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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 88

ページ: 88

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【欄外】    豊橋市史談  (秀吉と信雄家康の媾和)                    百四十八 【本文】       事が武徳編年集成(ぶとくへんねんしうせい)に記(しる)してある次第(しだい)である今(いま)此(この)人(ひと)の画像(ぐわぞう)も狩野尚信(かのをなほのぶ)の筆(ふで)で同家(どうけ)に伝(つたは)つて居(を)るのである              ⦿秀吉と信雄家康の媾和        話(はなし)は又(ま)た前(まへ)に戻(もど)つて秀吉(ひでよし)は小牧(こまき)の対陣(たいぢん)に於(おい)て到底(とうてい)東軍(とうぐん)に乗(ぜう)ずべき隙(すき)がないのを見(み)て堀秀政(ほりひでまさ)加藤光泰(かとうみつやす)等(ら)       をして楽田(がくでん)犬山(いぬやま)等(とう)に駐屯(ちうとん)せしめ自(みづか)らは五月朔日兵六万を率(ひき)ゐて美濃(みの)に退(しりぞ)き更(さら)に西尾張(にしをはり)に入(い)つて丹羽郡(にはぐん)        加賀野井(かゞのゐ)の城(しろ)を攻(せ)め更(さら)に竹(たけ)ケ鼻(はな)の城(しろ)を攻(せ)めて孰(いづ)れも之(これ)を取(と)つたのであるがそれより大垣(おほがき)に出(い)で廿一日       には西近江(にしあふみ)に入(い)り廿八日 遂(つひ)に大坂(おほさか)に皈(かへ)つたのであるソコで東軍(とうぐん)の方(ほう)でも信雄(のぶを)は五月三日一たび長島城(ながしまじよう)       に帰(かへ)り家康(いへやす)独(ひと)り留(とゞまつ)て小牧山(こまきやま)にあつたが六月十二日に至(いた)り酒井忠次(さかゐたゞつぐ)を留(とゞ)めて己(おの)れは清洲城(きよすのしろ)に入(い)つたの       である然(しか)るに蟹江城(かにえのじよう)の留守(るす)前田種利(まへだたねとし)が東軍(とうぐん)に叛(そむ)いて瀧川一益(たきがはかづます)を引(ひ)き入(い)れ長島(ながしま)清洲(きよす)間(かん)の連絡(れんらく)を絶(たゝ)むとし       たので家康(いへやす)信雄(のぶを)は此(この)城(しろ)を攻撃(こうげき)して種利(たねとし)は殺(ころ)され一益(かづます)は伊勢(いせ)に走(はし)つたと云ふような騒(さわ)ぎもあつたが結局(けつきよく)        尾張(をはり)は東軍(とうぐん)の平定(へいてい)する処となつたのであるトコロで秀吉(ひでよし)は再(ふたゝ)び八月の十五日を以(もつ)て大坂(おほさか)を発(はつ)し尾張(をはり)に        入(い)つたが此(この)時(とき)も家康(いへやす)信雄(のぶを)は出陣(しゆつぢん)した併(しか)し両軍(れうぐん)は相対峙(あひたいじ)せるのみで秀吉(ひでよし)は又(ま)たも志(こゝろざし)を得(う)る事(こと)が出来(でき)な       かつたのである当時(とうじ)両軍(れうぐん)の間(あひだ)に和議(わぎ)が起(おこ)つたが成立(せいりつ)しなかつた然(しか)るに秀吉(ひでよし)は九月十七日 大垣(おほがき)に移(うつ)り十       月六日には大坂(おほさか)に皈(かへ)つたのである而(しか)して家康(いへやす)信雄(のぶを)も亦(ま)た九月廿七日に清洲(きよす)に入(い)り十七日 家康(いへやす)は岡崎(をかざき)信(のぶ)        雄(を)は長島(ながしま)へ各々(おの〳〵)帰還(きくわん)したのである        此(かく)の如(ごと)く秀吉(ひでよし)は屡々(しば〳〵)来(きた)つて尾張(をはり)に陣(ぢん)したがドウモ志(こゝろざし)を得(う)る事(こと)が出来(でき)なかつたので十月に至(いた)つて今度(このたび)       は路(みち)を転(てん)じて伊勢(いせ)に出(い)で其廿三日 羽津(はづ)に陣(ぢん)したのであるソコで長島(ながしま)に居(を)つた織田信雄(をだのぶを)は之(これ)を聞(き)いて大(おほい)に        驚(おどろ)き急(きう)を清洲(きよす)に告(つ)げたのであるが当時(とうじ)清洲(きよす)には酒井忠次(さかゐたゞつぐ)が留守(るす)をして居(を)つたので直様(すぐさま)其(その)事(こと)を岡崎(をかざき)の家(いへ) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百号附録      ( 明治四十四年十月三十一日発行 ) 【本文】        康(やす)に知(し)らせたのである因(よつ)て家康(いへやす)は十一月九日に清洲(きよす)に出陣(しゆつぢん)して信雄(のぶを)を赴援(ふゑん)する為(ため)に忠次(たゞつぐ)等(ら)を桑名(くわな)まで        出陣(しゆつぢん)せしめたのであるが此(この)時(とき)秀吉(ひでよし)は再(ふたゝ)び富田知信(とみたとものぶ)津田信勝(つだのぶかつ)の両人(れうにん)を使(し)として信雄(のぶを)に媾和(こうわ)の事を交渉(こうせう)せ 《割書:秀吉信雄の|媾和》  しめたのである而(しか)して信雄(のぶを)は遂(つひ)に之(これ)を諾(だく)するに至(いた)つたのであるが此(この)事(こと)に就(つい)ても異説(ゐせつ)があつて此(この)媾和(こうわ)は        信雄(のぶを)の方(ほう)から秀吉(ひでよし)に申込(もうしこ)むだものであるとの説(せつ)がある併(しか)し当時(とうじ)秀吉(ひでよし)は海内(かいない)の統(とう)一を図(はか)ることに急(きう)であつ       た処から自(みづか)ら之(これ)を促(うなが)したものであると云ふ説(せつ)の方(ほう)が有力(ゆうりよく)のように思(おも)はるゝのである兎(と)に角(かく)此(かく)の如(ごと)き訳(わけ) 《割書:矢田河原の|会見》  で其十一日に秀吉(ひでよし)と信雄(のぶを)とは共(とも)に矢田河原(やだかはら)に会見(くわいけん)し秀吉(ひでよし)からは礼(れい)を厚(あつ)ふして信雄(のぶを)を遇(ぐう)したのであるト       コロで信雄(のぶを)は頻(しき)りに家康(いへやす)と媾和(こうわ)するように秀吉(ひでよし)に熱望(ねつぼう)したのであるが秀吉(ひでよし)も元(もと)より家康(いへやす)との和親(わしん)を欲(ほつ)       したのであるソコで自身(じしん)は其十七日に坂本(さかもと)に帰(かへ)り尋(つい)で京師(けうし)に入(い)つたのであるが其(その)使(し)は廿一日に浜松(はままつ)に        至(いた)つて家康(いへやす)に会見(くわいけん)し和談(わだん)をしたのである之(これ)より先(さ)き家康(いへやす)は十二日に酒井忠次(さかゐたゞつぐ)から秀吉(ひでよし)信雄(のぶを)間(かん)に和(わ)の成(な)       つたと云ふ知(し)らせを得(え)たのであるが十六日に石川数正(いしかはかづまさ)を信雄(のぶを)及(およ)び秀吉(ひでよし)の陣(ぢん)に遣(つかは)して賀詞(がし)を述(の)べしめ自(じ) 《割書:秀吉家康の|和成る》   身(しん)は其(その)日(ひ)岡崎(をかざき)に入(い)り廿一日に至(いた)つて浜松(はままつ)に帰(かへ)つたのである然(しか)るに此(この)秀吉(ひでよし)家康(いへやす)間(かん)の和(わ)も成立(なりた)つて家康(いへやす)か       ら其(その)子(こ)於義丸(おぎまる)を秀吉(ひでよし)の養子(やうし)として遣(つか)はす事になり家康(いへやす)は十二月の十二日に石川数正(いしかはかづまさ)をして於義丸(おぎまる)を大(おほ)        坂(さか)に送(おく)らしめたのであるが此(この)事(こと)に就(つい)ては信雄(のぶを)も大(おほい)に中間(ちうかん)で斡旋(あつせん)の労(らう)を取(と)つたと云ふ事である併(しか)し此(この)間(あひだ)       に於(お)ける秀吉(ひでよし)家康(いへやす)両雄(れうゆう)間(かん)の魂胆(こんたん)と云ふものは実(じつ)に味(あじは)ふべきもので双方(そうほう)共(とも)に中々(なか〳〵)巧(たくみ)なものであると思(おも)ふ 両雄の計策  元来(がんらい)此(この)度(たび)の戦争(せんそう)と云ふものは前(まへ)にも申述(もうしの)べた通(とほ)り最初(さいしよ)秀吉(ひでよし)と信雄(のぶを)との争(あらそひ)から起(おこ)つたもので家康(いへやす)は信(のぶ)        雄(を)からの依頼(いらい)であるから義(ぎ)の為(ため)に之(これ)を援(たす)けたと云ふ訳(わけ)になつて居(を)るのである然(しか)るに信雄(のぶを)は困(こま)つた時分(じぶん)       には家康(いへやす)の力(ちから)を借(か)りて秀吉(ひでよし)に対抗(たいこう)し和(わ)を結(むす)ぶに方(あた)つては家康(いへやす)にロク〳〵協議(けうぎ)をも遂(と)げず勝手(かつて)次第(しだい)に敵(てき)       と握手(あくしゆ)すると云ふが如(ごと)き事をなすのは私(わたくし)共(ども)から考(かんが)ふると随分(ずゐぶん)虫(むし)の善(よ)い話(はなし)であると思(おも)ふがソコは家康(いへやす) 【欄外】    豊橋市史談  (秀吉と信雄家康の媾和)                    百四十九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (秀吉と信雄家康の媾和) 百四十八 【本文】 事が武徳編年集成に記してある次第である。今この人の画像も狩野尚信の筆で同家に伝わっているのである。 ⦿秀吉と信雄家康の媾和 話はまた前に戻って、秀吉は小牧の対陣において到底東軍に乗ずべき隙がないのを見て、堀秀政、加藤光泰等をして楽田、犬山等に駐屯させ、自らは五月朔日兵六万を率いて美濃に退き、さらに西尾張に入って丹羽郡加賀野井の城を攻め、さらに竹ヶ鼻の城を攻めていずれもこれを取ったのであるが、それより大垣に出て二十一日には西近江に入り、二十八日遂に大坂に帰ったのである。 そこで東軍の方でも信雄は五月三日一度長島城に帰り、家康独り留まって小牧山にあったが、六月十二日に至り酒井忠次を留めて自分は清洲城に入ったのである。然るに蟹江城の留守前田種利が東軍に叛いて滝川一益を引き入れ、長島・清洲間の連絡を絶とうとしたので、家康・信雄はこの城を攻撃して種利は殺され、一益は伊勢に走ったというような騒ぎもあったが、結局尾張は東軍の平定するところとなったのである。 ところで秀吉は再び八月の十五日をもって大坂を発し尾張に入ったが、この時も家康・信雄は出陣した。しかし両軍は相対峙するのみで、秀吉はまたも志を得ることができなかったのである。当時両軍の間に和議が起こったが成立しなかった。然るに秀吉は九月十七日大垣に移り、十月六日には大坂に帰ったのである。而して家康・信雄もまた九月二十七日に清洲に入り、十七日家康は岡崎、信雄は長島へ各々帰還したのである。 このように秀吉は屡々来たって尾張に陣したが、どうも志を得ることができなかったので、十月に至って今度は路を転じて伊勢に出で、その二十三日羽津に陣したのである。そこで長島にいた織田信雄はこれを聞いて大いに驚き、急を清洲に告げたのであるが、当時清洲には酒井忠次が留守をしていたので、直ちにその事を岡崎の家 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百号附録 (明治四十四年十月三十一日発行) 【本文】 康に知らせたのである。因って家康は十一月九日に清洲に出陣して信雄を救援するために忠次等を桑名まで出陣させたのであるが、この時秀吉は再び富田知信、津田信勝の両人を使いとして信雄に媾和の事を交渉させたのである。而して信雄は遂にこれを諾するに至ったのであるが、この事についても異説があって、この媾和は信雄の方から秀吉に申し込んだものであるとの説がある。しかし当時秀吉は海内の統一を図ることに急であった処から、自らこれを促したものであるという説の方が有力のように思われるのである。 とにかくこのような訳で、その十一日に秀吉と信雄とは共に矢田河原に会見し、秀吉からは礼を厚くして信雄を遇したのである。ところで信雄は頻りに家康と媾和するように秀吉に熱望したのであるが、秀吉も元より家康との和親を欲したのである。そこで自身はその十七日に坂本に帰り、ついで京師に入ったのであるが、その使いは二十一日に浜松に至って家康に会見し和談をしたのである。 これより先き、家康は十二日に酒井忠次から秀吉・信雄間に和の成ったという知らせを得たのであるが、十六日に石川数正を信雄及び秀吉の陣に遣って賀詞を述べしめ、自身はその日岡崎に入り、二十一日に至って浜松に帰ったのである。 然るにこの秀吉・家康間の和も成立って、家康からその子於義丸を秀吉の養子として遣わすことになり、家康は十二月の十二日に石川数正をして於義丸を大坂に送らしめたのであるが、この事については信雄も大いに中間で斡旋の労を取ったということである。 しかしこの間における秀吉・家康両雄間の魂胆というものは実に味わうべきもので、双方共になかなか巧なものであると思う。 元来この度の戦争というものは前にも申述べた通り、最初秀吉と信雄との争いから起こったもので、家康は信雄からの依頼であるから義のためにこれを援けたという訳になっているのである。然るに信雄は困った時分には家康の力を借りて秀吉に対抗し、和を結ぶに当たっては家康にろくろく協議をも遂げず勝手次第に敵と握手するというが如き事をなすのは、私共から考えると随分虫のよい話であると思うが、そこは家康 【欄外】 豊橋市史談 (秀吉と信雄家康の媾和) 百四十九

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Peace Between Hideyoshi, Nobuo, and Ieyasu) - 148 [Main Text] These matters are recorded in the Butoku Hennen Shūsei (Chronological Collection of Military Virtues). This person's portrait, painted by Kanō Naonobu, is also preserved in the same family today. ⦿ The Peace Between Hideyoshi, Nobuo, and Ieyasu Returning to our earlier narrative, Hideyoshi saw that there was absolutely no opportunity to gain advantage over the Eastern Army in the Komaki confrontation. He stationed Hori Hidemasa, Katō Mitsuyasu and others at Gakuden and Inuyama, while he himself led 60,000 troops on the first day of the fifth month, withdrew to Mino, then entered western Owari where he attacked and captured the castles of Kaganoi in Niwa District and Takegahana. From there he proceeded to Ōgaki, entered western Ōmi on the 21st, and finally returned to Osaka on the 28th. On the Eastern Army's side, Nobuo returned once to Nagashima Castle on May 3rd, while Ieyasu remained alone at Komaki. On June 12th, he left Sakai Tadatsugu there and entered Kiyosu Castle himself. However, Maeda Tanetoshi, who was left in charge of Kanie Castle, betrayed the Eastern Army and let in Takigawa Kazumasu, attempting to cut communications between Nagashima and Kiyosu. Ieyasu and Nobuo attacked this castle, Tanetoshi was killed, and Kazumasu fled to Ise. After such disturbances, Owari ultimately came under Eastern Army control. Hideyoshi again departed Osaka on August 15th and entered Owari, and this time too Ieyasu and Nobuo took the field. However, the two armies merely confronted each other, and Hideyoshi was again unable to achieve his objectives. At this time peace negotiations arose between the armies but failed to reach agreement. Hideyoshi moved to Ōgaki on September 17th and returned to Osaka on October 6th. Ieyasu and Nobuo also entered Kiyosu on September 27th, and on the 17th, Ieyasu returned to Okazaki while Nobuo returned to Nagashima. Thus Hideyoshi repeatedly came and encamped in Owari but somehow could not achieve his aims. In October he changed his route and moved into Ise, establishing camp at Hazu on the 23rd. Oda Nobuo, who was at Nagashima, heard of this and was greatly alarmed, urgently reporting to Kiyosu. At that time Sakai Tadatsugu was stationed at Kiyosu, so he immediately informed Ieyasu at Okazaki... [Left Page] [Header] San'yō Shimbun No. 3900 Supplement (Published October 31, Meiji 44) [Main Text] ...of this development. Consequently, Ieyasu took the field at Kiyosu on November 9th and sent Tadatsugu and others to Kuwana to relieve Nobuo. At this time, Hideyoshi again sent Tomita Tomonobu and Tsuda Nobukatsu as envoys to negotiate peace with Nobuo. Nobuo finally agreed to this, though there are alternative theories about this peace - some say it was Nobuo who approached Hideyoshi for peace. However, the theory that Hideyoshi himself promoted it, being urgent about unifying the realm, seems more credible. In any case, on the 11th, Hideyoshi and Nobuo met at Yada-gawara, where Hideyoshi treated Nobuo with great courtesy. Nobuo earnestly requested that Hideyoshi make peace with Ieyasu as well, and Hideyoshi had always desired reconciliation with Ieyasu. So he returned to Sakamoto on the 17th and then entered Kyoto, while his envoys reached Hamamatsu on the 21st to meet with Ieyasu and conduct peace talks. Earlier, on the 12th, Ieyasu had received word from Sakai Tadatsugu that peace had been made between Hideyoshi and Nobuo. On the 16th he sent Ishikawa Kazumasa to the camps of both Nobuo and Hideyoshi to offer congratulations, entered Okazaki himself that day, and returned to Hamamatsu on the 21st. The peace between Hideyoshi and Ieyasu was also concluded, with Ieyasu agreeing to send his son Ogimaru as Hideyoshi's adopted son. On December 12th, Ieyasu had Ishikawa Kazumasa escort Ogimaru to Osaka, and Nobuo is said to have greatly exerted himself as an intermediary in these arrangements. However, the calculations of both heroes, Hideyoshi and Ieyasu, during this period are truly worth examining - both sides were quite skillful indeed. Originally, this war arose from the conflict between Hideyoshi and Nobuo, as I mentioned before, and Ieyasu was assisting out of duty in response to Nobuo's request. Yet Nobuo, when in trouble, borrowed Ieyasu's strength to oppose Hideyoshi, but when it came to making peace, he shook hands with the enemy quite arbitrarily without proper consultation with Ieyasu - from our perspective, this seems rather selfish behavior. But there was Ieyasu... [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Peace Between Hideyoshi, Nobuo, and Ieyasu) - 149