ieyasu and determine how far the Oda reinforcements had advanced. On the fourteenth day, when the Takeda forces launched their general assault...
[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Nagashino and the Fall of the Takeda Clan) - 119