← 前のページ
ページ 75 / 382
次のページ →
翻刻
【欄外】
豊橋市史談 (長篠役と武田氏の滅亡) 百廿二
【本文】
十四日 迄(まで)は野田(のだ)に居(を)つたが十五日に信長(のぶなが)を迎(むかへ)の為(ため)に岡崎(をかざき)に行(い)つたものであると云ふのである之(これ)は強(あなが)ち
に非認(ひにん)の出来(でき)ぬ説(せつ)ではあるが仮令(たとへ)それを事実(じじつ)であつたとしても長篠城中(ながしのじようちう)に於(おい)ては当時(とうじ)加様(かやう)な細(こま)かい処(ところ)
迄(まで)分(わか)つて居(を)る筈(はづ)はない而(しか)も三 河物語(かはものがたり)松平記(まつだひらき)等(とう)の記事(きじ)を味(あじは)つて見(み)ても家康(いへやす)が野田(のだ)あたりまで来(き)て居(を)る事
は信(しん)じて居(を)つたものと思(おも)はれる即(すなは)ち強右衛門(すねうゑもん)の出(で)た目的(もくてき)は先(ま)づ家康(いへやす)に逢(あ)つて信長(のぶなが)の消息(せうそく)如何(いかん)を聴(き)くの
にあつたものと確信(かくしん)せねばならぬので何(いづ)れにしても強右衛門(すねうゑもん)か初(はじめ)から岡崎(をかざき)へ行(ゆ)くのを目的(もくてき)として城(しろ)を
出(い)でたように云ふのは結局(けつきよく)間違(まちがひ)を惹起(ひきおこ)す源(みなもと)であると信(しん)じて疑(うたが)はぬのであるサテ信長(のぶなが)は十六日 岡崎(をかざき)か
ら直(たゞ)ちに軍(ぐん)を進(すゝ)めて牛久保城(うしくぼじよう)に到着(たうちやく)し十七日に野田(のだ)に至(いた)つたのであるが勝商(かつあき)は信長(のぶなが)の勧告(くわんこく)があつたに
も拘(かゝは)らず一 刻(こく)も早(はや)く此(この)赴(おもむき)を城中(じようちう)に知(し)らせたいと云ふので十五日の夜(よ)直(たゞ)ちに岡崎(をかざき)を立(たつ)て長篠城(ながしのじよう)附近(ふきん)に
着(ちやく)し武田方(たけだがた)の担夫(たんふ)の中(なか)に混(こん)じて城(しろ)に近(ちか)づくの機会(きくわい)を俟(ま)つて居(を)つたのであるが遂(つひ)に穴山勢(あなやまぜい)の為(ため)に発見(はつけん)せ
られて捕(とら)へられたソコで勝頼(かつより)の前(まへ)に引出(ひきいだ)されて勝頼(かつより)から懇々(こん〳〵)と城兵(じようへい)をして断念(だんねん)せしめ巳(おの)れに降伏(こうふく)する
ように伝(つた)へよと云ふ事を説(と)かれたのであるが勝商(かつあき)は佯(いつはつ)て其(その)旨(むね)に従(したが)ひ幸(さいはひ)に城(しろ)に近(つか)づくの機会(きくわい)を得(え)て大(だい)
音声(おんせい)を張(は)り上(あ)げ前(まへ)にも三 河物語(かはものがたり)の文章(ぶんせう)を引用(いんよう)して申述(もうしのべ)た如く信長(のぶなが)家康(いへやす)の援兵(ゑんぺい)は近(ちか)づいて居(を)るから城(しろ)を
堅固(けんご)に守(まも)り給(たま)へ三日 間(かん)には必(かなら)ず開展(かいてん)の道(みち)があると云ふ事を叫(さけ)むだのであるソコで武田方(たけだがた)に於(おい)ては驚(おどろ)き
且(か)つ怒(いか)つたので遂(つひ)に勝商(かつあき)を殺(ころ)したのである之(これ)も篠場野(しのばの)で磔殺(ろくさつ)したと云ふ説(せつ)があるが実(じつ)は其(その)場(ば)で直(たゞ)ちに
刺殺(しさつ)されたもので私(わたくし)は矢張(やはり)三 河物語(かはものがたり)に
却(かへつ)て敵(てき)の強(つよ)みを云(い)ふやつなれば早(はや)くとゞめを刺(さ)せとてとゞめをぞ刺(さ)しける
とあるのが如何(いか)にも事実(じじつ)であると信(しん)ずるのである
長篠合戦 かくて十八日には信長(のぶなが)家康(いへやす)共(とも)に陣(ぢん)を設楽原(したらばら)に張(は)つたのであるが特(とく)に信長(のぶなが)の考案(こうあん)で厳重(げんぢう)なる搆(かま)へをした
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
ので長柵(てうさく)を樹(た)て銃手(じうしゆ)中(ちう)より選手(せんしゆ)を出(いだ)して之(これ)を前列(ぜんれつ)に配置(はいち)し又(ま)た長柵(てうさく)の間(あひだ)には三十 間(けん)乃至(ないし)五十 間(けん)位(ぐらゐ)づゝ
の門戸(もんこ)を置(お)いて進撃(しんげき)便(べん)に供(けう)したと云ふ事であるソコで武田方(たけだがた)に於(おい)ては十九日に諸将(しよせう)を会(くわい)して進撃(しんげき)の
方略(ほうりやく)を定(さだ)め廿日には勝頼(かつより)自(みづか)ら全軍(ぜんぐん)を率(ひき)ゐて瀧川(たきがは)を渡(わた)り廿一日には愈(いよ〳〵)両軍(れうぐん)の会戦(くわいせん)と相成(あひな)つたのである
が此(この)時(とき)勝頼(かつより)の寵臣(ちようしん)長坂釣閑(ながさかこうかん)、 跡部大炊介(あとべおほいのすけ)の両人(れうにん)が信長(のぶなが)の将(せう)佐久間信盛(さくまもりのぶ)の為(ため)に利(り)を以(もつ)て喰(くら)はされ其(その)計策(けいさく)
に陥(おちい)つて為(ため)に武田方(たけだがた)の方略(ほうりやく)を誤(あやま)らしめたと云ふ説(せつ)がある併(しか)し長坂(ながさか)は此(この)戦(たゝかひ)に参加(さんか)せなかつたのが事実(じじつ)
で其(その)証拠(せうこ)となるべき文書(ぶんしよ)は今日(こんにち)既(すで)に発見(はつけん)されて動(うごか)すべからざる事(こと)となつて居(を)る之(これ)は嘗(かつ)て文学士(ぶんがくし)渡邊世(わたなべせ)
祐(ゆう)君(くん)が新城町(しんしろてう)で長篠(ながしの)に関(くわん)する講演(こうゑん)をせられた時(とき)にも論(ろん)ぜられた様(やう)に思(おも)ふ兎(と)に角(かく)此(この)戦(たゝかひ)に於(おい)ては織田(をた)徳(とく)
川(がは)二 氏(し)は共(とも)に出来得(できう)るだけの力(ちから)を挙(あ)げて之(これ)に対(たい)したので両氏(れうし)の兵数(へいすう)は殆(ほとん)ど武田方(たけだがた)に三 倍(ばい)し殊(こと)に前(まへ)に申(もうし)
述(の)べた如(ごと)く多数(たすう)の銃手(じうしゆ)があつたので此(この)点(てん)に於(おい)て既(すで)に勝敗(せうはい)の数(すう)は歴然(れきぜん)たるものがあつたように思(おも)はるゝ
《割書:鳶巣山の襲|撃》 のであるが廿日の夜(よ)に酒井忠次(さかゐたゞつぐ)が鳶巣山(とびのすやま)の敵塁(てきるい)に襲撃(しうげき)したのは又(ま)た武田方(たけだがた)の勇気(ゆうき)を挫折(ざせつ)せしめた事が
ドノ位(くらゐ)であつたか分(わか)らぬと思(おも)ふ従(したがつ)て忠次(たゞつぐ)は此(この)戦(たゝかひ)に於(おけ)る織田(をた)徳川方(とくがはがた)の殊功者(しゆこうしや)であるのは云ふ迄も
ない事であるが之(これ)に就(つい)てコウ云ふ話(はなし)がある初(はじめ)め忠次(たゞつぐ)が此(この)鳶巣(とびのす)襲撃(しうげき)の計(けい)を信長(のぶなが)に建議(けんぎ)したのは軍議(ぐんぎ)の席(せき)
上(ぜう)であつたが此(この)時(とき)信長(のぶなが)は以(もつ)ての外(ほか)の立腹(りつぷく)で之(これ)を斥(しりぞ)けた然(しか)るに軍議(ぐんぎ)が果(は)てゝ諸将(しよせう)が退(しりぞ)いた後(のち)信長(のぶなが)は改(あらた)め
て極(ごく)内密(ないみつ)に家康(いへやす)と忠次(たゞつぐ)とを側近(そばちか)く呼(よ)むで大(おほい)に先(さ)きの献策(けんさく)を賞賛(せうさん)し早速(さつそく)之(これ)を実行(じつこう)せしめたが蓋(けだ)し前(まへ)に佯(いつは)
り斥(しりぞ)けたのは全(まつた)く謀(はかりごと)の漏泄(ろうせい)せむことを恐(おそ)れたからであると云ふ事であるが如何(いか)にも之(これ)は作(つく)り物語(ものがたり)にで
もありそうな話(はなし)であるが寛政重修諸家譜(かんせいちようしうしよかふ)などにも載(の)つて居(を)る説(せつ)で一 概(がい)に非認(ひにん)も出来(でき)ぬと思(おも)ふ而(しか)して此(この)
鳶巣(とびのす)の襲撃(しうげき)と云ふものは実(じつ)に奇捷(きせう)を得(ゑ)たもので織田方(をたがた)からは金森(かなもり)五 郎(らう)八 長近(ながちか)、 佐藤(さとう)六 左衛門方秀(ざえゑもんのりひで)、 徳(とく)
川方(がはがた)では本多豊後守広孝(ほんだぶぶんごのかみひろたか)、 松平主殿助伊忠(まつだひらとのものすけこれたゞ)、 松平周防守康親(まつだひらすほうのかみやすちか)、 牧野新次郎康成(まきのしんじらうやすなり)、 菅沼新(すがぬましん)八 郎定盈(らうさだみつ)、本(ほん)
【欄外】
豊橋市史談 (長篠役と武田氏の滅亡) 百廿三
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談 (長篠の戦いと武田氏の滅亡) 百二十二
【本文】
十四日までは野田にいたが、十五日に信長を迎えるために岡崎に行ったものであるという説である。これは全くは否認できない説ではあるが、たとえそれが事実であったとしても、長篠城中においては当時そのような細かいところまで分かっている筈はない。しかも『三河物語』『松平記』等の記事を読んでみても、家康が野田あたりまで来ていることは信じていたものと思われる。すなわち強右衛門の出た目的は、まず家康に会って信長の消息はどうかを聞くことにあったものと確信せねばならないので、どちらにしても強右衛門が初めから岡崎へ行くことを目的として城を出たように言うのは、結局間違いを引き起こす源であると信じて疑わないのである。
さて、信長は十六日、岡崎から直ちに軍を進めて牛久保城に到着し、十七日に野田に至ったのであるが、勝商は信長の勧告があったにも関わらず、一刻も早くこの様子を城中に知らせたいということで、十五日の夜直ちに岡崎を立って長篠城附近に着き、武田方の担夫の中に紛れて城に近づく機会を待っていたのであるが、ついに穴山勢のために発見されて捕らえられた。そこで勝頼の前に引き出されて、勝頼から懇々と城兵をして断念させ自分に降伏するように伝えよということを説かれたのであるが、勝商は偽ってその旨に従い、幸いに城に近づく機会を得て大声を張り上げ、前にも『三河物語』の文章を引用して申し述べたように、信長・家康の援兵は近づいているから城を堅固に守り給え、三日間には必ず開展の道があるということを叫んだのである。そこで武田方においては驚き且つ怒ったので、ついに勝商を殺したのである。これも篠場野で磔殺したという説があるが、実はその場で直ちに刺殺されたもので、私はやはり『三河物語』に
「かえって敵の強みを言う奴なれば、早くとどめを刺せ」とてとどめをぞ刺しける
とあるのがいかにも事実であると信ずるのである。
【長篠合戦】
かくて十八日には信長・家康共に陣を設楽原に張ったのであるが、特に信長の考案で厳重な構えをした
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不屈の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその原稿がほぼ完成する際
【左頁】
【欄外】
この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し、参陽新報読者諸君に贈呈する
【本文】
ので、長柵を立て銃手中より選手を出してこれを前列に配置し、また長柵の間には三十間ないし五十間位ずつの門戸を置いて進撃の便に供したということである。そこで武田方においては十九日に諸将を会して進撃の方略を定め、二十日には勝頼自ら全軍を率いて瀧川を渡り、二十一日にはいよいよ両軍の会戦となったのであるが、この時勝頼の寵臣長坂釣閑、跡部大炊介の両人が、信長の将佐久間信盛のために利をもって誘われ、その計策に陥って武田方の方略を誤らしめたという説がある。しかし長坂はこの戦いに参加しなかったのが事実で、その証拠となるべき文書は今日既に発見されて動かすべからざることとなっている。これはかつて文学士渡辺世祐君が新城町で長篠に関する講演をされた時にも論じられたように思う。とにかくこの戦いにおいては織田・徳川二氏は共に出来得るだけの力を挙げてこれに対したので、両氏の兵数はほとんど武田方に三倍し、殊に前に申し述べたように多数の銃手があったので、この点において既に勝敗の数は歴然たるものがあったように思われる
【鳶巣山の襲撃】
のであるが、二十日の夜に酒井忠次が鳶巣山の敵塁に襲撃したのは、また武田方の勇気をくじいたことがどの位であったか分からないと思う。従って忠次はこの戦いにおける織田・徳川方の殊功者であるのは言うまでもないことであるが、これについてこういう話がある。初め忠次がこの鳶巣襲撃の計を信長に建議したのは軍議の席上であったが、この時信長はもっての外の立腹でこれを斥けた。然るに軍議が終わって諸将が退いた後、信長は改めて極内密に家康と忠次とを側近く呼んで大いに先の献策を賞賛し、早速これを実行させたが、おそらく前に偽って斥けたのは全く謀の漏洩することを恐れたからであるということであるが、いかにもこれは作り物語にでもありそうな話であるが、『寛政重修諸家譜』などにも載っている説で一概に否認も出来ないと思う。そしてこの鳶巣の襲撃というものは実に奇襲を得たもので、織田方からは金森五郎八長近、佐藤六左衛門方秀、徳川方では本多豊後守広孝、松平主殿助伊忠、松平周防守康親、牧野新次郎康成、菅沼新八郎定盈、本
【欄外】
豊橋市史談 (長篠の戦いと武田氏の滅亡) 百二十三
英語訳
[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Nagashino and the Fall of the Takeda Clan) - 122
[Main Text]
[The theory states that] until the fourteenth day [Ieyasu] remained at Noda, but on the fifteenth day went to Okazaki to meet Nobunaga. This is not a theory that can be entirely rejected, but even if this were fact, those in Nagashino Castle at the time could not have known such detailed circumstances. Moreover, reading the accounts in "Mikawa Monogatari," "Matsudaira-ki," and other sources, it appears they believed that Ieyasu had come as far as the Noda area. That is, we must be convinced that Suneemon's purpose in leaving was first to meet Ieyasu and learn about Nobunaga's situation. In any case, I believe without doubt that saying Suneemon left the castle with the initial purpose of going to Okazaki is ultimately the source of error.
Now, on the sixteenth, Nobunaga immediately advanced his army from Okazaki and arrived at Ushikubo Castle, reaching Noda on the seventeenth. Despite Nobunaga's advice, Katsuaki wanted to inform the castle of this situation as quickly as possible, so he immediately left Okazaki on the night of the fifteenth, arrived near Nagashino Castle, and waited for an opportunity to approach the castle by mixing in among the Takeda forces' porters. However, he was finally discovered by Anayama forces and captured. Brought before Katsuyori, he was earnestly told by Katsuyori to persuade the castle defenders to give up and surrender to him. But Katsuaki pretended to comply with this instruction, and fortunately obtaining an opportunity to approach the castle, raised his voice loudly and shouted - as I mentioned before by quoting from "Mikawa Monogatari" - that Nobunaga and Ieyasu's reinforcements were approaching, so hold the castle firmly, and within three days there would surely be a path to victory. The Takeda forces were both surprised and angered, so they finally killed Katsuaki. There is also a theory that he was crucified at Shinobano, but in fact he was immediately stabbed to death on the spot, and I believe what is written in "Mikawa Monogatari" is indeed the truth:
"Since he speaks of the enemy's strength instead, quickly finish him off," and so they stabbed him to death.
[The Battle of Nagashino]
Thus on the eighteenth, both Nobunaga and Ieyasu positioned their forces at Shitarahara, with Nobunaga's particular design creating a strict defensive formation
[Header] Mayor of Toyohashi Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and tireless energy to compiling Toyohashi city history for over a year, and now his manuscript is nearly complete
[Left Page]
[Header] This Toyohashi City Historical Discussion is published once weekly (Tuesdays) and presented to readers of San'yō Shimbun
[Main Text]
by erecting long palisades, selecting marksmen from among the gunners and positioning them in the front ranks, and also placing gates of about thirty to fifty ken intervals between the long palisades to facilitate advances. The Takeda forces held a council of generals on the nineteenth to determine their attack strategy, on the twentieth Katsuyori himself led the entire army across the Takigawa, and on the twenty-first the battle between both armies finally commenced. At this time there is a theory that Katsuyori's favorites Nagasaka Kōkan and Atobe Ōinosuke were enticed by Nobunaga's general Sakuma Nobunaga with bribes, fell into his stratagem, and caused the Takeda forces to err in their strategy. However, the fact is that Nagasaka did not participate in this battle, and documentary evidence has already been discovered that makes this undeniable. I think this was also discussed when Scholar of Literature Watanabe Seisuke gave a lecture about Nagashino in Shinshiro town. In any case, in this battle the Oda and Tokugawa clans both exerted all possible strength, so their combined forces nearly tripled those of the Takeda, and especially as I mentioned before, they had large numbers of gunners, so it seems the outcome was already clear from this point.
[The Attack on Tobinoyama]
However, when Sakai Tadatsugu attacked the enemy fortifications at Tobinoyama on the night of the twentieth, one cannot know how much this broke the Takeda forces' morale. Therefore Tadatsugu was undoubtedly the greatest contributor to victory for the Oda-Tokugawa forces in this battle, and there is this story about it. Initially when Tadatsugu proposed this plan to attack Tobinosu to Nobunaga during a war council, Nobunaga was extremely angry and rejected it. However, after the war council ended and the generals withdrew, Nobunaga secretly called Ieyasu and Tadatsugu close to him and greatly praised the earlier proposal, immediately having it implemented. The reason he had pretended to reject it earlier was probably entirely due to fear that the plan might leak out. This sounds like it could be a fabricated story, but it appears in sources like "Kansei Chōshū Shokafū" and cannot be dismissed outright. This attack on Tobinosu achieved a remarkable surprise, with participants from the Oda side including Kanamori Gorōhachi Nagachika and Satō Rokuzaemon Norihide, and from the Tokugawa side Honda Bungo-no-kami Hirotaka, Matsudaira Tonomonosuke Koretada, Matsudaira Suhō-no-kami Yasuchika, Makino Shinjirō Yasunari, Suganuma Shinpachirō Sadamitsu, and Hon-
[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Nagashino and the Fall of the Takeda Clan) - 123