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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 74

ページ: 74

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【欄外】    豊橋市史談  (長篠役と武田氏の滅亡)                    百二十 【本文】 《割書:鳥居強右衛|門勝商》  の夜(よ)彼(か)の有名(ゆうめい)なる鳥居強右衛門勝商(とりゐすねうゑもんかつあき)が其(その)使命(しめい)を帯(お)むで城(しろ)を抜(ぬ)け出(い)でたのである而(しか)して直(たゞ)ちに家康(いへやす)の陣(ぢん)       に使(つかひ)したのであるが此(この)時(とき)の家康(いへやす)のあつた位置(ゐち)と云ふものが旧来(きうらい)疑問(ぎもん)である文部省(もんぶせう)で出来(でき)た国定教科書(こくていけうくわしよ)       の高等小学読本(かうとうせうがくどくほん)には之(これ)が浜松(はままつ)だとしてあつたが其(その)後(のち)改正(かいせい)せられたものには岡崎(をかざき)だとなつて居(を)る前(まへ)に申(もうし)        述(の)べた参謀本部(さんばうほんぶ)の日本戦史(にほんせんし)にも亦(ま)た同様(どうやう)に岡崎(をかざき)だとしてあるが之(これ)に就(つい)ては私(わたくし)は別(べつ)に説(せつ)があるのであ       る武徳編年集成(ぶとくへんねんしうせい)には十五日の処(ところ)に勝商(かつあき)が岡崎(をかざき)に行(い)つて家康(いへやす)に遇(あ)つたように書(か)いてあるかと思(おも)ふと十六       日の処(ところ)には家康(いへやす)が宝川(たからがは)まで信長(のぶなが)を迎(むかひ)に出(い)て対顔(たいがん)ありて出馬(しゆつば)の事を謝(しや)したと書(か)いてある宝川(たからがは)と云へば無(む)        論(ろん)南設楽郡(みなみしたらぐん)で野田(のだ)の手前(てまへ)であるから家康(いへやす)が十五日に岡崎(をかざき)に居(を)つたものなれば其(その)時(とき)既(すで)に信長(のぶなが)に遭(あ)つて居(を)       らねばならぬ訳(わけ)で其(その)翌日(よくじつ)更(さら)に事々(こと〴〵)しく宝川(たからがは)まで迎(むかひ)に出(で)て対顔(たいがん)したと云ふ記事(きじ)を載(の)するのは甚(はなは)だ不合理(ふごうり)       の事と思(おも)ふ又(ま)た津坂孝綽(つさかかうしやく)の勝商伝(かつあきでん)には此(この)事(こと)を吉田(よしだ)であると記(しる)してあるが私(わたくし)の説(せつ)と云ふのは外(ほか)ではない       ので矢張(やはり)三 河物語(かはものがたり)の記事(きじ)に重(おも)きを置(お)くに過(す)ぎぬのである即(すなは)ち仝書(どうしよ)の勝商(かつあき)が武田方(たけだがた)に捕(とら)はれて愈(いよ〳〵)最後(さいご)       の時に城中(じようちう)の者(もの)に向(むかつ)て大音声(だいおんぜう)に呼(よは)はつたと云ふ言葉(ことば)の中(なか)に         信長(のぶなが)は岡崎(をかざき)迄(まで)御出馬(ごしゆつば)あるぞ城(しろ)の介殿(すけどの)は八幡(やはた)迄(まで)御出馬(ごしゆつば)なり先手(さきて)は一の宮(みや)本野(ほんの)ケ原(はら)にまん〳〵ト陣取(ぢんどつ)て        あり家康(いへやす)信康(のぶやす)は野田(のだ)へ移(うつ)らせ給(たま)ひてあり城(しろ)堅固(けんご)に持給(もちたま)へ三日の内(うち)に御運(おんうん)を開(ひら)かせ給(たま)ふべし       とあるが私(わたくし)はドウモ之(これ)が事実(じじつ)であると信(しん)ずるのである前(まへ)にも申述(もうしのべ)た如(ごと)く勝商(かつあき)が城(しろ)抜(ぬ)け出(い)てたのは十       四日の夜(よ)であるが其(その)夜(よ)直(たゞ)ちに家康(いへやす)には野田(のだ)の陣(ぢん)で逢(あ)つたものであると思(おも)ふ而(しか)して家康(いへやす)の指図(さしづ)で直(す)ぐに        又(ま)た岡崎(をかざき)に向(むか)つたので其(その)翌(よく)十五日の夜(よ)更(さら)に其処(そこ)で信長(のぶなが)に逢(あ)つて城中(じようちう)の事情(じぜう)を述(の)べたのであるに相違(さうゐ)な       い同(おな)じ三 河物語(かはものがたり)に         然(しか)る所(ところ)信長(のぶなが)御出馬(ごしゆつば)ありて先手(さきて)の衆(しう)は早(は)や八幡(やはた)一の宮(みや)本野(ほんの)ケ原(はら)に陣(ぢん)をとれば城(しろ)の介殿(すけどの)は岡崎(をかざき)へ着(つ)か 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百六十号附録    ( 明治四十四年九月十二日発行 ) 【本文】        せ給(たま)へば信長(のぶなが)は知立(ちりう)へ着(つ)かせ給(たま)ふ然(しか)れ共(ども)長篠城(ながしのじよう)はきつく攻(せめ)られ早(は)や殊(こと)の外(ほか)つまりければ忍(しの)びて鳥(とり)         居強右衛門(ゐすねうゑもん)と申者(もうすもの)出(いだ)して信長(のぶなが)は御出馬(ごしゆつば)か見(み)て参(まい)れとて出(いだ)す城(しろ)よりはやす〳〵と出(いで)て此(この)由(よし)を家康(いへやす)へ申(もうし)         上(あ)ければ信長(のぶなが)へさし越(こ)されければ信長(のぶなが)御悦(おんよろこ)びなされて御出馬(ごしゆつば)の由(よし)仰(あふせ)遣(つかは)されければ       とあるのは実(じつ)に其(その)消息(せうそく)を漏(もら)して余(あま)りがあるものと思(おも)ふ然(しか)るに武徳編年集成(ぶとくへんねんしうせい)には前(まへ)に申述(もうしのべ)た通(とほ)り此(この)時(とき)勝(かつ)        商(あき)は家康(いへやす)に岡崎(をかざき)で面会(めんくわい)したとしてあるのに却(かへつ)て信長(のぶなが)には牛久保(うしくぼ)で逢(あ)つたように記(しる)してあるが之(これ)は順序(じゆんぢよ)       としても信(しん)ぜられぬ説(せつ)であると思(おも)ふ又(ま)た文部省(もんぶせう)の国定読本(こくていどくほん)や参謀本部(さんばうほんぶ)の日本戦史(にほんせんし)は何(なに)に拠(よつ)て此(この)時(とき)家康(いへやす)        信長(のぶなが)共(とも)に岡崎(をかざき)にあつたと云ふ説(せつ)を採(と)つたものか浅学(せんがく)の私(わたくし)共(ども)が彼是(かれこれ)評(ひよう)するのは善(よ)くあるまいと思(おも)ふが        併(しか)し家康(いへやす)の性格(せいかく)及(およ)び之(こ)れ迄(まで)の経歴(けいれき)から推(お)しても自(みづか)ら七日 迄(まで)吉田(よしだ)に於(おい)て武田(たけだ)の大軍(たいぐん)と対陣(たいぢん)し其(その)大軍(たいぐん)が八       日に長篠(ながしの)方面(ほうめん)に引(ひ)き退(しりぞ)いたのであるから其(その)日(ひ)から長篠(ながしの)が重囲(ぢうゐ)された事を知らずに居る筈(はづ)はないと信(しん)ず       る之(これ)を知(し)りつゝ巳(おのれ)の股肱(ここう)とも頼(たの)むもの等(ら)の危急(ききう)を顧(かへり)みず兵(へい)を岡崎(をかざき)に収(おさ)むるが如きは断(だん)じてあり得(う)べか       らざる事と思(おも)ふ従(したがつ)て此処(こゝ)は矢張(やはり)前(まへ)に申述(もうしの)べた三 河物語(かはものがたり)の記事(きじ)の如く家康(いへやす)は其(その)時(とき)吉田(よしだ)から直(たゞ)ちに長篠(ながしの)の        後詰(あとづめ)をせんとして野田(のだ)迄(まで)出陣(しゆつぢん)したものであるが武田方(たけだがた)の大勢(たいせい)に対(たい)して軽率(けいそつ)の事は出来(でき)ぬと云ふ処から        急(きう)に使(つかひ)を信長(のぶなが)に派(は)して加勢(かせい)の来(く)る迄(まで)は此処(こゝ)で持長(ぢちよう)して居(を)つたのであると云ふのが事実(じじつ)でなくてはなら       ぬと確信(かくしん)する松平記(まつだひらき)にも亦(ま)た其(その)時(とき)の事を記(しる)して         家康(いへやす)一 手(て)にて後詰(あとづめ)せんと用意(ようい)有(あり)しかとも奥平方(おくだひらがた)忍(しのび)を以(もつ)て内通(ないつう)申(もう)すは甲州(かうしう)勢(ぜい)大勢(たいせい)にて中々(なか〳〵)一 手(て)計(ばかり)に        ては御合戦(ごかつせん)あやうし信長公(のぶながこう)を引出(ひきいだ)し申(もう)され早々(さう〳〵)御後詰(おんあとづめ)下(くだ)さるべく候(そろ)さなくは城中(じようちう)兵糧(へうれう)尽(つ)きて頓(やが)て落(らく)         城(じよう)疑(うたがひ)なしと申(もうす)間(あひだ)五月十日 早馬(はやうま)を以(もつ)て信長(のぶなが)へ注進(ちうしん)あり       とあるのは誠(まこと)によく実情(じつぜう)を穿(うが)つて居(を)るものと思(おも)ふのである併(しか)し此処(こゝ)には一つの説(せつ)があつて家康(いへやす)は矢張(やはり) 【欄外】    豊橋市史談  (長篠役と武田氏の滅亡)                    百廿一

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (長篠の戦いと武田氏の滅亡) 百二十 【本文】 その夜、あの有名な鳥居強右衛門勝商がその使命を帯びて城を抜け出たのである。そして直ちに家康の陣に使いしたのであるが、この時の家康のいた位置というものが従来疑問である。文部省で作った国定教科書の高等小学読本にはこれが浜松だとしてあったが、その後改正されたものには岡崎だとなっている。前に申し述べた参謀本部の日本戦史にもまた同様に岡崎だとしてあるが、これについては私は別に説があるのである。武徳編年集成には十五日の所に勝商が岡崎に行って家康に会ったように書いてあるかと思うと、十六日の所には家康が宝川まで信長を迎えに出て対面ありて出馬のことを謝したと書いてある。宝川といえば無論南設楽郡で野田の手前であるから、家康が十五日に岡崎にいたものならばその時既に信長に会っていなければならぬわけで、その翌日更に改めて宝川まで迎えに出て対面したという記事を載せるのは甚だ不合理のことと思う。また津坂孝綽の勝商伝にはこのことを吉田であると記してあるが、私の説というのは外でもないので、やはり三河物語の記事に重きを置くに過ぎぬのである。すなわち同書の勝商が武田方に捕らえられていよいよ最後の時に城中の者に向かって大声で叫んだという言葉の中に 「信長は岡崎まで御出馬であるぞ、城の介殿は八幡まで御出馬なり、先手は一の宮本野ヶ原にしっかりと陣取ってあり、家康信康は野田へ移らせ給いてあり、城堅固に持ち給え、三日の内に御運を開かせ給うべし」 とあるが、私はどうもこれが事実であると信ずるのである。前にも申し述べた如く勝商が城を抜け出たのは十四日の夜であるが、その夜直ちに家康には野田の陣で会ったものであると思う。そして家康の指図で直ぐにまた岡崎に向かったので、その翌十五日の夜更けにその処で信長に会って城中の事情を述べたのであるに相違ない。同じ三河物語に 「しかる所信長御出馬ありて先手の衆は早や八幡一の宮本野ヶ原に陣をとれば城の介殿は岡崎へ着か 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百六十号附録 (明治四十四年九月十二日発行) 【本文】 せ給えば信長は知立へ着かせ給う。然れども長篠城はきつく攻められ早や殊の外詰まりければ、忍びて鳥居強右衛門と申す者出して信長は御出馬か見て参れとて出す。城よりはやすやすと出でて此の由を家康へ申し上げければ、信長へさし越されければ信長御悦びなされて御出馬の由仰せ遣わされければ」 とあるのは実にその消息を漏らして余りがあるものと思う。然るに武徳編年集成には前に申し述べた通りこの時勝商は家康に岡崎で面会したとしてあるのに、却って信長には牛久保で会ったように記してあるが、これは順序としても信ぜられぬ説であると思う。また文部省の国定読本や参謀本部の日本戦史は何に拠ってこの時家康信長共に岡崎にあったという説を採ったものか、浅学の私どもがあれこれ評するのは良くあるまいと思うが、併し家康の性格及びこれまでの経歴から推しても、自ら七日まで吉田において武田の大軍と対陣し、その大軍が八日に長篠方面に引き退いたのであるから、その日から長篠が重囲されたことを知らずにいる筈はないと信ずる。これを知りつつ己の股肱とも頼む者等の危急を顧みず兵を岡崎に収めるが如きは断じてあり得べからざることと思う。従ってここはやはり前に申し述べた三河物語の記事の如く、家康はその時吉田から直ちに長篠の後詰をしようとして野田まで出陣したものであるが、武田方の大勢に対して軽率なことは出来ぬという処から、急に使いを信長に派して加勢の来るまではここで持ちこたえていたのであるというのが事実でなくてはならぬと確信する。松平記にもまたその時のことを記して 「家康一手にて後詰せんと用意ありしかども、奥平方忍びを以て内通申すは甲州勢大勢にて中々一手計りにては御合戦あやうし、信長公を引き出し申され早々御後詰下さるべく候、さなくは城中兵糧尽きて頓て落城疑いなしと申す間、五月十日早馬を以て信長へ注進あり」 とあるのは誠によく実情を穿っているものと思うのである。併しここには一つの説があって、家康はやはり 【欄外】 豊橋市史談 (長篠の戦いと武田氏の滅亡) 百二十一

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Nagashino and the Fall of the Takeda Clan) - 120 [Main Text] That night, the famous Torii Suneemon Katsuaki left the castle bearing his mission. He immediately went to serve as messenger to Ieyasu's camp, but the question of Ieyasu's location at this time has long been disputed. The Ministry of Education's national textbook for higher elementary reading initially stated this was Hamamatsu, but later revised editions changed it to Okazaki. The General Staff's "Japanese Military History" I mentioned earlier also similarly states it was Okazaki, but I have a different theory about this. The "Butoku Chronological Compilation" seems to suggest that on the fifteenth, Katsuaki went to Okazaki to meet Ieyasu, but then states that on the sixteenth, Ieyasu went out to Takarakawa to meet Nobunaga, where they had an audience and [Ieyasu] expressed gratitude for [Nobunaga's] military expedition. Since Takarakawa is naturally in Minami-Shitara District, before Noda, if Ieyasu had been at Okazaki on the fifteenth, he should have already met with Nobunaga at that time. To record that the following day he again went out specifically to Takarakawa to meet him seems quite unreasonable. Also, Tsusaka Kōshaku's biography of Katsuaki records this event as taking place at Yoshida, but my theory is nothing special - I simply place greater weight on the account in "Mikawa Monogatari." That is, in that same work, when Katsuaki was captured by the Takeda forces and in his final moments shouted in a loud voice to those in the castle, his words included: "Nobunaga has advanced as far as Okazaki! The lord of the castle has advanced to Hachiman! The vanguard has firmly positioned itself at Ichinomiya Honogahara! Ieyasu and Nobuyasu have moved to Noda! Hold the castle firmly - within three days your fortune will be opened!" I believe this is the truth. As I mentioned before, Katsuaki escaped from the castle on the night of the fourteenth, and I think he met with Ieyasu that very night at the Noda camp. Following Ieyasu's instructions, he immediately headed again toward Okazaki, so that late on the night of the fifteenth he met with Nobunaga there and reported the situation in the castle. The same "Mikawa Monogatari" states: "Then Nobunaga advanced his forces, and the vanguard quickly took positions at Hachiman Ichinomiya Honogahara, the lord of the castle arrived at Okazaki, [Left Page] [Header] San'yō Shimbun No. 3860 Supplement (Published September 12, Meiji 44) [Main Text] and Nobunaga arrived at Chiryū. However, Nagashino Castle was under fierce attack and had become extremely pressed, so they secretly sent out a man named Torii Suneemon to see whether Nobunaga had advanced and report back. He easily left the castle and reported this matter to Ieyasu, who passed it on to Nobunaga. Nobunaga was greatly pleased and ordered word sent of his advance." I think this truly reveals the full circumstances and more. However, the "Butoku Chronological Compilation" states, as I mentioned before, that at this time Katsuaki met with Ieyasu at Okazaki, yet conversely records that he met with Nobunaga at Ushikubo - this seems to me an unbelievable theory in terms of sequence. What sources the Ministry of Education's national reader and the General Staff's "Japanese Military History" relied upon to adopt the theory that both Ieyasu and Nobunaga were at Okazaki at this time - I think it would be inappropriate for someone of my shallow learning to criticize this and that, but considering Ieyasu's character and his career up to this point, he himself had faced off against the Takeda's great army at Yoshida until the seventh day, and when that great army withdrew toward Nagashino on the eighth, I believe he could not have remained ignorant that Nagashino had been completely surrounded from that day. Knowing this, to withdraw his troops to Okazaki without regard for the crisis facing those he relied upon as his right and left hands would be absolutely impossible. Therefore, as stated in the "Mikawa Monogatari" account I mentioned before, Ieyasu at that time immediately advanced from Yoshida to Noda intending to relieve Nagashino, but recognizing that rash action against the Takeda's large force was impossible, he hastily sent messengers to Nobunaga and held his position there until reinforcements could arrive - this must be the truth, I am convinced. The "Matsudaira-ki" also records the events of that time: "Though Ieyasu prepared to provide relief with his forces alone, the Okudaira sent secret communications saying the Kōshū forces were too large, and battle with only one army would be dangerous. Please bring out Lord Nobunaga and quickly send relief - otherwise the castle's provisions will be exhausted and it will undoubtedly fall soon. Therefore on the tenth day of the fifth month, urgent messengers were sent to Nobunaga." I think this truly captures the actual situation well. However, there is one theory here, and Ieyasu indeed... [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Nagashino and the Fall of the Takeda Clan) - 121