Code4Lib JAPAN ✕ みんなで翻刻

コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 80

ページ: 80

翻刻

【欄外】    豊橋市史談  (本能寺の変及び山崎役の大要)                  百卅一 【本文】 《割書:家康の堺遊|覧》  に信長(のぶなが)自身(じしん)の性行(せいこう)等(とう)が見(み)ゆるようで面白(おもしろ)いと思(おも)ふが夫(それ)より家康(いへやす)一 行(こう)は京都(けうと)に出(い)で堺湊(さかひみなと)の繁栄(はんえい)を遊覧(ゆうらん) 信長の西征 すると云ふ事になつて先(ま)づ信忠(のぶたゞ)と共(とも)に京都(けうと)に出(い)で信忠(のぶたゞ)は妙覚寺(みようかくじ)に陣(ぢん)したが家康(いへやす)等(ら)は更(さら)に堺(さかひ)に下(くだ)つたの       である然(しか)るに当時(とうじ)信長(のぶなが)に於(おい)ては西(にし)毛利氏(もうりし)を攻撃中(こうげきちう)で之(これ)には羽柴秀吉(はしばひでよし)が大将(たいせう)として出征(しゆつせい)てし居(を)つたが恰(あたか)       も備中(びつちう)の高松城(たかまつじよう)水責(みづぜめ)の最中(さいちう)であつたソコで信長(のぶなが)は之(これ)を応援(おうゑん)する為(ため)に五月の廿九日に入京(にふけう)して六 角油小路(かくあぶらこ) 本能寺の変  路(ぢ)の本能寺(ほんのうじ)に舘(くわん)し諸国(しよこく)から将士(せうし)の集(あつま)るのを待(ま)つて居(を)つたのであるが其(その)六月二日の黎明(れいめい)に諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)       の如(ごと)く其(その)臣(しん)明智光秀(あけちみつひで)の叛逆(はんぎやく)に遭(あ)ひ手兵(しゆへい)僅(わづか)に二三十人で如何(いかん)ともすることが出来(でき)ず遂(つひ)に自殺(じさつ)し信忠(のぶたゞ)も亦(ま)た        之(これ)に殉(じゆん)じたのであつたが実(じつ)に意外(いぐわい)の一 大変事(だいへんじ)と云ふべきで信長(のぶなが)は時(とき)に年(とし)四十九 信忠(のぶたゞ)は二十六歳(一に       二十八に作る)であつたのである元来(がんらい)此(この)光秀(みつひで)と云う人は次第(しだい)に信長(のぶなが)の任用(にんよう)を蒙(かうむ)つて遂(つひ)に丹波(たんば)及(およ)び近江(あふみ)        滋賀郡(しがごほり)の領主(れうしゆ)となつて最(もつと)も恩恵(おんけい)を受(う)けて居(を)る訳(わけ)であるがドウモ性行(せいこう)が信長(のぶなが)と相合(あひあ)はぬ処(ところ)から屡々(しば〳〵)信長(のぶなが)       の為(ため)に侮辱(ぶじよく)を受(う)けて怨憤(えんふん)を積(つ)み殊(こと)に家康(いへやす)等(とう)の来土(らいど)に就(つい)ては初(はじ)めに接待役(せつたいやく)を云ひ付(つ)かつたから熱心(ねつしん)に其(その)        準備(じゆんび)をした処が突然(とつぜん)中国行(ちうごくゆき)の先鋒(せんぽう)を命(めい)ぜられて急(きう)に出帥(しゆつすゐ)準備(じんゆび)の為(ため)に国(くに)に就(つ)かねばならぬ事に至(いた)つたの       で益々(ます〳〵)其(その)叛意(はんい)を決(けつ)せしめた形(かたち)がある兎(と)に角(かく)一万の大軍(たいぐん)を以(もつ)て全(まつた)く備(そなへ)のなき信長(のぶなが)を襲(おそは)つたのであるから        光秀(みつひで)は容易(ようい)に目的(もくてき)を達(たつ)した訳(わけ)であつたが夫(それ)より近畿(きんき)の諸将(しよせう)へ使(つかひ)を発(はつ)して応諾(おうたく)を需(もと)めた処(ところ)かドウモ思(おも)ふ       ように行(ゆ)かぬ夫(それ)のみならず信長(のぶなが)の第二子 信雄(のぶを)は伊勢(いせ)の松(まつ)ヶ島城(しまじよう)にあり其(その)弟(おとゝ)信孝(のぶたか)は恰(あたか)も四 国征伐(こくせいばつ)の途(と)に        上(のぼ)らむとして大坂(おほさか)にあり孰(いづ)れも凶変(けうへん)を聴(き)いて立(たゝ)むとし其(その)他(た)光秀(みつひで)と共(とも)に中国軍(ちうごくぐん)の先鋒(せんはう)として出発(しゆつぱつ)せんと       して居(を)つた丹後(たんご)宮津(みやず)の城主(じようしゆ)細川藤孝(ほそかはふぢたか)幷(ならび)に其(その)子(こ)忠興(たゞおき)は姻戚(ゐんせき)の関係(くわんけい)があるにも拘(かゝは)らず絶縁(ぜつゑん)を示(しめ)したと云       ふような訳(わけ)であるから光秀(みつひで)は益々(ます〳〵)急(きう)に其(その)根拠(こんきよ)を堅(かた)くすることに勉(つと)めたので五日 安土(あづち)に到(いた)つて其(その)城(しろ)を収(おさ)め        又(ま)た長浜(ながはま)、 佐和山(さわやま)の二 城(じよう)をも取(と)つたのである然(しか)るに羽柴秀吉(はしばひでよし)は三日の夜(よ)其(その)出征地(しゆつせいち)に於(おい)て此(この)変報(へんはう)を得(え)た 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百七十八号附録   ( 明治四十四年十月三日発行 ) 【本文】       が急(きう)に復讐(ふくしう)の師(し)を起(おこ)さむことを計(はか)つて翌日(よくじつ)直(たゞ)ちに毛利方(もうりがた)との媾和(こうわ)を成立(せいりつ)せしめ五日より兵(へい)を班(はん)して六日       には其(その)居城(きよじよう)姫路(ひめぢ)に帰(かへ)り夫(それ)より池田信輝(いけだのぶてる)、 中川清秀(なかがはきよひで)、 高山長房(たかやまながふさ)、 神戸信孝(かんべのぶたか)《割書:織|田》丹羽長秀(にはながひで)、 蜂屋頼隆(はちやよりたか)六 氏(し) 山崎役   の軍(ぐん)を合(あは)して光秀(みつひで)と十三日に山崎(やまざき)に於(おい)て決戦(けつせん)したのであるが此(この)時(とき)秀吉(ひでよし)の年(とし)は四十六 歳(さい)光秀(みつひで)は五十五        歳(さい)であつた勿論(もちろん)諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く此(この)戦(たゝかひ)は光秀(みつひで)の敗北(はいぼく)となつて光秀(みつひで)は其(その)夜(よ)深更(しんこう)従者(じんしや)僅(わづか)に数人(すうにん)と共(とも)に        遁(のが)れて近江(あふみ)の坂本城(さかもとじよう)に入(い)らむとしたが途中(とちう)小栗栖(をぐりす)附近(ふきん)に於(おい)て土寇(どこう)の為(ため)に要撃(えうげき)せられて刺(さ)し殺(ころ)されて仕(し) 光秀殺さる  舞(ま)つたのである而(しか)も其(その)翌日(よくじつ)及(およ)び翌々日(よく〳〵じつ)二日 間(かん)に其(その)一 類(るい)も亦(ま)た殆(ほとん)ど打(う)ち平(たひら)げられたので誠(まこと)に脆(もろ)い訳(わけ)であ       つたのであるがサテ話(はなし)は少(すこ)し前(まへ)に戻(もど)つて六月二日 本能寺(ほんのうじ)の事変(じへん)に方(あた)つて家康(いへやす)は前(まへ)に申述(もうしのべ)た通(とほ)り丁度(ちようど)堺(さかひ)        湊(みなと)にあつたのである此(このひ)再(ふたゝ)び入京(にふきよう)せむとした処(ところ)此(この)凶報(けうほう)に接(せつ)したのであるが従者(じうしや)は勿論(もちろん)少数(せうすう)であるので 家康の帰国  殆(ほとん)ど進退(しんたい)に苦(くるし)むだ様子(ようす)が見(み)ゆる併(しか)し幸(さいはひ)に伊賀(いが)を経(へ)間道(かんどう)を抜(ぬ)け通(とほ)してヨウ〳〵四日に《割書:家忠日記|による》伊勢(いせ)の        白子(しらこ)に着(ちやく)し夫(それ)から船(ふね)にて三 河(かは)の大浜(おほはま)へ着(ちやく)することを得(え)たのであるが道中(どうちう)は頗(すこぶ)る困難(こんなん)したので種々(しゆ〳〵)な話(はなし)が       あるが穴山信君(あなやまのぶきみ)は途中(とちう)から家康(いへやす)に別(わか)れた為(ため)に遂(つひ)に伊賀(いが)に於(おい)て土寇(どこう)の為(ため)に殺(ころ)されたと云ふような事もあ       るソコで家康(いへやす)は皈国(きこく)早々(さう〳〵)兵(へい)を募(つの)つて再(ふたゝ)び西上(せいぜう)を企(くわだ)て酒井忠次(さかゐたゞつぐ)等(ら)は矢張(やはり)先鋒(せんぽう)となつて十七日には尾張(をはり)の        津島(つしま)に陣(ぢん)したが十九日に秀吉(ひでよし)から光秀(みつひで)等(ら)平定(へいてい)の報知(ほうち)があつたので遂(つひ)に軍(ぐん)を班(はん)したのである以上(いぜう)は余(あま)り        本市史(ほんしし)に直接(ちよくせつ)の関係(くわんけい)はないようであるが兎(と)に角(かく)天下(てんか)の一 大事変(だいじへん)で時代(じだい)を区割(くぐわく)する出来事(できごと)であるのみな       らず酒井忠次(さかゐたゞつぐ)の履歴(りれき)の上(うへ)にも関連(くわんけい)することであるから大要(たいえう)の筋道(すぢみち)だけを申述(もうしの)べた次第(しだい)であるが尚(なほ)之(これ)に続(つゞい)       て小牧役(こまきえき)の原因(げんゐん)結果(けつくわ)に就(つい)て少(すこ)しく申述(もうしの)べて置(お)く必要(ひつえう)があると思(おも)ふ              ⦿本能寺事変後の織田氏 【欄外】    豊橋市史談  (本能寺事変後の織田氏)                  百卅三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (本能寺の変及び山崎役の大要) 百三十一 【本文】 信長自身の性行等が見えるようで面白いと思うが、それより家康一行は京都に出て堺湊の繁栄を遊覧するということになって、まず信忠と共に京都に出て、信忠は妙覚寺に陣を敷いたが、家康等はさらに堺に下ったのである。 ところが当時信長においては西の毛利氏を攻撃中で、これには羽柴秀吉が大将として出征していたが、ちょうど備中の高松城水攻めの最中であった。そこで信長はこれを応援するために五月の二十九日に入京して六角油小路の本能寺に館し、諸国から将士の集まるのを待っていたのであるが、その六月二日の黎明に諸君もご承知の如く、その臣明智光秀の叛逆に遭い、手兵僅かに二三十人でいかんともすることができず、ついに自殺し、信忠もまたこれに殉じたのであったが、実に意外の一大変事というべきで、信長は時に年四十九、信忠は二十六歳(一説では二十八に作る)であったのである。 元来この光秀という人は次第に信長の任用を蒙ってついに丹波及び近江滋賀郡の領主となって最も恩恵を受けている訳であるが、どうも性行が信長と相合わぬ処からしばしば信長のために侮辱を受けて怨憤を積み、殊に家康等の来訪については初めに接待役を言い付けられたから熱心にその準備をしたところが、突然中国行きの先鋒を命ぜられて急に出師準備のために国に就かねばならぬ事に至ったので、益々その叛意を決せしめた形がある。とにかく一万の大軍をもって全く備えのなき信長を襲ったのであるから、光秀は容易に目的を達した訳であったが、それより近畿の諸将へ使者を発して応諾を求めたところが、どうも思うようにいかぬ。それのみならず信長の第二子信雄は伊勢の松ヶ島城にあり、その弟信孝はちょうど四国征伐の途に上らんとして大坂にあり、いずれも凶変を聞いて立たんとし、その他光秀と共に中国軍の先鋒として出発せんとしていた丹後宮津の城主細川藤孝並びにその子忠興は姻戚の関係があるにもかかわらず絶縁を示したというような訳であるから、光秀は益々急にその根拠を堅くすることに努めたので、五日安土に到ってその城を収め、また長浜、佐和山の二城をも取ったのである。 ところが羽柴秀吉は三日の夜、その出征地においてこの変報を得た 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百七十八号附録 (明治四十四年十月三日発行) 【本文】 が、急に復讐の師を起こさんことを計って翌日直ちに毛利方との講和を成立せしめ、五日より兵を返して六日にはその居城姫路に帰り、それより池田信輝、中川清秀、高山長房、神戸信孝(織田)、丹羽長秀、蜂屋頼隆六氏の軍を合わせて光秀と十三日に山崎において決戦したのであるが、この時秀吉の年は四十六歳、光秀は五十五歳であった。 勿論諸君もご承知の如く、この戦いは光秀の敗北となって、光秀はその夜深更、従者僅かに数人と共に逃れて近江の坂本城に入らんとしたが、途中小栗栖附近において土賊のために要撃せられて刺し殺されて仕舞ったのである。しかもその翌日及び翌々日二日間にその一類もまたほとんど打ち平げられたので、誠に脆い訳であったのである。 さて話は少し前に戻って六月二日本能寺の事変に当たって、家康は前に申し述べた通りちょうど堺湊にあったのである。この日再び入京せんとしたところ、この凶報に接したのであるが、従者は勿論少数であるのでほとんど進退に苦しむ様子が見える。しかし幸いに伊賀を経て間道を抜け通してようやく四日に(家忠日記による)伊勢の白子に着し、それから船にて三河の大浜へ着することを得たのであるが、道中は頗る困難したので種々な話があるが、穴山信君は途中から家康に別れたために、ついに伊賀において土賊のために殺されたというような事もある。 そこで家康は帰国早々兵を募って再び西上を企て、酒井忠次等はやはり先鋒となって十七日には尾張の津島に陣したが、十九日に秀吉から光秀等平定の報知があったので、ついに軍を返したのである。 以上は余り本市史に直接の関係はないようであるが、とにかく天下の一大事変で時代を区画する出来事であるのみならず、酒井忠次の履歴の上にも関連することであるから、大要の筋道だけを申し述べた次第であるが、なおこれに続いて小牧役の原因結果について少しく申し述べて置く必要があると思う。 ○本能寺事変後の織田氏 【欄外】 豊橋市史談 (本能寺事変後の織田氏) 百三十二

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Overview of the Honnōji Incident and the Battle of Yamazaki) - 131 [Main Text] I find it interesting that we can see aspects of Nobunaga's own character and behavior, but moving on from that, Ieyasu's party went to Kyoto to tour the prosperity of Sakai port. First they went to Kyoto together with Nobutada, and while Nobutada set up camp at Myōkaku-ji temple, Ieyasu and his group went further down to Sakai. At that time, Nobunaga was attacking the Mōri clan in the west, with Hashiba Hideyoshi serving as general of the expedition, and it was right in the middle of the water siege of Takamatsu Castle in Bitchū. So Nobunaga entered Kyoto on the 29th day of the fifth month to support this campaign, took up residence at Honnō-ji temple on Rokkaku Aburakoji Street, and was waiting for warriors to gather from various provinces. But at dawn on the second day of the sixth month, as you all know, he encountered the rebellion of his retainer Akechi Mitsuhide, and with only twenty or thirty soldiers at hand, he could do nothing and finally committed suicide, with Nobutada also following him in death. This was truly an unexpected great calamity - Nobunaga was forty-nine years old at the time, and Nobutada was twenty-six (some accounts make it twenty-eight). Originally this Mitsuhide had gradually gained Nobunaga's trust and eventually became lord of Tanba and Shiga district in Ōmi, receiving the greatest favor, but his character apparently did not match well with Nobunaga's, so he frequently received insults from Nobunaga and accumulated resentment. Particularly regarding Ieyasu's visit, he was initially appointed as host and enthusiastically prepared for it, but then was suddenly ordered to serve as vanguard for the China campaign and had to hurry to his domain to prepare for departure, which seems to have further solidified his rebellious intentions. In any case, since he attacked the completely unprepared Nobunaga with a large army of ten thousand, Mitsuhide easily achieved his objective. But when he sent messengers to various generals in the Kinki region seeking their support, things did not go as he hoped. Moreover, Nobunaga's second son Nobuo was at Matsugashima Castle in Ise, his younger brother Nobutaka was in Osaka about to embark on the Shikoku campaign, and both were preparing to rise upon hearing of the calamity. Furthermore, Hosokawa Fujitaka, lord of Miyazu Castle in Tango, and his son Tadaoki, who were supposed to depart as vanguards of the China army together with Mitsuhide and had family ties with him, nevertheless showed their intention to break relations. For these reasons, Mitsuhide worked all the more urgently to strengthen his position, arriving at Azuchi on the 5th and taking that castle, and also capturing the two castles of Nagahama and Sawayama. Meanwhile, Hashiba Hideyoshi received this shocking news on the night of the 3rd at his campaign site. [Left Page] [Header] San'yō Shimbun No. 3878 Supplement (Published October 3, Meiji 44 [1911]) [Main Text] He quickly planned to raise an army of revenge, immediately establishing peace with the Mōri side the next day, withdrawing his troops from the 5th, returning to his home castle of Himeji on the 6th, then combining the armies of six men - Ikeda Nobuteru, Nakagawa Kiyohide, Takayama Nagafusa, Kanbe Nobutaka (Oda), Niwa Nagahide, and Hachiya Yoritaka - to fight a decisive battle with Mitsuhide at Yamazaki on the 13th. At this time Hideyoshi was forty-six years old and Mitsuhide was fifty-five. Of course, as you all know, this battle resulted in Mitsuhide's defeat. That night in the late hours, Mitsuhide fled with only a few followers, trying to reach Sakamoto Castle in Ōmi, but on the way near Ogurisu he was ambushed and stabbed to death by bandits. Moreover, over the following two days his entire clan was almost completely destroyed, making it truly a fragile end. Now, going back a bit to the Honnō-ji incident of June 2nd, Ieyasu was at Sakai port as I mentioned earlier. On this day he was planning to return to Kyoto when he received this terrible news, but since his followers were of course few in number, he appeared to be in great difficulty about what to do. However, fortunately he was able to pass through Iga by mountain paths and finally arrived at Shirako in Ise on the 4th (according to the Ietada Nikki), from where he was able to reach Ōhama in Mikawa by ship. The journey was extremely difficult and there are various stories about it, but Anayama Nobukimi, who had separated from Ieyasu along the way, was eventually killed by bandits in Iga. So immediately upon returning home, Ieyasu recruited soldiers and planned to march west again. Sakai Tadatsugu and others again served as the vanguard and set up camp at Tsushima in Owari on the 17th, but on the 19th they received news from Hideyoshi of the pacification of Mitsuhide and his forces, so they finally withdrew their army. The above may not seem directly related to our city's history, but it was certainly a great incident that marked an epoch in national affairs, and it also relates to Sakai Tadatsugu's career, so I have outlined the main course of events. I believe it is necessary to continue with a brief account of the causes and results of the Battle of Komaki. ○ The Oda Clan After the Honnō-ji Incident [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Oda Clan After the Honnō-ji Incident) - 132