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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 87

ページ: 87

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【欄外】    豊橋市史談  (小牧役と牧野成里)                    百四十六 【本文】        兎(と)に角(かく)右(みぎ)の様(よう)な訳(わけ)であつたが秀吉(ひでよし)は之(これ)等(ら)には一 向(こう)頓着(とんちやく)なく偏(ひとへ)に急行(きうこう)して午後五時には小幡城(をはたじよう)の直(す)ぐ東(とう)        北(ほく)に当(あた)る龍泉寺(りうせんじ)と云ふ処まで到着(とうちやく)し先(ま)づ長久手(ながくて)の様子(ようす)を探(さく)らしめた処が戦争(せんそう)は既(すで)に終(をは)つて己(おの)れの軍(ぐん)が        敗北(はいぼく)し家康(いへやす)等(ら)は小幡城(をはたじよう)に入(い)つた後(のち)であると云ふので速(すみやか)に其(その)城(しろ)を攻撃(こうげき)せようとしたのであるが日没(にちぼつ)に        近(ちか)いので明朝(みようてう)を俟(ま)つことになつたのであるトコロが家康(いへやす)は長居(ながゐ)は無用(むよう)であると云ふので兵(へい)二百 余人(よにん)を此(こ)        処(こ)に留(とゞ)めて午後八時頃から信雄(のぶを)と共(とも)に潜(ひそか)に兵(へい)を収(おさ)めて小牧(こまき)の塁(るい)に皈(かへ)つて仕舞(しま)つたので秀吉(ひでよし)も実(じつ)に其(その)迅(じん)        速(そく)なる事に一 驚(けう)を喫(きつ)したのであるが今更(いまさ)ら仕方(しかた)がなく自分(じぶん)も其(その)翌日(よくじつ)楽田(がくでん)に皈(かへ)つたのである之(これ)より両軍(れうぐん)       は益々(ます〳〵)守備(しゆび)を厳(げん)にして再(ふたゝ)び対峙(たいじ)の形勢(けいせい)を持続(ぢぞく)するに至(いた)つたのである        先(ま)づ小牧山(こまきやま)対陣(たいぢん)並(なら)びに長久手(ながくて)会戦(くわいせん)の話(はなし)はザツト右(みぎ)の如(ごと)くであるが此処(こゝ)に少(すこ)しく御話(おはなし)したいのは彼(か)の牧(まき)        野成里(のしげさと)の事である茂里(しげさと)は即(すなは)ち傳蔵(でんざう)と称(せう)した人でズツト前(まへ)に御話(おはなし)した豊橋(とよはし)の築城者(ちくじようしや)牧野古白(まきのこはく)の子(こ)傳蔵信(でんざうのぶ)        成(しげ)と云つた人の孫(まご)に当(あた)るのである信成(のぶしげ)は御承知(ごせうち)の通(とほ)り享禄(けうろく)二年(《割書:一に天文元|年に作る》)松平清康(まつだひらきよやす)の為(ため)に攻(せ)められて        戦死(せんし)したが其(その)時(とき)妻(つま)が妊娠中(にんしんちう)で里方(さとかた)の知多郡(ちたぐん)へ逃(のが)れたが後(のち)に生むだのが傳蔵成継(でんざうしげつぐ)と云ふ人である然(しか)るに        此(この)人(ひと)は廿九歳の時(とき)知多郡(ちたぐん)師崎(もろさき)の城主(じようしゆ)石川筑後守(いしかはちくごのかみ)と云ふ人と囲碁(ゐご)の事で争論(そうろん)をして遂(つひ)に殺害(さつがい)せられたが       其(この)成継(しげつぐ)の子(こ)が即(すなは)ち成里(しげさと)で幼少(ようせう)の時から旧臣(きうしん)に養育(やういく)せられ長(てう)ずるに及(およん)で復讎(ふくしう)の志(こゝろざし)があつたのである然(しか)       るに仇(かたき)の筑後守(ちくごのかみ)は其(その)事(こと)を聞(き)いて人に語(かた)つて云(い)ふには我(われ)は既(すで)に老衰(らうすい)に及(およ)むで家督(かとく)を子(こ)の隼人佑(はやとのすけ)に譲(ゆづ)つた       のであるソレにも拘(かゝは)らず成里(しげさと)が壮年(さうねん)の隼人佑(はやとのすけ)を差置(さしお)いて此(この)老衰(らうすい)の我(われ)をねらふと云ふのは実(じつ)に勇(ゆう)なきも       のであるとコウ云つたのを成里(しげさと)が聞(き)き込(こ)むで然(しか)る上(うへ)は隼人佑(はやとのすけ)を父(ちゝ)の仇(かたき)として討(う)つべきであると云ふの       で元亀二年 遂(つひ)に知多郡(ちたぐん)大野(おほの)宮山(みややま)の狩場(かりば)に於(おい)て之(これ)を殺(ころ)し父(ちゝ)の復讎(ふくしう)をしたのであるが其(その)時(とき)成里(しげさと)は年(とし)僅(わづか)に十       六歳であつた然(しか)るに当時(とうじ)伊勢(いせ)の長島城(ながしまじよう)に居(を)つた瀧川一益(たきがはかずます)が此(この)事(こと)を知(し)つて家来(けらい)を寄越(よこ)して之(これ)を助(たす)け無事(ぶじ) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       に長島(ながしま)に引取(ひきと)つたのであるそれより成里(しげさと)は一益(かづます)近侍(きんじ)の臣(しん)となつて伊勢国(いせのくに)片岡(かたはま)、 浅香(あさか)、 大河内(おほかうち)並(ならび)に三河(みかは)        国(くに)長篠(ながしの)の合戦(かつせん)などに数々(しば〳〵)功(こう)があつたが一益(かづます)が一 時(じ)没落(ぼつらく)した時に初(はじ)めて織田信雄(をたのぶを)に仕(つか)へたのである而(しか)し       て今度(このたび)の小牧(こまき)の役(えき)には常(つね)に信雄(のぶを)の軍中(ぐんちう)に加(くは)はり又(ま)た長久手(ながくて)の会戦(くわいせん)には家康(いへやす)の金扇馬標(きんせんうまじるし)の後(あと)に従(したがつ)て働(はたら)       いたのである今(いま)尾張(おはり)の徳川侯爵家(とくがはこうしやくけ)に長久手(ながくて)と長篠(ながしの)の戦争(せんそう)とを画(えが)いた六 枚折(まいをり)の屏風(びようぶ)が一 双(そう)あるが之(これ)は其(その)        当時(とうじ)を去(さ)ること余(あま)り遠(とほざ)からざる時代(じだい)に出来(でき)たもので且(か)つ調査(てうさ)が能(よ)く行届(ゆきとゞ)いて居(を)ると云ふので相当(さうとう)に歴史(れきし)       の参考(さんこう)になるものであると云ふ事であるが之(これ)にも長久手(ながくて)の役(えき)で山(やま)の間(あひだ)から家康(いへやす)の金扇馬標(きんせんうまじるし)が躍(おど)り出(い)づ       る其(その)後(あと)に成里(しげさと)の幟印(のぼりじるし)が継(つ)いて来(く)る処(ところ)が書(か)いてある其(その)後(のち)此(この)成里(しげさと)は長谷川秀一(はせがはひでかづ)に属(ぞく)して文禄(ぶんろく)の役(えき)には朝鮮(てうせん)       に渡(わた)つて戦功(せんこう)があり皈朝(きてう)後(ご)豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に仕(つか)ゆることとなつたが秀次(ひでつぐ)滅亡(めつぼう)後(ご)は石田三成(いしだかづしげ)に属(ぞく)したので関(せき)ケ原(はら)        敗北(はいぼく)の後(あと)は池田輝政(いけだてるまさ)に依(よ)つたのである然(しか)るに其(その)紹介(せうかい)で最後(さいご)に家康(いへやす)に謁(えつ)して秀忠(ひでたゞ)の近侍(きんし)に採用(さいよう)せられ釆(さい)        地(ち)三千石を下野市(しもつけ)の梁田郡(れうだごほり)に貰(もら)つたのである之(これ)が即(すなは)ち先(さき)にも御話(おはなし)して置(お)いた静岡県(しづをかけん)士族(しぞく)牧野成一(まきのしげかづ)君(くん)の祖(そ)        先(せん)になるので成里(しげさと)の肖像(せうぞう)は今(いま)も同君(どうくん)の家(いへ)に蔵(ざう)せられてあるが狩野安信(かのをやすのぶ)の筆(ふで)で最(もつと)も資料(しれう)となるべきもの       である尚(な)ほ成里(しげさと)が文禄(ぶんろく)の役(えき)に朝鮮(てうせん)の晋州(しんしゆう)から持(も)ち皈(かへ)つた鼓(つゝみ)と貨狄(くわてき)の像(ぞう)とがあるが之(これ)は下野(しもつけ)梁田郡(れうだごほり)羽田(はだ)        村(むら)の龍江院(りうこうゐん)と云ふ寺(てら)に遺(のこ)つて居(を)るとの事(こと)である此(この)寺(てら)は即(すなは)ち成里(しげさと)を葬(ほうむ)つた処で成里(しげさと)は慶長(けいてう)十九年四月廿       三日 年(とし)五十九で没(ぼつ)したのであるが此(この)人(ひと)には成信(しげのぶ)成従(しげよれ)成純(しげすみ)成常(しげつね)と云ふ四人の男子(だんし)があつて家督(かとく)は三 男(なん)の        成純(しげすみ)が継(つ)いだのである然(しか)るに成純(しげすみ)は兄(あに)成信(しげのぶ)に対(たい)する義理(ぎり)の上(うへ)から自分(じぶん)は終身(しうしん)娶(めと)らずして特(とく)に成信(しげのぶ)の子(こ)        成勝(しげかつ)を養(やしなつ)て子(こ)としたが成常(しげつね)も亦(ま)た終身(しうしん)娶(めと)らなかつた人で之(これ)も矢張(やはり)成信(しげのぶ)の二 男(なん)成喬(しげたか)を養(やしなつ)て子(こ)とした       との事である又(ま)た成信(しげのぶ)と云ふ人は後(のち)に禅門(ぜんもん)に入(い)つて諸国(しよこく)を遊歴(ゆうれき)し一 時(じ)京都(けうと)の東山(ひがしやま)に閑居(かんきよ)して風車軒(ふうしやけん)と        称(せう)したが其(その)幽栖(ゆうす)の風雅(ふうが)なる処から後水尾帝(ごみづのをてい)の叡聞(えいぶん)に達(たつ)し御落飾後仙駕(ごらくしよくごせんが)を抂(まげ)られて叡覧(えいらん)があつたと云ふ 【欄外】    豊橋市史談  (小牧役と牧野成里)                    百四十七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (小牧役と牧野成里) 百四十六 【本文】 とにかく右のような訳であったが、秀吉はこれらには一向頓着なく、ひたすら急行して午後五時には小幡城の直ぐ東北に当る龍泉寺という処まで到着し、まず長久手の様子を探らせた処が、戦争は既に終わって自分の軍が敗北し、家康等は小幡城に入った後であるということで、速やかにその城を攻撃しようとしたのであるが、日没に近いので明朝を待つことになったのである。 ところが家康は長居は無用であるということで、兵二百余人をここに留めて午後八時頃から信雄と共にひそかに兵を収めて小牧の塁に帰ってしまったので、秀吉もその迅速なることに一驚を喫したのであるが、今更仕方がなく、自分もその翌日楽田に帰ったのである。これより両軍は益々守備を厳にして再び対峙の形勢を持続するに至ったのである。 まず小牧山対陣並びに長久手会戦の話は大体右の如くであるが、ここに少しく御話したいのは、かの牧野成里の事である。成里は即ち傳蔵と称した人で、ずっと前にお話した豊橋の築城者牧野古白の子傳蔵信成という人の孫に当るのである。信成は御承知の通り享禄二年(一説には天文元年とする)松平清康のために攻められて戦死したが、その時妻が妊娠中で里方の知多郡へ逃れたが、後に生んだのが傳蔵成継という人である。 然るにこの人は二十九歳の時、知多郡師崎の城主石川筑後守という人と囲碁のことで争論をして遂に殺害されたが、その成継の子が即ち成里で、幼少の時から旧臣に養育され、長ずるに及んで復讐の志があったのである。然るに仇の筑後守はその事を聞いて人に語って言うには、我は既に老衰に及んで家督を子の隼人佑に譲ったのである。それにも拘らず成里が壮年の隼人佑を差し置いてこの老衰の我を狙うというのは実に勇なきものであると。こう言ったのを成里が聞き込んで、然る上は隼人佑を父の仇として討つべきであるということで、元亀二年遂に知多郡大野宮山の狩場においてこれを殺し、父の復讐をしたのであるが、その時成里は年僅かに十六歳であった。 然るに当時伊勢の長島城にいた滝川一益がこの事を知って家来を遣わしてこれを助け、無事 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し、参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 に長島に引き取ったのである。それより成里は一益近侍の臣となって、伊勢国片岡、浅香、大河内並びに三河国長篠の合戦などに数々功があったが、一益が一時没落した時に初めて織田信雄に仕えたのである。 而して今度の小牧の役には常に信雄の軍中に加わり、また長久手の会戦には家康の金扇馬標の後に従って働いたのである。今尾張の徳川侯爵家に長久手と長篠の戦争とを画いた六枚折りの屏風が一双あるが、これはその当時を去ること余り遠からざる時代に出来たもので且つ調査がよく行き届いているということで、相当に歴史の参考になるものであるという事であるが、これにも長久手の役で山の間から家康の金扇馬標が躍り出づる、その後に成里の幟印が継いて来る処が書いてある。 その後この成里は長谷川秀一に属して文禄の役には朝鮮に渡って戦功があり、帰朝後豊臣秀次に仕えることとなったが、秀次滅亡後は石田三成に属したので関ヶ原敗北の後は池田輝政に頼ったのである。然るにその紹介で最後に家康に謁して秀忠の近侍に採用され、采地三千石を下野国の梁田郡に貰ったのである。 これが即ち先にもお話して置いた静岡県士族牧野成一君の祖先になるので、成里の肖像は今も同君の家に蔵されてあるが、狩野安信の筆で最も資料となるべきものである。なお成里が文禄の役に朝鮮の晋州から持ち帰った鼓と貨狄の像とがあるが、これは下野梁田郡羽田村の龍江院という寺に遺っているとの事である。この寺は即ち成里を葬った処で、成里は慶長十九年四月二十三日年五十九で没したのであるが、この人には成信、成従、成純、成常という四人の男子があって、家督は三男の成純が継いだのである。 然るに成純は兄成信に対する義理の上から自分は終身娶らずして、特に成信の子成勝を養って子としたが、成常もまた終身娶らなかった人で、これも矢張り成信の二男成喬を養って子としたとの事である。また成信という人は後に禅門に入って諸国を遊歴し、一時京都の東山に閑居して風車軒と称したが、その幽栖の風雅なる処から後水尾帝の叡聞に達し、御落飾後仙駕を屈げられて叡覧があったという 【欄外】 豊橋市史談 (小牧役と牧野成里) 百四十七

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Komaki Campaign and Makino Narisato) - 146 [Main Text] In any case, this is how things stood, but Hideyoshi paid no attention to these matters and pressed forward single-mindedly, arriving by 5 PM at a place called Ryūsenji, located directly northeast of Obata Castle. He first had scouts investigate the situation at Nagakute, only to learn that the battle was already over, his army had been defeated, and Ieyasu and others had already entered Obata Castle. He attempted to attack the castle immediately, but since sunset was near, it was decided to wait until the following morning. However, Ieyasu, believing that lingering would serve no purpose, left about 200 troops there and around 8 PM secretly withdrew his forces together with Nobuo back to the Komaki fortifications. Hideyoshi was truly startled by such swift action, but there was nothing to be done about it now. He too returned to Gakuden the following day. From this point, both armies strengthened their defenses even more and resumed their confrontational posture. This concludes the general account of the Komaki confrontation and the Battle of Nagakute. Here I would like to tell you a bit about Makino Narisato. Narisato was also known as Denzō, and was the grandson of Denzō Nobushige, son of Makino Kohaku, the builder of Toyohashi Castle whom I mentioned much earlier. As you know, Nobushige was attacked and killed by Matsudaira Kiyoyasu in Kyōroku 2 (some say it was Tenbun 1). At that time his wife was pregnant and fled to her family's home in Chita District, where she later gave birth to Denzō Shigetsugu. However, when this man was twenty-nine years old, he got into an argument over a game of go with Ishikawa Chikugo-no-kami, lord of Morosaki Castle in Chita District, and was eventually killed. Shigetsugu's son was Narisato, who from childhood was raised by former retainers and upon reaching adulthood harbored thoughts of revenge. The enemy Chikugo-no-kami, hearing of this, told others: "I have already reached old age and have transferred headship of the house to my son Hayato-no-suke. Despite this, for Narisato to ignore the vigorous Hayato-no-suke and target this decrepit old man shows a truly cowardly spirit." When Narisato heard of these words, he decided that he must kill Hayato-no-suke as his father's enemy. In Genki 2, at a hunting ground in Miyayama, Ōno, Chita District, he finally killed him and avenged his father, though Narisato was only sixteen years old at the time. At that time, Takigawa Kazumasu, who was at Nagashima Castle in Ise, learned of this incident and sent retainers to help him, bringing him safely... [Header margin note] Mayor of Toyohashi, Ōguchi Kiroku, has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as the manuscript nears completion... [Left Page] [Header] This Toyohashi City Historical Discussion is published once a week (Tuesdays) and presented to readers of San'yō Shimbun. [Main Text] ...to Nagashima. From then on, Narisato became one of Kazumasu's close retainers and distinguished himself repeatedly in battles at Kataoka, Asaka, and Ōkawachi in Ise Province, as well as the Battle of Nagashino in Mikawa Province. When Kazumasu temporarily fell from grace, he first entered the service of Oda Nobuo. During this Komaki campaign, he constantly served in Nobuo's army, and at the Battle of Nagakute followed behind Ieyasu's golden fan standard. The Tokugawa marquis house in Owari now possesses a pair of six-panel folding screens depicting the battles of Nagakute and Nagashino. These were created not too long after those events and are said to be well-researched, making them quite valuable as historical references. These screens also show Ieyasu's golden fan standard bursting forth from between the mountains during the Nagakute campaign, with Narisato's banner following close behind. Later, Narisato served under Hasegawa Hideichi and during the Bunroku campaign crossed to Korea where he distinguished himself in battle. After returning to Japan, he came to serve Toyotomi Hidetsugu, but after Hidetsugu's downfall he attached himself to Ishida Mitsunari. Following the defeat at Sekigahara, he relied on Ikeda Terumasa. Through Terumasa's introduction, he finally had an audience with Ieyasu and was appointed as a close attendant to Hidetada, receiving a 3,000-koku fief in Ryōta District of Shimotsuke Province. This is the ancestor of Makino Shigeichi, the Shizuoka Prefecture samurai I mentioned earlier. Narisato's portrait is still preserved in that gentleman's house - painted by Kanō Yasunobu, it is a most valuable historical document. There are also a drum and statue of a barbarian that Narisato brought back from Chinju in Korea during the Bunroku campaign, which are said to remain at a temple called Ryūkōin in Hada village, Ryōta District, Shimotsuke. This temple is where Narisato was buried. He died on April 23, Keichō 19, at age fifty-nine. He had four sons: Shigenobu, Shigeyori, Shigesumi, and Shigetsune, with the family headship passing to the third son, Shigesumi. However, out of duty to his elder brother Shigenobu, Shigesumi never married and specifically adopted Shigenobu's son Shigekatsu as his heir. Shigetsune also never married and likewise adopted Shigenobu's second son Shigetaka as his son. Shigenobu later entered the priesthood and traveled throughout the provinces, for a time living in quiet retirement in Higashiyama, Kyoto, calling himself Fūshaken. The refined elegance of his hermit's life came to the attention of Emperor Go-Mizunoo, who after his own retirement bent his imperial palanquin to honor him with an imperial viewing. [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Komaki Campaign and Makino Narisato) - 147