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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 83

ページ: 83

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【欄外】    豊橋市史談  (小牧役と牧野成里)                    百卅八 【本文】       本能寺(ほんのうじ)事変(じへん)の時(とき)家康(いへやす)は会々(たま〳〵)摂津(せつゝ)の堺(さかひ)に居(を)つたが急(きう)に伊賀越(いがごゑ)の難(なん)を冒(おか)して伊勢(いせ)に出(い)で三 河(かは)に上陸(ぜうりく)し夫(それ)よ       り直(たゞ)ちに兵(へい)を集(あつ)めて光秀(みつひで)征討(せいとう)の軍(ぐん)を出(いだ)し尾張(をはり)まで出陣(しゆつぢん)したのである然(しか)るに光秀(みつひで)は既(すで)に山崎(やまざき)に敗(やぶ)れ誅戮(ちうりく)       されたと云ふ報知(ほうち)を得(え)て軍(ぐん)を班(はん)した事は前(まへ)に申述(もうしの)べて置(お)いた如(ごと)くである然(しか)るに当時(とうじ)甲州(かうしう)には河尻肥後(かはじりひごの)        守鎮吉(かみしげよし)があつて織田氏(おだし)の為(ため)に守衛(しゆゑい)して居(を)つたが家康(いへやす)は直(たゞ)ちに本多百助(ほんだもゝすけ)を遣(つかは)して之(これ)を見舞(みま)はしめたので       あるモツトモ此(この)河尻(かはじり)と本多(ほんだ)との間(あひだ)は従来(じうらい)別懇(べつこん)であつたが此(この)時(とき)河尻(かはじり)は大(おほい)に本多(ほんだ)の来意(らいい)を疑(うたが)つて其(その)寝込(ねごみ)に        付(つ)け入(い)つて之(これ)を刺(さ)し殺(ころ)したのであるトコロが州人(しんにん)は最初(さいしよ)から河尻(かはじり)に快(こゝろよ)くなかつたので諸方(しよほう)に一 揆(き)が        起(おこ)つて遂(つひ)に此(この)河尻(かはじり)をも撃殺(げきさつ)して仕舞(しま)つたので甲州(かうしう)には全(まつた)く主(ぬし)がなくなつたのであるソコで国(くに)は大(おほい)に乱(みだ)       れたが家康(いへやす)は此(この)機(き)に方(あた)つて大須賀康高(おほすがやすたか)等(ら)を遣(つか)はして兵(へい)を率(ひき)ゐ国内(こくない)を徇(したが)へしめたのである続(つゞい)で大久保忠(おほくぼたゞ)        世(よ)石川康通(いしかはやすみつ)本多広孝(ほんだひろたか)父子(ちし)等(ら)をも出陣(しゆつぢん)せしめたので程(ほど)なく国内(こくない)は平定(へいてい)し武田氏(たけだし)の故旧(こきう)にして来(きた)り属(ぞく)する       ものが多(おほ)かつた然(しか)るに其(その)頃(ころ)信濃(しなの)を守(まも)つて居(を)つた織田氏(をだし)の将(せう)森長可(もりながよし)も亦(ま)た本能寺(ほんのうじ)の変(へん)を聞(き)いて西上(せいぜう)した       ので矢張(やはり)国内(こくない)は乱(みだ)れて統(とう)一する処(ところ)がないソコで越後(ゑちご)の上杉景勝(うへすぎかげかつ)は兵(へい)を出(いだ)して川中島(かはなかじま)四 郡(ぐん)の地(ち)を占領(せんれう)し       たが家康(いへやす)も亦(ま)た兵(へい)をを甲州(かうしう)から入(い)れて之(これ)を平定(へいてい)せむことを計(はか)つたのである、かくて其(その)(天正十年)七月には        家康(いへやす)自(みづか)ら兵(へい)を率(ひき)ゐて甲州(かうしう)に入(い)り新府(しんぷ)に居(を)つて甲州(かうしう)二 州(しう)の軍事(ぐんじ)を督(とく)したのであるトコロが此(こゝ)に至(いた)つては        隣国(りんごく)の北條氏政(ほうでうぢまさ)が黙(だま)つては居(を)らぬので子(こ)氏直(うぢなほ)をして兵(へい)を率(ひき)ゐて碓氷峠(うすゐとほげ)から信州(しんしう)に入(い)らしめ徳川氏(とくがはし)の軍(ぐん)       と屡々(しば〳〵)衝突(せうとつ)したのである此(この)時(とき)酒井忠次(さかゐたゞつぐ)も亦(ま)た東(ひがし)三 河(かは)の諸将士(しよせうし)を率(ひき)ゐて信州(しんしう)に入(い)り戦功(せんこう)が多(おほ)くあつたが       北條氏(ほうでうし)の兵(へい)と梶(かぢ)ケ原(はら)に対陣(たいぢん)の時(とき)大久保忠世(おほくぼたゞよ)と意見(いけん)が合(あ)はなくて相争(あひあらそ)つたと云ふような話(はなし)もある併(しか)し之(こ)       れ等(ら)は余(あま)り冗長(じようてう)に渉(わた)ると思(おも)ふから総(すべ)て略(りやく)して申述(もうしの)べぬ考(かんがへ)であるが結局(けつきよく)其(その)十月に至(いた)つて家康(いへやす)と氏直(うぢなほ)と       は和睦(わぼく)が出来(でき)て北條氏(ほうでうし)は上州(ぜうしう)を収(おさ)め家康(いへやす)は甲州(かうしう)二 州(しう)を併(へい)する事(こと)となつて氏直(うぢなほ)に嫁(か)するに家康(いへやす)の女督姫(ぢよとくひめ) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       を以(もつ)てすることを約(やく)したのであるかくの如(ごと)き訳(わけ)で家康(いへやす)は遂(つひ)に三 遠駿(ゑんすん)三 国(こく)の外(ほか)は甲州(かうしう)二 州(しう)の大略(たいりやく)を有(ゆう)する       こととなつたので其(その)十二月 平岩親吉(ひらいわちかよし)をして甲府(かうふ)を守(まも)り鳥居元忠(とりゐもとたゞ)をして甲州(かうしう)の都留郡(つるごほり)を鎮(ちん)せしめ成瀬(なるせ)一 斉(さい)       を甲州奉行(かうしうぶぎよう)として更(さら)に信州(しんしう)衛備(ゑいび)の為(ため)に大久保忠世(おほくぼたゞよ)菅沼大膳(すがぬまだいぜん)等(ら)を甲州(かうしう)に残(のこ)して自(みづか)らは浜松(はままつ)に皈(かへ)つたので       あるが此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)で家康(いへやす)の勢(いきほひ)は漸(やうや)く東海(とうかい)を圧(あつ)し威望(いぼう)益(ます〳〵)加(くは)はつたのである        先(ま)づザツト右(みぎ)の如(ごと)き次第(しだい)で織田氏(をだし)に於(おい)ては継嗣(けいし)問題(もんだい)から信雄(のぶを)信孝(のぶたか)等(ら)の内訌(ないこう)でゴタ〳〵して居(を)る間(あひだ)に家(いへ)        康(やす)は新(あらた)に甲州(かうしう)二 州(しう)を平定(へいてい)して己(おの)れの領分(れうぶん)としたので云(い)はゞ漁夫(ぎよふ)の利(り)を得(え)たようなものであるが其(その)頃(ころ)秀(ひで)        吉(よし)との関係(くわんけい)は至極(しごく)円満(ゑんまん)に見(み)えて居(を)つたのである即(すなは)ち秀吉(ひでよし)が柴田勝家(しばたかついへ)に克(か)つた時(とき)にも家康(いへやす)は石川数正(いしかはかずまさ)を        使(つかひ)にやつて初花(はつはな)と云(い)ふ名器(めいき)(茶碗(ちやわん))を贈(おく)つて戦勝(せんせう)を賀(が)せしめ秀吉(ひでよし)も亦(ま)た家康(いへやす)の為(ため)に奏請(さうせい)して己(おの)れより上(ぜう)        位(ゐ)である処(ところ)の従(じゆう)三 位(ゐ)に叙(ぢよ)し参議(さんぎ)に任(にん)ぜしむるなど頗(すこぶ)る其(その)歓心(くわんしん)を求(もと)めたる様子(やうす)が見(み)ゆるのである然(しか)るに        此処(こゝ)に一つの葛藤(かつとう)を生(せう)ずるに至(いた)つた原因(げんゐん)と云(い)ふものは信雄(のぶを)と秀吉(ひでよし)との関係(くわんけい)である初(はじ)め信孝(のぶたか)が秀吉(ひでよし)を図(はか)       つて反(かへつ)て其(その)窮迫(きうはく)する処(ところ)となつた頃(ころ)には前(まへ)にも申述(もうしの)べた如(ごと)く信雄(のぶを)は寧(むし)ろ之(これ)を以(もつ)て己(おの)れに利(り)なるものとな       して信孝(のぶたか)を匡救(きようきう)せざるのみならず其(その)滅亡(めつぼう)を容易(ようい)ならしめたのであるがサテ信孝(のぶたか)滅亡(めつぼう)の今日(こんにち)に至(いた)つて見(み)       ると所謂(いはゆる)唇亡(くちびるほろ)びて歯(は)寒(さむ)しで頗(すこぶ)る孤立(こりつ)の境遇(けうぐう)に立(た)つに至(いた)つたのである秀吉(ひでよし)も亦(ま)た信孝(のぶたか)の事情(じぜう)に鑑(かんが)みて其(その)       二の舞(まひ)をするものは信雄(のぶを)であると思(おも)ふ処(ところ)から何(なん)とかして之(これ)を除(のぞ)きたいものであると云(い)ふので一 策(さく)とし       て其(その)老臣(らうしん)岡田重孝(をかだしげたか)、津川義冬(つがはよしふゆ)、 浅井長時(あさゐながとき)との間(あひだ)を離間(りかん)したのであるが信雄(のぶを)と云ふ人は頗(すこぶ)る思慮浅薄(しりよせんぱく)で       あつたので遂(つひ)に此(この)策(さく)に乗(の)せこれて此(この)三 老臣(らうしん)を殺(ころ)した上(うへ)に秀吉(ひでよし)と絶(た)つに至(いた)つたのであるトコロが信雄(のぶを)の        力(ちから)では到底(とうてい)秀吉(ひでよし)に敵(てき)すべくもあらぬので応援(おうゑん)を家康(いへやす)に請(こ)つたのであるが此(この)時(とき)秀吉(ひでよし)からも家康(いへやす)に向(むかつ)ては        種々(しゆ〳〵)と勧誘(くわんゆう)する処(ところ)があつたのである然(しか)るに家康(いへやす)は秀吉(ひでよし)の申込(もうしこみ)を斥(しりぞ)けて一には旧誼(きうぎ)一には隣国(りんこく)と云(い)ふ地(ち) 【欄外】    豊橋市史談  (小牧役と牧野成里)                    百卅九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (小牧役と牧野成里) 百三十八 【本文】 本能寺事変の時、家康はたまたま摂津の堺にいたが、急いで伊賀越えの困難を冒して伊勢に出て三河に上陸し、それより直ちに兵を集めて光秀征討の軍を出し尾張まで出陣したのである。しかるに光秀は既に山崎に敗れ誅殺されたという報知を得て軍を解散した事は前に述べて置いた通りである。 しかるに当時甲州には河尻肥後守鎮吉がいて織田氏のために守衛していたが、家康は直ちに本多百助を遣わしてこれを見舞わせたのである。もっともこの河尻と本多との間は従来別懇であったが、この時河尻は大いに本多の来意を疑って、その寝込みに付け入ってこれを刺し殺したのである。ところが州人は最初から河尻に快くなかったので諸方に一揆が起こって、ついにこの河尻をも撃殺してしまったので、甲州には全く主がなくなったのである。 そこで国は大いに乱れたが、家康はこの機会に当たって大須賀康高等を遣わして兵を率いて国内を従わせたのである。続いて大久保忠世、石川康通、本多広孝父子等をも出陣させたので程なく国内は平定し、武田氏の故旧にして来たって属するものが多かった。 しかるにその頃信濃を守っていた織田氏の将森長可もまた本能寺の変を聞いて西上したので、やはり国内は乱れて統一する処がない。そこで越後の上杉景勝は兵を出して川中島四郡の地を占領したが、家康もまた兵を甲州から入れてこれを平定することを計ったのである。 かくしてその(天正十年)七月には家康自ら兵を率いて甲州に入り、新府に居って甲州二州の軍事を督したのである。ところがここに至っては隣国の北条氏政が黙ってはいないので、子氏直をして兵を率いて碓氷峠から信州に入らしめ、徳川氏の軍と屡々衝突したのである。この時酒井忠次もまた東三河の諸将士を率いて信州に入り戦功が多くあったが、北条氏の兵と梶ヶ原に対陣の時、大久保忠世と意見が合わなくて相争ったというような話もある。 しかしこれ等は余り冗長に渉ると思うから総て略して述べない考えであるが、結局その十月に至って家康と氏直とは和睦が出来て、北条氏は上州を収め、家康は甲州二州を併合することとなって、氏直に嫁するに家康の女督姫を以てすることを約したのである。 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 かくの如き訳で家康は遂に三遠駿三国の外は甲州二州の大略を有することとなったので、その十二月、平岩親吉をして甲府を守り、鳥居元忠をして甲州の都留郡を鎮せしめ、成瀬一斉を甲州奉行として、更に信州衛備のために大久保忠世、菅沼大膳等を甲州に残して自らは浜松に帰ったのであるが、かくの如き訳で家康の勢いは漸く東海を圧し威望益々加わったのである。 まずざっと右の如き次第で、織田氏においては継嗣問題から信雄、信孝等の内紛でごたごたしている間に、家康は新たに甲州二州を平定して己れの領分としたので、言わば漁夫の利を得たようなものであるが、その頃秀吉との関係は至極円満に見えていたのである。 即ち秀吉が柴田勝家に勝った時にも家康は石川数正を使いにやって「初花」という名器(茶碗)を贈って戦勝を賀させ、秀吉もまた家康のために奏請して己れより上位である処の従三位に叙し参議に任ぜしむるなど頗るその歓心を求めた様子が見ゆるのである。 しかるにここに一つの葛藤を生ずるに至った原因というものは信雄と秀吉との関係である。初め信孝が秀吉を図って反ってその窮迫する処となった頃には、前にも述べた如く信雄は寧ろこれを以って己れに利なるものとなして信孝を匡救せざるのみならず、その滅亡を容易ならしめたのであるが、さて信孝滅亡の今日に至って見ると所謂「唇亡びて歯寒し」で頗る孤立の境遇に立つに至ったのである。 秀吉もまた信孝の事情に鑑みてその二の舞をするものは信雄であると思う処から、何とかしてこれを除きたいものであるというので一策としてその老臣岡田重孝、津川義冬、浅井長時との間を離間したのであるが、信雄という人は頗る思慮浅薄であったので、ついにこの策に乗せられてこの三老臣を殺した上に秀吉と絶つに至ったのである。 ところが信雄の力では到底秀吉に敵すべくもあらないので応援を家康に請うたのであるが、この時秀吉からも家康に向かっては種々と勧誘する処があったのである。しかるに家康は秀吉の申込みを斥けて、一には旧誼、一には隣国という地 【欄外】 豊橋市史談 (小牧役と牧野成里) 百三十九

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Komaki Campaign and Makino Narisato) - 138 [Main Text] At the time of the Honnōji Incident, Ieyasu happened to be in Sakai in Settsu Province, but he hastily braved the difficulties of crossing through Iga, emerged at Ise, landed in Mikawa, and from there immediately gathered troops to launch a punitive expedition against Mitsuhide, advancing as far as Owari. However, he received news that Mitsuhide had already been defeated at Yamazaki and killed, so he disbanded his army, as I described previously. At that time in Kōshū there was Kawajiri Higo-no-kami Shigeyoshi serving as guardian for the Oda clan. Ieyasu immediately sent Honda Momosuke to pay his respects. Though Kawajiri and Honda had previously been on intimate terms, at this time Kawajiri greatly suspected Honda's intentions and took advantage of his sleeping to stab him to death. However, the people of the province had been displeased with Kawajiri from the beginning, so uprisings broke out in various places and eventually killed Kawajiri as well, leaving Kōshū completely without a lord. The province fell into great disorder, but Ieyasu seized this opportunity and sent Ōsuga Yasutaka and others leading troops to subjugate the territory. He subsequently sent Ōkubo Tadayo, Ishikawa Yasumitsu, the father and son Honda Hirotaka and others into battle, and before long the province was pacified, with many former retainers of the Takeda clan coming to submit. However, around this time Mori Nagayoshi, an Oda general who was guarding Shinano, also heard of the Honnōji Incident and headed west, so that province too fell into disorder with no unifying authority. Uesugi Kagekatsu of Echigo sent troops to occupy the four districts of Kawanakajima, but Ieyasu also planned to send troops from Kōshū to pacify the region. Thus in the seventh month of that year (Tenshō 10), Ieyasu personally led troops into Kōshū, established himself at Shinpu, and supervised military affairs in the two provinces of Kōshū. However, at this point the neighboring Hōjō Ujimasa could not remain silent, so he had his son Ujinao lead troops through Usui Pass into Shinshū, repeatedly clashing with Tokugawa forces. At this time Sakai Tadatsugu also led various generals and soldiers from eastern Mikawa into Shinshū and achieved many military successes, though there are stories of him quarreling with Ōkubo Tadayo over disagreements when they faced Hōjō forces at Kajigahara. However, I think these details would be too lengthy, so I shall omit them all. Ultimately in the tenth month, Ieyasu and Ujinao made peace, with the Hōjō controlling Jōshū and Ieyasu incorporating the two provinces of Kōshū, and they agreed that Ujinao would marry Ieyasu's daughter Toku-hime. [Header note] Mayor of Toyohashi Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the Toyohashi City history for over a year, and now as the manuscript nears completion... [Left Page] [Header] This Toyohashi City Historical Discussion is published once weekly (Tuesdays) and presented to readers of the San'yō Shimbun [Main Text] In this way, Ieyasu came to possess not only the three provinces of Mikawa, Enshu, and Suruga, but also gained control of the two provinces of Kōshū. In the twelfth month he had Hiraiwa Chikayoshi guard Kōfu, Torii Mototada pacify Tsuru District in Kōshū, appointed Naruse Issai as Kōshū magistrate, and furthermore left Ōkubo Tadayo, Suganuma Daizen and others in Kōshū to defend against Shinshū, while he himself returned to Hamamatsu. In this way Ieyasu's power gradually dominated the Tōkai region and his prestige increased ever more. Roughly speaking, this was the situation: while the Oda clan was embroiled in internal strife between Nobuo and Nobutaka over succession issues, Ieyasu newly pacified the two provinces of Kōshū and made them his territory, essentially gaining the fisherman's profit. At that time his relationship with Hideyoshi appeared extremely amicable. Indeed, when Hideyoshi defeated Shibata Katsuie, Ieyasu sent Ishikawa Kazumasa as an envoy bearing the famous tea bowl "Hatsuhana" to congratulate him on his victory, and Hideyoshi in turn petitioned on Ieyasu's behalf to have him appointed to Junior Third Rank and the position of Councilor, ranks higher than Hideyoshi's own, showing how he sought Ieyasu's favor. However, the cause of the conflict that arose here was the relationship between Nobuo and Hideyoshi. Initially when Nobutaka plotted against Hideyoshi but found himself in desperate straits instead, as I mentioned before, Nobuo rather saw this as beneficial to himself and not only failed to rescue Nobutaka but facilitated his destruction. However, now that Nobutaka was destroyed, he found himself in the isolated position described by the saying "when the lips are gone, the teeth feel cold." Hideyoshi, learning from Nobutaka's situation and thinking that Nobuo would be the next to repeat this pattern, wanted somehow to eliminate him. As one strategy he sowed discord between Nobuo and his senior retainers Okada Shigetaka, Tsugawa Yoshifuyu, and Asai Nagatoki. But Nobuo was quite shallow in his thinking, so he ultimately fell for this scheme, killed these three senior retainers, and broke with Hideyoshi. However, Nobuo's strength was insufficient to oppose Hideyoshi, so he requested assistance from Ieyasu. At this time Hideyoshi also made various overtures trying to win over Ieyasu. But Ieyasu rejected Hideyoshi's proposals, citing both old friendship and their status as neighboring domains... [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Komaki Campaign and Makino Narisato) - 139