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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 90

ページ: 90

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【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次の退隠)                    百五十二 【本文】         左様(さよう)には申(もうす)ぞ我(われ)一 人(にん)腹(はら)を切(きつ)てばんみんをたすけべし我(わ)が上洛(ぜうらく)せずむば手(て)ぎれ可有(あるべく)然共(しかれども)百万 騎(き)にて寄(よせ)        くる共(とも)一合戦(ひとかつせん)にて打(うつ)はたすべけれ共(ども)陣(ぢん)のならいはさもなきものなり我(われ)一 人(にん)の覚悟(かくご)を以(もつ)て民百姓(たみひやくせう)諸(しよ)         侍(さむらひ)共(ども)を山野(さんや)にはめて殺(ころ)すならば其(その)もうれいのおもわくもおそろしき我(われ)一 人(にん)腹(はら)を切(きる)ならば諸人(しよにん)の命(いのち)        たすけおくべし其(その)方(ほう)なども必(かなら)ず何(なに)かの義(ぎ)不申共(もうさずとも)わひ事(こと)をして諸人(しよにん)の命(いのち)を助(たす)けおけと被仰(あふせられ)ければ左衛(さゑ)         門尉(もんじよう)も左様(さよう)にも思召(おぼしめし)に付(つい)ては御尤(ごもつとも)なり御上洛(ごぜうらく)可被成(なされべく)之(の)由(よし)申被上(もうしあげられ)けるをさすがにおとなの御返事(ごへんじ)には        にあひたりと申(もうし)ける 家康の決心  之(これ)で見(み)ると実(じつ)に家康(いへやす)の決心(けつしん)と云ふものは立派(りつぱ)なもので何(なん)とも敬服(けいふく)の外(ほか)はないのであるが結局(けつきよく)前(まへ)にも申(もうし)        述(の)べた如(ごと)く家康(いへやす)は遂(つひ)に上洛(ぜうらく)と決(けつ)して其(その)月(つき)の廿六日に大坂(おほさか)に着(ちやく)し更(さら)に秀吉(ひでよし)と共(とも)に京都(けうと)に出(い)でゝ大(だい)なる優(ゆう)        遇(ぐう)を受(う)けたのであるが此(この)時(とき)家康(いへやす)は志(こゝろざし)を屈(くつ)して秀吉(ひでよし)の為(ため)に一 歩(ぽ)を譲(ゆづ)つたのである蓋(けだ)し前(まへ)にも申述(もうしの)ぶる        通(とほ)り此処(ここ)が両雄(れうゆう)の性格(せいかく)を現(あら)はして居(を)る処(ところ)で若(も)しも此(この)時(とき)家康(いへやす)が何処(どこ)迄(まで)も硬骨(こうこつ)であつて上洛(ぜうらく)せなかつたな       らば其(その)結果(けつくわ)は如何(いかゞ)であつたであろうか徳川氏(とくがはし)の将士(せうし)は武骨(ぶこつ)一 偏(ぺん)で云(い)はゞ世間(せけん)狭(せま)い処(ところ)がある豊臣氏(とよとみし)の方(ほう)       は中々(なか〳〵)宏量(くわうれう)大度(たいど)で広(ひろ)く天下(てんか)の大勢(たいせい)に通(つう)じて居(を)る処(ところ)はあるがさりとてまだ種々(しゆ〴〵)なる事情(じぜう)が周囲(しうゐ)に蟠(わだかま)つ       て居(を)るので根本的(こんぽんてき)に徳川氏(とくがはし)を打(う)ち破(やぶ)ると云ふが如(ごと)き事は容易(ようい)でない或(あるひ)は徳川氏(とくがはし)仆(たふ)るゝか豊臣氏(とよとみし)破(やぶ)るゝ       か何(いづ)れにしても天下(てんか)は再(ふたゝ)び一 擾乱(ぜうらん)を醸(かも)した事と思(おも)ふのである此処(ここ)等(ら)の事情(じぜう)から両氏(れうし)の関係(くわんけい)を討究(とうきう)する       のは歴史上(れきしぜう)最(もつと)も趣味(しゆみ)のあることではあるまいかと思(おも)ふが余(あま)り長(なが)くなる事でもあるから此(この)話(はなし)は先(ま)づ此処(ここ)ら       で止(とゞ)めたいと思(おも)ふ             ⦿酒井忠次の退隠 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百六号附録      ( 明治四十四年十一月七日発行 ) 【本文】       サテ家康(いへやす)が上洛(ぜうらく)して之(これ)が却(かへつ)て豊臣氏(とよとみし)との間(あひだ)に長(なが)く和親(わしん)を固(かた)むるの原因(げんゐん)となつた事は前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)       くであるが併(しか)し其(その)上洛(ぜうらく)に当(あたつ)ては徳川氏(とくがはし)は頗(すこぶ)る大決心(たいけつしん)を以(もつ)てしたものでイヨ〳〵上洛(ぜうらく)すると云ふ前(まへ)には        尚(な)ほ一 層(そう)東(ひがし)北條氏(ほうでうし)との間(あひだ)に懇親(こんしん)を温(あたゝ)めて置(お)く必要(ひつえう)があると云ふので天正十四年三月 家康(いへやす)は態々(わざ〳〵)自身(じしん)に 惣河原の宴  北條氏(ほうでうし)の領地(れうち)なる伊豆(いづ)の三島(みしま)まで出張(しゆつてう)して北條氏政(ほうでううぢまさ)と会見(くわいけん)したのであつたが其(その)時(とき)惣河原(そうがはら)と云ふ処で酒(しゆ)        宴(えん)があつて其(その)席上(せきぜう)で酒井忠次(さかゐたゞつぐ)は戯(たはむれ)に舞(まひ)を舞(ま)ひそれがタイソウ氏政(うぢまさ)の気(き)に入(い)つて悦(よろこ)ばれたと云ふ話(はなし)が 《割書:家康忠次の|邸に猿楽を》  ある之(これ)は只(た)だ忠次(たゞつぐ)の履歴(りれき)として御話(おはなし)する丈(だけ)の事であるが又(ま)た其(その)翌年(よくねん)の天正十五年十一月十五日には家(いへ) 《割書:見る   | 》   康(やす)が忠次(たゞつぐ)の邸(てい)に臨(のぞ)み終日(しうじつ)猿楽(さるがく)の催(もよほし)があつて家康(いへやす)も歓(くわん)を尽(つく)して皈(かへ)つたと云ふ事である然(しか)るに其(その)又(ま)た翌(よく) 忠次退隠  の天正十六年十月に至(いた)つて忠次(たゞつぐ)は遂(つひ)に退隠(たいゐん)して嫡子(ちやくし)家次(いへつぐ)に家督(かとく)を譲(ゆづ)つたのである其(その)家督(かとく)相続(さうぞく)の時(とき)の事       が矢張(やはり)家忠日記(いへたゞにつき)に書(か)いてあるが甚(はなは)だ味(あぢは)ふべき節(ふし)があると思(おも)ふから左(さ)に抄録(しようろく)する        五日 乙酉(きのととり)吉田(よしだ)酒井左衛門尉(さかゐさゑもんじよう)隠居(ゐんきよ)宮内(くない)家督(かとく)祝言(しゆうげん)に吉田(よしだ)へ越(こ)し候 宮内所(くないところ)に振舞(ふるまひ)候(そろ)城(しろ)へ三百 疋(ぴき)樽(たる)肴(さかな)隠居(ゐんきよ)へ        百疋 樽(たる)肴(さかな) 《割書:忠次薙髪し|て一智と号》   右(みぎ)の内(うち)に宮内(くない)とあるのは家次(いへつぐ)の事であるが忠次(たゞつぐ)はそれより薙髪(ちはつ)して一 智(ち)と号(ごう)し京都(けうと)桜井(さくらゐ)の邸(てい)に住(ぢう)して 《割書:す    |忠次卒す》   慶長(けいてう)元年十月廿八日 天寿(てんじゆ)を以(もつ)て其(その)地(ち)に於(おい)て卒(そつ)した年(とし)は七十歳で(《割書:一に七十二歳となす今寛|政重修諸家譜等に従ふ》)法名(ほうみよう)を天誉高月縁(てんよかうげつゑん)        心先求院(しんせんきうゐん)と称(せう)して知恩院(ちおんゐん)に葬(ほうむ)つたのである蓋(けだ)し其(その)桜井(さくらゐ)の邸(てい)と云ふのは忠次(たゞつぐ)が家康(いへやす)の上洛(ぜうらく)に従(したが)つた時(とき)秀(ひで)        吉(よし)の与(あた)へたもので其(その)時(とき)には秀吉(ひでよし)から家康(いへやす)に邸宅(ていたく)を贈(おく)り又(ま)た湯沐(とうもく)の邑(ゆう)として近江国(あふみのくに)守山(もりやま)附近(ふきん)で三万石の       地(ち)を贈(おく)つたのであるが忠次(たゞつぐ)には此(この)桜井(さくらゐ)の邸(やしき)と矢張(やはり)近江(あふみ)で千石 許(ばかり)の地(ち)を与(あた)へたのである而(しか)して前(まへ)にも申(もうし)        述(の)べて置(お)いた如(ごと)く此(この)忠次(たゞつぐ)の夫人(ふじん)と云ふのは碓井姫(うすゐひめ)後(のち)に光樹夫人(くわうじゆふじん)と云ふので松平清康(まつだひらきよやす)の女(じよ)であるが即(すなは)ち 《割書:光樹夫人の|卒年月日》   家康(いへやす)から云ふと叔母(おば)に当(あた)るのである此(この)人(ひと)も頗(すこぶ)る長寿(てうじゆ)で慶長(けいてう)十七年十一月廿七日に卒(そつ)し法名(ほうみよう)は九 心窓月(しんそうげつ) 【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次の退隠)                    百五十三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (酒井忠次の退隠) 百五十二 【本文】 「そのようには申しません。私一人腹を切って万民を助けましょう。私が上洛しなければ手切れとなるでしょうが、しかし百万騎で寄せて来ても一合戦で打ち果たすことはできるでしょうが、陣の習いはそのようなものではありません。私一人の覚悟をもって民百姓や諸侍どもを山野に追いやって殺すならば、その亡霊の恨みも恐ろしいものです。私一人が腹を切るならば諸人の命を助け置くでしょう。そなたなども必ず何かの義理を申さずとも詫び事をして諸人の命を助け置け」と仰せられたので、左衛門尉も「そのようにお思し召しにつきましては、ごもっともです。御上洛なされるべき」旨を申し上げたところ、「さすがに大人の御返事にふさわしい」と申したという。 これで見ると実に家康の決心というものは立派なもので、何とも敬服の外はないのであるが、結局前にも申し述べた如く家康は遂に上洛と決して、その月の二十六日に大坂に着き、更に秀吉と共に京都に出でて大なる優遇を受けたのであるが、この時家康は志を屈して秀吉のために一歩を譲ったのである。蓋し前にも申し述べる通り、ここが両雄の性格を現している処で、若しもこの時家康が何処までも硬骨であって上洛しなかったならば、その結果は如何であったであろうか。徳川氏の将士は武骨一偏で、言わば世間狭いところがある。豊臣氏の方は中々宏量大度で広く天下の大勢に通じているところはあるが、さりとてまだ種々なる事情が周囲に蟠っているので、根本的に徳川氏を打ち破るというが如き事は容易でない。或いは徳川氏が倒れるか豊臣氏が破れるか、いずれにしても天下は再び一擾乱を醸した事と思うのである。ここ等の事情から両氏の関係を討究するのは歴史上最も趣味のあることではあるまいかと思うが、余り長くなる事でもあるからこの話は先ずここらで止めたいと思う。 ⦿酒井忠次の退隠 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百六号附録 (明治四十四年十一月七日発行) 【本文】 さて家康が上洛してこれがかえって豊臣氏との間に長く和親を固めるの原因となった事は前章に申し述べた如くであるが、しかしその上洛に当っては徳川氏は頗る大決心をもってしたもので、いよいよ上洛するという前にはなお一層東北条氏との間に懇親を温めて置く必要があるということで、天正十四年三月、家康は態々自身に北条氏の領地なる伊豆の三島まで出張して北条氏政と会見したのであったが、その時惣河原という処で酒宴があって、その席上で酒井忠次は戯れに舞を舞い、それが大層氏政の気に入って悦ばれたという話がある。これはただ忠次の履歴として御話しするだけの事であるが、またその翌年の天正十五年十一月十五日には家康が忠次の邸に臨み終日猿楽の催しがあって家康も歓を尽くして帰ったということである。然るにその又翌の天正十六年十月に至って忠次は遂に退隠して嫡子家次に家督を譲ったのである。その家督相続の時の事がやはり家忠日記に書いてあるが、甚だ味わうべき節があると思うから左に抄録する。 「五日乙酉 吉田酒井左衛門尉隠居宮内家督祝言に吉田へ越し候 宮内所にて振舞候 城へ三百疋樽肴 隠居へ百疋樽肴」 右の内に宮内とあるのは家次の事であるが、忠次はそれより薙髪して一智と号し、京都桜井の邸に住して慶長元年十月二十八日天寿をもってその地において卒した。年は七十歳で(一に七十二歳となす。今寛政重修諸家譜等に従う)法名を天誉高月縁心先求院と称して知恩院に葬ったのである。蓋しその桜井の邸というのは忠次が家康の上洛に従った時秀吉の与えたもので、その時には秀吉から家康に邸宅を贈り、また湯沐の邑として近江国守山附近で三万石の地を贈ったのであるが、忠次にはこの桜井の邸宅とやはり近江で千石許りの地を与えたのである。而して前にも申し述べて置いた如く、この忠次の夫人というのは碓井姫後に光樹夫人というので松平清康の女であるが、即ち家康から云うと叔母に当るのである。この人も頗る長寿で慶長十七年十一月二十七日に卒し、法名は九心窓月 【欄外】 豊橋市史談 (酒井忠次の退隠) 百五十三

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Sakai Tadatsugu's Retirement) - 152 [Main Text] "I will not say such things. I alone will commit seppuku and save all the people. If I do not go to the capital, relations will be severed, but even if a million cavalry come attacking, we could defeat them in one battle. However, the way of war is not like that. If I, through my own resolve, drive the common people and various samurai into the mountains and wilderness to be killed, the vengeful spirits' resentment would be terrifying. If I alone commit seppuku, the lives of all people will be saved. You too, without necessarily stating any particular duty, should make apologies and save the lives of all people." When he said this, Saemon-no-jō also replied, "Given your thoughts on this matter, it is quite reasonable. You should proceed with the journey to the capital." To this, it was said, "That is indeed a response befitting a mature person." Looking at this, Ieyasu's resolve was truly admirable, and one cannot help but feel deep respect. Ultimately, as mentioned before, Ieyasu finally decided on going to the capital, arrived in Osaka on the 26th of that month, and went with Hideyoshi to Kyoto where he received great honors. At this time, Ieyasu humbled his aspirations and yielded one step to Hideyoshi. As stated before, this reveals the characters of both heroes. If Ieyasu had remained completely inflexible and not gone to the capital, what would the result have been? The generals and retainers of the Tokugawa were single-mindedly martial and, so to speak, narrow in their worldview. The Toyotomi side was quite magnanimous and broad-minded, widely understanding the general trend of the realm, but there were still various circumstances surrounding them, making it difficult to fundamentally defeat the Tokugawa. Whether the Tokugawa would fall or the Toyotomi would be broken, either way the realm would have again brewed great turmoil. Investigating the relationship between these two houses from such circumstances might be the most interesting aspect of history, but as this would become too lengthy, I would like to stop this discussion here. ⦿Sakai Tadatsugu's Retirement [Left Page] [Header] San'yō Shimbun No. 3906 Supplement (Published November 7, Meiji 44) [Main Text] Now, that Ieyasu's journey to the capital actually became the cause of long-lasting friendship with the Toyotomi house was as described in the previous chapter. However, regarding this journey to the capital, the Tokugawa made it with great resolve, and before finally going to the capital, it was necessary to further warm relations with the Hōjō clan in the east. In the 3rd month of Tenshō 14, Ieyasu personally went to Mishima in Izu, which was Hōjō territory, and met with Hōjō Ujimasa. At that time there was a banquet at a place called Sōgawara, and at that gathering Sakai Tadatsugu playfully performed a dance, which greatly pleased Ujimasa and delighted him. This is just something I mention as part of Tadatsugu's history, but also in the following year, on the 15th day of the 11th month of Tenshō 15, Ieyasu visited Tadatsugu's residence and there was an all-day sarugaku performance, with Ieyasu enjoying himself thoroughly before returning home. However, in the following year, in the 10th month of Tenshō 16, Tadatsugu finally retired and transferred the family headship to his eldest son Ietsugu. The events of this succession are also recorded in the Ietada Diary, and I think there are quite meaningful passages, so I will excerpt them below: "5th day, kinoto-tori: Yoshida Sakai Saemon-no-jō's retirement, Kunai's succession celebration, went to Yoshida. Entertainment at Kunai's place. To the castle, 300 hiki, sake barrels and food. To the retiree, 100 hiki, sake barrels and food." The "Kunai" mentioned here refers to Ietsugu, and from then Tadatsugu took the tonsure, took the name Icchi, lived at the Sakurai residence in Kyoto, and died there of natural causes on the 28th day of the 10th month of Keichō 1 at age seventy (some sources say seventy-two; I follow the Kansei Revised Genealogies of Various Houses). His posthumous Buddhist name was Ten'yo Kōgetsu Enshin Senkyūin and he was buried at Chion-in Temple. This Sakurai residence was given by Hideyoshi when Tadatsugu accompanied Ieyasu's journey to the capital. At that time, Hideyoshi presented Ieyasu with a residence and also gave him lands worth 30,000 koku near Moriyama in Ōmi Province as a bathing stipend. To Tadatsugu he gave this Sakurai residence and about 1,000 koku of land, also in Ōmi. As mentioned before, Tadatsugu's wife was called Usui-hime, later Kōju-fujin, daughter of Matsudaira Kiyoyasu, making her Ieyasu's aunt. This woman also lived a very long life, dying on the 27th day of the 11th month of Keichō 17, with the Buddhist name Kushin Sōgetsu... [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Sakai Tadatsugu's Retirement) - 153