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【欄外】
豊橋市史談 (本能寺事変後の織田氏) 百卅六
【本文】
頼隆(よりたか)等(ら)が従(したが)つたので兵数(へいすう)は約(やく)三万余もあつたのであるから信孝(のぶたか)は到底(とうてい)支(さゝ)ゆることが出来(でき)なくて老母(らうぼ)並(ならび)に
三 法師(ほうし)を出(いだ)して和(わ)を請(こ)つたのであるソコで秀吉(ひでよし)は之(これ)を許(ゆる)し三 法師(ほうし)をば目的(もくてき)通(とほ)りに安土(あづち)へ移(うつ)して此(この)時(とき)は
先(ま)づ之(こ)れで一 段落(だんらく)を告(つ)げたのであるが到底(とうてい)之(こ)れだけでは事(こと)が済(す)まぬので其(その)翌(よく)天正(てんせう)十一年の正月 秀吉(ひでよし)は
伊勢征伐 更(さら)に信雄(のぶを)と相図(あひはか)つて瀧川一益(たきがはかずます)を伊勢(いせ)に攻(せ)むる計割(けいくわく)を進(すゝ)めたが遂(つひ)に自(みづか)らも兵(へい)を率(ひき)ひて伊勢(いせ)に入(い)りイヨ
〳〵一益(かづます)の根拠(こんきよ)たる長島城(ながしまじよう)に迫(せま)らむとしたのであるトコロが此(この)時(とき)忽(たちま)ち飛報(ひほう)があつて越前(えちぜん)から柴田勝家(しばたかついへ)
が兵(へい)を出(いだ)して北近江(きたあふみ)に侵入(しんにふ)したと云ふので秀吉(ひでよし)は急(きう)に守兵(しゆへい)を置(お)いて一益(かづます)に備(そな)へしめ己(おの)れは直(たゞ)ちに近江(あふみ)
に引(ひ)き返(かへ)して勝家(かついへ)と雌雄(しゆう)を決(けつ)せむとしたのである初(はじ)め勝家(かついへ)が前田利家(まへだとしいへ)、 佐々成政(さゝなりまさ)、 佐久間盛政(さくまもりまさ)等(ら)と共(とも)
柳ケ瀬役 に兵(へい)を率(ひき)ゐて近江(あふみ)に入(い)り柳(やな)ケ瀬(せ)附近(ふきん)に陣取(ぢんど)つたのは二月の朔日(つひたち)の事(こと)であつたが秀吉(ひでよし)が賤(しづ)ケ岳(たけ)に至(いた)り天(てん)
神山(じんやま)に陣取(ぢんど)つたのは其(その)十七日である然(しか)るに勝家(かついへ)は固(かた)く持(じ)してドウしても応戦(おうせん)しないので秀吉(ひでよし)は一 時(じ)持(ぢ)
久(きう)の策(さく)を設(もう)けて其(その)廿七日 己(おの)れは長浜(ながはま)に退(しりぞ)き四月 中旬(ちうじゆん)まで其処(そこ)に居(を)つたが此(この)時(とき)信孝(のぶたか)は岐阜(ぎふ)に居(を)つて曩(さ)き
の媾和(こうわ)に反(そむ)き勝家(かついへ)等(ら)に応(おう)じて又(ま)た秀吉(ひでよし)の背後(はいご)を襲(おそ)はむとしたのであるソコで秀吉(ひでよし)は四月十七日 長浜(ながはま)か
ら美濃(みの)に入(い)つて十九日には一 挙(きよ)に岐阜(ぎふ)を屠(ほう)らむとしたのであるが丁度(ちようど)其(その)前夜(ぜんや)から大雨(たいう)で河水(かすゐ)の氾濫(はんらん)が
甚(はなはだ)しく遂(つひ)に其(その)目的(もくてき)を達(たつ)し得(ゑ)なかつたのである然(しか)るに勝家(かついへ)の方(ほう)では此(この)秀吉(ひでよし)の留守(るす)を窺(うかゞ)つて廿日の黎明(れいめい)
大岩山(おほいわやま)の砦(とりで)に向(むかつ)て奇襲(きしう)を試(こゝろ)み秀吉(ひでよし)の守将(しゆせう)中川清秀(なかがはきよひで)は遂(つひ)に之(これ)に戦死(せんし)したのであるが元来(がんらい)此(この)襲撃(しうげき)は佐久間(さくま)
賤ケ岳 盛政(もりまさ)のやつた事で勝家(かついへ)は最初(さいしよ)から之(これ)を危(あや)むだのであるが盛政(もりまさ)は遂(つひ)に勢(いきほひ)に乗(ぜう)して勝家(かついへ)の命令(めいれい)をも顧(かへり)み
ず益々(ます〳〵)深入(ふかい)りをしたのであるトコロが秀吉(ひでよし)は大垣(おほがき)に居(を)つて廿日の正午(せうご)頃(ころ)此(この)事(こと)を聞(き)いたのであるか直(たゞ)ち
に馳(は)せて近江(あふみ)に皈(かへ)つたのである其(その)時(とき)の従者(じうしや)は選抜兵(せんばつへい)僅(わづか)に五十 余人(よにん)に過(す)ぎなかつたと云ふ事であるが行(ゆ)
く〳〵兵(へい)を集(あつ)めて此(この)日(ひ)の午後(ごゞ)九時には既(すで)に木(き)の本(もと)に達(たつ)し田上山(たがみやま)に上(あが)つて盛(さかん)に喊声(かんせい)を発(はつ)せしめたのであ
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千八百八十三号附録 ( 明治四十四年十月十日発行 )
【本文】
るドウモ其(その)敏速(びんそく)なることと云ふものは驚(おどろ)くの外(ほか)はないと思(おも)ふのであるが果(はた)して盛政(もりまさ)は其(その)形勢(けいせい)を偵察(ていさつ)して
大(おほい)に驚(おどろ)き急(きう)に兵(へい)を退(しりぞ)くる事に決(けつ)して十一時頃から退却(たいきやく)を初(はじ)めたが遂(つひ)に秀吉(ひでよし)の為(ため)に追撃(つひげき)を蒙(かうむ)つて廿一日
の午前六時頃には頗(すこぶ)る激戦(げきせん)となつたのである例(れい)の賤(しづ)ケ岳(たけ)七 槍(そう)の話(はなし)のあるのは此(この)時(とき)の事(こと)であるが秀吉(ひでよし)
勝家亡ぶ は勢(いきほひ)に乗(ぜう)じて勝家(かついへ)が柳(やな)ケ瀬(せ)の本陣(ほんぢん)に向(むかつ)て総攻撃(そうこうげき)を開始(かいし)し此(この)日(ひ)の正午(せうご)勝家(かついへ)は大敗(たいはい)して越前(ゑつぜん)の北荘城(ほくせうじよう)に
遁(のが)れ遂(つひ)に窮追(きうつひ)せられて廿四日 午後(ごゞ)自(みづか)ら火(ひ)を放(はな)つて自殺(じさつ)したのである此(この)時(とき)秀吉(ひでよし)は越前(ゑつぜん)の府中城(ふちうじよう)に於(おい)て前(まへ)
田利家(たとしいへ)と和(わ)し又(ま)た佐々成政(さゝなりまさ)の降(こう)を許(ゆる)し使(つかひ)を越後(ゑちご)に遣(つか)はして上杉景勝(うへすぎかげかつ)の盟約(めいやく)を徴(ちよう)し五月五日に至(いた)つて長(なが)
浜(はま)に皈(かへ)つたのである
ソコで信孝(のぶたか)の事であるが岐阜(ぎふ)に於(おい)ては既(すで)に柳(やな)ケ瀬(せ)の敗報(はいほう)を得(え)て将士(せうし)は離散(りさん)し勢(いきほひ)益(ます〳〵)窘窮(くつきう)せる処(ところ)へ信(のぶ)
雄(を)が伊勢(いせ)から攻(せ)め来(きた)つて之(これ)を囲(かこ)むだので又(ま)た如何(いかん)ともすることが出来(でき)ず進退(しんたい)維(こ)れ谷(きはま)つたのであるが遂(つひ)に
信孝自殺 誘(さそ)はれて長良川(ながらがは)を下(くだ)り尾張(をはり)の知多郡(ちたぐん)に船行(せんかう)して内海(うつみ)に上陸(ぜうりく)した処を信雄(のぶを)は其(その)士(し)中川雄忠(なかがはたけたゞ)を遣(つか)はして処(しよ)
決(けつ)を迫(せま)つたので之(こ)れ亦(ま)た自殺(じさつ)するに至(いた)つたのであるがソレは恰(あたか)も五月二日の事である其(その)後(のち)六月 中旬(ちうじゆん)に
至(いた)つて瀧川一益(たきがはかづます)も亦(ま)た力(ちから)屈(くつ)して降参(こうさん)したが秀吉(ひでよし)は特(とく)に其(その)武勇(ぶゆう)を惜(おし)むで之(これ)を越前(ゑつぜん)に置(お)き五千石を給(きう)した
のである而(しか)して長島城(ながしまじよう)には之(これ)より信雄(のぶを)が移(うつ)り居(を)つたのである
⦿小牧役と牧野成里
前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)く信長(のぶなが)の弑逆(しいぎやく)に遇(あ)つた後(のち)上方(かみがた)に於(おい)ては種々(しゆ〴〵)の紛乱(ふんらん)があつて独(ひと)り秀吉(ひでよし)の威忘(いぼう)は益(ます〳〵)熾(さかん)
になつたのであるが此(この)間(あひだ)に於(おい)て三 河(かは)遠江(とふとほみ)駿河(するが)を領有(れうゆう)して居(を)つた徳川家康(とくがはいへやす)は如何(いか)なる行動(こうどう)をなしたか之(こ)
れ亦(ま)た先(ま)づ此処(こゝ)に申述(もうしの)べねばならぬのである
【欄外】
豊橋市史談 (小牧役と牧野成里) 百卅七
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談 (本能寺事変後の織田氏) 百三十六
【本文】
頼隆等が従ったので兵数は約三万余もあったのであるから、信孝は到底支えることが出来なくて、老母並びに三法師を出して和を請うたのである。そこで秀吉はこれを許し、三法師を目的通りに安土へ移してこの時はまず一段落を告げたのであるが、到底これだけでは事が済まないので、その翌天正十一年の正月、秀吉はさらに信雄と相談して滝川一益を伊勢に攻める計画を進めたが、ついに自らも兵を率いて伊勢に入り、いよいよ一益の根拠である長島城に迫ろうとしたのである。ところがこの時忽ち飛報があって、越前から柴田勝家が兵を出して北近江に侵入したというので、秀吉は急いで守兵を置いて一益に備えさせ、己れは直ちに近江に引き返して勝家と雌雄を決しようとしたのである。
初め勝家が前田利家、佐々成政、佐久間盛政等と共に兵を率いて近江に入り、柳ヶ瀬付近に陣取ったのは二月の朔日の事であったが、秀吉が賤ヶ岳に至り天神山に陣取ったのはその十七日である。ところが勝家は固く守ってどうしても応戦しないので、秀吉は一時持久の策を設けて、その二十七日己れは長浜に退き、四月中旬まで其処にいたが、この時信孝は岐阜にいて先の講和に反き、勝家等に応じてまた秀吉の背後を襲おうとしたのである。そこで秀吉は四月十七日長浜から美濃に入って十九日には一挙に岐阜を攻略しようとしたのであるが、丁度その前夜から大雨で河水の氾濫が甚だしく、ついにその目的を達し得なかったのである。ところが勝家の方ではこの秀吉の留守を窺って二十日の黎明、大岩山の砦に向かって奇襲を試み、秀吉の守将中川清秀はついにこれに戦死したのであるが、元来この襲撃は佐久間盛政のやった事で、勝家は最初からこれを危ぶんだのであるが、盛政はついに勢いに乗って勝家の命令をも顧みず益々深入りをしたのである。ところが秀吉は大垣にいて二十日の正午頃この事を聞いたのであるが、直ちに駆けて近江に帰ったのである。その時の従者は選抜兵僅かに五十余人に過ぎなかったということであるが、行く行く兵を集めてこの日の午後九時には既に木ノ本に達し、田上山に上がって盛んに喊声を発せしめたのである。
【左頁】
【欄外】
参陽新報第三千八百八十三号附録 (明治四十四年十月十日発行)
【本文】
どうもその敏速なることというものは驚くの他はないと思うのであるが、果たして盛政はその形勢を偵察して大いに驚き、急いで兵を退くる事に決して十一時頃から退却を始めたが、ついに秀吉のために追撃を蒙って二十一日の午前六時頃には頗る激戦となったのである。例の賤ヶ岳七槍の話があるのはこの時の事であるが、秀吉は勢いに乗じて勝家が柳ヶ瀬の本陣に向かって総攻撃を開始し、この日の正午、勝家は大敗して越前の北ノ庄城に逃れ、ついに窮追せられて二十四日午後、自ら火を放って自殺したのである。この時秀吉は越前の府中城において前田利家と和し、また佐々成政の降を許し、使を越後に遣わして上杉景勝の盟約を徴し、五月五日に至って長浜に帰ったのである。
そこで信孝の事であるが、岐阜においては既に柳ヶ瀬の敗報を得て将士は離散し、勢い益々窮迫したる処へ信雄が伊勢から攻め来たってこれを囲んだので、また如何ともすることが出来ず進退極まったのであるが、ついに誘われて長良川を下り、尾張の知多郡に船行して内海に上陸した処を、信雄はその士中川雄忠を遣わして処決を迫ったので、これもまた自殺するに至ったのであるが、それは恰も五月二日の事である。その後六月中旬に至って滝川一益もまた力屈して降参したが、秀吉は特にその武勇を惜んでこれを越前に置き五千石を給したのである。而して長島城にはこれより信雄が移り居ったのである。
⦿小牧役と牧野成里
前章に述べた如く信長の弑逆に遭った後、上方においては種々の紛乱があって独り秀吉の威望は益々盛んになったのであるが、この間において三河・遠江・駿河を領有していた徳川家康は如何なる行動をなしたか、これもまずここに述べねばならないのである。
【欄外】
豊橋市史談 (小牧役と牧野成里) 百三十七
英語訳
[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Oda Clan After the Honnōji Incident) - 136
[Main Text]
Since Yoritaka and others followed with approximately 30,000 troops, Nobutaka could not possibly withstand them and sent out his elderly mother and Sanpōshi to request peace. Hideyoshi granted this and moved Sanpōshi to Azuchi as intended, bringing this phase to a temporary conclusion. However, this alone could not settle matters, so in the first month of the following year, Tenshō 11, Hideyoshi further consulted with Nobuo and advanced plans to attack Takigawa Kazumasu in Ise. He personally led troops into Ise and was about to advance on Nagashima Castle, Kazumasu's stronghold. But at this time urgent news suddenly arrived that Shibata Katsuie had led troops from Echizen and invaded northern Ōmi. Hideyoshi hastily stationed garrison troops to guard against Kazumasu and immediately returned to Ōmi to settle the contest with Katsuie.
Initially, when Katsuie led troops with Maeda Toshiie, Sassa Narimasa, Sakuma Morimasa and others into Ōmi and took position near Yanagase, it was on the first day of the second month. When Hideyoshi reached Shizugatake and took position at Tenjinyama was on the 17th. However, since Katsuie held his position firmly and would not engage in battle at all, Hideyoshi adopted a strategy of endurance for the time being, withdrawing to Nagahama on the 27th and remaining there until mid-fourth month. At this time Nobutaka was in Gifu, breaking the previous peace agreement and responding to Katsuie and others in an attempt to attack Hideyoshi from behind. So on the 17th of the fourth month, Hideyoshi entered Mino from Nagahama and on the 19th attempted to capture Gifu in one stroke, but heavy rains from the night before caused severe flooding of the rivers, and he was unable to achieve his objective. Meanwhile, Katsuie's side, watching for this absence of Hideyoshi, attempted a surprise attack on the Ōiwayama fortress at dawn on the 20th, and Hideyoshi's commander Nakagawa Kiyohide was killed in the battle. Originally this attack was carried out by Sakuma Morimasa, and though Katsuie had been wary of it from the beginning, Morimasa was carried away by momentum and penetrated ever deeper without regard for Katsuie's orders. However, Hideyoshi was in Ōgaki when he heard of this around noon on the 20th, and immediately rushed back to Ōmi. His retinue at that time consisted of only about fifty selected troops, but gathering soldiers along the way, by 9 PM that day he had already reached Kinomoto and ascended Tagamiyama, having his men raise loud war cries.
[Left Page]
[Header] San'yō Shimbun No. 3883 Supplement (Published October 10, Meiji 44)
[Main Text]
Indeed, such swiftness is nothing short of astonishing. Morimasa, reconnoitering the situation, was greatly alarmed and decided to quickly withdraw his troops, beginning retreat around 11 PM, but was ultimately pursued by Hideyoshi and by around 6 AM on the 21st fierce fighting ensued. The famous story of the Seven Spears of Shizugatake occurred at this time. Riding his momentum, Hideyoshi launched a general assault on Katsuie's main camp at Yanagase, and at noon that day Katsuie suffered a crushing defeat and fled to Kitanoshō Castle in Echizen, where he was ultimately cornered and on the afternoon of the 24th set fire to the castle and committed suicide. At this time Hideyoshi made peace with Maeda Toshiie at Fuchū Castle in Echizen, accepted the surrender of Sassa Narimasa, sent envoys to Echigo to secure an alliance with Uesugi Kagekatsu, and returned to Nagahama on May 5th.
Now regarding Nobutaka, at Gifu he had already received news of the defeat at Yanagase, his officers and men had scattered, and his position became increasingly desperate when Nobuo attacked from Ise and surrounded him. With no other options and his situation hopeless, he was eventually lured to sail down the Nagara River to Chita District in Owari and landed at Utsumi, where Nobuo sent his retainer Nakagawa Taketada to demand his suicide. He too came to commit suicide, which occurred on May 2nd. Later in mid-June, Takigawa Kazumasu also exhausted his strength and surrendered, but Hideyoshi, particularly valuing his military prowess, stationed him in Echizen with a stipend of 5,000 koku. From then on, Nobuo moved to and resided in Nagashima Castle.
⦿ The Komaki Campaign and Makino Narisato
As described in the previous chapter, after Nobunaga's assassination various disturbances occurred in the capital region and Hideyoshi's prestige alone grew ever stronger. During this period, what actions did Tokugawa Ieyasu, who controlled Mikawa, Tōtōmi, and Suruga, take? This too must first be described here.
[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Komaki Campaign and Makino Narisato) - 137