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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 77

ページ: 77

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【欄外】    豊橋市史談  (松平信康の自刃並に厳龍和尚)                  百廿六 【本文】       月八日 興津(おきつ)に次し十一日に甲斐(かひ)の古府(こふ)に於(おい)て信長(のぶなが)の先鋒(せんぱう)信忠(のぶたゞ)に会(くわい)したのである此(この)時(とき)信長(のぶなが)は信濃(しなの)の上諏(かみす)        訪(わ)まで来(き)て居(を)つたのであるが結局(けつきよく)勝頼(かつより)は其(その)日(ひ)に哀(あは)れなる最後(さいご)を遂(と)げ武田氏(たけだし)は茲(こゝ)に滅亡(めつばう)の運命(うんめい)と相成(あひな)つ       た事は之(こ)れ亦(ま)た諸君(しよくん)か既(すで)に御承知(ごせうち)の事であると思(おも)ふソコで家康(いへやす)は其二十日に上諏訪(かみすわ)まで出掛(でか)けて信長(のぶなが)       に面会(めんくわい)したが信長(のぶなが)が武田氏(たけだし)の故国(ここく)を諸将(しよせう)に分配(ぶんぱい)するに方(あた)り家康(いへやす)は更(さら)に駿河(するが)一 国(こく)を得(う)ることとなつたので       ある            ⦿松平信康の自刃並に厳龍和尚        前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)く武田氏(たけだし)は遂(つひ)に天正十年三月十一日を以(もつ)て滅亡(めつばう)に帰(き)したのであるが夫(それ)より信長(のぶなが)は四       月二日 信濃(しなの)の諏訪(すわ)を発(はつ)して甲州(かうしう)に入(い)り武田氏(たけだし)滅亡(めつばう)の跡(あと)を検分(けんぶん)して駿河(するが)に出(い)で富士(ふじ)を遊覧(ゆうらん)して東海道(とうかいどう)に 《割書:信長の富士|遊覧》  かゝり岐阜(ぎふ)に帰(かへ)つたのであるが徳川氏(とくがはし)に於(おい)ては沿道(えんどう)を修(しう)し河(かは)には舟橋(ふねはし)を架(か)するなど注意(ちうい)周到(しうとう)で特(とく)に陣(ぢん) 《割書:信長の吉田|宿営》   営(えい)仮舘(かりやかた)などの設備(せつび)には意(い)を用(もち)ゐたものである而(しか)して信長(のぶなが)が其(その)途次(とじ)此(この)吉田(よしだ)に宿(しゆく)したのは四月十七日で酒(さか)        井忠次(ゐたゞつぐ)は饗(けう)を尽(つく)し信長(のぶなが)も亦(ま)た眞光(さねみつ)の太刀(たち)並(ならび)に黄金(おうごん)二百両を忠次(たゞつく)に与(あた)へたのであるが之(これ)は種々(しゆ〴〵)の記録(きろく)に        散見(さんけん)する処(ところ)であるサテ之(これ)で先(ま)づ長(なが)い間(あひだ)結(むす)むで解(と)けなかつた武田氏(たけだし)との関係(くわんけい)は一 段落(だんらく)を告(つ)げたので之(これ)か       らは専(もつぱ)ら徳川氏(とくがはし)と織田(をた)夫(それ)からは豊臣氏(とよとみし)との関係(くわんけい)に説(と)き及(およは)すべきであるが此処(こゝ)に一寸(ちよつと)申述(もうしの)べて置(を)きたい       のは家康(いへやす)の子(こ)信康(のぶやす)が最後(さいご)の話(はなし)で之(これ)が又(ま)た龍拈寺(りうねんじ)の住僧(ぢうそう)白州(はくしゆう)厳龍和尚(げんりうおせう)の話(はなし)に関連(くわんれん)するのである 《割書:築山御前関|口氏》   信康(のぶやす)は御承知(ごせうち)の通(とほ)り家康(いへやす)の長子(てうし)で家康(いへやす)の夫人(ふじん)関口氏(せきぐちし)の出(しゆつ)であるが此(この)関口氏(せきぐちし)は今川義元(いまがはよしもと)の姪(めい)に当(あた)るので        関口刑部少輔親永(せきぐちけいぶのせうゆうちかなが)の娘(むすめ)である即(すなは)ち家康(いへやす)がまだ今川家(いまがはけ)に世話(せわ)になつて居(を)る頃(ころ)に義元(よしもと)の意(い)によつて之(これ)を迎(むか)       へたのであるが家康(いへやす)が三 河(かは)に帰(かへ)つて後(のち)も人質(ひとしち)として長(なが)く駿河(するが)に留(とゝ)まつたので其(その)後(ご)三 河(かは)に迎(むか)へらるゝに 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        及(およ)むではドウモ家康(いへやす)との間(あひだ)が面白(おもしろ)く行(ゆ)かなかつたのであるソコで之(これ)を築山(つきやま)と云(い)ふ処(ところ)に置(お)いたので世(よ)に        築山御前(つきやまごぜん)と称(せう)するのであるが其(その)後(ご)関口氏(せきぐちし)の嫉妬(しつと)は益々(ます〳〵)募(つの)つたのみならず乱行(らんぎよう)があつた事は松平記(まつだひらき)など       に記(しる)されてある而(しか)も遂(つひ)には武田氏(たけだし)に内通(ないつう)して家康(いへやす)を殪(たほ)し信康(のぶやす)を擁立(えうりつ)せむとする計画(けいくわく)があつたとまで伝(つた)       へられ居(を)る而(しか)して信康(のぶやす)も亦(ま)た剛勇(ごうゆう)の人(ひと)ではあつたが数々(しば〳〵)残酷(ざんこく)非道(ひどう)の行(おこなひ)があつて人心(じんしん)の離反(りはん)を招(まね)いて        居(を)つたこと事が記(しる)されてある併(しか)しサスがは徳川氏(とくがはし)柱石(ちうせき)の臣(しん)だけあつて大久保彦左衛門(おほくぼひこざゑもん)は其(その)三 河物語(かはものがたり)に於(おい)て 《割書:信康夫人織|田氏》  もそれ等(ら)の事は明記(めいき)して居(を)らぬが信康(のぶやす)の夫人(ふじん)は即(すなは)ち織田信長(をたのぶなが)の娘(むすめ)で此(この)人(ひと)と関口氏(せきぐちし)とは又(ま)た余程(よほど)中(なか)が悪(わる)       かつたのである之(これ)に反(はん)して信康(のぶやす)は能(よ)く其(その)母(はゝ)関口氏(せきぐちし)に仕(つか)へた様子(やうす)である而(しか)も信康(のぶやす)と其(その)夫人(ふじん)とは之(これ)亦(ま)       た次第(しだい)に夫婦(ふうふ)仲(なか)が悪(わる)くなつたのであるソコで此(この)夫人(ふじん)織田氏(をたし)は十二ケ条(ぜう)の意見(いけん)を書(か)いて父(ちゝ)信長(のぶなが)に送(おく)つた 《割書:織田氏書を|父信長に送》  のであるがソレは天正七年六月の事で之(これ)が原因(げんゐん)となつて関口氏(せきぐちし)は討(う)たれ信康(のぶやす)遂(つひ)に自害(じがい)するに至(いた)つたの 《割書:る    | 》  である而(しか)して三 河物語(かはものがたり)によると此(この)十二ケ条(でう)の意見書(いけんしよ)を信長(のぶなが)の処(ところ)へ持(も)つて行(ゆ)つた使(つかひ)は酒井忠次(さかゐたゞつぐ)であつた       としてある其(その)時(とき)信長(のぶなが)は此(この)織田氏(をたし)から送(おく)つた手紙(てがみ)を読(よ)み下(くだ)して十ケ条(でう)まで忠次(たゞつぐ)に対(たい)し一々 其(その)実否(じつひ)を質問(しつもん)       したが忠次(たゞつぐ)は孰(いづ)れも之(これ)を事実(じじつ)なりと答(こた)へたので信長(のぶなが)は遂(つひ)に最後(さいご)二ケ条(でう)は披(ひら)き見るに及(およ)ばずに家(いへ)の重臣(ぢうしん)       が一々 之(これ)を承知(せうち)して居(を)る以上(いぜう)は最早(もはや)疑(うたが)ふ処(ところ)はないから此(この)上(うへ)は信康(のぶやす)に切腹(せつぷく)させるように家康(いへやす)へ申伝(もうしつた)へて        呉(く)れと云はれたが忠次(たゞつく)は之(これ)をも御受(おうけ)をしたと書(か)いてある併(しか)し松平記(まつだひらき)の記(き)する処(ところ)は少(すこ)しく違(ちが)ふので其(その)時(とき)       の事情(じじよう)に就(つい)ては左(さ)の如(ごと)くに書(か)いてある        三 郎殿(らうどの)の御前(ごぜん)其(その)比(ころ)三 郎殿(らうどの)と御中(おんなか)悪敷(あしく)おはしければ此(この)由(よし)一つ書(しよ)になされ御父(おんちゝ)信長(のぶなが)へ遣(つか)はさるゝ先(まづ)第(だい)一        は御鷹野場(おんたかのば)にて出家(しゆつけ)を縛(しば)り殺(ころ)し給(たま)ふ事(こと)又(また)踊(おど)り悪敷(あしく)候(そそろ)とて弓(ゆみ)にて町(まち)の踊子(おどりこ)を射(ゐ)給(たま)ふ事(こと)其(その)外(ほか)あらき御振(おんふる)         舞(まひ)家康(いへやす)と御不審(ごふしん)の事(こと)人(ひと)の申(もうす)より過(あやまつ)て仰(あふせ)遣(つかは)さる御母儀(おんはゝぎ)の不行儀(ふぎようぎ)又(また)は甲州方(かうしうがた)より唐人(からびと)を召(めし)よせ御謀(ごむ) 【欄外】    豊橋市史談  (松平信康の自刃並に厳龍和尚)                  百廿七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (松平信康の自刃並びに厳龍和尚) 百二十六 【本文】 三月八日興津に次(つ)ぎ、十一日に甲斐の古府において信長の先鋒信忠に会したのである。この時信長は信濃の上諏訪まで来ていたのであるが、結局勝頼はその日に哀れな最後を遂げ、武田氏はここに滅亡の運命となった事は、これもまた諸君がすでにご承知の事であると思う。そこで家康はその二十日に上諏訪まで出掛けて信長に面会したが、信長が武田氏の故国を諸将に分配するにあたり、家康はさらに駿河一国を得ることとなったのである。 ⦿松平信康の自刃並びに厳龍和尚 前章に申し述べたように武田氏はついに天正十年三月十一日をもって滅亡に帰したのであるが、それより信長は四月二日信濃の諏訪を発って甲州に入り、武田氏滅亡の跡を検分して駿河に出で、富士を遊覧して東海道にかかり岐阜に帰ったのであるが、徳川氏においては沿道を修し川には舟橋を架けるなど注意周到で、特に陣営仮館などの設備には意を用いたものである。そして信長がその途次この吉田に宿したのは四月十七日で、酒井忠次は饗を尽くし、信長もまた眞光の太刀並びに黄金二百両を忠次に与えたのであるが、これは種々の記録に散見するところである。 さてこれで先ず長い間結んで解けなかった武田氏との関係は一段落を告げたので、これからは専ら徳川氏と織田、それからは豊臣氏との関係に説き及ぼすべきであるが、ここに一寸申し述べて置きたいのは家康の子信康が最後の話で、これがまた龍拈寺の住僧白州厳龍和尚の話に関連するのである。 信康はご承知の通り家康の長子で、家康の夫人関口氏の出であるが、この関口氏は今川義元の姪にあたるので、関口刑部少輔親永の娘である。即ち家康がまだ今川家に世話になっている頃に義元の意によってこれを迎えたのであるが、家康が三河に帰って後も人質として長く駿河に留まったので、その後三河に迎えられる 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 に及んではどうも家康との間が面白く行かなかったのである。そこでこれを築山という処に置いたので世に築山御前と称するのであるが、その後関口氏の嫉妬は益々募ったのみならず乱行があった事は松平記などに記されてある。しかも遂には武田氏に内通して家康を倒し信康を擁立せんとする計画があったとまで伝えられている。そして信康もまた剛勇の人ではあったが数々残酷非道の行いがあって人心の離反を招いていたことが記されてある。しかしさすがは徳川氏柱石の臣だけあって大久保彦左衛門はその三河物語においてもそれ等の事は明記していないが、信康の夫人は即ち織田信長の娘で、この人と関口氏とはまた余程仲が悪かったのである。これに反して信康は能くその母関口氏に仕えた様子である。しかも信康とその夫人とはこれまた次第に夫婦仲が悪くなったのである。そこでこの夫人織田氏は十二ヶ条の意見を書いて父信長に送ったのであるが、それは天正七年六月の事で、これが原因となって関口氏は討たれ信康ついに自害するに至ったのである。そして三河物語によるとこの十二ヶ条の意見書を信長のところへ持って行った使いは酒井忠次であったとしてある。その時信長はこの織田氏から送った手紙を読み下してに十ヶ条まで忠次に対し一々その実否を質問したが、忠次はいずれもこれを事実なりと答えたので、信長はついに最後二ヶ条は披き見るに及ばずに、家の重臣が一々これを承知している以上は最早疑う処はないから、この上は信康に切腹させるように家康へ申し伝えて呉れと言われたが、忠次はこれをも御受けをしたと書いてある。しかし松平記の記するところは少しく違うので、その時の事情については左の如くに書いてある。 三郎殿の御前その比三郎殿と御仲悪しくおわしければこの由一つ書になされ御父信長へ遣わさるる。先ず第一は御鷹野場にて出家を縛り殺し給う事、また踊り悪しく候とて弓にて町の踊子を射給う事、その外あらき御振舞、家康と御不審の事、人の申すより過って仰せ遣わさる、御母儀の不行儀、また甲州方より唐人を召しよせ御謀 【欄外】 豊橋市史談 (松平信康の自刃並びに厳龍和尚) 百二十七

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Suicide of Matsudaira Nobuyasu and the Monk Genryū) - 126 [Main Text] On the eighth day of the third month they camped at Okitsu, and on the eleventh day met with Nobunaga's vanguard commander Nobutada at Kofu in Kai Province. At this time Nobunaga had come as far as Kami-Suwa in Shinano, but ultimately Katsuyori met his pitiful end on that day, and the Takeda clan met their fate of destruction here, which I believe you gentlemen are already aware of. So on the twentieth day Ieyasu traveled to Kami-Suwa to meet with Nobunaga, and when Nobunaga distributed the former Takeda territories among his generals, Ieyasu additionally gained the entire province of Suruga. ⦿The Suicide of Matsudaira Nobuyasu and the Monk Genryū As I mentioned in the previous chapter, the Takeda clan finally met their destruction on the eleventh day of the third month of Tenshō 10. From then, on the second day of the fourth month Nobunaga departed Suwa in Shinano, entered Kōshū, inspected the aftermath of the Takeda clan's destruction, went to Suruga, toured Mount Fuji, took the Tōkaidō route and returned to Gifu. The Tokugawa clan was thoroughly attentive, repairing the roads along the route and building boat bridges over rivers, paying particular attention to facilities such as temporary encampments and lodgings. Nobunaga lodged at this Yoshida on the seventeenth day of the fourth month during his journey, where Sakai Tadatsugu provided full hospitality, and Nobunaga in return gave Tadatsugu the sword Sanemitsu and two hundred ryō of gold, which is mentioned in various records. Now this brought to a close the long-standing and irreconcilable relationship with the Takeda clan, so from here we should speak exclusively of the relationship between the Tokugawa clan and the Oda, and later the Toyotomi clan. But here I want to briefly mention the story of Ieyasu's son Nobuyasu's end, which also relates to the story of the monk Hakushū Genryū of Ryūnenji Temple. As you know, Nobuyasu was Ieyasu's eldest son, born to Ieyasu's wife Lady Sekiguchi. This Lady Sekiguchi was the niece of Imagawa Yoshimoto, being the daughter of Sekiguchi Keibu-shōyū Chikanaga. That is, when Ieyasu was still under the care of the Imagawa family, he took her as wife at Yoshimoto's behest, but even after Ieyasu returned to Mikawa, she remained long in Suruga as a hostage, so when she was later brought to Mikawa [Header] Mayor of Toyohashi Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as his draft is nearly complete... [Left Page] [Header] This Toyohashi City Historical Discussion is published once a week (Tuesdays) and presented to readers of the San'yō Shimbun [Main Text] relations between her and Ieyasu did not go well at all. So she was placed at a location called Tsukiyama, which is why she is known to the world as Lady Tsukiyama. Thereafter Lady Sekiguchi's jealousy grew ever stronger, and moreover there were acts of misconduct as recorded in the Matsudaira-ki and other sources. It is even said that she finally conspired with the Takeda clan to kill Ieyasu and install Nobuyasu as ruler. And Nobuyasu too, though a brave and courageous man, repeatedly committed cruel and inhumane acts that caused the people's hearts to turn away from him, as is recorded. However, as befitting a pillar retainer of the Tokugawa clan, Ōkubo Hikozaemon does not clearly record such matters in his Mikawa Monogatari. Nobuyasu's wife was the daughter of Oda Nobunaga, and this woman and Lady Sekiguchi got along very poorly indeed. In contrast, Nobuyasu seemed to serve his mother Lady Sekiguchi well. However, Nobuyasu and his wife also gradually came to have a bad marital relationship. So this wife, the Oda lady, wrote twelve articles of complaint and sent them to her father Nobunaga. This was in the sixth month of Tenshō 7, and this became the cause for Lady Sekiguchi to be killed and for Nobuyasu to ultimately commit suicide. According to the Mikawa Monogatari, the messenger who carried this twelve-article complaint to Nobunaga was Sakai Tadatsugu. At that time Nobunaga read through the letter sent by his daughter and questioned Tadatsugu one by one about the truth or falsehood of each of the first ten articles, and Tadatsugu answered that all were indeed factual. So Nobunaga finally did not need to examine the last two articles, saying that since the family's chief retainer acknowledged each point, there was no longer any doubt, so he should tell Ieyasu to have Nobuyasu commit seppuku, and Tadatsugu is recorded as having accepted this order as well. However, what is recorded in the Matsudaira-ki differs somewhat, so regarding the circumstances of that time it is written as follows: "Lady of the Third Lord - at that time relations between her and the Third Lord were bad, so she wrote these matters in a document and sent it to her father Nobunaga. First, that he bound and killed a monk at the hawk hunting grounds, also that saying the dancing was poor he shot town dancers with a bow, and other violent behavior, suspicious matters with Ieyasu, speaking beyond what people said, the misconduct of his mother, and also summoning Chinese from the Kōshū side for plotting..." [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Suicide of Matsudaira Nobuyasu and the Monk Genryū) - 127