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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 76

ページ: 76

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【欄外】    豊橋市史談  (長篠役と武田氏の滅亡)                    百廿四 【本文】       多彦(だひこ)八 郎忠次(らうたゞつぐ)、 西郷孫(さいごうまご)九 郎家貞(らういえさだ)並(ならび)に戸田一西(とだかづあき)等(ら)二 連木(れんぎ)戸田(とだ)の勢(せい)など三千 余人(よにん)が之(これ)に従(したが)ひ云(い)ふ迄(まで)もなく        忠次(たゞつぐ)が総指揮者(そうしきしや)で夜(よ)に乗(ぜう)じ竊(ひそか)かに敵塁(てきるい)に近(ちか)づき払暁(ふつけう)を以(もつ)て之(これ)を襲(おそは)つたのであるが武田方(たけだがた)に於(おい)ては全(まつた)く        不意打(ふいうち)に過(あ)つたので之(これ)が為(ため)に其(その)一 根拠(こんきよ)を失(うしな)つた訳(わけ)であるから大(おほい)に前軍(ぜんぐん)の士気(しき)に関(くわん)した事(こと)は云(い)ふ迄(まで)もな       い而(しか)も一 方(はう)に於(おい)て勝頼(かつより)は此(この)時(とき)全軍(ぜんぐん)に進撃(しんげき)を号令(ごうれい)したのであるが織田(をた)徳川方(とくがはがた)では前(まへ)に申述(もうしの)べた通(とほ)り長柵(てうさく)       を列(つら)ねて待(ま)ち搆(かま)へて居(を)つたのであるから武田勢(たけだぜい)は先(ま)づ之(これ)に迫(せま)つて却(かへつ)て多(おほ)く銃手(じうしゆ)の為(ため)に打(う)ち仆(たほ)され尚(な)ほ        奮闘(ふんとう)するものは側面(そくめん)攻撃(こうげき)を受(う)けたのである勿論(もちろん)武田方(たけだがた)の将士(せうし)と雖(いへど)も決(けつ)して弱(よわ)かつた訳(わけ)ではない実(じつ)に勇(ゆう)        敢(かん)の働(はたらき)が多(おほ)かつたのであるが何分(なにぶん)にも武器(ぶき)が十 分(ぶん)でなかつたと云ふ事は第一の不利益(ふりえき)であつたと云       はねばならぬソコで織田(をた)徳川氏(とくがは)二 氏(し)に於(おい)ては十 分(ぶん)に機(き)の熟(じゆく)した処(ところ)を察(さつ)して全軍(ぜんぐん)の総進撃(そうしんげき)をやつたもので 《割書:武田氏の大|敗》  あるから武田方(たけだがた)は遂(つひ)に大敗(たいはい)して支離滅裂(しりめつれつ)馬場信房(ばゞのぶふさ)、 山縣昌景(やまがたまさかげ)等(ら)を初(はじ)め精鋭(せいえつ)の将士(せうし)は多(おほ)く之(これ)に殪(たほ)れたの       である実(じつ)に武田氏(たけだし)滅亡(めつばう)の原因(げんゐん)は既(すで)に茲(こゝ)にありと云ふも過言(くわげん)ではあるまいと思(おも)ふ尚(な)ほ此(この)戦(たゝかひ)に就(つい)ては申(もうし)        述(の)ぶべき話(はなし)は沢山(たくさん)にあるが成(な)るべく経過(けいくわ)の大要(たいえう)を摘(つま)むで進行(しんこう)したいと思(おも)ふから之(こ)れ位(くらゐ)で止(とゞ)めたいと思(おも)       ふが兎(と)に角(かく)此(この)戦(たゝかひ)は午前(ごぜん)五 時頃(じごろ)から初(はじ)まつて午後(ごゞ)三 時頃(じごろ)に畢(をは)つたと云ふ事で頗(すこぶ)る長時間(てうじかん)であつた而(しか)し       て徳川方(とくがはがた)の斬獲(ざんくわく)した首級(しゆきう)は一万余で其(その)死傷(しせう)も亦(ま)た六千を下(くだ)らなかつたと云ふのであるから其(その)激烈(げきれつ)であ       つた事も分(わか)るのである 《割書:家康三遠両|国を平定す》  かくて勝頼(かつより)は一 時(じ)武節(ぶせつ)の城(しろ)に遁(のが)れたのであるが遂(つひ)に敗軍(はいぐん)を纏(まと)めて甲州(かうしう)に引(ひ)き退(しりぞ)いたのであるソコで織(を)        田(た)徳川(とくがは)二 氏(し)に於(おい)ては大(おほい)に進取(しんしゆ)の方針(ほうしん)を定(さだ)め家康(いへやす)は凱旋(がいせん)後(ご)直(たゞ)ちに武田方(たけだがた)に属(ぞく)する諸城(しよじよう)の攻略(こうりやく)に勉(つと)めたの       であるが其(その)月(つき)には直(たゞ)ちに足助(あすけ)を取(と)り六月には作手(つくて)田峯(たみね)七月には武節(ぶせつ)と云ふように続々(ぞく〴〵)三 河(かは)の北部(ほくぶ)を征(せい)      服(ふく)し更(さら)に六月から遠江(とふとほみ)の二 俣城(またじやう)を攻(せ)めて其(その)十二月 之(これ)を復(ふく)し又(ま)た七月から八月にかけて遠江(とふとほみ)諏訪原(すぼうはら)の城(しろ) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百六十六号附録    ( 明治四十四年九月十九日発行 ) 【本文】       を攻(せ)めて之(これ)を取(と)り松井忠次(まつゐたゞつぐ)及(およ)び牧野新次郎康成(まきのしんじらうやすなり)をして之(これ)を守(まも)らしめたが周(しう)の武王(ぶわう)が殷(ゐん)の紂王(ちうわう)を牧野(まきの)に        討(う)つたと云ふ故事(こじ)に倣(なら)つて此処(こゝ)の名(な)を牧野原(まきのはら)と改(あらた)め又(ま)た松井忠次(まつゐたゞつぐ)を周防守(すぼうのかみ)と称(せう)せしむる事にしたとの       事である其(その)後(のち)も駿河(するが)遠江(とふとほみ)の間(あひだ)には武田(たけだ)徳川(とくがは)二 氏(し)の間(あひだ)に連年(れんねん)小戦争(せうせんそう)は絶(た)へなかつたが独(ひと)り高天神(たかてんじん)の城(しろ)は        中々(なか〳〵)の要害(えうがい)であつたので武田方(たけだがた)の守将(しゆせう)岡部長教(をかべながのり)が固守(こしゆ)して容易(ようい)に下(くだ)らなかつたヨウ〳〵天正九年三月       に至(いた)つて落城(らくじよう)したが之(これ)と相前後(あひぜんご)して乾(いぬゐ)、 小山(こやま)等(ら)の城(しろ)も家康(いへやす)の手(て)に皈(き)したので遂(つひ)に遠江(とふとほみ)も亦(ま)た全(まつた)く徳川(とくがは)        氏(し)の平定(へいてい)する処(ところ)となつたのである        此(かく)の如(ごと)き情況(じようけう)で三 遠(ゑん)両国(れうこく)に於(お)ける武田氏(たけだし)の勢力(せいりよく)は全(まつた)く減退(げんたい)したのであるが之(これ)より先(さ)き越後(ゑちご)の上杉謙信(うゑすぎけんしん)       は多年(たねん)の行掛(ゆきがゝ)りを捨(す)てゝ武田氏(たけだし)と和(わ)し之(これ)と同時(どうじ)に織田氏(をたし)とは相絶(あひた)つに至(いた)つたのである天正五年 信長(のぶなが)の        伊達右京太夫(だてうけうたいう)に送(おく)つた文書(ぶんしよ)には謙信(けんしん)を呼(よ)むで悪逆(あくぎやく)となした位(くらひ)であるが此(かく)の如(ごと)き事情(じじよう)に立至(たちいた)るには種々(しゆ〴〵) 《割書:上杉武田北|條三氏の同》  なる原因(げんゐん)があつたので一 言(げん)には申述(もうしの)べ兼(か)ぬるが蓋(けだ)し前(まへ)にも度々(たび〳〵)申述(もうしの)べた如(ごと)く将軍(せうぐん)足利義昭(あしかゞよしあきら)の勧誘(くわんゆう)と云 《割書:盟    | 》  ふものが大(おほい)に與(あづか)つて力(ちから)あつたことと思(おも)ふソコで謙信(けんしん)は一 方(ほう)には武田(たけだ)、 北條(ほうでう)と三 国同盟(ごくどうめい)を形成(かたちずく)つて自(みづか)らは       其翌天正六年三月を以(もつ)て越後(ゑちご)を出発(しゆつぱつ)し大(おほい)に兵(へい)を上国(じようこく)に動(うご)かして信長(のぶなが)と雌雄(しゆう)を決(けつ)せむとしたのであるが        其(その)出発(しゆつぱつ)に先(さきだ)つ僅(わづか)に二日、三月十三日に中風(ちうふう)に罹(かゝ)つて遂(つひ)に年(とし)四十九を以(もつ)て春日山城中(かすがやまじようちう)に卒(そつ)したのである        之(これ)は誠(まこと)に謙信(けんしん)の為(ため)には遺憾(ゐかん)極(きはま)りなき事であるが信長(のぶなが)に取(と)つては寧(むし)ろ僥倖(げうこう)ともなすべきもので之(これ)よりは        上杉氏(うゑすぎし)の振(ふる)はざるのは勿論(もちろん)の事であるが北條氏(ほうでうし)も亦(ま)た徳川氏(とくがはし)によつて欵(くわん)を織田氏(をたし)に通(つう)ずるに至(いた)つたの       で武田氏(たけだし)は遂(つひ)に孤立(こりつ)の勢(いきほひ)となつたのであるソコで信長(のぶなが)は天正十年二月イヨ〳〵武田氏(たけだし)を滅亡(めつばう)せしむ 《割書:武田氏の滅|亡》  べきの時機(じき)が至(いた)つたものとなして兵(へい)を信濃(しなの)から進(すゝ)め自身(じしん)も亦(ま)た出陣(しゆつぢん)して其(その)根拠(こんきよ)に侵入(しんにふ)したのである此(こゝ)       に於(おい)て家康(いへやす)は之(これ)に応(おう)じて二月十八日 浜松(はままつ)を発(はつ)して二十日 駿河(するが)の田中城(たなかじよう)を攻(せ)め廿一日には府中(ふちう)に入(い)り三 【欄外】    豊橋市史談  (長篠役と武田氏の滅亡)                    百廿五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (長篠の戦いと武田氏の滅亡) 百二十四 【本文】 多彦八郎忠次、西郷孫九郎家貞並びに戸田一西等、二連木戸田の勢など三千余人がこれに従い、言うまでもなく忠次が総指揮者で、夜に乗じてひそかに敵塁に近づき、払暁を以ってこれを襲ったのであるが、武田方においては全く不意打ちだったので、これがために其の一根拠を失った訳であるから、大いに前軍の士気に関したことは言うまでもない。しかも一方において勝頼はこの時全軍に進撃を号令したのであるが、織田・徳川方では前に申し述べた通り長柵を列ねて待ち構えていたのであるから、武田勢はまずこれに迫ってかえって多く銃手のために打ち倒され、なお奮闘するものは側面攻撃を受けたのである。もちろん武田方の将士といえども決して弱かった訳ではない。実に勇敢な働きが多かったのであるが、何分にも武器が十分でなかったということは第一の不利益であったと言わねばならぬ。そこで織田・徳川二氏においては十分に機の熟したところを察して全軍の総進撃をやったものであるから、武田方はついに大敗して支離滅裂、馬場信房、山県昌景等をはじめ精鋭の将士は多くこれに倒れたのである。実に武田氏滅亡の原因は既にここにありと言うも過言ではあるまいと思う。なおこの戦いについては申し述ぶべき話は沢山にあるが、なるべく経過の大要を摘んで進行したいと思うからこれ位で止めたいと思うが、とにかくこの戦いは午前五時頃から始まって午後三時頃に終わったということで頗る長時間であった。そして徳川方の斬獲した首級は一万余で、其の死傷も亦た六千を下らなかったというのであるから、其の激烈であったことも分かるのである。 【家康三遠両国を平定す】 かくて勝頼は一時武節の城に逃れたのであるが、ついに敗軍をまとめて甲州に引き退いたのである。そこで織田・徳川二氏においては大いに進取の方針を定め、家康は凱旋後直ちに武田方に属する諸城の攻略に努めたのであるが、其の月には直ちに足助を取り、六月には作手・田峯、七月には武節というように続々三河の北部を征服し、更に六月から遠江の二俣城を攻めて其の十二月これを復し、また七月から八月にかけて遠江諏訪原の城 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百六十六号附録    (明治四十四年九月十九日発行) 【本文】 を攻めてこれを取り、松井忠次及び牧野新次郎康成をしてこれを守らしめたが、周の武王が殷の紂王を牧野に討ったという故事に倣ってここの名を牧野原と改め、また松井忠次を周防守と称せしむることにしたとのことである。其の後も駿河・遠江の間には武田・徳川二氏の間に連年小戦争は絶えなかったが、独り高天神の城は中々の要害であったので、武田方の守将岡部長教が固守して容易に下らなかった。ようやく天正九年三月に至って落城したが、これと相前後して乾、小山等の城も家康の手に帰したので、ついに遠江も亦た全く徳川氏の平定するところとなったのである。 このような情況で三遠両国における武田氏の勢力は全く減退したのであるが、これより先、越後の上杉謙信は多年の行きがかりを捨てて武田氏と和し、これと同時に織田氏とは相絶つに至ったのである。天正五年信長の伊達右京太夫に送った文書には謙信を呼んで悪逆となした位であるが、このような事情に立ち至るには種々なる原因があったので一言には申し述べ兼ねるが、おそらく前にも度々申し述べたように将軍足利義昭の勧誘というものが大いに与って力があったことと思う。 【上杉武田北条三氏の同盟】 そこで謙信は一方には武田、北条と三国同盟を形成して、自らは其の翌天正六年三月を以って越後を出発し、大いに兵を上国に動かして信長と雌雄を決せんとしたのであるが、其の出発に先立つわずかに二日、三月十三日に中風にかかってついに年四十九を以って春日山城中に卒したのである。これは誠に謙信のためには遺憾極まりないことであるが、信長に取っては寧ろ僥倖ともなすべきもので、これよりは上杉氏の振るわざるのは勿論のことであるが、北条氏も亦た徳川氏によって款を織田氏に通ずるに至ったので、武田氏はついに孤立の勢となったのである。 【武田氏の滅亡】 そこで信長は天正十年二月、いよいよ武田氏を滅亡せしむべき時機が至ったものとなして兵を信濃から進め、自身も亦た出陣して其の根拠に侵入したのである。ここにおいて家康はこれに応じて二月十八日浜松を発して二十日駿河の田中城を攻め、二十一日には府中に入り三 【欄外】 豊橋市史談 (長篠の戦いと武田氏の滅亡) 百二十五

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Nagashino and the Fall of the Takeda Clan) - 124 [Main Text] Honda Hikohachirō Tadatsugu, Saigō Magokirō Iesada, along with Toda Kazuaki and others, including forces from the Rengi Toda clan totaling over three thousand men followed them. Needless to say, Tadatsugu was the overall commander, and taking advantage of the night, they secretly approached the enemy fortifications and attacked at dawn. For the Takeda forces this was a complete surprise attack, causing them to lose one of their key positions, which naturally greatly affected the morale of their front army. Meanwhile, Katsuyori at this time ordered a general advance of all his forces, but since the Oda-Tokugawa forces had lined up their long palisades and were waiting in formation as I mentioned earlier, when the Takeda forces first approached these defenses, many were instead shot down by the gunners, and those who continued to fight valiantly came under flanking attacks. Of course, the Takeda generals and soldiers were by no means weak - there were indeed many acts of bravery, but the fact that their weapons were inadequate was certainly their primary disadvantage. Therefore, when the Oda and Tokugawa clans perceived that the time was fully ripe, they launched a general offensive of all their forces, so the Takeda forces finally suffered a crushing defeat and complete collapse, with elite generals and soldiers including Baba Nobufusa and Yamagata Masakage among many who fell in battle. Truly, the cause of the Takeda clan's destruction already lay here, which is no exaggeration. There are still many more stories to tell about this battle, but since I want to proceed by extracting the main points of the course of events, I will stop here. In any case, this battle began around 5 AM and ended around 3 PM, making it quite a long engagement. The Tokugawa forces took over ten thousand heads, and their own casualties also numbered no less than six thousand, showing how fierce the battle was. [Ieyasu Pacifies Both Mikawa and Tōtōmi Provinces] Thus Katsuyori temporarily fled to Busetsu Castle but finally gathered his defeated army and retreated to Kōshū. The Oda and Tokugawa clans then adopted a great policy of advancement, and after his triumphant return, Ieyasu immediately worked to capture the various castles belonging to the Takeda forces. In that same month he immediately took Asuke, in the sixth month Tsukude and Tamine, in the seventh month Busetsu, thus successively conquering northern Mikawa. Furthermore, from the sixth month he attacked Futamata Castle in Tōtōmi and recovered it in the twelfth month, and from the seventh to eighth months he attacked Suwahara Castle in Tōtōmi [Left Page] [Header] San'yō Shimbun No. 3866 Supplement (Published September 19, Meiji 44 [1911]) [Main Text] and took it, having Matsui Tadatsugu and Makino Shinjirō Yasunari guard it. Following the historical precedent of King Wu of Zhou defeating King Zhou of Yin at Makino, they changed the name of this place to Makinohara and had Matsui Tadatsugu take the title Suhō-no-kami. Thereafter, small wars between the Takeda and Tokugawa clans continued for years between Suruga and Tōtōmi, but Takatenjin Castle alone was quite a stronghold, so the Takeda garrison commander Okabe Naganori held it firmly and it did not fall easily. It finally fell in the third month of Tenshō 9, and around the same time the castles of Inui and Koyama also came under Ieyasu's control, so finally Tōtōmi also became completely pacified by the Tokugawa clan. Under such circumstances, the Takeda clan's power in both Mikawa and Tōtōmi provinces completely declined. Earlier, Uesugi Kenshin of Echigo had abandoned years of hostility to make peace with the Takeda clan, and simultaneously came to break relations with the Oda clan. In a document Nobunaga sent to Date Ukyōtaiu in Tenshō 5, he even called Kenshin treacherous, but there were various causes leading to such circumstances that cannot be explained in a few words. Probably, as I have mentioned many times before, the persuasion of Shogun Ashikaga Yoshiaki played a great role. [The Alliance of Uesugi, Takeda, and Hōjō Three Clans] So Kenshin formed a three-way alliance with the Takeda and Hōjō clans, and in the following year, Tenshō 6, third month, he departed from Echigo, greatly mobilizing his forces toward the capital region to decide the outcome with Nobunaga. However, just two days before his departure, on the thirteenth day of the third month, he suffered a stroke and died at age forty-nine in Kasugayama Castle. This was truly most regrettable for Kenshin, but for Nobunaga it was rather fortunate. From this point, not only did the Uesugi clan fail to prosper, but the Hōjō clan also came to communicate with the Oda clan through the Tokugawa clan, leaving the Takeda clan finally in an isolated position. [The Fall of the Takeda Clan] So in the second month of Tenshō 10, Nobunaga determined that the time had finally come to destroy the Takeda clan, advanced his forces from Shinano, and personally took the field to invade their homeland. In response, Ieyasu departed Hamamatsu on the eighteenth day of the second month, attacked Tanaka Castle in Suruga on the twentieth, entered Fuchū on the twenty-first, and on the third [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Nagashino and the Fall of the Takeda Clan) - 125