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【欄外】
豊橋市史談 (松平信康の自刃並に厳龍和尚) 百廿九
【本文】
次(つぐ)が吉田城主(よしだじようしゆ)たるの時(とき)で忠次(たゞつぐ)も亦(ま)た此(この)厳龍和尚(げんりうおしよう)に帰依(きえ)して其(その)夫人(ふじん)からも母堂(ぼどう)の画像(くわぞう)などを此(この)寺(てら)に納(をさ)め
それが今(いま)も保存(ほぞん)してある事は前章(ぜんせう)既(すで)に申述(もうしの)べた如(ごと)くである而(しか)して大久保忠世(おほくたゞよ)は実(じつ)に此(この)人(ひと)に対(たい)する絶大(ぜつだい)
の帰依者(きえしや)で常(つね)に此(この)和尚(おしよう)を請(しよう)じて参禅(さんぜん)したと云ふ事は龍拈寺(りうねんじ)の記録(きろく)にも載(の)せられてある其(その)後(のち)忠世(たゞよ)が二 俣(また)
城(じよう)に移(う)つてからは久遠治寺(きうゑんじ)と云ふ寺(てら)を建(た)てゝ其処(そこ)に此(この)和尚(おしよう)を招(せう)じ又(ま)たズツト後(のち)に小田原(をだはら)に封(ほう)せられてか
らは其(その)近在(きんざい)の風祭村(ふうさいむら)と云ふ処(ところ)に万松院(ばんせうゐん)と云ふ寺(てら)を建(た)てゝ更(さら)に之(これ)へ此(この)人(ひと)を連(つ)れて行(い)つたものである此(この)両(れう)
寺(じ)は今(いま)も尚(な)ほ存在(ぞんざい)して相変(あひかは)らず龍拈寺(りうねんじ)の末寺(まつじ)になつて居(を)るのであるが此(この)万松院(ばんせうゐん)は即(すなは)ち厳龍和尚(げんりうおしよう)最終(さいしう)の
住所(ぢうしよ)であるから此(この)寺(てら)に当時(とうじ)の文書類(ぶんしよるい)が残(のこ)つて居(を)れば頗(すこぶ)る有益(いうえき)な事であると思(おも)ふが惜(おし)い事(こと)には忠世(たゞよ)の子(こ)
忠隣(たゞちか)の時(とき)大久保氏(おほくぼし)は一 時(じ)不首尾(ふしゆび)で寺(てら)も亦(ま)た荒廃(こうはい)に皈(き)せむとしたのであるから宝物(ほうもつ)等(とう)の殆(ほとん)ど全部(ぜんぶ)は湮(ゑん)
滅(めつ)したのであるが只(た)だ信康(のぶやす)が生前(せいぜん)に信仰(しんこう)した弥陀(みだ)三 尊(そん)の画像(くわぞう)が遺(のこ)つて居(を)る此(この)画像(くわぞう)は信康(のぶやす)死亡(しばう)の後(のち)忠世(たゞよ)
《割書:信康と厳龍|和尚》 から其(その)菩提(ぼだい)の為(ため)に納(をさ)めたものであるが此(この)寺(てら)頽廃(たいはい)の頃(ころ)は一 時(じ)龍拈寺(りうねんじ)に於(おい)て保存(ほぞん)して居(を)つたものである然(しか)
るに大久保家(おほくぼけ)が再(ふたゝ)び小田原(おだはら)へ封(ほう)せられて後(のち)正徳(せうとく)二年に当主(とうしゆ)忠増(たゞます)の時(とき)龍拈寺(りうねんじ)から伺済(うかゞひすみ)の上(うへ)で再(ふたゝ)び之(これ)を
万松院(ばんせうゐん)に返(かへ)したもので之(これ)には其(その)裏面(りめん)に信康(のぶやす)の自筆(じしつ)で「三尊弥陀現光不思儀在松平三郎矣」と書(か)いてあ
る筈(はづ)である併(しか)し私(わたくし)はまだ之(これ)を実見(じつけん)した事(こと)がないから何(なん)とも云へぬが正徳(せうとく)二年に龍拈寺(りうねんじ)から大久保家(おほくぼけ)へ
出(だ)した伺書(うかゞひしよ)の写(うつし)と云ふものは今(いま)尚(な)ほ龍拈寺(りうねんじ)に残(のこ)つて居(を)る又(ま)た寛政(かんせい)九年五月に龍拈寺(りうねんじ)の旧記(きうき)から此(この)
事(こと)に関(くわん)して抜萃(ばつすゐ)したものも残(のこ)つて居(を)るが之(これ)等(ら)の記事(きじ)によると厳龍和尚(げんりうおしよう)と云ふ人は独(ひと)り忠世(たゞよ)の皈依(きえ)した
のみではなくて信康(のぶやす)も亦(ま)た皈依(きえ)参禅(さんぜん)したものである而(しか)して前(まへ)に申述(もうしの)べた万松院(ばんせうゐん)は信康(のぶやす)菩提(ぼだい)の為(ため)に建立(こんりう)
したものであると云ふ事である又(ま)た龍拈寺(りうねんじ)には信康(のぶやす)忠世(たゞよ)の位牌(ゐはい)があつて今(いま)も尚(な)ほ祀(まつ)つてあるが孰(いづ)れも
当時(とうじ)の製作(せいさく)と覚(おぼ)しく決(けつ)して後世(こうせ)のものとは思(おも)はれぬ必(かなら)ず厳龍和尚(げんりうおしよう)との関係(くわんけい)から此処(こゝ)に安置(あんち)してあるも
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
のと思(おも)ふ兎(と)に角(かく)夫(それ)等(ら)の事に就(つい)て能(よ)く研究(けんきう)を重(かさ)ね而(しか)して一 方(はう)に三 河物語(かはものがたり)松平記(まつだひらき)などの説(せつ)と対照(たいせう)して見(み)る
と何(なん)となく信康(のぶやす)最後(さいご)の事情(じぜう)に関(くわん)して多少(たせう)の消息(せうそく)が得(え)らるゝような心持(こゝろもち)がするがまだ私(わたくし)もそれまで深(ふか)き
調査(てうさ)をする暇(いとま)がないので茲(こゝ)には只(た)だ不(ふ)十 分(ぶん)ながら大体(だいたい)を申述(もうしの)べて諸君(しよくん)の御参考(ごさんこう)に供(けう)するに止(とゞ)めて置(お)く
のである尚(な)ほ申添(もうしそへ)て置(お)きたいのは信康(のぶやす)自刃(じじん)の年(とし)で之(これ)は三 河物語(かはものがたり)には天正六年の事としてあるが松平記(まつだひらき)
初(はじ)め種々(しゆ〳〵)の記録(きろく)には仝七年であると記(しる)してあるのみならず家忠日記(いへたゞにつき)によれば確(たしか)に其(その)事(こと)が信(しん)ぜられる即(すなは)
ち信康(のぶやす)は二十一 歳(さい)であつた訳(わけ)である而(しか)して自刃(じじん)の日(ひ)は九月十五日で異説(ゐせつ)はない様(よう)に思(おも)ふ又(ま)た厳龍和尚(げんりうおしよう)
は慶長(けいてう)七年二月に寂(じやく)したが其(その)画像(ぐわぞう)は元和六年の賛(さん)のあるものが今(いま)龍拈寺(りうねんじ)に保存(ほぞん)されて居(を)つて頗(すこぶ)る資料(しれう)
となるべきものである
⦿本能寺の変及び山崎役の大要
サテ前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)くで信長(のぶなが)は武田氏(たけだし)を亡(ほろ)ぼして天正十年の四月 皈城(きじよう)したが其(その)後(のち)徳川家康(とくがはいへやす)は武田氏(たけだし)
《割書:家康安土に|至る》 の降将(こうせう)穴山信君(あなやまのぶきみ)を伴(ともな)つて安土(あづち)に至(いた)り謝意(しやい)を表(ひよう)したのである勿論(もちろん)其(その)頃(ころ)の信長(のぶなが)の勢(いきおひ)と云ふものは容易(ようい)なら
信長の勢力 ぬものて家康(いへやす)に於(おい)ても殆(ほとん)ど之(これ)を主家(しゆけ)同様(どうよう)に崇(あが)めたのであるが当時(とうじ)松平家忠(まつだひらいへたゞ)の手記(しゆき)した家忠日記(いへたゞにつき)にも家(いへ)
康(やす)の事をば却(かへつ)て明(あきらか)に家康(いへやす)と記(しる)してあるのに信長(のぶなが)に対(たい)しては上様(うへさま)又(また)は信長様(のぶながさま)と敬称(けいせう)が加(くは)へてある又(ま)た
家康(いへやす)の一 行(こう)が安土(あづち)に到着(とうちやく)したのは其(その)年(とし)の五月十五日であつたが酒井忠次(さかゐたゞつぐ)は無論(むろん)随行(ずいこう)したのである此(この)時(とき)
信長(のぶなが)は其(その)臣下(しんか)に接待役(せつたいやく)を命(めい)じて盛(さかん)に之(これ)に饗応(けうおう)したが家康(いへやす)の膳(ぜん)は手(て)づから之(これ)を据(す)へ忠次(たゞつぐ)等(ら)将士(せうし)にも自(みづか)ら
肴(さかな)を取(と)つて授(さづ)けたとの事で此(この)事(こと)に就(つい)ては随行(ずいこう)の鵜殿善(うどのぜん)六から態々(わざ〳〵)飛脚(ひきやく)で折紙(をりがみ)を寄越(よこ)した中(なか)に書(か)いてあ
つたと云ふ事が家忠日記(いへたゞにつき)五月廿日の条(くだり)に記(しる)してある即(すなは)ち当時(とうじ)に於(お)ける徳川氏(とくがはし)が信長(のぶなが)に対(たい)する観念(くわんねん)幷(ならび)
【欄外】
豊橋市史談 (本能寺の変及び山崎役の大要) 百三十
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談 (松平信康の自刃並びに厳龍和尚) 百二十九
【本文】
次が吉田城主である時で、忠次もまたこの厳龍和尚に帰依して、その夫人からも母堂の画像などをこの寺に納め、それが今も保存してあることは前章ですでに申し述べた通りである。そして大久保忠世は実にこの人に対する絶大な帰依者で、常にこの和尚を請じて参禅したということは龍拈寺の記録にも載せられてある。その後忠世が二俣城に移ってからは久遠寺という寺を建ててそこにこの和尚を招き、またずっと後に小田原に封ぜられてからはその近在の風祭村というところに万松院という寺を建てて更にこれへこの人を連れて行ったものである。この両寺は今もなお存在して相変わらず龍拈寺の末寺になっているのであるが、この万松院は即ち厳龍和尚最終の住所であるから、この寺に当時の文書類が残っていれば頗る有益なことであると思うが、惜しいことには忠世の子忠隣の時、大久保氏は一時不首尾で寺もまた荒廃に帰そうとしたのであるから、宝物等のほとんど全部は湮滅したのであるが、ただ信康が生前に信仰した弥陀三尊の画像が残っている。この画像は信康死亡の後忠世からその菩提のために納めたものであるが、この寺頽廃の頃は一時龍拈寺において保存していたものである。然るに大久保家が再び小田原へ封ぜられて後、正徳二年に当主忠増の時、龍拈寺から伺い済みの上で再びこれを万松院に返したもので、これにはその裏面に信康の自筆で「三尊弥陀現光不思議在松平三郎矣」と書いてある筈である。しかし私はまだこれを実見したことがないから何とも言えぬが、正徳二年に龍拈寺から大久保家へ出した伺書の写しというものは今なお龍拈寺に残っている。また寛政九年五月に龍拈寺の旧記からこの事に関して抜粋したものも残っているが、これ等の記事によると厳龍和尚という人は独り忠世の帰依したのみではなくて、信康もまた帰依参禅したものである。そして前に申し述べた万松院は信康菩提のために建立したものであるということである。また龍拈寺には信康、忠世の位牌があって今もなお祀ってあるが、いずれも当時の製作と覚しく決して後世のものとは思われぬ。必ず厳龍和尚との関係からここに安置してあるも
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際
【左頁】
【欄外】
この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
のと思う。とにかくそれ等の事について良く研究を重ね、そして一方に三河物語、松平記などの説と対照して見ると、何となく信康最後の事情に関して多少の消息が得られるような心持がするが、まだ私もそれまで深き調査をする暇がないので、ここにはただ不十分ながら大体を申し述べて諸君のご参考に供するに止めて置くのである。
なお申し添えて置きたいのは信康自刃の年で、これは三河物語には天正六年の事としてあるが、松平記を初め種々の記録には同七年であると記してあるのみならず、家忠日記によれば確かにその事が信ぜられる。即ち信康は二十一歳であった訳である。そして自刃の日は九月十五日で異説はないように思う。また厳龍和尚は慶長七年二月に寂したが、その画像は元和六年の賛のあるものが今龍拈寺に保存されていて頗る資料となるべきものである。
○本能寺の変及び山崎役の大要
さて前章に申し述べた如くで、信長は武田氏を滅ぼして天正十年の四月帰城したが、その後徳川家康は武田氏の降将穴山信君を伴って安土に至り謝意を表したのである。勿論その頃の信長の勢いというものは容易ならぬもので、家康においてもほとんどこれを主家同様に崇めたのであるが、当時松平家忠の手記した家忠日記にも家康の事をば却って明らかに家康と記してあるのに、信長に対しては上様又は信長様と敬称が加えてある。また家康の一行が安土に到着したのはその年の五月十五日であったが、酒井忠次は無論随行したのである。この時信長はその臣下に接待役を命じて盛んにこれに饗応したが、家康の膳は手づからこれを据え、忠次等将士にも自ら肴を取って授けたとの事で、この事については随行の鵜殿善六からわざわざ飛脚で折紙を寄越した中に書いてあったということが家忠日記五月二十日の条に記してある。即ち当時における徳川氏が信長に対する観念並び
【欄外】
豊橋市史談 (本能寺の変及び山崎役の大要) 百三十
英語訳
[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Suicide of Matsudaira Nobuyasu and the Monk Genryū) - 129
[Main Text]
...tsugu was lord of Yoshida Castle, and Tadatsugu also took refuge in this monk Genryū, and his wife also dedicated portraits of her mother to this temple, which are still preserved today as I mentioned in detail in the previous chapter. Ōkubo Tadayoshi was truly a great devotee of this person, constantly inviting this monk for Zen meditation, which is also recorded in the Ryūnenji temple records. After Tadayoshi moved to Futamata Castle, he built a temple called Kuonji and invited this monk there, and much later when he was enfeoffed at Odawara, he built a temple called Banshōin in a place called Fuusai Village in the vicinity and took this person there as well. These two temples still exist today and continue as branch temples of Ryūnenji, but since this Banshōin was the final residence of the monk Genryū, if documents from that time remained in this temple it would be extremely valuable, but unfortunately during the time of Tadayoshi's son Tadachika, the Ōkubo clan temporarily fell into disfavor and the temple also nearly fell into ruin, so almost all the treasures were lost. However, there remains a painting of Amida Sanzon that Nobuyasu had faith in during his lifetime. This painting was dedicated by Tadayoshi after Nobuyasu's death for his spiritual benefit, but during the temple's decline it was temporarily preserved at Ryūnenji. Later when the Ōkubo family was again enfeoffed at Odawara, in the second year of Shōtoku during the time of the family head Tadamasu, with permission from Ryūnenji this was returned to Banshōin, and on its reverse side should be written in Nobuyasu's own hand "Sanzon Mida genkō fushigi zai Matsudaira Saburō ya" [The miraculous light of the Three Buddhas of Amida resides in Matsudaira Saburō]. However, since I have not yet actually seen this, I cannot say for certain, but a copy of the inquiry document sent from Ryūnenji to the Ōkubo family in the second year of Shōtoku still remains at Ryūnenji. Also, extracts from Ryūnenji's old records regarding this matter from the fifth month of Kansei 9 also remain, and according to these records, the monk Genryū was not only a refuge for Tadayoshi alone, but Nobuyasu also took refuge and practiced Zen meditation with him. The aforementioned Banshōin was built for Nobuyasu's spiritual benefit. Also at Ryūnenji there are memorial tablets for Nobuyasu and Tadayoshi which are still enshrined there, and both appear to be made at that time and certainly do not seem to be from later periods. They were surely placed here due to their relationship with the monk Genryū.
[Header note] Mayor of Toyohashi Ōguchi Kiroku has devoted his vast knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as the manuscript is nearly complete...
[Left Page]
[Header] This Toyohashi City Historical Discussion is published once a week (Tuesdays) and presented to readers of the San'yō Shimbun
[Main Text]
I believe. In any case, by conducting thorough research on these matters and comparing them with accounts in works like the Mikawa Monogatari and Matsudaira-ki, I get the feeling that some information about the circumstances of Nobuyasu's final days might be obtained, but since I have not yet had time to conduct such deep investigation, I will limit myself here to providing an incomplete but general account for your reference.
I would like to add that regarding the year of Nobuyasu's suicide, the Mikawa Monogatari records it as occurring in Tenshō 6, but the Matsudaira-ki and various other records state it was Tenshō 7, and this can be confirmed by the Ietada Nikki. That is, Nobuyasu was twenty-one years old. The day of suicide was September 15th, and there seems to be no conflicting account. The monk Genryū died in the second month of Keichō 7, and a portrait of him with an inscription from Genna 6 is now preserved at Ryūnenji and serves as valuable historical material.
○ Overview of the Honnōji Incident and the Battle of Yamazaki
Now, as I mentioned in the previous chapter, Nobunaga destroyed the Takeda clan and returned to his castle in the fourth month of Tenshō 10. Afterwards, Tokugawa Ieyasu, accompanied by the former Takeda general Anayama Nobukimi who had surrendered, went to Azuchi to express his gratitude. Of course, Nobunaga's power at that time was extraordinary, and even Ieyasu revered him almost like a lord. In the Ietada Nikki written by Matsudaira Ietada at that time, while Ieyasu's name is clearly written as "Ieyasu," Nobunaga is referred to with honorifics as "Ue-sama" or "Nobunaga-sama." Ieyasu's party arrived at Azuchi on the fifteenth day of the fifth month of that year, and Sakai Tadatsugu naturally accompanied them. At this time Nobunaga ordered his retainers to serve as hosts and lavishly entertained them, personally serving Ieyasu's meal and taking food with his own hands to give to Tadatsugu and other officers. This is recorded in the entry for the twentieth day of the fifth month in the Ietada Nikki, as written in a letter sent by courier from the accompanying Udono Zen'roku. This shows the attitude that the Tokugawa clan had toward Nobunaga at that time, and...
[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Overview of the Honnōji Incident and the Battle of Yamazaki) - 130