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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 85

ページ: 85

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【欄外】    豊橋市史談  (小牧役と牧野成里)                    百四十二 【本文】       るが互(たがひ)に動静(どうせい)を窺(うかゞ)つて共(とも)に兵(へい)を動(うご)かさなかつた然(しか)るに信輝(のぶてる)長可(ながよし)は頻(しき)りに此(この)虚(きよ)に乗(ぜう)じて三 河(かは)を衝(つ)かむと 長久手会戦 云ふので其(その)実行(じつこう)を秀吉(ひでよし)に強請(きようせい)したから秀吉(ひでよし)も遂(つひ)に之(これ)を許(ゆる)したのであるが之(これ)が長久手(ながくて)会戦(くわいせん)の起(おこ)つた所以(ゆえん)       で結局(けつきよく)西軍(せいぐん)は賤(しづ)ケ岳(たけ)の時(とき)柴田勢(しばたぜい)のやつた覆轍(ふくてつ)を踏(ふ)むだ訳(わけ)になつたのである 《割書:信輝支隊を|率ゐて西三》  サテ池田信輝(いけだのぶてる)は其(その)頃(ころ)薙髪(ちはつ)して勝入(かついり)と称(せう)して居(を)つたが森長可(もりながよし)は前(まへ)にも申述(もうしの)べた如(ごと)く其(その)聟(むこ)である之(これ)に同(おな)じ 《割書:河に侵入せ|むとす》   女婿(ぢよせい)の三好秀次(みよしひでつぐ)が加(くは)はつて更(さら)に秀吉(ひでよし)から軍監(ぐんかん)とも云ふべき訳(わけ)で寄越(よこ)した堀秀政(ほりひでまさ)を加(くは)へ之(これ)を四 隊(たい)に分(わか)ち       第一 隊(たい)は総指揮者(そうしきしや)たる勝入(かついり)が自(みづか)ら之(これ)を率(ひき)ひ兵(へい)凡(およそ)六千人第二 隊(たい)は森長可(もりながよし)が之(これ)を率(ひき)ゐて兵(へい)凡(およそ)三千人第三       隊は堀秀政(ほりひでまさ)が之(これ)を率(ひき)ゐて兵(へい)凡(およそ)三千人第四隊は三好秀次(みよしひでつぐ)が之(これ)を率(ひき)ゐて兵(へい)凡(およそ)八千人と云ふのでイヨ〳〵一       支 隊(たい)を編成(へんせい)して四月六日の夜半(やはん)から其(その)陣地(ぢんち)、 小口(おぐち)、 楽田(がくでん)附近(ふきん)を出発(しゆつぱ)して潜(ひそ)かに西三河に入(い)り岡崎(をかざき)を撃(しう) 篠木柏井   撃(げき)すると云ふ目的(もくてき)で行進(こうしん)を初(はじ)めたのであるが七日は関田(せきだ)から篠木(しのぎ)、 柏井(かしわい)地方(ちはう)に至(いた)り砦(とりで)を築(きづ)いて各(かく)隊(たい)宿(しゆく)        営(えい)に就(つ)いたのである而(しか)して八日は早朝(さうてう)に令(れい)を伝(つた)へてイヨ〳〵明(めう)九日は遥(はる)かに東軍(とうぐん)即(すなは)ち徳川(とくがは)織田(をだ)方(がた)の右(う)        翼(よく)を回(まは)つて潜(こつそ)りと長久手(ながくて)藤島(ふじしま)附近(ふきん)から西(にし)三 河(かは)に侵入(しんにう)するのであると云ふことを告(つ)げ其(その)夜(よ)十時 頃(ころ)に至(いた)つて       一 同(どう)宿営(しゆくえい)を撤(てつ)し全軍(ぜんぐん)を二 縦隊(じうたい)に分(わ)けて各(おの〳〵)庄内川(せうないがは)を渡(わた)り再(ふたゝ)び第一隊から順次(じゆんじ)単縦列(たんじうれつ)をなして諏訪(すわ)ケ原(はら)       を過(す)ぎ平子山(ひらこやま)を越(こ)へて印場(いんば)に出(い)で瀬戸街道(せとかいどう)を横(よこ)ぎつて矢田川(やだがは)を渡(わた)つたのであるトコロで此(この)平子山(ひらこやま)の西(せい) 木幡城    麓(ろく)瀬戸街道(せとかいどう)を北(きた)に去(さ)ること遠(とほ)からざる処(ところ)に小幡(こはた)の城(しろ)があつて此処(こゝ)には本多広孝(ほんだひろたか)等(ら)が小牧(こまき)から移(うつ)つて守備(しゆび)       して居(を)つたので云はゞ徳川方(とくがはがた)の最右翼(さいうよく)の後部(こうぶ)に当(あた)つて居(を)つたのであるそれ故(ゆへ)に勝入(かついり)の支隊(したい)は之(これ)に覚(さと)ら       れぬように注意(ちうい)しつゝ更(さら)に香流川(かなれがは)を渡(わた)つて其(その)第一隊は九日の未明(みめい)長久手(ながくて)を過(す)ぎて藤島(ふじしま)方面(はうめん)に進(すゝ)むだの 岩崎城   である然(しか)るに其(その)西北(せいほく)に岩崎城(いわざきじよう)と云ふのがあつて之(これ)には丹羽氏次(にはうぢつぐ)の弟(おとゝ)氏重(うぢしげ)が徳川方(とくがはがた)の為(ため)に留守(るす)をして居(を)       つたので兵数(へいすう)は長久手(ながくて)の領主(れうしゆ)加藤忠景(かとうたゞかげ)を初(はじ)め僅(わづか)に二百三十九人であつたモツトモ城主(じようしゆ)氏次(うぢつぐ)は小牧(こまき)に出(しゆつ) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        陣中(ぢんちう)であつたのであるが氏重(うぢしげ)は此(この)際(さい)敵兵(てきへい)の城下(じようか)を前進(ぜんしん)するのを見(み)て傍観(ばうくわん)すべきにあらずとなして急(きう)に        出撃(しゆつげき)したのであるソコで勝入(かついり)も初(はじめ)は前途(ぜんしん)に大目的(だいもくてき)があるのであるから之(これ)等(ら)には頓着(とんちやく)なく前進(ぜんしん)する考(かんが)で       あつたが城兵(じようへい)の攻撃(こうげき)が余(あま)りに激(はげ)しいので遂(つひ)には大(おほい)に怒(いか)つて此(この)城(しろ)を屠(ほうむ)らむとしたのである即(すなは)ち前衛(ぜんえい)に命(めい) 《割書:丹羽氏重戦|死》  じて之(これ)を攻(せ)めしめたが午前(ごぜん)四時 頃(ごろ)から同(どう)六 時(じ)頃(ごろ)迄(まで)の間(あひだ)に城兵(じようへい)は遂(つひ)に衆寡(しうくわ)敵(てき)せぬので丹羽義次(にはよしつぐ)をして事(じ)        情(ぜう)を小牧(こまき)に報(ほう)ぜしめ其(その)余(よ)は殆(ほとん)ど全部(ぜんぶ)戦死(せんし)したのである此(かく)の如(ごと)く此(この)城(しろ)は忽(たちまち)の中(うち)に勝入(かついり)の手(て)に皈(き)したので       はあるが併(しか)し其(その)間(あひだ)に容易(ようい)ならぬ時間(じかん)と手数(てすう)とを要(えう)することとなつたので此(この)岩崎城(いわさきじよう)に対(たい)する始末(しまつ)の付(つ)く間(あひだ)       は各隊(かくたい)皆(みな)行進(こうしん)を休(やす)むで縦列(じうれつ)のまゝ第一第二 両隊(れうたい)は生牛原(ふぎうばら)、第三隊は金萩原(かねはぎばら)(《割書:孰れも長久|手の南方》)第四隊は白山林(はくさんりん)       (《割書:長久手|の北方》)と云ふように長久手(ながくて)を隔(へだ)てゝ駐屯(ちうとん)して居(を)つたのであるトコロが東軍(とうぐん)即(すなは)ち徳川(とくがは)織田(をた)方(がた)に於(おい)ては七       日の午後四時頃に篠木(しのぎ)の農民(のうみん)から敵兵(てきへい)の其処(そこ)に屯営(とんえい)せる報知(ほうち)を得(え)たのであるが当時(とうじ)家康(いへやす)は遽(にはか)に之(これ)を信(しん)       ぜなかつた然(しか)るに其(その)後(ご)続々(ぞく〴〵)其(その)報告(ほうこく)があるので八日 朝(あさ)に至(いた)つて家康(いへやす)はイヨ〳〵敵兵(てきへい)の目的(もくてき)が岡崎(をかざき)辺(へん)を脅(けう) 家康の追撃  威(い)するにあることを覚(さと)つたので直(たゞ)ちに之(これ)を追撃(つひげき)せむことを欲(ほつ)して先(ま)づ小牧(こまき)の留守(るす)としては酒井忠次(さかゐたゞつぐ)と石川(いしかは)        数正(かづまさ)、 本多忠勝(ほんだたゞかつ)等(ら)を置(お)いて織田勢(をたぜい)を合(あは)せて兵(へい)凡(およ)そ六千五百余人を残(のこ)し自(みづか)らは信雄(のぶを)と共(とも)に兵(へい)九千三百余       を率(ひき)ゐ井伊直正(ゐいなほまさ)を前衛(ぜんえい)として此(この)日(ひ)の午後八時 潜(ひそか)に小牧(こまき)を発(はつ)して勝川(かつがは)を経(へ)夜半(やはん)十二時頃には既(すで)に小幡城(こはたのしろ) 水野支隊  に入(い)つたのであるモツトモ家康(いへやす)は別(べつ)に水野忠重(みづのたゞしげ)等(ら)に兵(へい)三千を随(したが)へて己(おの)れに先(さきだ)つこと一時間前に小牧(こまき)を発(はつ)       せしめたが之(これ)は午後十時頃には小幡城(こはたのしろ)に達(たつ)したので直(たゞ)ちに守将(しゆせう)本多広孝(ほんだひろたか)と議(ぎ)して斥候(せつこう)を放(はな)ち敵情(てきぜう)を探(さぐ)       らしめて大略(たいりやく)其(その)進路(しんろ)並(ならび)に勢力(せいりよく)等(とう)を知(し)つたのであるソコで家康(いへやす)は先(ま)づ此(この)水野隊(みづのたい)をして敵(てき)の後列(こうれつ)を襲(おそ)はし       め己(おの)れは敵(てき)の中央(ちうおう)に出(い)でゝ其(その)兵力(へいりよく)を両断(れうだん)し而(しか)して先頭(せんとう)部隊(ぶたい)に当(あた)らむと決心(けつしん)し其(その)手筈(てはづ)を定(さだ)めて其(その)夜(よ)午前       二時頃 水野隊(みづのたい)をして先(ま)づ出発(しゆつぱつ)せじめたのであるが水野隊(みづのたい)は又(ま)た之(これ)を三 隊(たい)に区分(くぶん)して右翼隊(うよくたい)は大須賀康(おほすがやす) 【欄外】    豊橋市史談  (小牧役と牧野成里)                    百四十三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (小牧役と牧野成里) 百四十二 【本文】 るが互いに動静を窺って共に兵を動かさなかった。しかるに信輝、長可は頻りにこの虚に乗じて三河を衝こうと言うので、その実行を秀吉に強請したから、秀吉も遂にこれを許したのであるが、これが長久手会戦の起こった所以で、結局西軍は賤ヶ岳の時に柴田勢のやった覆轍を踏んだわけになったのである。 さて池田信輝はその頃剃髪して勝入と称していたが、森長可は前にも述べた如くその聟である。これに同じ女婿の三好秀次が加わって、更に秀吉から軍監とも言うべき役で寄越した堀秀政を加え、これを四隊に分かち、第一隊は総指揮者たる勝入が自らこれを率い兵凡そ六千人、第二隊は森長可がこれを率いて兵凡そ三千人、第三隊は堀秀政がこれを率いて兵凡そ三千人、第四隊は三好秀次がこれを率いて兵凡そ八千人ということで、いよいよ一支隊を編成して四月六日の夜半からその陣地、小口、楽田付近を出発して密かに西三河に入り岡崎を撃撃するという目的で行進を初めたのであるが、七日は関田から篠木、柏井地方に至り砦を築いて各隊宿営に就いたのである。 而して八日は早朝に令を伝えて、いよいよ明九日は遥かに東軍即ち徳川織田方の右翼を回って密かに長久手、藤島付近から西三河に侵入するのであるということを告げ、その夜十時頃に至って一同宿営を撤し、全軍を二縦隊に分けて各々庄内川を渡り、再び第一隊から順次単縦列をなして諏訪ケ原を過ぎ、平子山を越えて印場に出で、瀬戸街道を横切って矢田川を渡ったのである。 ところでこの平子山の西麓、瀬戸街道を北に去ること遠からざる処に小幡の城があって、ここには本多広孝等が小牧から移って守備していたので、言わば徳川方の最右翼の後部に当たっていたのである。それ故に勝入の支隊はこれに覚られぬように注意しつつ、更に香流川を渡ってその第一隊は九日の未明長久手を過ぎて藤島方面に進んだのである。 然るにその西北に岩崎城というのがあって、これには丹羽氏次の弟氏重が徳川方のために留守をしていたので、兵数は長久手の領主加藤忠景を初め僅かに二百三十九人であった。もっとも城主氏次は小牧に出 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその博識なる知識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 陣中であったのであるが、氏重はこの際敵兵の城下を前進するのを見て傍観すべきにあらずとなして急に出撃したのである。そこで勝入も初めは前途に大目的があるのであるから、これ等には頓着なく前進する考えであったが、城兵の攻撃が余りに激しいので遂には大いに怒ってこの城を屠ろうとしたのである。即ち前衛に命じてこれを攻めさせたが、午前四時頃から同六時頃までの間に城兵は遂に衆寡敵せぬので、丹羽義次をして事情を小牧に報ぜしめ、その余は殆ど全部戦死したのである。 かくの如くこの城は忽ちの中に勝入の手に帰したのではあるが、しかしその間に容易ならぬ時間と手数とを要することとなったので、この岩崎城に対する始末の付く間は各隊皆行進を休んで縦列のまま、第一第二両隊は生牛原、第三隊は金萩原(いずれも長久手の南方)、第四隊は白山林(長久手の北方)というように長久手を隔てて駐屯していたのである。 ところが東軍即ち徳川織田方においては、七日の午後四時頃に篠木の農民から敵兵のそこに屯営せる報知を得たのであるが、当時家康は俄にこれを信じなかった。しかるにその後続々その報告があるので、八日朝に至って家康はいよいよ敵兵の目的が岡崎辺を脅威するにあることを覚ったので、直ちにこれを追撃せんことを欲して、先ず小牧の留守としては酒井忠次と石川数正、本多忠勝等を置いて織田勢を合わせて兵凡そ六千五百余人を残し、自らは信雄と共に兵九千三百余を率い、井伊直正を前衛としてこの日の午後八時密かに小牧を発して勝川を経、夜半十二時頃には既に小幡城に入ったのである。 もっとも家康は別に水野忠重等に兵三千を随えて己れに先だつこと一時間前に小牧を発せしめたが、これは午後十時頃には小幡城に達したので、直ちに守将本多広孝と議して斥候を放ち敵情を探らしめて、大略その進路並びに勢力等を知ったのである。そこで家康は先ずこの水野隊をして敵の後列を襲わしめ、己れは敵の中央に出でてその兵力を両断し、而して先頭部隊に当たろうと決心し、その手筈を定めてその夜午前二時頃水野隊をして先ず出発せしめたのであるが、水野隊はまたこれを三隊に区分して、右翼隊は大須賀康 【欄外】 豊橋市史談 (小牧役と牧野成里) 百四十三

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Komaki Campaign and Makino Narisato) - 142 [Main Text] ...but they watched each other's movements and neither side moved their forces. However, Nobuteru and Nagayoshi frequently urged taking advantage of this opening to strike at Mikawa, and they pressed Hideyoshi to implement this plan. Hideyoshi finally gave his permission, which became the cause of the Battle of Nagakute. In the end, the western army repeated the same mistake made by the Shibata forces at Shizugatake. Now, Ikeda Nobuteru had shaved his head by this time and was calling himself Katsuiri, and Mori Nagayoshi was his son-in-law as mentioned before. To these was added another son-in-law, Miyoshi Hidetsugu, and furthermore Hori Hidemasa, who had been sent by Hideyoshi as something like a military supervisor. They divided this force into four units: the first unit led by Katsuiri himself as overall commander with about 6,000 troops, the second unit led by Mori Nagayoshi with about 3,000 troops, the third unit led by Hori Hidemasa with about 3,000 troops, and the fourth unit led by Miyoshi Hidetsugu with about 8,000 troops. Thus organized as a detachment, they began their march on the night of the sixth day of the fourth month, departing from their positions around Oguchi and Gakuden with the objective of secretly entering western Mikawa and attacking Okazaki. On the seventh day they reached the Shinogi and Kashiwai areas from Sekida, built fortifications, and each unit made camp. On the eighth day, early in the morning they transmitted orders that on the bright ninth day they would circle far around the right flank of the eastern army - that is, the Tokugawa-Oda forces - and secretly infiltrate western Mikawa from the vicinity of Nagakute and Fujishima. Around ten o'clock that night, they all broke camp, divided the entire army into two columns, crossed the Shōnai River respectively, then reformed into single file starting with the first unit, passed Suwagahara, crossed Hirakoyama, emerged at Inba, crossed the Seto highway, and forded the Yada River. Now, at the western foot of this Hirakoyama, not far north of the Seto highway, there was Obata Castle, where Honda Hirotaka and others had moved from Komaki to maintain defense. This was positioned at the rear of what could be called the extreme right wing of the Tokugawa forces. Therefore, Katsuiri's detachment proceeded with care not to be detected by them, crossing the Kanare River, and the first unit passed through Nagakute at dawn on the ninth day, advancing toward the Fujishima area. However, to the northwest there was a castle called Iwasaki Castle, where Niwa Ujishige, younger brother of Niwa Ujitsugu, was maintaining guard for the Tokugawa side. The garrison numbered only 239 men including Katō Tadakage, lord of Nagakute, and others. The castle lord Ujitsugu was at Komaki in the field... [Left Page] [Header] This Toyohashi City Historical Discussion is published once weekly (Tuesdays) and presented to readers of the San'yō Shimbun [Main Text] ...but Ujishige, seeing the enemy troops advancing below the castle, decided he should not stand by as a mere observer and suddenly launched an attack. Initially Katsuiri had intended to advance without concern for such matters since he had a great objective ahead, but the castle garrison's attacks were so fierce that he became greatly angered and decided to destroy this castle. He ordered his vanguard to attack it, and between about 4 AM and 6 AM the castle garrison, being vastly outnumbered, had Niwa Yoshitsugu report the situation to Komaki while almost all the rest died in battle. Thus this castle fell into Katsuiri's hands in a short time, but considerable time and effort were required in the process. While dealing with Iwasaki Castle, all units halted their advance and remained in column formation: the first and second units at Fugyūbara, the third unit at Kanehagibara (both south of Nagakute), and the fourth unit at Hakusanrin (north of Nagakute), stationed across from Nagakute. Meanwhile, on the eastern army side - that is, the Tokugawa-Oda forces - around 4 PM on the seventh day they received reports from farmers in Shinogi that enemy troops were encamped there, but Ieyasu did not immediately believe this. However, as such reports continued to arrive, by the morning of the eighth day Ieyasu finally realized that the enemy's objective was to threaten the Okazaki area. He immediately decided to pursue them, first leaving Sakai Tadatsugu, Ishikawa Kazumasa, Honda Tadakatsu and others as guards at Komaki along with Oda forces totaling about 6,500 men. He himself led about 9,300 troops together with Nobuo, with Ii Naomasa as vanguard, secretly departing Komaki at 8 PM that day via Katsugawa, and by midnight had already entered Obata Castle. Ieyasu had separately sent Mizuno Tadashige and others with 3,000 troops to depart Komaki one hour ahead of him. They reached Obata Castle around 10 PM, immediately consulted with the defending general Honda Hirotaka, sent out scouts to investigate the enemy situation, and learned roughly their route of advance and strength. Ieyasu decided to first have this Mizuno unit attack the enemy's rear guard while he would strike at the enemy center to divide their forces in two, then engage their leading units. Having arranged these plans, around 2 AM that night he had the Mizuno unit depart first. The Mizuno unit was further divided into three units, with the right wing unit under Ōsuga Yasu... [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Komaki Campaign and Makino Narisato) - 143