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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 78

ページ: 78

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【欄外】    豊橋市史談  (松平信康の自刃並に厳龍和尚)                  百廿八 【本文】         反(ほん)の沙汰(さた)ある事(こと)色々(いろ〳〵)細(こまか)に遊(あそば)され岐阜(ぎふ)へ御越(おこし)あり信長(のぶなが)驚(おどろ)き給(たま)ひ則(すなはち)浜松(はままつ)へ御使(おつかひ)ありて酒井左衛門尉(さかゐさえもんのぜう)大(おほ)         久保(くぼ)七 郎右衛門(らううゑもん)を呼(よび)て三 郎殿(らうどの)へ内々(ない〳〵)酒井(さかゐ)を初(はじめ)て皆々(みな〳〵)家老衆(からうしう)数度(すうど)異見(ゐけん)ありしかども用給(もちゐたま)はず其(その)比(ころ)酒井(さかゐ)        とも大久保(おほくぼ)とも三 郎殿(らうどの)不快(ふくわい)にて御座候(ござそろ)時分(じぶん)なりし間(あひだ)信長(のぶなが)御腹立(おんはらたち)加様(かよう)の悪人(あくにん)にて家康(いへやす)の家(いへ)を何(なん)として         相続(さうぞく)あらん後(のち)には必(かならず)家(いへ)の大事(だいじ)と成(な)らんと怒(いか)り給(たま)ふ両人(れうにん)の者共(ものども)爰(こゝ)にて申分(もうしぶん)を致(いた)し何様(なにさま)にも陳答(ちんとう)に及(およぶ)        ならは是程(これほど)の大事(だいじ)には及(およぶ)ましきに日比(ひごろ)三 郎殿(らうどの)と中(なか)悪(あ)しくて両人(れうにん)なからあきはて尤(もつとも)御意(ぎよい)の通(とほり)悪逆(あくぎやく)人(にん)        にて御座候(ござそろ)御前(ごぜん)の御恨(おんうらみ)尤(もつとも)なりと申(もうし)家康(いへやす)も御腹立(おんはらだち)あり然(しかる)者(もの)生害(せうがい)に又(およ)ふへきとの事(こと)にて天正七年八月        朔日 信長(のぶなが)へ此(この)由(よし)被仰上(あふせあげらる)信長(のぶなが)も内々(ない〳〵)御腹立(おんはらたち)の事(こと)なれは如何様(いかよう)にも存分(ぞんぶん)次第(じだい)と御返事(ごへんじ)あつて八月五日 家(いへ)         康(やす)岡崎(をかざき)へ御越(おんこし)あり三 郎殿(らうどの)を大浜(おほはま)へ出(いだ)し被申(もうされ)岡崎(をかざき)へは本多作左衛門(ほんださくざゑもん)を移(うつ)し給(たま)ふ三 郎殿(らうどの)は当座(とうざ)の御勘気(ごかんき)        と思召(おばしめし)けるに家康(いへやす)は西尾(にしを)の城(しろ)へ御座候 而(しかし)三 郎殿(らうどの)をは遠州(ゑんしう)堀江(ほりえ)へ移(うつ)したてまつり同九月十五日 遠州(ゑんしう)二        俣(また)にて生害(せうがい)し奉(たてまつ)る御母(おんはゝ)築山殿(つきやまどの)も日比(ひごろ)の御悪逆(おんあくぎやく)有(あり)しとて同(おなじく)生害(せうがい)に及(およ)ふ        之(これ)で見(み)ると忠次(たゞつぐ)が織田氏(をだし)の使(つかひ)をしたと云ふ訳(わけ)ではないようであるモツトモ此(この)時(とき)会々(たま〳〵)忠次(たゞつぐ)は家康(いへやす)の用事(ようじ)       で安土(あづち)へ行(い)つたのであるがソレを信長(のぶなが)が呼(よ)んで竊(ひそ)かに十二ケ 条(でう)の手紙(てがみ)に就(つい)て尋(たづ)ねたものであると云ふ        説(せつ)もある其(その)外(ほか)此(この)事(こと)に就(つい)ては未(いま)だ種々(しゆ〳〵)の穿(うが)つた説(せつ)も伝(つた)はつて居(を)るが一々 此処(こゝ)にそれを申述(もうしの)ぶる必要(ひつえう)はな       かろうと思(おも)ふ併(しか)し何(いづ)れの方面(はうめん)から観察(くわんさつ)しても結局(けつきよく)此(この)時(とき)忠世(たゞよ)、 忠次(たゞつぐ)両人(れうにん)の取計(とりはか)らひ方(かた)如何(いかん)によつては信(のぶ)        康(やす)は死(し)なぬでもよかつた様(よう)に見(み)ゆるのである又(ま)た家康(いへやす)も此(この)時(とき)信康(のぶやす)をして死(し)にまで至(いた)らめたのは余義(よぎ)な       き事情(じじよう)とは言(い)ひながら何(なん)となく残(のこり)多(おほ)く思(おも)つて居(を)つたように伝(つた)へられて居(を)る夫(それ)に就(つい)て二三の話(はなし)を申述(もうしのべ)る       と始(はじ)め野中(のなか)三五 郎重政(らうしげまさ)と云ふものが言付(いひつけ)られて関口氏(せきぐちし)を打取(うちと)つたのであるが之(これ)を家康(いへやす)に復命(ふくめい)した処(ところ)が        家康(いへやす)は女(おんな)の事(こと)であるから討取(うちと)れと言付(いひつ)けはしたものゝ何(なん)とか中(なか)に這入(はい)つた者(もの)で取計(とりはか)らひようもあつた 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百七十二号附録    ( 明治四十四年九月廿六日発行 ) 【本文】       であろうに心(こゝろ)幼(おさ)なくも遂(つひ)に討取(うちと)つたかと云はれたので重政(しげまさ)は実(じつ)に恐縮(けうしゆく)して爾来(じらい)蟄居(ちつきよ)したと云ふ事が其(その)        家伝(かでん)に見(み)へて居(を)ると云ふ事である又(ま)た信康(のぶやす)の傅(ふ)平岩親吉(ひらいわちかよし)が信康(のぶやす)の罪(つみ)を獲(え)た事を聞(き)いて大(おほひ)に驚(おどろ)き早速(さつそく)家(いへ)        康(やす)に面(めん)して信康(のぶやす)に不行跡(ふぎようせき)があつたと云ふなれば其(その)傅(ふ)たる自分(じぶん)の責任(せきにん)であるからドウカ自分(じぶん)の頸(くび)を刎(は)ね       て信長(のぶなが)に謝(しや)して下(くだ)さいと願(ねが)つた処(ところ)が其(その)時(とき)家康(いへやす)の言ふには信康(のぶやす)が武田(たけだ)に加担(かたん)して謀反(ほうはん)をするなどゝ言(い)ふ       ことは信(しん)ぜぬが我(われ)は今(いま)乱世(らんせ)に当(あた)り強敵(きようてき)の間(あひだ)に夾(はさ)まつて頼(たの)む処は独(ひと)り信長(のぶなが)であるのに今(いま)其(その)後援(こうゑん)を失(うしな)ふ事と       なれば我国(わがくに)は明日(あす)を出(い)でずして亡(ほろ)ぶべきである父子(ふし)の恩愛(おんあい)の捨(す)て難(がた)い為(た)めに累代(るいだい)の家国(かこく)を亡(ほろぼ)すと云ふ       事は子(こ)を愛(あい)する事を知(し)つて祖先(そせん)を思(おも)はざるものである此(この)点(てん)がなければ罪(つみ)なき子(こ)を失(うしな)つて我独(われひと)りつれな       き生(せい)を貪(むさぼ)ると云ふ事は忍(しの)ばるゝ処でない今(いま)汝(なんぢ)の頸(くび)を刎(はね)たとて到底(とうてい)それで信康(のぶやす)が助(たす)かるとは思(おも)はぬから        今(いま)汝(なんぢ)を殺(ころ)すのは無益(むえき)に一人の忠臣(ちうしん)を死(し)せしむるのであると云つて涙(なみだ)を流(なが)されたと云ふ事である尚(な)ほ其(その)        外(ほか)にも此(この)信康(のぶやす)を最後(さいご)に二 俣(また)に移(うつ)して忠世(たゞよ)に預(あづ)けられたと云ふものは深(ふか)き意味(いみ)のあつた事であるのに忠(たゞ)        世(よ)は終(つひ)に其(その)意(い)を解(かい)せなかつたのであるが其(その)後(のち)幸若舞(こうじやくまひ)を見(み)られた時(とき)満仲(みつなか)が家人(けにん)の仲光(なかみつ)に向(むか)つて其(その)子(こ)美女(みめ)        丸(まる)を討(う)てと命(めい)じたのに仲光(なかみつ)は反(かへつ)て我子(わがこ)を殺(ころ)して其(その)身替(みがは)りとしたと云ふ処に至(いたつ)て家康(いへやす)は忠世(たゞよ)を顧(かへり)みて能(よく)        能(よく)此(この)舞(まひ)を見(み)よと云はれたので忠世(たゞよ)は大(おほい)に恐懼(きようく)したと云ふ事も伝(つた)へられ居(を)る兎(と)に角(かく)此(この)事(こと)に就(つい)ては忠次(たゞつぐ)と        忠世(たゞよ)の行動(こうどう)が余程(よほど)の疑問(ぎもん)となつて居(を)るので研究(けんきう)の余地(よち)あるものと思(おも)ふが之(これ)に関連(くわんれん)して此処(こゝ)に申述(もうしの)べた       いと思(おも)ふのは白州(はくしう)厳龍和尚(げんりうおしよう)の事柄(ことがら)である 《割書:厳龍和尚と|大久保忠世》   厳龍和尚(げんりうおしよう)は前章(ぜんせう)に詳(くは)しく申述(もうしの)べてある彼(か)の龍拈寺(りうねんじ)の住僧(ぢうそう)で龍拈寺(りうねんじ)の開山(かいざん)休屋宗官(きうやそうくわん)和尚(おしよう)から云ふと四代 《割書:との関係 | 》  目の人であるが此(この)人(ひと)は所謂(いはゆる)名僧(めいそう)智識(ちしき)であつて後(のち)に法輝円明禅師(はうきゑんめいぜんし)と云ふ勅賜号(ちよくしごう)を下(くだ)された程(ほど)の人である        龍拈寺(りうねんじ)歴代(れきだい)三十六 世(せ)中(ちう)で勅賜号(ちよくしごう)の下(くだ)つたのは此(この)人(ひと)只(た)だ一人であるが此(この)人(ひと)が龍拈寺(りうねんじ)に住職(ぢうしよく)の頃(ころ)は即(すなは)ち忠(たゞ) 【欄外】    豊橋市史談  (松平信康の自刃並に厳龍和尚)                  百廿八

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (松平信康の自刃並びに厳龍和尚) 百二十八 【本文】 反逆の沙汰がある事など色々細かに記され岐阜へお越しになり、信長は驚き給い、すなわち浜松へお使いがあって酒井左衛門尉、大久保七郎右衛門を呼んで三郎殿へ内々酒井を初めとして皆々家老衆が数度意見したけれども用い給わず、その頃酒井とも大久保とも三郎殿は不仲でございました時分でしたので、信長はお怒りになり「このような悪人で家康の家をどうして相続するのか。後には必ず家の大事となるであろう」と怒り給う。両人の者共ここで申し分をなし、何様にも陳弁するならばこれほどの大事には及ばないのに、日頃三郎殿と仲が悪くて両人ながら呆れて「もっとも御意の通り悪逆人でございます。御前の御恨みもっともでございます」と申し、家康もお怒りになり「然る者は生害に及ぶべき」との事で、天正七年八月朔日信長へこの由を仰せ上げられた。信長も内々お怒りの事であるので「いかようにも存分次第」とご返事があって、八月五日家康は岡崎へお越しになり、三郎殿を大浜へ出し申され、岡崎へは本多作左衛門を移し給う。三郎殿は当座のご勘気と思い召されたが、家康は西尾の城におられた。しかし三郎殿は遠州堀江へ移し奉り、同九月十五日遠州二俣にて生害し奉る。御母築山殿も日頃のご悪逆があったとして同じく生害に及んだ。 これで見ると忠次が織田氏の使いをしたというわけではないようである。もっともこの時たまたま忠次は家康の用事で安土へ行ったのだが、それを信長が呼んで密かに十二ヶ条の手紙について尋ねたものであるという説もある。その他この事については未だ種々の穿った説も伝わっているが、一々ここにそれを申し述べる必要はなかろうと思う。しかしいずれの方面から観察しても結局この時忠世、忠次両人の取り計らい方如何によっては信康は死ななくてもよかったように見えるのである。また家康もこの時信康をして死にまで至らせたのは余儀なき事情とは言いながら、なんとなく残り多く思っていたように伝えられている。それについて二三の話を申し述べると、始め野中三五郎重政というものが言い付けられて関口氏を打ち取ったのであるが、これを家康に復命したところが、家康は「女のことであるから討ち取れと言い付けはしたものの、なんとか中に入った者で取り計らいようもあった 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百七十二号附録 (明治四十四年九月二十六日発行) 【本文】 であろうに、心幼なくも遂に討ち取ったか」と言われたので、重政は実に恐縮して以来蟄居したということがその家伝に見えているということである。また信康の傅平岩親吉が信康の罪を得た事を聞いて大いに驚き、早速家康に面して「信康に不行跡があったというならばその傅たる自分の責任であるから、どうか自分の頸を刎ねて信長に謝してください」と願ったところが、その時家康の言うには「信康が武田に加担して謀反をするなどということは信じないが、我は今乱世に当たり強敵の間に挟まって頼む処は独り信長であるのに、今その後援を失うこととなれば我が国は明日を出でずして滅ぶであろう。父子の恩愛の捨て難いために累代の家国を滅ぼすということは、子を愛することを知って祖先を思わざるものである。この点がなければ罪なき子を失って我独りつれなき生を貪るということは忍ばるる処でない。今汝の頸を刎ねたとて到底それで信康が助かるとは思わないから、今汝を殺すのは無益に一人の忠臣を死なせることである」と言って涙を流されたということである。 なおその外にもこの信康を最後に二俣に移して忠世に預けられたということは深き意味のあった事であるのに、忠世は終にその意を解さなかったのであるが、その後幸若舞を見られた時、満仲が家人の仲光に向かってその子美女丸を討てと命じたのに、仲光は反って我が子を殺してその身替りとしたという処に至って、家康は忠世を顧みて「よくよくこの舞を見よ」と言われたので、忠世は大いに恐懼したということも伝えられている。とにかくこの事については忠次と忠世の行動が余程の疑問となっているので研究の余地あるものと思うが、これに関連してここに申し述べたいと思うのは白州厳龍和尚の事柄である。 厳龍和尚は前章に詳しく申し述べてあるかの龍拈寺の住僧で、龍拈寺の開山休屋宗官和尚から言うと四代目の人であるが、この人は所謂名僧智識であって、後に法輝円明禅師という勅賜号を下された程の人である。龍拈寺歴代三十六世中で勅賜号の下ったのはこの人ただ一人であるが、この人が龍拈寺に住職の頃は即ち忠 【欄外】 豊橋市史談 (松平信康の自刃並びに厳龍和尚) 百二十八

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Suicide of Matsudaira Nobuyasu and the Monk Genryū) - 128 [Main Text] ...various details about plotting rebellion were recorded and sent to Gifu, and Nobunaga was surprised. He immediately sent a messenger to Hamamatsu to summon Sakai Saemon-no-jō and Ōkubo Shichirō-uemon, and regarding the Third Lord, secretly Sakai and all the family elders had given advice numerous times, but he would not heed it. At that time both Sakai and Ōkubo were on bad terms with the Third Lord, so Nobunaga became angry, saying "How can such an evil person inherit Ieyasu's house? In the future he will surely become a great threat to the family." The two retainers made their statements here, and if they had made any defense, it would not have come to such a grave matter, but having long been on bad terms with the Third Lord, both were exasperated and said "Indeed as you say, he is a treacherous person. Your resentment is entirely justified." Ieyasu too became angry and declared "Such a person should commit suicide," and on the first day of the eighth month of Tenshō 7 this was reported to Nobunaga. Nobunaga too had been secretly angry about this matter, so he replied "Do as you see fit." On the fifth day of the eighth month Ieyasu went to Okazaki, sent the Third Lord to Ōhama, and moved Honda Sakuzaemon to Okazaki. The Third Lord thought this was temporary displeasure, but Ieyasu was at Nishio Castle. However, the Third Lord was moved to Horie in Enshū, and on the fifteenth day of the ninth month of the same year he was made to commit suicide at Futamata in Enshū. His mother Lady Tsukiyama also committed suicide for her long-standing evil deeds. Looking at this, it does not appear that Tadatsugu served as a messenger for the Oda clan. Most likely at this time Tadatsugu happened to go to Azuchi on Ieyasu's business, but Nobunaga summoned him and secretly questioned him about the twelve-article letter, according to one theory. Various other speculative theories about this matter are still handed down, but I think there is no need to mention them all here. However, from any perspective, it appears that depending on how Tadayoshi and Tadatsugu had handled things at that time, Nobuyasu need not have died. Also, it is said that Ieyasu, though he had no choice but to let Nobuyasu die at that time, felt great regret about it. Regarding this, I will mention two or three stories. First, a man called Nonaka Sangorō Shigemasa was ordered to kill Lady Sekiguchi, and when he reported back to Ieyasu, Ieyasu said "Since it concerned a woman, though I ordered her killed, surely there was some way to handle it through an intermediary. [Left Page] [Header] San'yō Shimbun No. 3872 Supplement (Published September 26, Meiji 44) [Main Text] Yet you were so thoughtless as to actually kill her?" Shigemasa was truly mortified and thereafter went into seclusion, as recorded in his family traditions. Also, when Nobuyasu's tutor Hiraiwa Chikayoshi heard that Nobuyasu had been found guilty, he was greatly shocked and immediately met with Ieyasu, saying "If Nobuyasu committed misconduct, then as his tutor I am responsible, so please cut off my head and apologize to Nobunaga." At that time Ieyasu said: "I do not believe that Nobuyasu would side with Takeda in rebellion, but in this time of civil war, caught between powerful enemies, I depend solely on Nobunaga for support. If I now lose that backing, our domain would perish before tomorrow comes. To destroy the hereditary domain for the sake of father-son affection that cannot be abandoned shows one who knows how to love a child but does not think of ancestors. Without this consideration, to lose an innocent child and selfishly cling to a heartless life would be unbearable. Even if I cut off your head now, I do not think that would save Nobuyasu, so killing you now would be uselessly causing the death of one loyal retainer." He is said to have shed tears as he spoke. Furthermore, that Nobuyasu was finally moved to Futamata and entrusted to Tadayoshi had deep meaning, but Tadayoshi never understood that meaning. Later when watching a Kōwaka dance performance, at the part where Mitsunaka orders his retainer Nakamitsu to kill his son Mimemaru, but Nakamitsu instead kills his own son as a substitute, Ieyasu turned to Tadayoshi and said "Watch this dance very carefully," and Tadayoshi was greatly terrified, it is said. In any case, regarding this matter, the actions of Tadatsugu and Tadayoshi are quite questionable, so I think there is room for research. In connection with this, what I want to mention here is the matter of the monk Hakushū Genryū. The monk Genryū was a resident monk of that Ryūnenji Temple mentioned in detail in the previous chapter, and counting from the temple's founder Kyūya Sōkan, he was the fourth generation. This person was a so-called renowned monk and scholar, later receiving the imperial title Hōki Enmei Zenji. Among the thirty-six generations of Ryūnenji abbots, he was the only one to receive an imperial title. When this person was serving as head priest of Ryūnenji was precisely when Tada- [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Suicide of Matsudaira Nobuyasu and the Monk Genryū) - 128