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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 81

ページ: 81

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【欄外】    豊橋市史談  (本能寺事変後の織田氏)                  百卅四 【本文】       豊橋市史(とよはししゝ)には直接(ちよくせつ)関係(くわんけい)を持(も)たぬようであるが話(はなし)の連絡上(れんらくぜう)から此処(こゝ)に信長(のぶなが)が弑逆(しいぎやく)に遇(あ)つてから後(のち)の織(を)        田氏(たし)に就(つい)て少(すこ)しく申述(もうしの)べて置(お)く必要(ひつえう)があると思(おも)ふ       サテ前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)くで光秀(みつひで)の一 族(ぞく)は僅(わづか)の間(あひだ)に打(う)ち平(たひら)げられたのであるが秀吉(ひでよし)信孝(のぶたか)等(ら)は光秀(みつひで)を亡(ほろ)ぼ       して後(のち)共(とも)に安土(あづち)に入(い)つて当時(とうじ)恰(あたか)も伊勢(いせ)から来(きた)つた織田信雄(をたのぶを)とも会合(くわいごう)しそれから美濃(みの)尾張(をはり)に入(い)つて織田(をた)        氏(し)の旧国(きうこく)を平定(へいてい)したが更(さら)に清須(きよす)に至(いた)つて信忠(のぶたゞ)の嫡子(ちやくし)三 法師(ほうし)に謁(えつ)したのである三 法師(ほうし)は即(すなは)ち信長(のぶなが)から云       ふと嫡孫(ちやくそん)であるが信忠(のぶたゞ)打死(うちじに)の時(とき)二 条城(でうじよう)に於(おい)て之(これ)を前田玄以(まへだげんい)に托(たく)し玄以(げんい)は其(その)遺命(ゐめい)を奉(ほう)じて岐阜(ぎふ)に至(いた)りそ 清須会議  れより此(この)清須(きよす)の城(しろ)に入(い)つたのである然(しか)るに秀吉(ひでよし)等(ら)が此処(こゝ)に到着(とうちやく)すると殆(ほとん)ど同時(どうじ)に柴田勝家(しばたかついへ)等(ら)は越中(えつちう)か       ら又(ま)た瀧川一益(たきがはかずます)等(ら)は上野(うへの)から、 森長可(もりながよし)等(ら)は信濃(しなの)からと云ふ訳(わけ)で遠征(ゑんせい)の諸宿将(しよしゆくせう)は続々(ぞく〳〵)本能寺(ほんのうじ)の変報(へんはう)を聞(き)       いて此処(こゝ)に集(あつ)まつて来(き)たのであるソコで先(ま)づ起(おこ)つたのが織田氏(をだし)の継嗣(けいし)問題(もんだい)であつたが信雄(のぶを)信孝(のぶたか)は共(とも)に 信雄と信孝  信長(のぶなが)の子(こ)で恰(あたか)も両人(れうにん)の生年月(せいねんげつ)は仝(おな)じであるが信孝(のぶたか)の方(ほう)が二十 余日(よにち)先(さ)きに生(うま)れたにも拘(かゝは)らず其(その)生母(せいぼ)が卑(ひ)        賎(せん)であつたのと生誕(せいたん)の報知(ほうち)が後(あと)になつた為(ため)に信雄(のぶを)の方(ほう)が兄(あに)となつて居(を)るのである其(その)上(うへ)今度(このたび)光秀(みつひで)征討(せいとう)に        就(つい)ては信孝(のぶたか)の方(ほう)が頗(すこぶ)る功(こう)があつたのであるから無論(むろん)信孝(のぶたか)に於(おい)ては己(おの)れが継嗣(けいし)たるべしとの志(こゝろざし)があつ       たのであるが之(これ)に対(たい)して信雄(のぶを)と雖(いへど)も決(けつ)して相(あひ)下(くだ)らないので其(その)間(あひだ)は中々(なか〳〵)六ケ敷(し)き状態(ぜうたい)となつた而(しか)も諸宿(しよしゆく)        将(せう)の間(あひだ)にもま亦(ま)た此(こ)の両党(れうとう)に分(わか)れたので議論(ぎろん)は数日(すうじつ)にも亘(わた)つたのであるが結局(けつきよく)三 法師(ほうし)が嫡孫(ちやくそん)であると云       ふ処(ところ)から之(これ)を継嗣(けいし)とすることに決(けつ)し当分(とうぶん)は岐阜(ぎふ)に置(お)いて信孝(のぶたか)が之(これ)を預(あづか)ることとなり信雄(のぶを)も共(とも)に補佐(ほさ)すると       云ふので事(こと)は落着(らくちやく)したのであるが之(これ)と同時(どうじ)に柴田(しばた)、 羽柴(はしば)、 丹羽(には)、 池田(いけだ)の四 氏(し)は互(たがひ)に交代(こうたい)して京師(けうし)に吏(り)       を置(お)き庶務(しよむ)を決行(けつこう)することとなつたのであるソコで光秀(みつひで)の旧領地(きうれうち)並(ならび)に信長(のぶなが)の遺領(ゐれう)を戦功者(せんこうしや)に分配(ぶんぱい)すること       となつたが信雄(のぶを)は尾張(おはり)、 信孝(のぶたか)は美濃(みの)、 秀吉(ひでよし)は山城(やましろ)、 勝家(かついへ)は江州(ごうしう)の長浜(ながはま)、 池田信輝(いけだのぶてる)は大阪(おほさか)、 尼(あま)ケ崎(さき)、 兵(へう) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 勝家と秀吉  庫(ご)、 丹羽長秀(にはながひで)は江州(ごうしう)の高島(たかしま)、 志賀(しが)の二 郡(ぐん)と云ふような工合(ぐあひ)に各(おの〳〵)得(う)る処(ところ)があつたのである然(しか)るに其(その)中(なか)       で勝家(かついへ)の得(え)た長浜(ながはま)と云ふものは元来(がんらい)秀吉(ひでよし)領地(れうち)であつたのを請(こ)ひ求(もと)めた訳(わけ)で之(これ)は暗(あん)に己(おの)れの本領(ほんれう)越前(えちぜん)       との連絡(れんらく)を取(と)つて秀吉(ひでよし)を索制(さくせい)する為(ため)の手段(しゆだん)であつたのである勿論(もちろん)秀吉(ひでよし)は之(これ)を知(し)らぬではないが将来(せうらい)に        大企望(だいきぼう)を包蔵(ほうぞう)して居(を)る処(ところ)から唯々(ゆゝ)諾々(たく〳〵)として此(この)事(こと)を聴(き)いたのみならず今度(このたび)の偉功者(ゐこうしや)であるにも拘(かゝは)らず        只(た)だそれに替(か)ゆるに山城(やましろ)一 国(こく)を以(もつ)てして一 向(こう)所領(しよれう)を争(あらそ)はなかつたのは大(おほい)に他(た)に期(き)する処があつたもの 《割書:大徳寺の法|会》  と信(しん)ぜられるのである兎(と)に角(かく)諸宿将(しよしゆくせう)は此(この)時(とき)互(たがひ)に誓紙(せいし)を交換(こうくわん)し親密(しんみつ)を約(やく)して各(おの〳〵)其(その)国(くに)に就(つ)いたのである       が秀吉(ひでよし)はそれから京都(けうと)に入(い)つて先(ま)づ信長(のぶなが)の法会(ほうゑ)を紫野(むらさきの)の大徳寺(だいとくじ)で営(いとな)むだのであるソレは其十月十一日       から十七日 迄(まで)七日 間(かん)で十五日の葬式(そうしき)と云ふものは実(じつ)に前代未聞(ぜんだいみぶん)の盛儀(せいぎ)であつたと云ふ事であるそれの       みならず時(とき)の天子(てんし)からも勅命(ちよくめい)が下(さが)つたと云ふ訳(わけ)で何(なに)につけ秀吉(ひでよし)の勢力(せいりよく)を増(ま)すような事(こと)が多(おほ)く其(その)威望(ゐぼう)と       云ふものは爾来(じらい)益(ます〳〵)旭日沖天(きよくじつちうてん)の様(さま)であつた、サア、ソーなると不平(ふへい)で堪(たま)らないのが信孝(のぶたか)であつたが勝(かつ)        家(いへ)、 一益(かづます)も亦(ま)た頗(すこぶ)る面白(おもしろ)くなく感(かん)じたので遂(つひ)に此(この)両人(れうにん)は信孝(のぶたか)と通(つう)じて竊(ひそ)かに秀吉(ひでよし)を除(のぞ)かむ事を図(はか)つた       のである然(しか)るに之(これ)は反対(はんたい)に秀吉(ひでよし)の方(ほう)から先(さき)んぜられたと云ふ事実(じじつ)になつたのであるが前(まへ)にも申述(もうしの)べた        如(ごと)く三 法師(ほうし)は一 時(じ)岐阜(ぎふ)に置(お)く事(こと)にはなつて居(を)るが岐阜(ぎふ)は結局(けつきよく)信孝(のぶたか)の居城(きよじよう)であるから安土城(あづちじよう)の修築(しうちく)が出(で)        来上(きあが)つた以上(いぜう)は之(これ)に移(うつ)るのが相当(さうとう)なので又(ま)た其(その)筈(はづ)に決定(けつてい)して居(を)つたのであるソコで秀吉(ひでよし)は頻(しき)りに安土(あづち)        城(じよう)の修築(しうちく)を急(いそ)がしたのであるが其(その)出来上(できあが)るに及(およ)むで三 法師(ほうし)の移住(いぢう)を促(うなが)したのであるトコロが胸(むね)に一 物(もつ)       ある信孝(のぶたか)は之(これ)に肯(がゑん)ぜないので之(これ)が直接(ちよくせつ)の問題(もんだい)となつて反(かへつ)て秀吉(ひでよし)から先(ま)づ旗(はた)を揚(あ)げられたのである即(すなは)ち 《割書:秀吉岐阜を|攻む》   秀吉(ひでよし)は信雄(のぶを)の認諾(にんだく)を得(ゑ)て此(この)年(とし)(天正十年)の十二月 兵(へい)を起(おこ)し先(ま)づ近江(あふみ)に入(い)つて勝家(かついへ)の長浜城(ながはまじよう)を攻(せ)めて之(これ)       を降(くだ)し更(さら)に転(てん)じて美濃(みの)に向(むか)ひ岐阜(ぎふ)に迫(せま)つたが之(これ)には丹羽長秀(にはながひで)、 筒井順慶(つゝゐじゆんけい)、 細川忠興(ほそかはたゞおき)、 池田信輝(いけだのぶてる)、 蜂屋(はちや) 【欄外】    豊橋市史談  (本能寺事変後の織田氏)                  百卅五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (本能寺事変後の織田氏) 百三十四 【本文】 豊橋市史には直接関係を持たないようであるが、話の連絡上からここに信長が弑逆に遭ってから後の織田氏について少しく述べておく必要があると思う。 さて前章に述べた如くで光秀の一族は僅かの間に打ち平げられたのであるが、秀吉、信孝等は光秀を滅ぼして後、共に安土に入って、当時ちょうど伊勢から来た織田信雄とも会合し、それから美濃、尾張に入って織田氏の旧国を平定したが、さらに清須に至って信忠の嫡子三法師に謁したのである。三法師は即ち信長から言うと嫡孫であるが、信忠打死の時、二条城においてこれを前田玄以に託し、玄以はその遺命を奉じて岐阜に至り、それよりこの清須の城に入ったのである。 ところが秀吉等がここに到着するとほとんど同時に、柴田勝家等は越前から、また滝川一益等は上野から、森長可等は信濃からという訳で、遠征の諸宿将は続々本能寺の変報を聞いてここに集まって来たのである。そこでまず起こったのが織田氏の継嗣問題であったが、信雄、信孝は共に信長の子で、ちょうど両人の生年月は同じであるが、信孝の方が二十余日先に生まれたにもかかわらず、その生母が卑賤であったのと生誕の報知が後になったために、信雄の方が兄となっているのである。その上今度光秀征討については信孝の方が頗る功があったのであるから、無論信孝においては己れが継嗣たるべしとの志があったのであるが、これに対して信雄といえども決して相下らないので、その間は中々難しい状態となった。しかも諸宿将の間にもまたこの両党に分かれたので、議論は数日にも亘ったのであるが、結局三法師が嫡孫であるというところからこれを継嗣とすることに決し、当分は岐阜に置いて信孝がこれを預かることとなり、信雄も共に補佐するということで事は落着したのである。 これと同時に柴田、羽柴、丹羽、池田の四氏は互いに交代して京師に吏を置き、庶務を執行することとなったのである。そこで光秀の旧領地並びに信長の遺領を戦功者に分配することとなったが、信雄は尾張、信孝は美濃、秀吉は山城、勝家は江州の長浜、池田信輝は大阪、尼ヶ崎、兵 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 庫、丹羽長秀は江州の高島、志賀の二郡というような具合に各々得るところがあったのである。ところがその中で勝家の得た長浜というものは元来秀吉領地であったのを請い求めた訳で、これは暗に己れの本領越前との連絡を取って秀吉を牽制するための手段であったのである。勿論秀吉はこれを知らないではないが、将来に大企望を包蔵しているところから、唯々諾々としてこの事を聞いたのみならず、今度の偉功者であるにもかかわらず、ただそれに替えるに山城一国をもってして一向所領を争わなかったのは、大いに他に期するところがあったものと信ぜられるのである。 とにかく諸宿将はこの時互いに誓紙を交換し親密を約して各々その国に就いたのであるが、秀吉はそれから京都に入ってまず信長の法会を紫野の大徳寺で営んだのである。それはその十月十一日から十七日まで七日間で、十五日の葬式というものは実に前代未聞の盛儀であったということである。それのみならず時の天子からも勅命が下ったという訳で、何につけ秀吉の勢力を増すような事が多く、その威望というものは爾来益々旭日沖天の様であった。 さあ、そうなると不平で堪らないのが信孝であったが、勝家、一益もまた頗る面白くなく感じたので、ついにこの両人は信孝と通じて窃かに秀吉を除かんことを図ったのである。ところがこれは反対に秀吉の方から先んぜられたという事実になったのであるが、前にも述べた如く三法師は一時岐阜に置く事にはなっているが、岐阜は結局信孝の居城であるから、安土城の修築が出来上がった以上はこれに移るのが相当なので、またその筈に決定していたのである。そこで秀吉は頻りに安土城の修築を急がしたのであるが、その出来上がるに及んで三法師の移住を促したのである。ところが胸に一物ある信孝はこれに肯んぜないので、これが直接の問題となって反って秀吉からまず旗を揚げられたのである。即ち秀吉は信雄の認諾を得てこの年(天正十年)の十二月兵を起こし、まず近江に入って勝家の長浜城を攻めてこれを降し、さらに転じて美濃に向かい岐阜に迫ったが、これには丹羽長秀、筒井順慶、細川忠興、池田信輝、蜂屋 【欄外】 豊橋市史談 (本能寺事変後の織田氏) 百三十五

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Oda Clan After the Honnōji Incident) - 134 [Main Text] Although this may not seem directly related to Toyohashi city history, I believe it necessary to briefly describe the Oda clan after Nobunaga's assassination for the sake of narrative continuity. Now, as I described in the previous chapter, Mitsuhide's clan was destroyed in a short time, but after Hideyoshi, Nobutaka and others had defeated Mitsuhide, they entered Azuchi together and met with Oda Nobuo, who had just come from Ise at that time. They then entered Mino and Owari to pacify the former Oda territories, and proceeded to Kiyosu where they had an audience with Sanpōshi, Nobutada's eldest son. Sanpōshi was Nobunaga's legitimate grandson, and when Nobutada died, he had entrusted the boy to Maeda Gen'i at Nijō Castle. Gen'i, following this dying command, went to Gifu and then entered Kiyosu Castle. When Hideyoshi and others arrived there, almost simultaneously the various generals who had been on distant campaigns came flooding in upon hearing news of the Honnōji incident - Shibata Katsuie and others from Echizen, Takigawa Kazumasu and others from Kōzuke, Mori Nagayoshi and others from Shinano. The first issue that arose was the succession of the Oda clan. Both Nobuo and Nobutaka were sons of Nobunaga, and coincidentally they were born in the same year and month, but although Nobutaka was born more than twenty days earlier, because his birth mother was of low status and notification of his birth came later, Nobuo was considered the elder brother. Moreover, regarding this campaign against Mitsuhide, Nobutaka had distinguished himself considerably, so naturally he felt he should be the successor. However, Nobuo would certainly not yield to him either, making the situation very difficult. Furthermore, the various generals also divided into these two factions, so the discussions continued for several days. Eventually it was decided that since Sanpōshi was the legitimate grandson, he should be the successor, and for the time being he would remain in Gifu under Nobutaka's care, with Nobuo also serving as co-regent, thus settling the matter. At the same time, the four houses of Shibata, Hashiba, Niwa, and Ikeda would take turns stationing officials in the capital to handle administrative affairs. The former territories of Mitsuhide and Nobunaga's remaining domains were to be distributed to those with military merit: Nobuo received Owari, Nobutaka received Mino, Hideyoshi received Yamashiro, Katsuie received Nagahama in Gōshū, Ikeda Nobuteru received Osaka, Amagasaki, and Hyō- [Header margin note] Mayor Ōguchi Kiroku of Toyohashi has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling Toyohashi city history for over a year, and now as the manuscript is nearly complete... [Left Page] [Header margin note] This Toyohashi City Historical Discussion is published once weekly (Tuesdays) and presented to readers of the San'yō Shimbun. [Main Text] -go Province, and Niwa Nagahide received the two districts of Takashima and Shiga in Gōshū Province - each receiving their portion in this manner. However, among these, the Nagahama that Katsuie received had originally been Hideyoshi's territory, which he had requested. This was secretly a means to connect with his home domain of Echizen and check Hideyoshi's power. Of course Hideyoshi was not unaware of this, but harboring great ambitions for the future, he not only meekly acquiesced to this matter but, despite being the greatest contributor this time, was content to receive only Yamashiro Province in exchange and did not争 over territories at all - this suggests he had great expectations elsewhere. In any case, at this time the various generals exchanged written oaths with each other, pledged mutual friendship, and went to their respective domains. Hideyoshi then entered Kyoto and first held memorial services for Nobunaga at Daitoku-ji temple in Murasaki-no. This lasted seven days from October 11th to 17th, and the funeral ceremony on the 15th was said to be an unprecedented magnificent affair. Moreover, imperial commands came down from the Emperor himself, and in every matter things occurred that increased Hideyoshi's power, so his prestige thereafter rose ever higher like the morning sun ascending to heaven. Now, this made Nobutaka unbearably frustrated, but Katsuie and Kazumasu also found it quite disagreeable, so eventually these two conspired with Nobutaka to secretly plot Hideyoshi's removal. However, this turned out to be a case where Hideyoshi took the initiative instead. As I mentioned before, while Sanpōshi was temporarily to remain in Gifu, since Gifu was ultimately Nobutaka's castle, once Azuchi Castle was rebuilt it would be appropriate for him to move there, and this had been decided. So Hideyoshi urgently pressed forward with the reconstruction of Azuchi Castle, and when it was completed he urged Sanpōshi's relocation. However, Nobutaka, harboring secret intentions, would not agree to this, so this became the immediate issue and instead Hideyoshi was the first to raise his banner. That is, Hideyoshi obtained Nobuo's consent and in the twelfth month of that year (Tenshō 10) raised an army, first entering Ōmi and attacking Katsuie's Nagahama Castle, forcing its surrender, then turning toward Mino and advancing on Gifu. For this campaign he had Niwa Nagahide, Tsutsui Junkei, Hosokawa Tadaoki, Ikeda Nobuteru, Hachiya... [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Oda Clan After the Honnōji Incident) - 135