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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 91

ページ: 91

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【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次の退隠)                    百五十四 【本文】       三 河国(かはのくに)額田郡(ぬかたぐん)の法蔵寺(ほうぞうじ)に葬(ほうむ)つたのであるモツトモ此(この)人(ひと)が卒(そつ)した月日に就(つい)ては十月の十七日であると云       ふ説(せつ)があるが寛政重修諸家譜(かんせいじゆうしうしよかふ)などには前(まへ)の説(せつ)を採(と)つてあるのである 忠次と吉田 ソコで此(この)忠次(たゞつぐ)と豊橋(とよはし)即(すなは)ち吉田(よしだ)との関係(くわんけい)であるが之(これ)は前(まへ)にも段々(だん〴〵)と章(せう)を重(かさ)ねて申述(もうしの)べた通(とほ)りの次第(しだい)で永       禄八年 忠次(たゞつぐ)が年(とし)三十九でこの此(この)地(ち)の城主(じようしゆ)となつてから天正十六年の退隠(たいゐん)までは其(その)間(あひだ)約(やく)二十四年で忠次(たゞつぐ)が三       方(かた)ケ原(はら)長篠(ながしの)などの戦役(せんえき)を初(はじ)め大小(だいせう)幾多(いくた)の戦(たゝかひ)にイツモ東(ひがし)三 河(かは)の諸将(しよせう)を統率(とうそつ)して参加(さんか)した事は御承知(ごせうち)の        如(ごと)くであるが其(その)頃(ころ)は家康(いへやす)の命(めい)によつて東(ひがし)三 河(かは)の旗頭(はたがしら)となつて居(を)つたので東三河の諸将(しよせう)へ号令(ごうれい)を伝(つた)ゆる       には必(かなら)ず忠次(たゞつぐ)からなしたのである此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であるから都会(とくわい)としての吉田(よしだ)の地(ち)も自然(しぜん)東三河の中心(ちうしん)       となつたので漸々(ぜん〳〵)と発達(はつたつ)したものであるが前(まへ)に一寸(ちよつと)申述(もうしの)べて置(お)いた如(ごと)く里村紹破巴(りそんせうは)の記行(きこう)などは頗(すこぶ)る参(さん)        考(こう)となるべきものであると思(おも)ふ其(その)後(のち)信長(のぶなが)の宿泊(しゆくはく)した時(とき)の事情(じぜう)又(また)は家康(いへやす)の夫人(ふじん)豊臣氏(とよとみし)入輿(にふよ)の時(とき)の模様(もよう)な       どから推測(すいそく)しても当時(とうじ)の城郭(じようくわく)と云ふものも相当(さうとう)の規模(きぼ)をなして居(を)つたに相違(さうゐ)ないと信(しん)ぜらるゝので       ある而(しか)して忠次(たゞつぐ)は入城(にふじよう)後(ご)此(この)吉田(よしだ)の市街(しがい)を整理(せいり)したもので豊河(とよかは)の橋(はし)と云ふものも初(はじ)めて忠次(たゞつぐ)が今(いま)の関屋(せきや)       の辺(へん)から対岸(たいがん)へ架(か)したものであるが当時(とうじ)は土橋(どばし)であつたと云ふ事も之(こ)れ亦(ま)た前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べて置(お)いた如(ごと) 《割書:東観音寺文|書》  くであるが此(この)豊橋(とよはし)近傍(きんばう)に遺(のこ)つて居(を)る忠次(たゞつぐ)の文書(ぶんしよ)では渥美郡(あつみぐん)小松原(こまつばら)東観音寺(ひがしくわんおんじ)に永禄八年七月五日付の制(せい) 普門寺文書  札(さつ)並(ならび)に雲(う)の谷(や)の普門寺(ふもんじ)に天正十三年六月廿五日付の制札(せいさつ)があるが之(これ)には孰(いづ)れも花押(くわおう)があつて其(その)文字(もんじ)の        形態(けいたい)は何(なん)となく謹慎(きんしん)に見(み)ゆる中(なか)に延び〳〵とした処(ところ)があつて如何(いか)にも其(その)人物(じんぶつ)の幾分(いくぶん)を現(あら)はして居(を)るよ       うに思(おも)はるゝのであるモツトモ忠次(たゞつぐ)の経歴(けいれき)に就(つい)ては之(これ)迄(まで)段々(だん〴〵)申述(もうしの)べた話(はなし)の中(なか)で御承知(ごせうち)の事と思(おも)ふが此(この) 忠次と家康  人(ひと)は元来(がんらい)智勇兼備(ちゆうけんび)で而(しか)も其(その)遣(や)り口(くち)の或点(あるてん)は大(おほい)に家康(いへやす)に似(に)て居(を)る処があると思(おも)ふ蓋(けだ)し家康(いへやす)青年時代(せいねんじだい)の動(どう)        作(さ)は却(かへつ)て多(おほ)く忠次(たゞつぐ)の謀策(ちうさく)から出(い)でたものが多(おほ)くはなかろうかと思(おも)ふのであるが特(とく)に忠次(たゞつぐ)は毎戦(まいせん)必(かなら)ず家(いへ) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        康(やす)に従(したが)つたもので家康(いへやす)が進(すゝ)もふと云へば忠次(たゞつぐ)か抑(おさ)へ忠次(たゞつぐ)が進(すゝ)もふと云へば家康(いへやす)が抑(おさ)ゆると云ふ工合(ぐあひ)に        互(たがひ)に軽挙(けいきよ)を戒(いまし)めて慎重(しんちよう)に慎重(しんちよう)を重(かさ)ねた形(かたち)がある即(すなは)ち大事(だいじ)の上(うへ)にも大事(だいじ)を取(と)つて急進(きうしん)せなかつた徳川流(とくがはりう)       の筆法(ひつほう)と云ふものは誠(まこと)に此(この)忠次(たゞつぐ)の人物(じんぶつ)に於(おい)て見(み)るような心地(こゝち)がするのであるソウカと云ふて忠次(たゞつぐ)は又(また)        決(けつ)して引込(ひきこ)み思案(しあん)の人(ひと)ではない一 朝(てう)機(き)の熟(じゆく)するを見込(みこ)むか又(ま)た止(やむ)を得(え)ざるに出(い)づる場合(ばあひ)は所謂(いはゆる)勇猛(ゆうもう)奮(ふん)        進(しん)の態度(たいど)で実(じつ)に其(その)武勇(ぶゆう)を現(あら)はして居(を)るのである勿論(もちろん)中年(ちうねん)以後(いご)の家康(いへやす)は頗(すこぶ)る甲州流(かうしうりう)の兵法(へいがく)に学(まな)ぶ所(ところ)があ       り又(ま)た段々(だん〳〵)老練(らうれん)の功(こう)を積(つ)むだので自(みづか)ら計画(けいくわく)判断(はんだん)した事が多(おほ)かつたのであるが其(その)以前(いぜん)の事に至(いた)つては此(この)        忠次(たゞつぐ)の力(ちから)が頗(すこぶ)る与(あづか)つて居(を)る事と思(おも)ふモツトモ忠次(たゞつぐ)以外(いぐわい)にも家康(いへやす)には智勇(ちゆう)の将士(せうし)が多(おほ)かつたのでそれ等(ら)       の力(ちから)によつた事も亦(ま)た決(けつ)して少(すくな)くはないのであるが私(わたくし)は常(つね)に徳川氏(とくがはし)が後(おく)れて天下(てんか)を取(と)るに至(いた)つた所以(ゆゑん)        又(ま)たそれが却(かへつ)て長(なが)く持続(じぞく)した所以(ゆゑん)であると云ふことを思(おも)ふ毎(つね)に其(その)因(よつ)て来(きた)る所(ところ)には無論(むろん)徳川氏(とくがはし)代々(だい〳〵)の修養(しうやう)       と云ふものゝあつた結果(けつくわ)ではあるが又(また)以(もつ)て家康(いへやす)青年時代(せいねんじだい)に忠次(たゞつぐ)等(ら)の輔翼(ほよく)が大(おほい)に源(みなもと)をなして居(を)るもの       であると思(おも)ふのである従(したがつ)て家康(いへやす)の研究(けんきう)に方(あた)つては此(この)忠次(たゞつぐ)に関(くわん)する調査(てうさ)と云ふものが最(もつと)も等閑(なほざり)になら       ぬ大切(たいせつ)な事ではあるまいかと思(おも)ふのである然(しか)るに今(いま)此(この)地(ち)に忠次(たゞつぐ)の施設(せせつ)した事物(じぶつ)に就(つい)て一二の外(ほか)具体的(ぐたいてき)       に遺(のこ)つて居(を)るものがなく其(その)委細(ゐさい)を知(し)る事の出来(でき)ぬのは誠(まこと)に遺憾(ゐかん)に堪(た)へぬのである 酒井家次  ソコで家次(いへつぐ)の話(はなし)であるが家次(いへつぐ)は初(はじ)め小五郎と云(いつ)て忠次(たゞつぐ)の嫡子(ちやくし)であるが母(はゝ)は即(すなは)ち光樹夫人(くわうじゆふじん)で永禄七年の        生(うまれ)である天正三年 長篠(ながしの)の役(えき)には年(とし)十二で父(ちゝ)に従(したがつ)て出陣(しゆつぢん)したと云ふ事であるが仝十六年十月に父(ちゝ)の後(あと)       を襲(つ)ゐで此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)となり十七年十一月廿九日 従(じゆ)五 位(ゐ)下(げ)宮内(くない)大輔(たゆう)に叙任(ぢよにん)せられたのであるが其(その)翌(よく)十       八年には御承知(ごせうち)の小田原役(おだはらえき)が起(おこ)つたのであるから此処(こゝ)には其(その)事(こと)に就(つい)て少(すこ)しく申述(もうしの)べて置(お)く必要(ひつえう)がある       と思(おも)ふ 【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次の退隠)                    百五十五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (酒井忠次の退隠) 百五十四 【本文】 三河国額田郡の法蔵寺に葬ったのである。もっともこの人が卒した月日については十月の十七日であるという説があるが、寛政重修諸家譜などには前の説を採っているのである。 そこでこの忠次と豊橋すなわち吉田との関係であるが、これは前にも段々と章を重ねて申し述べた通りの次第で、永禄八年忠次が年三十九でこの地の城主となってから天正十六年の退隠までは、その間約二十四年で、忠次が三方ヶ原・長篠などの戦役をはじめ大小幾多の戦にいつも東三河の諸将を統率して参加した事は御承知の通りであるが、その頃は家康の命によって東三河の旗頭となっていたので、東三河の諸将へ号令を伝えるには必ず忠次からなしたのである。このような訳であるから都会としての吉田の地も自然東三河の中心となったので、漸々と発達したものであるが、前に一寸申し述べて置いた如く里村紹巴の紀行などは頗る参考となるべきものであると思う。その後信長の宿泊した時の事情、または家康の夫人豊臣氏入輿の時の模様などから推測しても、当時の城郭というものも相当の規模をなしていたに相違ないと信じられるのである。而して忠次は入城後この吉田の市街を整理したもので、豊川の橋というものもはじめて忠次が今の関屋の辺から対岸へ架したものであるが、当時は土橋であったということも、これまた前章に申し述べて置いた通りである。 この豊橋近傍に遺っている忠次の文書では、渥美郡小松原東観音寺に永禄八年七月五日付の制札、並びに雲の谷の普門寺に天正十三年六月二十五日付の制札があるが、これにはいずれも花押があって、その文字の形態は何となく謹慎に見える中に延び延びとした処があって、いかにもその人物の幾分を現している様に思われるのである。もっとも忠次の経歴については、これまで段々申し述べた話の中で御承知の事と思うが、この人は元来智勇兼備で、而もその遣り口の或点は大いに家康に似ている処があると思う。蓋し家康青年時代の動作はかえって多く忠次の謀策から出たものが多くはなかろうかと思うのであるが、特に忠次は毎戦必ず家 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其博識な知識と不尽の精力を傾けて豊橋市史編纂に従うこと一年余り、今やその稿略成るに際[以下欠損] 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 康に従ったもので、家康が進もうと言えば忠次が抑え、忠次が進もうと言えば家康が抑えるという具合に、互いに軽挙を戒めて慎重に慎重を重ねた形がある。即ち大事の上にも大事を取って急進しなかった徳川流の筆法というものは、誠にこの忠次の人物において見るような心地がするのである。そうかと言って忠次はまた決して引込み思案の人ではない。一朝機の熟するを見込むか、また止むを得ざるに出ずる場合は、所謂勇猛奮進の態度で実にその武勇を現しているのである。勿論中年以後の家康は頗る甲州流の兵法に学ぶ所があり、また段々老練の功を積むので自ら計画判断した事が多かったのであるが、その以前の事に至ってはこの忠次の力が頗る与っている事と思う。もっとも忠次以外にも家康には智勇の将士が多かったので、それ等の力によった事もまた決して少なくはないのであるが、私は常に徳川氏が後れて天下を取るに至った所以、またそれがかえって長く持続した所以であるということを思う毎に、その因って来る所には無論徳川氏代々の修養というもののあった結果ではあるが、またもって家康青年時代に忠次等の輔翼が大いに源をなしているものであると思うのである。従って家康の研究に方たってはこの忠次に関する調査というものが最も等閑になならぬ大切な事ではあるまいかと思うのである。然るに今この地に忠次の施設した事物について一二の外具体的に遺っているものがなく、その委細を知る事の出来ぬのは誠に遺憾に堪えぬのである。 そこで家次の話であるが、家次ははじめ小五郎と云って忠次の嫡子であるが、母は即ち光樹夫人で永禄七年の生まれである。天正三年長篠の役には年十二で父に従って出陣したということであるが、同十六年十月に父の後を襲いでこの吉田の城主となり、十七年十一月二十九日従五位下宮内大輔に叙任されたのであるが、その翌十八年には御承知の小田原役が起こったのであるから、ここにはその事について少しく申し述べて置く必要があると思う。 【欄外】 豊橋市史談 (酒井忠次の退隠) 百五十五

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Sakai Tadatsugu's Retirement) - 154 [Main Text] She was buried at Hōzō-ji Temple in Nukata District, Mikawa Province. Although there is a theory that this person died on the 17th day of the 10th month, the Kansei Revised Genealogies of Various Houses and other sources adopt the former theory. Now, regarding the relationship between this Tadatsugu and Toyohashi, namely Yoshida, this was as described in the previous chapters I have recounted in detail. From when Tadatsugu became lord of this area in Eiroku 8 at age thirty-nine until his retirement in Tenshō 16, approximately twenty-four years passed. As you know, Tadatsugu participated in major and minor battles including Mimatagahara and Nagakute, always leading the generals of eastern Mikawa. At that time, by Ieyasu's command, he served as the standard-bearer of eastern Mikawa, so all orders to the generals of eastern Mikawa had to come through Tadatsugu. For this reason, Yoshida as an urban center naturally became the center of eastern Mikawa and gradually developed. As I briefly mentioned before, Satomura Jōha's travelogue and such materials are quite valuable references. From the circumstances when Nobunaga stayed there, or the situation when Ieyasu's wife from the Toyotomi house entered the castle, we can infer that the castle complex at that time must have been of considerable scale. After entering the castle, Tadatsugu organized Yoshida's urban streets, and the bridge over the Toyo River was first built by Tadatsugu from the area of present-day Sekiya to the opposite bank, though it was an earthen bridge at that time, as I mentioned in the previous chapter. Among Tadatsugu's documents remaining in the Toyohashi vicinity, there is a prohibition notice dated the 5th day of the 7th month of Eiroku 8 at Higashi Kannon-ji Temple in Komatsubara, Atsumi District, and a prohibition notice dated the 25th day of the 6th month of Tenshō 13 at Fumon-ji Temple in Kunotani. Both have his personal seal, and the form of the characters appears somehow prudent yet with flowing elements, seeming to reveal something of his personality. Of course, regarding Tadatsugu's career, you should be familiar with it from the stories I have gradually recounted, but this person originally possessed both wisdom and courage, and I think certain aspects of his methods greatly resembled Ieyasu's. Perhaps many of Ieyasu's actions during his youth actually originated from Tadatsugu's strategies, and particularly Tadatsugu always accompanied Ie- [Header] Mayor of Toyohashi City, Mr. Ōguchi Kiroku, has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling Toyohashi city history for over a year, and now as the manuscript is nearly complete... [text cuts off] [Left Page] [Header] This Toyohashi City Historical Discussion is published once weekly (on Tuesdays) and presented to readers of San'yō Shimbun [Main Text] ...yasu in every battle. When Ieyasu wanted to advance, Tadatsugu would restrain him; when Tadatsugu wanted to advance, Ieyasu would restrain him. In this way, they mutually cautioned against rash actions and repeatedly exercised caution upon caution. Indeed, the Tokugawa style of taking great care upon great care and not rushing forward - this method can truly be seen in Tadatsugu's character. However, Tadatsugu was certainly not a person of timid deliberation. When he anticipated that the time was ripe, or when circumstances left no choice, he displayed what could be called a brave and vigorous attitude, truly demonstrating his military prowess. Of course, from middle age onward, Ieyasu learned considerably from Kōshū military strategy and gradually accumulated the merits of experience, so he often made his own plans and judgments. But regarding earlier matters, I think Tadatsugu's influence was quite significant. Although Ieyasu had many other wise and brave generals and retainers besides Tadatsugu, and their contributions were certainly not small, whenever I think about why the Tokugawa came late to rule the realm and yet maintained it for so long, I believe that while this was certainly the result of generations of Tokugawa self-cultivation, it also greatly originated from the support of Tadatsugu and others during Ieyasu's youth. Therefore, in studying Ieyasu, I think research into this Tadatsugu must be among the most important matters that cannot be neglected. However, it is truly regrettable that aside from one or two items, there are no concrete remains of Tadatsugu's works in this area, making it impossible to know the details. Now regarding Ietsugu, Ietsugu was initially called Kogorō and was Tadatsugu's eldest son. His mother was Kōju-fujin, and he was born in Eiroku 7. At the Battle of Nagakute in Tenshō 3, at age twelve he accompanied his father to battle. In the 10th month of the same 16th year, he succeeded his father and became lord of this Yoshida castle, and on the 29th day of the 11th month of the 17th year he was appointed to the court rank of Junior Fifth Rank, Lower Grade, and the title of Kunai-no-taiyu. However, in the following 18th year, the well-known Odawara campaign began, so I think it is necessary to discuss that matter somewhat here. [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Sakai Tadatsugu's Retirement) - 155