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【欄外】
豊橋市史談 (小牧役と牧野成里) 百四十四
【本文】
高(たか)之(これ)を率(ひき)ゐ左翼隊(さよくたい)は榊原康政(さかきばらやすまさ)が率(ひき)ゐて忠重(たゞしげ)は自(みづか)ら予備隊(よびたい)を率(ひき)ゐたのである而(しか)して初(はじ)めから郷導(きようどう)の任(にん)に
白山林の戦 当(あた)つた岩崎城主(いわさきじようしゆ)丹羽氏次(にはうじつぎ)は尚(な)ほ之(これ)が郷導(きようどう)をなしたのであるソコで此(この)右翼隊(うよくたい)と予備隊(よびたい)とは猪子石原(ゐのこいしはら)を経(へ)
て直(たゞ)ちに白山林(はくさばやや)にある敵(てき)の後列(こうれつ)第四隊に逼(せま)つたのであるが左翼隊(さよくたい)は瀬戸街道(せとかいどう)を通(とほ)つて稲葉(いなば)に出(い)で迂回(うくわい)
して敵(てき)隊(たい)の左側(さそく)に当(あた)つたので此(この)戦闘(せんとう)の開始(かいし)は九日の黎明(れいめい)であつたが敵(てき)の第四隊は実(じつ)に不意(ふい)の襲撃(しうげき)で殊(こと)
細ケ根 に夾撃(きうげき)の状(ぜう)に陥(おちい)つたのであるからサン〴〵の体(てい)で敗走(はいそう)し隊長(たいてう)秀次(ひでつぐ)は香流川(かなれがは)を渉(わた)つて長久手(ながくて)附近(ふきん)の細(さい)ケ
根(ね)と云ふ処に拠(よ)つたが東軍(とうぐん)の追撃(つひげき)が激(はげ)しくて纔(わづか)に身(み)を以(もつ)て逃(のが)るゝに至(いた)つたのである此(こゝ)に於(おい)ては所謂(いはゆる)騎(き)
虎(こ)の勢(いきほひ)で東軍(とうぐん)支隊(したい)は何処(どこ)迄(まで)も前進(ぜんしん)するので忠重(たゞしげ)は之(これ)を制(せい)したが到底(とうてい)号令(ごうれい)が行(おこな)はれぬ然(しか)るに此(この)時(とき)西軍(せいぐん)
即(すなは)ち勝入(しようにう)の率(ひき)ゆる支隊(したい)の第三隊は方(まさ)に金萩原(かねはぎばら)に休憩中(きうけいちう)であつたが後隊(こうたい)に方(あた)つて銃声(ぢうせい)が聞(きこ)ゆるので恠訝(けゞん)
し斥候(せきこう)を派(はつ)した処(ところ)が東軍(とうぐん)の襲撃(しうげき)である事が分(わか)つたのみならず第四隊からも続々(ぞく〳〵)急報(きうほう)に接(せつ)したので隊長(たいてう)
檜ケ根 の堀秀政(ほりひでまさ)は直(たゞ)ちに隊(たい)を回(くわい)して長久手(ながくて)に至(いた)り檜(ひのき)ケ根(ね)と云ふ高地(こうち)を占領(せんれう)して之(これ)に兵(へい)を配列(はいれつ)し香流川(かなれがは)を前(まへ)に
して陣取(ぢんど)つたのであるが恰(あたか)も其処(そこ)へと東軍(とうぐん)の支隊(したい)は一 処(しよ)になつて攻(せ)め寄(よ)せて来(き)たのであるソコで西軍(せいぐん)の
堀隊(ほりたい)は高地(こうち)から之(これ)を俯射(ふしや)したのであるから今度(こんど)は東軍(とうぐん)の方(ほう)が大敗(たいはい)したので其(その)予備(よび)及(およ)び右翼隊(うよくたい)は猪子石(ゐのこいし)
方面(ほうめん)に左翼隊(さよくたい)は岩作(いわさ)方面(ほうめん)に退却(たいきやく)したのである秀政(ひでまさ)は因(よつ)て兵(へい)を分(わか)つて之(これ)を追撃(つひげき)したが其(その)時(とき)丁度(ちようど)家康(いへやす)信雄(のぶを)
富士ケ根 は共(とも)に東軍(とうぐん)の本隊(ほんたい)を率(ひき)ゐて瀬戸街道(せとかいどう)に沿(そ)ひズツト西軍(せいぐん)の右翼(うよく)(《割書:初めの|左翼》)を迂回(うくわい)して檜(ひのき)ケ根(ね)の裏手(うらて)に当(あた)る富(ふ)
士(じ)ケ根(ね)と云ふ処に現(あら)はれたので驚(おどろ)いたのは秀政(ひでまさ)である遂(つひ)に稲葉(いなば)から楽田(がくでん)の本陣(ほんぢん)に向(むか)つて逃(に)げ皈(かへ)つたの
であるが結局(けつきよく)取残(とりのこ)されたのか西軍(せいぐん)の第一第二 両隊(れうたい)で孰(いづ)れも後隊(こうたい)警報(けいほう)を聞(き)いて隊(たい)を回(くわい)した処(ところ)が既(すで)に皈(き)
路(ろ)は家康(いへやす)の為(ため)に遮断(しやだん)せられたと云ふ訳(わけ)で余義(よぎ)なく長久手(ながくて)に於(おい)て会戦(くわいせん)するに至(いた)つたのである而(しか)して其(その)結(けつ)
《割書:信輝長可等|の戦死》 果(くわ)は諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く池田勝入(いけだかついり)並(ならび)に其(その)子之助(このすけ)及(およ)び森長可(もりながよし)の主将(しゆせう)は孰(いづ)れも討死(うちじに)し之助(ゆのすけ)の弟(おとゝ)輝政(てるまさ)独(ひと)り逃(のが)
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千八百九十四号附録 ( 明治四十四年十月二十四日発行 )
【本文】
れたのであるが此(この)時(とき)家康(いへやす)は追撃(つひげき)を矢田川(やだがは)までに止(とゞ)めしめ午後一時には戦闘(せんとう)を終(をは)つて四時頃には既(すで)に小(を)
幡城(はたじよう)に入(い)たのである
トコロで秀吉(ひでよし)である自(みづか)ら楽田(がくでん)の陣(ぢん)に居(を)つて信輝(のぶてる)等(ら)の運動(うんどう)を容易(ようい)ならしむる為(た)めに六日 及(およ)び九日に小牧(こまき)
の塁(るい)を攻撃(こうげき)せしめたが余(あま)り功(こう)がなかつた然(しか)るに九日の正午(せうご)に至(いた)つて先(ま)づ白山林(はくさんばやし)の敗報(はいほう)が至(いた)つたので大(おほい)
に驚(おどろ)き急(きう)に応援(おうゑん)の方針(ほうしん)を定(さだ)め午後一時頃には自(みづか)ら兵(へい)二万許を率(ひき)ゐて出発(しゆつぱつ)したが途中(とちう)で岩崎城(いわざきじよう)攻撃(こうげき)に関(かん)
する報告(ほうこく)を得(え)たので益(ます〳〵)前途(ぜんと)を気遣(きづか)つて急行(きうこう)したのであるが此(この)時(とき)小牧山(こまきやま)に留守(るす)をして居(を)つた徳川方(とくがはがた)で
は諜(しゆ)して此(この)事(こと)を知(し)つたので評議(ひようぎ)をした処が酒井忠次(さかゐたゞつぐ)は此(この)機(き)に乗(ぜう)じて前面(ぜんめん)の敵塁(てきるい)を突(つ)くならば敵(てき)は必(かなら)ず
敗軍(はいぐん)するであろうと云ふので之(これ)を主張(しゆてう)し本多忠勝(ほんだたゞかつ)も同意(どうい)であつたが独(ひと)り石川数正(いしかはかづまさ)は之(これ)に同意(どうい)せぬので
忠次(たゞつぐ)は非常(ひじやう)に残念(ざんねん)がつたが到底(とうてい)打捨(うちす)てゝ置(お)く訳(わけ)に行(ゆ)かぬと云ふ処から本多忠勝(ほんだたゞかつ)は石川康通(いしかはやすみち)と共(とも)に手兵(しゆへい)
僅(わづか)に五百人を率(ひき)ゐて秀吉(ひでよし)の大軍(たいぐん)に尾(び)し遂(つひ)に其(その)本部(ほんぶ)と駢行(へいこう)して行(ゆ)く〳〵之(これ)を銃撃(じうげき)したのである之(これ)は忠勝(たゞかつ)
が抜群(ばつぐん)の功(こう)として有名(ゆうめい)なる事であるが此(この)時(とき)の事情(じぜう)に付(つい)ても種々(しゆ〴〵)の説(せつ)がある例(しか)私(わたくし)は今(いま)三 河物語(かはものがたり)に拠(よ)
つたので同書(どうしよ)には左(さ)の如(ごと)くに記(しる)されてある
然(しかる)処(ところ)に小牧山(こまきやま)に相残(あひのこり)酒井左衛門尉(さかゐさゑもんじよう)申(もうし)けるは関白殿(くわんぱくどの)押(おし)て出(いで)られければ小幡筋(をはたすぢ)の儀(ぎ)を心元(こゝろもと)なく存(ぞん)ずれ
之(これ)より二 重堀(ぢうほり)を押破(おしやぶ)りて悉(こと〴〵)く陣屋(ぢんや)に火(ひ)を掛(か)けて焼払(やきはら)ふものならば関白殿(くわんぱくどの)も敗軍(はいぐん)有(あ)るべしとすゝみ
給(たま)へ共(ども)其(その)比(ころ)より石川伯耆守(いしかはほうきのかみ)は関白殿(くわんぱくどの)へ心(こゝろ)のある間(あひだ)其(その)儀(ぎ)然(しか)るべからずとて伯耆守(ほうきのかみ)一ゑんに進(すゝ)まざれば
左衛門尉(さゑもんじよう)は手(て)に汗(あせ)を握(にぎ)つて白沫(はくまつ)をかみて伯耆守(ほうきのかみ)進(すゝ)まざれば打(うち)おきぬ本多中務守左衛門尉(ほんだなかづかさのかみさゑもんじよう)と同意(どうい)なれ
ば伯耆守(ほうきのかみ)進(すゝ)まぬと見(み)さらば我等(われら)は小幡(をはた)へ迎(むかへ)に参(まゐ)らむと五百 計(ばかり)にて関白殿(くわんぱくどの)のそないの下(した)を推(おし)て通(とほ)り
小幡(をはた)の城(しろ)へ行(ゆ)きて御供(おんとも)を申(もうし)て小牧山(こまきやま)へ来(きた)る敵味方(てきみかた)共(とも)に本多中務(ほんだなかづかさ)を褒(ほ)めたり
【欄外】
豊橋市史談 (小牧役と牧野成里) 百四十五
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談 (小牧役と牧野成里) 百四十四
【本文】
高がこれを率い、左翼隊は榊原康政が率いて、忠重は自ら予備隊を率いたのである。而して初めから郷導の任に当たった岩崎城主丹羽氏次は尚これが郷導をなしたのである。
そこでこの右翼隊と予備隊とは猪子石原を経て直ちに白山林にある敵の後列第四隊に迫ったのであるが、左翼隊は瀬戸街道を通って稲葉に出で迂回して敵隊の左側に当たったので、この戦闘の開始は九日の黎明であったが、敵の第四隊は実に不意の襲撃で殊に挟撃の状に陥ったのであるから散々の体で敗走し、隊長秀次は香流川を渡って長久手付近の細ケ根という処に拠ったが、東軍の追撃が激しくて僅かに身を以て逃げるに至ったのである。
ここにおいては所謂騎虎の勢で東軍支隊は何処までも前進するので忠重はこれを制したが到底号令が行われぬ。然るにこの時西軍即ち勝入の率いる支隊の第三隊は正に金萩原に休憩中であったが、後隊に当って銃声が聞こえるので怪訝し斥候を派した処が東軍の襲撃である事が分かったのみならず、第四隊からも続々急報に接したので、隊長の堀秀政は直ちに隊を回して長久手に至り、檜ケ根という高地を占領してこれに兵を配列し、香流川を前にして陣取ったのであるが、恰もそこへと東軍の支隊は一処になって攻め寄せて来たのである。
そこで西軍の堀隊は高地からこれを俯射したのであるから、今度は東軍の方が大敗したので、その予備及び右翼隊は猪子石方面に、左翼隊は岩作方面に退却したのである。秀政は因って兵を分かってこれを追撃したが、その時丁度家康・信雄は共に東軍の本隊を率いて瀬戸街道に沿いずっと西軍の右翼(初めの左翼)を迂回して檜ケ根の裏手に当る富士ケ根という処に現れたので、驚いたのは秀政である。遂に稲葉から楽田の本陣に向って逃げ帰ったのであるが、結局取り残されたのか西軍の第一第二両隊で、いずれも後隊警報を聞いて隊を回した処が、既に帰路は家康のために遮断されたという訳で、余儀なく長久手において会戦するに至ったのである。
而してその結果は諸君も御承知の如く、池田勝入並びにその子之助及び森長可の主将はいずれも討死し、之助の弟輝政独り逃
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千八百九十四号附録 (明治四十四年十月二十四日発行)
【本文】
れたのであるが、この時家康は追撃を矢田川までに止めさせ、午後一時には戦闘を終って四時頃には既に小幡城に入ったのである。
ところで秀吉である。自ら楽田の陣にいて信輝等の運動を容易ならしめるために六日及び九日に小牧の塁を攻撃させたが余り功がなかった。然るに九日の正午に至って先ず白山林の敗報が至ったので大いに驚き、急に応援の方針を定め、午後一時頃には自ら兵二万許を率いて出発したが、途中で岩崎城攻撃に関する報告を得たので益々前途を気遣って急行したのである。
この時小牧山に留守をしていた徳川方では諜してこの事を知ったので評議をした処が、酒井忠次はこの機に乗じて前面の敵塁を突くならば敵は必ず敗軍するであろうということでこれを主張し、本多忠勝も同意であったが、独り石川数正はこれに同意せぬので、忠次は非常に残念がったが到底打ち捨てて置く訳に行かぬということから、本多忠勝は石川康通と共に手兵僅かに五百人を率いて秀吉の大軍に尾し、遂にその本部と並行して行く行くこれを銃撃したのである。これは忠勝が抜群の功として有名なる事であるが、この時の事情についても種々の説がある。しかし私は今『三河物語』に拠ったので、同書には左の如くに記されてある。
「然る処に小牧山に相残り酒井左衛門尉申しけるは、関白殿押して出でられければ小幡筋の儀を心元なく存ずれ。これより二重堀を押し破りて悉く陣屋に火を掛けて焼き払うものならば関白殿も敗軍有るべしと進み給えども、その比より石川伯耆守は関白殿へ心のある間、その儀然るべからずとて伯耆守一円に進まざれば、左衛門尉は手に汗を握って白沫を噛みて伯耆守進まざれば打ち置きぬ。本多中務守左衛門尉と同意なれば、伯耆守進まぬと見さらば我等は小幡へ迎えに参らむと五百計にて関白殿のそないの下を押して通り、小幡の城へ行きて御供を申して小牧山へ来る。敵味方共に本多中務を褒めたり」
【欄外】
豊橋市史談 (小牧役と牧野成里) 百四十五
英語訳
[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Komaki Campaign and Makino Narisato) - 144
[Main Text]
...with Ōsuga Takayuki leading the right wing unit and Sakakibara Yasumasa leading the left wing unit, while Tadashige personally led the reserve unit. Niwa Ujitsugu, lord of Iwasaki Castle, who had been serving as guide from the beginning, continued to act as their guide.
The right wing unit and reserve unit proceeded via Inokoishibara and directly pressed upon the enemy's rear guard - the fourth unit - at Hakusanrin. The left wing unit went through the Seto highway, emerged at Inaba, circled around and struck the left side of the enemy formation. This battle began at dawn on the ninth day. The enemy's fourth unit was caught completely off guard and found themselves in a pincer attack, so they fled in complete disarray. Unit commander Hidetsugu crossed the Kanare River and took position at a place called Saigane near Nagakute, but the eastern army's pursuit was so fierce that he barely escaped with his life.
Here, with what might be called "riding the tiger's momentum," the eastern army detachment pressed forward relentlessly, and though Tadashige tried to restrain them, his orders could not be carried out effectively. Meanwhile, the third unit of the western army - that is, Katsuiri's detachment - was resting at Kanehagibara when they heard gunfire from the direction of the rear guard. Puzzled, they sent out scouts and discovered it was an attack by the eastern army. Moreover, they received successive urgent reports from the fourth unit, so unit commander Hori Hidemasa immediately turned his forces around, reached Nagakute, occupied the high ground called Hinokigane, deployed his troops there, and took position with the Kanare River in front.
Just then, the eastern army detachment converged and attacked this position. The western army's Hori unit fired down upon them from the high ground, so this time it was the eastern army that suffered a major defeat. Their reserve and right wing units retreated toward Inokoshi, while the left wing unit retreated toward Iwasa. Hidemasa accordingly divided his forces to pursue them, but at that moment Ieyasu and Nobuo appeared together leading the main eastern army force. They had followed the Seto highway, circled around the western army's right flank (originally their left flank), and emerged at a place called Fujigane behind Hinokigane. Hidemasa was shocked and eventually fled back to the main camp at Gakuden via Inaba.
In the end, the first and second units of the western army were left behind. Both had turned back upon hearing the rear guard alarm, but found their retreat route already cut off by Ieyasu. They were forced to give battle at Nagakute.
The result, as you all know, was that the main commanders - Ikeda Katsuiri along with his son Yukisuke, and Mori Nagayoshi - were all killed in action. Only Yukisuke's younger brother Terumasa escaped...
[Left Page]
[Header] San'yō Shimbun No. 3894 Supplement (Published October 24, Meiji 44 [1911])
[Main Text]
...but at this time Ieyasu halted the pursuit at the Yada River, ended the battle by 1 PM, and had already entered Obata Castle by around 4 PM.
Now for Hideyoshi. He remained at his camp in Gakuden and had attacks made on the Komaki fortifications on the sixth and ninth days to facilitate Nobuteru and others' movements, but achieved little success. However, around noon on the ninth day, news of the defeat at Hakusanrin first arrived. Greatly shocked, he quickly decided on a relief strategy and around 1 PM personally departed leading about 20,000 troops. En route he received reports about the attack on Iwasaki Castle, which made him even more anxious about the situation ahead, so he pressed forward rapidly.
At this time, the Tokugawa forces remaining at Komaki learned of this through intelligence, so they held a council of war. Sakai Tadatsugu argued that if they seized this opportunity to strike the enemy fortifications in front of them, the enemy would surely be defeated. Honda Tadakatsu agreed, but Ishikawa Kazumasa alone disagreed. Tadatsugu was extremely disappointed, but feeling they could not simply abandon the situation, Honda Tadakatsu together with Ishikawa Yasumichi led a mere 500 troops to tail Hideyoshi's large army, eventually marching parallel to his main force and firing upon them as they went. This became famous as one of Tadakatsu's outstanding achievements, though there are various accounts of these events. However, I have relied on the "Mikawa Monogatari," which records it as follows:
"Then those remaining at Komaki, Sakai Saemon-no-jō spoke thus: 'Since the Kampaku has pressed forward, I am concerned about the Obata route. If we were to break through the double moats from here and set fire to all their camps and burn them down, even the Kampaku would suffer defeat.' Though he urged this course, from that time Ishikawa Hōki-no-kami had sympathies toward the Kampaku, so he said such action would not be appropriate. Since Hōki-no-kami absolutely refused to advance, Saemon-no-jō gripped his hands in sweat and ground his teeth, saying 'If Hōki-no-kami will not advance, then so be it. Honda Nakatsukasa-no-kami and Saemon-no-jō are of the same mind. If Hōki-no-kami will not advance, then we shall go to meet them at Obata.' With about 500 men they pressed through below the Kampaku's formation, went to Obata Castle, offered their services as escort, and returned to Komaki. Both enemy and ally praised Honda Nakatsukasa."
[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Komaki Campaign and Makino Narisato) - 145