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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 84

ページ: 84

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【欄外】    豊橋市史談  (小牧役と牧野成里)                    百四十 【本文】        理(り)の関係(くわんけい)から遂(つひ)に信雄(のぶを)を援(たす)くる事(こと)に至(いた)つたので之(これ)が即(すなは)ち小牧役(こまきえき)の発端(はつたん)とも云(い)ふべきである       ソコで家康(いへやす)が自(みづか)ら浜松(はままつ)を発(はつ)して尾張(をはり)に向(むか)つたのは天正(てんせう)十二年の三月七日であるが浜松(はままつ)には大久保忠世(おほくぼたゞよ)       を留守居(るすゐ)に置(お)き又(ま)た近来(きんらい)姻戚関係(ゐんせきくわんけい)は出来(でき)たものゝ最(もつと)も疑惧(ぎぐ)したのは北條氏(ほうでうし)であるから駿相(すんさう)の境(さかひ)に当(あた)る        長窪(ながぐは)に牧野右馬允康成(まきのうまのぜうやすなり)を置き(お)興国寺城(こうこくじじよう)には天野康景(あまのやすかげ)を置(お)くと云(い)ふ工合(ぐあひ)に注意(ちうゐ)を怠(おこた)らなかつたのみなら       ず北條氏(ほうでうし)から云ふと敵(てき)に当(あた)る処(ところ)の佐竹氏(さたけし)にも好(よしみ)を通(つう)ぜむとしたのであるが此(この)佐竹氏(さたけし)は恰(あたか)も秀吉(ひでよし)からも        礼遇(れいぐう)を受(う)けて殆(ほとん)ど双方(そうほう)から引張(ひつぱ)り合(あ)ひに遇(あ)つたと云ふ状態(ぜうたい)であつた其(その)他(た)此(この)東軍(とうぐん)の側(がは)に於(おい)ては先(ま)づ佐々(さゝ)        成政(なりまさ)に通(つう)じて加賀(かゝ)越前(ゑつぜん)を図(はか)らしめ長宗我部元親(ちようそがべもとちか)に結(むす)むで四 国(こく)から大阪(おほさか)を窺(うかゞ)ふ事(こと)を計(はか)り紀州(きしう)雑賀党(ざうがとう)や本(ほん)        願寺(ぐわんじ)一 派(ぱ)をも誘(いざな)つて秀吉(ひでよし)の後(あと)を衝(つ)かしめむとするなど外交政策(ぐわいこうせいさく)は中々(なか〳〵)広(ひろ)く行(おこな)はれたもので之(これ)に向(むか)つて       は秀吉(ひでよし)も亦(ま)たヌカらず対抗策(たいこうさく)を弄(ろう)したのであるが一 方(ぽう)には大垣(おほがき)の池田信輝(いけだのぶてる)並(ならび)に金山(かなやま)に居(を)つた森長可(もりながよし)を        誘(いざな)つて味方(みかた)となし更(さら)に瀧川一益(たきがはかづます)をも起(おこ)して伊勢(いせ)五 郡(ぐん)を与(あた)へ之(これ)に伊勢(いせ)の故旧(こきう)を集(あつ)めしめて第一に信雄(のぶを)の        所領(しよれう)を掠奪(れうだつ)せしめたのである       ソコで戦(たゝかひ)は先(ま)づ伊勢(いせ)から始(はじ)まつたのであるが信雄(のぶを)は三月九日に其(その)将(せう)佐久間正勝(さくままさかつ)等(ら)をして関信盛(せきのぶもり)父子(ふし) 峰城    の籠(こも)れる亀山(かめやま)の城(しろ)を攻(せ)めしめ別(べつ)に峰(みね)の故城(こじよう)を修築(しうちく)して秀吉(ひでよし)の来攻(らいこう)に備(そな)へたが秀吉(ひでよし)は蒲生氏郷(がまふうぢさと)瀧川一益(たきがはかづます)        等(ら)をして急(きう)に此(この)峰城(みねのしろ)を攻(せ)めしめたので信雄(のぶを)は犬山城主(いぬやまじようしゆ)中川貞成(なかがはさだなり)等(ら)をして正勝(まさかつ)に応援(おうゑん)せしめたが遂(つひ)に支(さゝ)       ゆることが出来(でき)なくて孰(いづ)れも長島城(ながしまじよう)まで引退(ひきしりぞ)かむとしたのである然(しか)るに追撃(つひげき)が急(きう)で貞成(さだなり)は途(みち)に敵(てき)の為(ため)に 《割書:忠次桑名に|陣す》   要撃(えうげき)せられ頗(すこぶ)る苦戦(くせん)に陥(おちい)つたのであるが此(この)時(とき)酒井忠次(さかゐたゞつぐ)は家康(いへやす)の命(めい)により東(とう)三の諸勢(しよぜい)を率(ひき)ゐ援軍(ゑんぐん)として        桑名(くわな)まで出陣(しゆつぢん)したので氏郷(うぢさと)一益(かづます)等(ら)も一 時(じ)兵(へい)を退(しりぞ)くるに至(いた)つたのである之(これ)より尾張(をはり)の西南部(せいなんぶ)並(ならび)に伊勢(いせ)地(ち) 犬山城陥る  方(ほう)に大小(だいせう)の数戦(すうせう)があつたが更(さら)に尾張(おはり)の東北部(とうほくぶ)に於(おい)ても別(べつ)に戦端(せんたん)が開(ひら)かれたのでそれは今度(このたび)秀吉(ひでよし)方(がた)に属(ぞく) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百八十九号附録   ( 明治四十四年十月十七日発行 ) 【本文】       した池田信輝(いけだのぶてる)が犬山城(いぬやまじよう)を襲(おそ)つたからである元来(がんらい)信輝(のぶてる)は前(まへ)にも申述(もうしの)べた通(とほ)り大垣(おほがき)に居(を)つたのであるが犬(いぬ)        山(やま)の城主(じようしゆ)中川貞成(なかがはさだなり)は峰城(みねのしろ)に応援(おうゑん)の為(た)め其(その)居城(きよじよう)をば叔父(おぢ)の僧(そう)清蔵主(せいぞうしゆ)に任(まか)せて伊勢(いせ)に出陣(しゆつぢん)したので此(この)事(こと)を        偵知(ていち)した信輝(のぶてる)は其(その)機(き)乗(ぜう)すべしとなしたのである殊(こと)に信輝(のぶてる)は嘗(かつ)て犬山城(いぬやまじよう)に居(を)つた事があるので勝手(かつて)の明(あきら)       かである事から三月十三日の夜陰(やいん)自(みづか)ら大垣(おほがき)を発(はつ)して直(たゞ)ちに襲撃(しうげき)を試(こゝろ)みたのであるが果(はた)して城(しろ)は忽(たちま)ち陥(おちい)       り清蔵主(せいぞうしゆ)は戦死(せんし)したので信輝(のぶてる)は其(その)子(こ)之助(やすすけ)と共(とも)に城(しろ)に入(い)り十五日 更(さら)に小牧山(こまきやま)附近(ふきん)に進(すゝ)むで近郷(きんごう)に放火(はうか)し       たのである此(この)時(とき)信雄(のぶを)は長島(ながしま)から清洲城(きよすじよう)に移(うつ)つて居(を)つたが家康(いへやす)も亦(ま)た十三日に此処(こゝ)に到着(とうちやく)して信雄(のぶを)に会(くわい)        見(けん)し且(か)つ右(みぎ)の報知(ほうち)を得(え)たので直(たゞ)ちに忠次(たゞつぐ)等(ら)を桑名(くわな)から呼寄(よびよ)せて其(その)衛(ゑい)としたのであるが前(まへ)にも一寸(ちよつと)申述(もうしのべ) 《割書:忠次長可を|羽黒に破る》  た如(ごと)く此(この)時(とき)信輝(のぶてる)の聟(むこ)森長可(もりながよし)も亦(ま)た秀吉(ひでよし)に応(おう)じたので美濃国(みのゝくに)金山(かなやま)の城(しろ)から出(い)でゝ尾張(おはり)の羽黒(はぐろ)を掠(かす)めたが        家康(いへやす)は忠次(たゞつぐ)の意見(いけん)を容(い)れて先(ま)づ之(これ)を攻(せ)めしめたのである即(すなは)ち忠次(たゞつぐ)は奥平信昌(おくだひらのぶまさ)松平家忠(まつだひらいへたゞ)等(ら)を初(はじ)め東三の        諸士(しよし)を率(ひき)ゐて之(これ)に当(あた)り大(おほい)に長可(ながよし)の軍(ぐん)を敗(やぶ)つたのである其(その)時(とき)信昌(のぶまさ)が勇敢(ゆうかん)の働(はたらき)をした事は色々(いろ〳〵)の記録(きろく)に        載(の)つて居(を)る事であるが此処(こゝ)には只(た)だ其(その)大要(たいえう)を申述(もうしの)ぶるに止(とゞ)めたいと思(おも)ふ而(しか)して此(この)時(とき)信輝(のぶてる)は長可(ながよし)の敗(はい)を        聞(き)いて之(これ)を援(たす)けむとしたのであるが諌(いさ)むる者(もの)があつて果(はた)さなかつた而(しか)も家康(いへやす)も亦(ま)た直(たゞ)ちに忠次(たゞつぐ)等(ら)を呼(よ)       び返(かへ)したのである 《割書:家康塁を小|牧山に搆ふ》  ソコで家康(いへやす)は先(ま)づ小牧山(こまきやま)に陣(ぢん)を搆(かま)へたのであるが此処(こゝ)には本多広孝(ほんだひろたか)を主将(しゆせう)として準備(じゆんび)オサ〳〵怠(おこた)りな       かつたのである然(しか)るに其(その)頃(ころ)秀吉(ひでよし)は大坂(おほさか)に築城中(ちくじようちう)で其処(そこ)に居(を)つたのであるが三月十九日に大坂(おほさか)を発(はつ)し尾(お)        張(はり)に向(むか)はむとしたトコロが紀伊(きい)雑賀(ざつが)根来(ねごろ)の一 揆(き)が信雄(のぶを)家康(いへやす)の誘導(ゆうどう)に応(おう)じて大坂(おほさか)に攻(せ)め寄(よ)せんとしたの 《割書:秀吉犬山に|至る》  で其(その)意(い)の如(ごと)くに運(はこ)ぶ事が出来(でき)ずヨウ〳〵廿一日に至(いた)つて大坂(おほさか)を発(はつ)し廿七日に犬山(いぬやま)に来(きた)つて楽田(がくでん)、 羽黒(はぐろ)        返(へん)を巡視(じゆんし)し小牧山(こまきやま)に対(たい)して塁(るい)を搆(かま)へしめたのである此(この)時(とき)秀吉(ひでよし)の兵力(へいりよく)は十二万五千と称(せう)したとの事であ 【欄外】    豊橋市史談  (小牧役と牧野成里)                    百四十一

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (小牧役と牧野成里) 百四十 【本文】 理の関係から遂に信雄を援助することに至ったので、これが即ち小牧役の発端とも言うべきである。 そこで家康が自ら浜松を発して尾張に向かったのは天正十二年の三月七日であるが、浜松には大久保忠世を留守居に置き、また近来姻戚関係は出来たもののもっとも疑念を抱いたのは北条氏であるから、駿相の境に当たる長窪に牧野右馬允康成を置き、興国寺城には天野康景を置くという具合に注意を怠らなかっただけでなく、北条氏から言うと敵に当たる処の佐竹氏にも好誼を通じようとしたのであるが、この佐竹氏は恰も秀吉からも礼遇を受けて殆ど双方から引っ張り合いに遭ったという状態であった。 その他この東軍の側においてはまず佐々成政に連絡して加賀越前を謀らしめ、長宗我部元親に結んで四国から大阪を窺うことを計り、紀州雑賀党や本願寺一派をも誘って秀吉の後を衝かしめようとするなど外交政策は中々広く行われたもので、これに向かって秀吉もまた抜かりなく対抗策を弄したのであるが、一方には大垣の池田信輝並びに金山にいた森長可を誘って味方となし、更に滝川一益をも起こして伊勢五郡を与え、これに伊勢の故旧を集めさせて第一に信雄の所領を掠奪させたのである。 そこで戦いはまず伊勢から始まったのであるが、信雄は三月九日にその将佐久間正勝等をして関信盛父子の籠もれる亀山の城を攻めさせ、別に峰の故城を修築して秀吉の来攻に備えたが、秀吉は蒲生氏郷、滝川一益等をして急にこの峰城を攻めさせたので、信雄は犬山城主中川貞成等をして正勝に応援させたが遂に支えることが出来なくて何れも長島城まで引き退こうとしたのである。しかるに追撃が急で貞成は途中敵のために要撃され頗る苦戦に陥ったのであるが、この時酒井忠次は家康の命により東三の諸勢を率いて援軍として桑名まで出陣したので、氏郷、一益等も一時兵を退くるに至ったのである。これより尾張の西南部並びに伊勢地方に大小の数戦があったが、更に尾張の東北部においても別に戦端が開かれた。それは今度秀吉方に属 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百八十九号附録 (明治四十四年十月十七日発行) 【本文】 した池田信輝が犬山城を襲ったからである。元来信輝は前にも述べた通り大垣にいたのであるが、犬山の城主中川貞成は峰城に応援のためその居城をば叔父の僧清蔵主に任せて伊勢に出陣したので、この事を偵知した信輝はその機に乗ずべしとなしたのである。殊に信輝は嘗て犬山城にいた事があるので勝手が明らかである事から、三月十三日の夜陰自ら大垣を発して直ちに襲撃を試みたのであるが、果たして城は忽ち陥落し清蔵主は戦死したので、信輝はその子之助と共に城に入り、十五日更に小牧山付近に進んで近郷に放火したのである。 この時信雄は長島から清洲城に移っていたが、家康もまた十三日にここに到着して信雄に会見し且つ右の報知を得たので、直ちに忠次等を桑名から呼び寄せてその衛としたのであるが、前にも一寸述べた如くこの時信輝の聟森長可もまた秀吉に応じたので、美濃国金山の城から出でて尾張の羽黒を掠めたが、家康は忠次の意見を容れてまずこれを攻めさせたのである。即ち忠次は奥平信昌、松平家忠等を初め東三の諸士を率いてこれに当たり、大いに長可の軍を敗ったのである。 その時信昌が勇敢な働きをした事は色々の記録に載っている事であるが、ここには只その大要を述べるに止めたいと思う。而してこの時信輝は長可の敗を聞いてこれを援けようとしたのであるが、諌める者があって果たさなかった。而も家康もまた直ちに忠次等を呼び返したのである。 そこで家康はまず小牧山に陣を構えたのであるが、ここには本多広孝を主将として準備おさおさ怠りなかったのである。しかるにその頃秀吉は大坂に築城中でそこにいたのであるが、三月十九日に大坂を発し尾張に向かおうとしたところが、紀伊雑賀、根来の一揆が信雄、家康の誘導に応じて大坂に攻め寄せんとしたので、その意の如くに運ぶ事が出来ずようやく二十一日に至って大坂を発し、二十七日に犬山に来たって楽田、羽黒辺を巡視し小牧山に対して塁を構えさせたのである。この時秀吉の兵力は十二万五千と称したとの事である。 【欄外】 豊橋市史談 (小牧役と牧野成里) 百四十一

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Komaki Campaign and Makino Narisato) - 140 [Main Text] ...and thus came to assist Nobuo based on these considerations of old friendship and neighboring domain status. This can be said to be the beginning of the Komaki Campaign. Ieyasu personally departed Hamamatsu for Owari on the seventh day of the third month of Tenshō 12 (1584). He left Ōkubo Tadayo as caretaker in Hamamatsu, and though he had recently established marriage ties [with the Hōjō], he was most suspicious of the Hōjō clan, so he stationed Makino Uma-no-jō Yasunari at Nagakubo on the border between Suruga and Sagami provinces, and placed Amano Yasukage at Kōkokuji Castle, showing careful attention to these matters. Moreover, he sought to establish friendly relations with the Satake clan, who were enemies of the Hōjō from their perspective, but the Satake were also receiving courteous treatment from Hideyoshi and found themselves in a situation of being pulled from both sides. Furthermore, on the eastern army's side, diplomatic policies were conducted quite broadly: first communicating with Sassa Narimasa to have him scheme in Kaga and Echizen, allying with Chōsokabe Motochika to plan an attack on Osaka from Shikoku, and inducing the Kishū Saika Party and Honganji faction to strike at Hideyoshi's rear. Against this, Hideyoshi also skillfully employed countermeasures, persuading Ikeda Nobuteru of Ōgaki and Mori Nagayoshi who was at Kanayama to become his allies, and furthermore raising Takigawa Kazumasu, granting him five districts of Ise, having him gather former Ise retainers, and first having them plunder Nobuo's territory. The fighting thus began first in Ise. On the ninth day of the third month, Nobuo had his general Sakuma Masakatsu and others attack Kameyama Castle where Seki Nobumori and his son had taken refuge, and separately rebuilt the old Minejo Castle to prepare for Hideyoshi's attack. However, Hideyoshi had Gamō Ujisato, Takigawa Kazumasu and others quickly attack this Minejo Castle, so Nobuo had the lord of Inuyama Castle, Nakagawa Sadanari and others reinforce Masakatsu, but ultimately they could not hold out and all attempted to retreat to Nagashima Castle. However, the pursuit was fierce and Sadanari was ambushed by the enemy en route and fell into a desperate battle. At this time Sakai Tadatsugu, following Ieyasu's orders, led various forces from eastern Mikawa as reinforcements and advanced to Kuwana, so Ujisato, Kazumasu and others temporarily withdrew their troops. From this point there were numerous battles large and small in southwestern Owari and the Ise region, but additionally fighting broke out separately in northeastern Owari, because Ikeda Nobuteru, who had now joined Hideyoshi's side... [Left Page] [Header] San'yō Shimbun No. 3889 Supplement (Published October 17, Meiji 44) [Main Text] ...attacked Inuyama Castle. Originally, as I mentioned before, Nobuteru was stationed at Ōgaki, but since Nakagawa Sadanari, lord of Inuyama Castle, had left his castle in the care of his uncle, the monk Sei Zōshu, and departed for Ise to reinforce Minejo Castle, Nobuteru, learning of this situation, decided to seize the opportunity. Particularly since Nobuteru had once resided in Inuyama Castle and knew it well, on the night of the thirteenth day of the third month he personally departed Ōgaki and immediately attempted an assault. The castle indeed fell quickly, Sei Zōshu died in battle, and Nobuteru entered the castle with his son Yasunosuke. On the fifteenth day he advanced further toward the vicinity of Komakiyama and set fires in the surrounding villages. At this time Nobuo had moved from Nagashima to Kiyosu Castle, and Ieyasu also arrived there on the thirteenth day to meet with Nobuo. Upon receiving the above reports, he immediately summoned Tadatsugu and others from Kuwana to serve as his guard. As I mentioned briefly before, at this time Nobuteru's son-in-law Mori Nagayoshi also responded to Hideyoshi's call, emerging from Kanayama Castle in Mino Province to raid Haguro in Owari. Ieyasu accepted Tadatsugu's counsel and first had him attack this force. Tadatsugu led Okudar Nobumasa, Matsudaira Ietada and other retainers from eastern Mikawa against them and greatly defeated Nagayoshi's army. At that time Nobumasa's brave actions are recorded in various documents, but here I wish to limit myself to describing only the main points. When Nobuteru heard of Nagayoshi's defeat and tried to assist him, there were those who remonstrated against it and he did not act. Moreover, Ieyasu also immediately recalled Tadatsugu and others. Ieyasu then first established his position at Komakiyama, where he had Honda Hirotaka as commanding general with thorough preparations. However, at that time Hideyoshi was in Osaka constructing a castle there. He departed Osaka on the nineteenth day of the third month intending to head for Owari, but the Kii Saika and Negoroji rebels responded to the inducements of Nobuo and Ieyasu and threatened to attack Osaka, so things did not proceed as planned. Finally on the twenty-first day he departed Osaka, arrived at Inuyama on the twenty-seventh day, inspected the Gakuden and Haguro areas, and had fortifications constructed facing Komakiyama. At this time Hideyoshi's military strength was said to number 125,000. [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Komaki Campaign and Makino Narisato) - 141