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【欄外】
豊橋市史談 (秀吉と信雄家康の媾和) 百五十
【本文】
である戦(たゝかひ)の張本人(てうほんにん)たる信雄(のぶを)か秀吉(ひでよし)と和(わ)した以上(いぜう)は自分(じぶん)はトチラにも関係(くわんけい)はない筈(はづ)である只(た)だ双方(そうほう)仲(なか)
善(よ)くなるのは御目出度(おめでた)い事であると云ふので苦情(くぜう)や利屈(りくつ)を云ふトコロが却(かへつ)て賀詞(がし)を述(の)べしめて自身(じしん)は
ドン〳〵兵(へい)を引(ひ)いて帰国(きこく)して仕舞(しま)つたと云ふのは誠(まこと)に味(あぢは)ふべき処で実(じつ)に家康(いへやす)の人(ひと)となりが見(み)ゆる様(よう)で
あると思(おも)ふ併(しか)し秀吉(ひでよし)も亦(ま)たサルものである直(たゞ)ちに家康(いへやす)の後(あと)を追掛(おつか)けて使(し)を浜松(はままつ)にやり和(わ)を講(こう)せしめ其(その)
上(うへ)家康(いへやす)の子(こ)於義丸(おぎまる)を養(やしなつ)て子(こ)と致(いた)したいと云ふ事を申込(もうしこ)むで結局(けつきよく)は家康(いへやす)を征服(せいふく)した形(かたち)に推移(すゐい)せしめよ
うとした手際(てぎは)は巧(たくみ)なものと云はねばならぬ然(しか)るに此(この)事(こと)に対(たい)しては家康(いへやす)は又(また)一 段(だん)其(その)上(うへ)を謀(はか)つたので於義(おぎ)
丸(まる)一人は止(やむ)を得(え)ず之(これ)を犠牲(ぎせい)としても何処(どこ)までも己(おの)れの勢(いきほひ)を支持(しぢ)することを勉(つと)めた遣(や)り方(かた)は之(こ)れ亦(ま)た英(えい)
雄(ゆう)の英雄(えいゆう)たる処とも云ふべきであろうか此(この)点(てん)がドウ見(み)ても両雄(れうゆう)の性格(せいかく)を丸出(まるだ)しにして居(を)るように思(おも)は
るゝのである
サテ此(この)於義丸(おぎまる)に対(たい)して秀吉(ひでよし)は羽柴氏(はしばし)を称(せう)せしめ名(な)を秀康(ひでやす)と命(めい)じ頗(すこぶ)る優遇(ゆうぐう)したのであるが両雄(れうゆう)の間(あひだ)には
ドウもまだ融和(ゆうわ)せざる処があつて家康(いへやす)は敢(あへ)て膝(ひざ)を屈(くつ)して大坂(おほさか)至(いた)らず又(ま)た秀吉(ひでよし)が浜松(はままつ)に出掛(でか)けて来(く)る
ような筈(はづ)もなく双方(そうほう)共(とも)に腹(はら)と腹(はら)とで睨(にら)め合(あ)つて居(を)ると云ふ形勢(けいせい)であつたが其(その)間(あひだ)に秀吉(ひでよし)は北陸(ほくりく)及(およ)び中国(ちうごく)
四国(しこく)を定(さだ)め関白(くわんぱく)に任(にん)せられて位(くらゐ)は従(じう)一 位(ゐ)の高(たか)きに至(いた)つたのであるトコロが家康(いへやす)は信州(しんしう)に真田昌幸(さなだまさゆき)の反(はん)
抗(こう)などの事はあつたが一 方(ぽう)には益(ます〳〵)北條氏(ほうでうし)と懇親(こんしん)を重(かさ)ねて秀吉(ひでよし)を防御(ばうぎよ)するだけの策(さく)は立(た)てゝ居(を)つたの
で其(その)威望(ゐばう)東海(とうかい)を圧(あつ)し容易(ようい)に秀吉(ひでよし)に下(くだ)らぬので秀吉(ひでよし)はドウカして之(これ)を服従(ふくじう)せしめたいと云ふので之(これ)には
余程(よほど)苦(くるし)むだ様子(ようし)で之(これ)は私(わ)が申述(もうしの)べずとも諸君(しよくん)のよく御承知(ごせうち)の事であると思(おも)ふが遂(つひ)に家康(いへやす)をして大坂(おほさか)に
《割書:豊臣徳川二|氏の婚約》 至(いた)らしむる一 策(さく)として其(その)妹(いもと)を家康(いへやす)に嫁(か)する事にしたいと云ふので天正十四年二月廿二日 使者(ししや)羽柴雄親(はしばたけちか)
土方雄久(ひぢかたたけひさ)の両人(れうにん)は先(ま)づ此(この)吉田(よしだ)に来(きた)つて酒井忠次(さかゐたゞつぐ)に面(めん)して此(この)事(こと)を談(だん)じそれより忠次(たゞつぐ)も共(とも)に浜松(はままつ)に至(いた)つて
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
《割書:豊臣氏吉田|に滞在す》 熟談(じゆくだん)した結果(けつくわ)婚約(こんやく)が成(な)つたのである而(しか)して其(その)年(とし)の四月十四日に浜松(はままつ)へ入輿(にうよ)があつたが十一日に三 河(かは)の
西野(にしの)まで忠次(たゞつぐ)の子(こ)の家次(いへつぐ)が迎(むかひ)に出(い)て輿(こし)を請取(うけと)つたのである十二日には即(すなは)ち此(この)吉田(よしだ)に着(ちやく)されて十三日は
滞在(たいざい)されたのであるが此(この)時(とき)忠次(たゞつぐ)は其(その)一 行(こう)を饗(けう)したのである其(その)時(とき)随行(ずいこう)して来(き)た人々(ひと〳〵)並(ならび)に其(その)宿所(しゆくしよ)などに関(くわん)
し家忠日記(いへたゞにつき)には左(さ)の如(ごと)く記(しる)してある
十二日丙午 御輿吉田迄御着候吉田にて酒左馬寄之国衆上方尾州衆振舞候浅野弥兵衛と奥平九八郎
富田平右衛門は野田西郷瀧川喜太夫は下形の原伊藤太郎左衛門は深溝五井小田源吾殿瀧川三郎兵は
二連木飯田半兵衛は設楽也女房衆は酒左衛門也いづれも金銀の仕立や伊藤殿太刀折紙杉原二束下さ
れ候此方よりは太刀折紙計進し候伊藤殿宿は戸田左門所也
即(すなは)ち此(この)時(とき)は浅野長政(あさのながまさ)が一 行(こう)を監督(かんとく)して来(き)たのである此(かく)の如(ごと)く豊臣(とよとみ)徳川(とくがは)二 氏(し)は姻戚関係(ゐんせきくわんけい)が出来(でき)たのであ
《割書:大政所岡崎|に来る》 るが家康(いへやす)は尚(なほ)容易(ようい)に大坂(おほさか)に出向(しゆつこう)がないので秀吉(ひでよし)は益(ます〳〵)苦心(くしん)して遂(つひ)に其(その)母(はゝ)大政所(おほまんどころ)をして其(その)娘(むすめ)面会(めんくわい)の為(ため)
と言(い)ふ事で岡崎(をかざき)に至(いた)らしめたので言(い)はゞ質(しち)のような訳(わけ)であつたのであるが其(そ)の上(うへ)で更(さら)に家康(いへやす)の出頭(しゆつとう)を
家康の上洛 促(うなが)したのであるから家康(いへやす)もイヨ〳〵決心(けつしん)して十月十四日を以(もつ)て浜松(はままつ)を発(はつ)し初(はじ)めて上洛(ぜうらく)の途(と)に就(つ)いたの
である然(しか)るに此(この)時(とき)徳川家(とくがはけ)の重臣(じゆうしん)と云ふものは孰(いづ)れも之(これ)を危(あやぶ)むだもので或(あるひ)は家康(いへやす)が大坂(おほさか)に入(い)つたならば
《割書:酒井忠次の|意見》 暗殺(あんさつ)でもされはしまいかと心配(しんぱい)した様子(ようす)である酒井忠次(さかゐたゞつぐ)は最(もつと)も其(その)上洛(ぜうらく)を不可(ふか)とした論者(ろんしや)であつたよう
に見(み)ゆるが三 河物語(かはものがたり)に左(さ)の記事(きじ)がある
坂井左衛門尉(さかゐさゑもんじよう)被申(もうされ)けるは御上洛(ごぜうらく)之(の)儀共(ぎども)さりとはゆわれざる思召(おぼしめし)立(たて)にて御座候(ござそろ)兎角(とかく)に思召(おぼしめし)とゞまら
せ給(たま)へ御手(おんて)ぎれに罷(まかり)成申(なりもうす)共(とも)兎角(とかく)に御上洛(ごぜうらく)之(の)儀(ぎ)はふんべつに及不申候(およびもうさずそろ)何(なん)と御座候(ござそうら)へても今度(このたび)の御上(ごぜう)
洛(らく)は是非共(ぜひとも)に思召(おぼしめし)とゞまらせられ可被成(なされべく)と各々(おの〳〵)もしきつて申上(もうしあげ)給(たま)へば左衛門尉(さゑもんじよう)を初(はじ)め各々(おの〳〵)は何(なん)
【欄外】
豊橋市史談 (秀吉と信雄家康の媾和) 百五十一
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談 (秀吉と信雄家康の媾和) 百五十
【本文】
である。戦いの張本人たる信雄が秀吉と和した以上は、自分はどちらにも関係はない筈である。ただ双方仲良くなるのはおめでたい事であるということで、苦情や理屈を言うところが、かえって賀詞を述べさせて自身はどんどん兵を引いて帰国してしまったというのは誠に味わうべきところで、実に家康の人となりが見えるようであると思う。
しかし秀吉もまたさるものである。直ちに家康の後を追いかけて使いを浜松にやり和を講じさせ、その上家康の子於義丸を養って子としたいという事を申し込んで、結局は家康を征服した形に推移させようとした手際は巧なものと言わねばならぬ。
然るにこの事に対しては家康はまた一段その上を謀ったので、於義丸一人は止むを得ずこれを犠牲としても、何処までも自分の勢いを支持することを努めた遣り方は、これまた英雄の英雄たる処とも言うべきであろうか。この点がどう見ても両雄の性格を丸出しにしているように思われるのである。
さてこの於義丸に対して秀吉は羽柴氏を称させ名を秀康と命じ、頗る優遇したのであるが、両雄の間にはどうもまだ融和せざるところがあって、家康は敢えて膝を屈して大坂に至らず、また秀吉が浜松に出かけて来るような筈もなく、双方共に腹と腹とで睨め合っているという形勢であった。
その間に秀吉は北陸及び中国・四国を定め、関白に任せられて位は従一位の高きに至ったのである。ところが家康は信州に真田昌幸の反抗などの事はあったが、一方には益々北条氏と懇親を重ねて秀吉を防御するだけの策は立てていたので、その威望東海を圧し容易に秀吉に下らぬので、秀吉はどうかしてこれを服従させたいということで、これには余程苦しんだ様子で、これは私が申述べずとも諸君のよく御承知の事であると思うが、遂に家康をして大坂に至らしむる一策として、その妹を家康に嫁する事にしたいということで、天正十四年二月二十二日、使者羽柴雄親、土方雄久の両人は先ずこの吉田に来て酒井忠次に面してこの事を談じ、それより忠次も共に浜松に至って
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
【左頁】
【欄外】
この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
熟談した結果婚約が成ったのである。而してその年の四月十四日に浜松へ入輿があったが、十一日に三河の西野まで忠次の子の家次が迎えに出て輿を請け取ったのである。十二日には即ちこの吉田に着かれて十三日は滞在されたのであるが、この時忠次はその一行を饗したのである。その時随行して来た人々並びにその宿所などに関し家忠日記には左の如く記してある。
十二日丙午 御輿吉田迄御着候吉田にて酒左馬寄之国衆上方尾州衆振舞候浅野弥兵衛と奥平九八郎富田平右衛門は野田西郷瀧川喜太夫は下形の原伊藤太郎左衛門は深溝五井小田源吾殿瀧川三郎兵は二連木飯田半兵衛は設楽也女房衆は酒左衛門也いづれも金銀の仕立や伊藤殿太刀折紙杉原二束下され候此方よりは太刀折紙計進し候伊藤殿宿は戸田左門所也
即ちこの時は浅野長政が一行を監督して来たのである。このように豊臣徳川二氏は姻戚関係が出来たのであるが、家康は尚容易に大坂に出向がないので、秀吉は益々苦心して遂にその母大政所をしてその娘面会のためと言う事で岡崎に至らしめたので、言わば質のような訳であったのであるが、その上で更に家康の出頭を促したのであるから、家康もいよいよ決心して十月十四日をもって浜松を発し初めて上洛の途に就いたのである。
然るにこの時徳川家の重臣というものは孰れもこれを危ぶんだもので、或は家康が大坂に入ったならば暗殺でもされはしまいかと心配した様子である。酒井忠次は最もその上洛を不可とした論者であったように見えるが、三河物語に左の記事がある。
坂井左衛門尉被申けるは御上洛之儀共さりとはゆわれざる思召立にて御座候兎角に思召とゞまらせ給へ御手ぎれに罷成申共兎角に御上洛之儀はふんべつに及不申候何と御座候へても今度の御上洛は是非共に思召とゞまらせられ可被成と各々もしきつて申上給へば左衛門尉を初め各々は何
【欄外】
豊橋市史談 (秀吉と信雄家康の媾和) 百五十一
英語訳
[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Peace Between Hideyoshi, Nobuo, and Ieyasu) - 150
[Main Text]
...was indeed so. Since Nobuo, who was the instigator of the war, had made peace with Hideyoshi, Ieyasu had no connection with either side. Rather than complaining or arguing about the fact that it was fortunate for both sides to become reconciled, he instead had congratulations offered and promptly withdrew his troops and returned to his domain - this is truly worth contemplating and reveals Ieyasu's character.
However, Hideyoshi was also quite shrewd. He immediately sent envoys in pursuit of Ieyasu to Hamamatsu to negotiate peace, and furthermore proposed to adopt Ieyasu's son Ogimaru as his own child, skillfully maneuvering to create a situation where he had effectively conquered Ieyasu.
Yet regarding this matter, Ieyasu calculated one step further ahead. Though he was forced to sacrifice Ogimaru alone, his method of striving to maintain his own power position throughout was perhaps what marks him as a hero among heroes. This point seems to reveal both heroes' characters completely.
Now, regarding this Ogimaru, Hideyoshi had him take the name Hashiba and renamed him Hideyasu, treating him with great favor. However, there was still something unreconciled between the two heroes - Ieyasu would not humble himself to go to Osaka, nor was there any likelihood of Hideyoshi coming to Hamamatsu, and both sides glared at each other with mutual wariness.
During this time, Hideyoshi pacified the Hokuriku, Chūgoku, and Shikoku regions, was appointed kanpaku (regent), and rose to the high rank of junior first court rank. Meanwhile, though Ieyasu faced issues like Sanada Masayuki's resistance in Shinano, he increasingly strengthened his relationship with the Hōjō clan to defend against Hideyoshi. His prestige dominated the Tōkai region and he would not easily submit to Hideyoshi, so Hideyoshi greatly desired to make him submit and seems to have suffered considerably over this. This is something well known to you all without my elaboration, but finally, as a strategy to bring Ieyasu to Osaka, he decided to marry his sister to Ieyasu. On the 22nd day of the 2nd month of Tenshō 14, the envoys Hashiba Takechika and Hijikata Takehisa first came to this Yoshida and met with Sakai Tadatsugu to discuss the matter, then Tadatsugu accompanied them to Hamamatsu...
[Margin] Mayor Ōguchi Kiroku of Toyohashi City has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as the manuscript is nearly complete...
[Left Page]
[Margin] This Toyohashi City Historical Discussion is published once weekly (Tuesdays) and presented to readers of the San'yō Shimbun
[Main Text]
After thorough discussions, the betrothal was arranged. The bride's procession entered Hamamatsu on April 14th of that year, and on the 11th, Tadatsugu's son Ietsugu went out to meet them at Nishino in Mikawa and received the palanquin. On the 12th they arrived at this Yoshida, and stayed on the 13th, when Tadatsugu entertained the party. The Ietsugu Diary records the following regarding the people who accompanied her and their lodgings:
"12th day, hinoe-uma: The honorable palanquin arrived at Yoshida. At Yoshida, Sake Sama entertained the provincial warriors and retainers from the capital and Owari. Asano Yahyōe and Okudaira Kuhachirō, Tomita Heiemon stayed at Noda-Saigō; Takigawa Kitayū at Shimogata-no-hara; Itō Tarōzaemon at Fukōzu; Goi Oda Gengo-dono; Takigawa Saburōhyōe at Nirengi; Iida Hanbee at Shitara. The ladies stayed with Sake Zaemon. All received gifts of gold and silver workmanship. Lord Itō gave a sword, certificates, and two bundles of Sugihara paper. From our side we presented only a sword and certificates. Lord Itō's lodging was at Toda Samon's place."
At this time, Asano Nagamasa supervised the party. Thus a marriage relationship was established between the Toyotomi and Tokugawa families. However, as Ieyasu still would not easily go to Osaka, Hideyoshi became increasingly anxious and finally had his mother Ōmandokoro go to Okazaki under the pretext of meeting her daughter - essentially as a hostage. Having done this, he further pressed for Ieyasu's appearance, so Ieyasu finally resolved to depart Hamamatsu on October 14th and set out on his first journey to the capital.
At this time, the senior retainers of the Tokugawa house all viewed this with alarm, and some worried that Ieyasu might be assassinated if he entered Osaka. Sakai Tadatsugu appears to have been the strongest opponent of this journey to the capital, and the Mikawa Monogatari contains this account:
"Sakai Saemon-no-jō said: 'This matter of going to the capital is an unavoidable decision, but please reconsider. Even if relations are severed, this journey to the capital is not advisable. Whatever happens, this journey to the capital should absolutely be reconsidered.' When everyone pressed him urgently with these words, Saemon-no-jō and the others..."
[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Peace Between Hideyoshi, Nobuo, and Ieyasu) - 151