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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 92

ページ: 92

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【欄外】    豊橋市史談  (小田原役)                       百五十六 【本文】            ⦿小田原役       サテ前章(ぜんせう)に述(の)べた如(ごと)く豊臣秀吉(とよとみひでよし)は徳川家康(とくがはいへやす)と和(わ)したのみならず其(その)後(のち)北陸地方(ほくりくちほう)は勿論(もちろん)四 国(こく)九 州(しう)をも次第(しだい)       に征略(せいりやく)して其(その)勢(いきほひ)は殆(ほとん)ど日本(にほん)六十 余州(よしう)を配下(はいか)たらしめむとし天正十五年には京都(けうと)聚楽(じゆらく)の邸(やしき)も出来上(できあが)つ       て其(その)翌年(よくねん)四月には時(とき)の天子(てんし)が行幸(ぎようこう)給(たまは)つたと云ふ訳(わけ)であつたが只(た)だ関東(くわんとう)八 州(しう)と奥羽(おうう)二 州(しう)は未(いま)だ秀吉(ひでよし)の        武(ぶ)を用(もち)ゆるに至(いた)らなかつたのである勿論(もちろん)此(この)関東(くわんとう)八 州(しう)の大略(たいりやく)は北條氏(ほうでうし)の割拠(かつきよ)する処で氏政(うぢまさ)並(ならび)に其(その)子(こ)氏直(うぢなを)       は小田原(をだはら)に鎮(ちん)して兎(と)に角(かく)一 方(ぽう)に覇(は)を称(せう)して居(を)つたのであるが之(これ)より先(さ)き徳川家康(とくがはいへやす)が天正十年十月に北(ほう) 真田昌幸   條氏(でうし)と媾和(こうわ)した時(とき)家康(いへやす)は信州(しんしう)を取(と)り北條氏(ほうでうし)は上野(こうづけ)の利根(とね)、 吾妻(あづま)二 郡(ぐん)を取(と)る事を約(やく)したのであるが此(この)時(とき)        上州(ぜうしう)沼田(ぬまた)の城(しろ)は信州(しんしう)上田(うへだ)の城主(じようしゆ)真田昌幸(さなだまさゆき)の領(れう)であつたが此(この)人(ひと)は頗(すこぶ)る驍勇(けうゆう)で容易(ようい)に家康(いへやす)の命(めい)を聴(き)いて之(これ)       を北條氏(ほうでうし)に明(あ)け渡(わた)さないので家康(いへやす)及(およ)び北條氏(ほうでうし)は共(とも)に兵(へい)を沼田(ぬまた)並(ならび)に上田(うへだ)に出(いだ)して昌幸(まさゆき)を攻(せ)めたが志(こゝろざし)を        得(う)ることが出来(でき)なかつたのである余義(よぎ)なくいしは其(その)侭(まゝ)になつて居(を)つたのであるが秀吉(ひでよし)がイヨ〳〵四 海(かい)を        圧(あつ)するの勢(いきほひ)を得(え)た処で是非(ぜひ)北條氏(ほうでうし)をも服従(ふくじう)せしめたいものであると云ふ処から最初(さいしよ)は先(ま)づ家康(いへやす)によつ       て北條氏(ほうでうし)に上洛(ぜうらく)するように説(と)かしめたのであるが御承知(ごせうち)の通(とほ)り家康(いへやす)の娘(むすめ)督姫(とくひめ)は北條氏直(ほうでううぢなを)の室(しつ)であるの       だから其(その)姻戚関係(ゐんせきくわんけい)の上(うへ)に於(おい)て家康(いへやす)も其(その)利(り)なる所以(ゆえん)を通(つう)じたのであるが氏政(うぢまさ)氏直(うぎなを)は之(これ)に応(おう)ぜないので天 《割書:北條氏上洛|を肯せず》  正十六年 閏(うるふ)五月 秀吉(ひでよし)は更(さら)に相国(さうこく)妙壽院(みようじゆゐん)惺窩(せいくわ)を遣(つか)はして諭(さと)さしめたのである然(しか)るに氏直(うぢなを)はだ上京(ぜうけう)せない       のみならずヨウ〳〵北條氏規(ほうでううぢのり)を西上(せぜう)せしめたが併(しか)し前(まへ)に申述(もうしの)べた沼田(ぬまた)の地(ち)を是非(ぜひ)己(おの)れに返(かへ)して貰(もら)ひた 《割書:秀吉昌幸を|して沼田を》  いと云ふ事を秀吉(ひでよし)に要求(えうきう)し其(その)地(ち)を返(か)して呉(く)れるならば上京(ぜうけう)もしましうと云ふ事を申込(もうしこ)むだのであるソ 《割書:北條氏に致|さしむ》  コで秀吉(ひでよし)は段々(だん〳〵)事情(じぜう)を調査(てうさ)した上(うへ)で其(その)翌(よく)天正十七年 遂(つひ)に昌幸(まさゆき)に命(めい)じて沼田領(ぬまたれう)の内(うち)其(その)墳墓(ふんぼ)の地(ち)奈胡(なくる) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百十一号附録      ( 明治四十四年十一月十四日発行 ) 【本文】        桃(み)と云ふ処(ところ)丈(だけ)を残(のこ)して其(その)余(よ)は之(これ)を北條氏(ほうでうし)に差出(さしいだ)さしめたのであるコーなつて見(み)ると氏直(うぢなを)はモーどうし 《割書:氏直約に叛|く》  ても上京(ぜうけう)せねばならぬ訳(わけ)になつたのであるが其(その)十二月には屹度(きつと)上洛(ぜうらく)しますと云ふことを約(やく)して置(お)きなが       ら之(これ)を無視(むし)したのみならず奈胡桃(なくるみ)の地(ち)までも不意(ふい)に兵(へい)を出(いだ)して横領(わうれう)したのである此(こゝ)に至(いた)つて遂(つひ)に秀吉(ひでよし)       の怒(いかり)に触(ふ)れたので結局(けつきよく)小田原征伐(おたはらせいばつ)の事は起(おこ)つたのであるが実(じつ)は氏政(うぢまさ)氏直(うぢなを)は久(ひさ)しく関東(くわんとう)八 州(しう)の小天地(せうてんち)に 《割書:氏政氏直天|下の大勢に》  のみ割拠(かつきよ)して群雄(ぐんゆう)を凌駕(れうが)し全(まつた)く天下(てんか)の大勢(たいせい)に通(つう)ぜざる処から所謂(いはゆる)世間(せけん)見(み)ずの蛮勇(ばんゆう)で尊傲(そんごう)自(みづか)ら諮(はか)らず遂(つひ) 《割書:通ぜず  | 》  に其(その)家(いへ)をも身(み)をも亡(ほろぼ)すに至(いた)つたのは返(かへ)す〳〵も気(き)の毒(どく)の次第(しだい)である而(しか)して家康(いへやす)は初(はじ)め秀吉(ひでよし)と対抗(たいこう)する       に方(あた)つては後顧(こうこ)の患(うれひ)を除(のぞ)く必要(ひつえう)から北條氏(ほうでうし)と相和(あひわ)したのであるが時世(じせい)の推移(すゐい)は其(その)関係(くわんけい)にも次第(しだい)に変化(へんくわ)       を来(きた)したので巳(おの)れは遂(つひ)に秀吉(ひでよし)の妹婿(いもとむこ)となり次(つい)で上洛(ぜうらく)した結果(けつくわ)は却(かへつ)て両氏(れうし)の間(あひだ)に堅固(けんご)なる攻守同盟(こうしゆどうめい)が出(で)        来(き)たのである然(しか)るに氏政(うぢまさ)氏直(うぢなを)は尚(な)ほ時勢(じせい)を達観(たつくわん)する事(こと)能(あた)はず我(われ)には箱根(はこね)碓井(うすゐ)の険(けん)あり秀吉(ひでよし)何(なに)をか能(よ)く       なすものぞと家康(いへやす)から再(さい)三の忠告(ちうこく)があつても之(これ)を耳(みゝ)にも入(い)れなかつたのであるが今度(このたび)イヨ〳〵秀吉(ひでよし)か       ら書面(しよめん)によつて家康(いへやす)は天正十七年十一月廿九日 駿府(すんぷ)を発(はつ)して又々(また〳〵)大坂(おほさか)に向(むか)つたので初(はじ)めて北條氏(ほうでうし)に於(おい)       ては狼狽(ろうばい)を極(きはむ)るに至(いた)つたがソレでも尚(な)ほ自(みづか)ら上洛(ぜうらく)する事をなさぬので遂(つひ)に敵兵(てきへい)をして城下(じようか)に侵入(しんにふ)せし       むるに至(いた)つた次第(しだい)である        併(しか)し乍(なが)ら又(ま)た一 方(ぱう)から考(かんが)へて見(み)れば此(この)時(とき)の行掛(ゆきがゝり)と云(い)ふものはドウしても遂(つひ)に北條氏(ほうでうし)をして戦(たゝか)ふより外(ほか)       には仕方(しかた)のない事に至(いた)らしめたので云はゞ北條氏(ほうでうし)に於(おい)ても男(おとこ)の意気地(いきぢ)で余義(よぎ)なくされた処がある此(この)点(てん)       は実(じつ)に同情(どうぜう)すべき処で私(わたくし)は頗(すこぶ)る此(この)男(おとこ)らしき武士的(ぶしてき)の動作(どうさ)に対(たい)しては北條氏(ほうでうし)の為(ため)に大(おほい)に弁護(べんご)せねばなら       ぬ処であると思(おも)ふ只(た)だ開戦(かいせん)に至(いた)るまでの名分(めいぶん)と云(い)ふものが誠(まこと)に立(た)ち兼(か)ぬるので其(その)上(うへ)父祖(ふそ)の故智(こち)に倣(なら)つ       て只(た)だ〳〵籠城(ろうじよう)の一 点張(てんばり)と極(き)め込(こ)むだのは実(じつ)に蛮勇無智(ばんゆうむち)の形(かたち)があるので慥(たしか)に失敗(しつぱい)の原因(げんゐん)であると信(しん)ず 【欄外】    豊橋市史談  (小田原役)                       百五十七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (小田原役) 百五十六 【本文】 ⦿小田原役 さて前章に述べた如く豊臣秀吉は徳川家康と和したのみならず、その後北陸地方はもちろん四国・九州をも次第に征略して、その勢いはほとんど日本六十余州を配下にしようとし、天正十五年には京都聚楽の邸も出来上がって、その翌年四月には時の天子が行幸給ったという訳であったが、ただ関東八州と奥羽二州は未だ秀吉の武を用いるに至らなかったのである。もちろんこの関東八州の大略は北条氏の割拠する処で、氏政並びにその子氏直は小田原に鎮して、とにかく一方に覇を称していたのであるが、これより先き徳川家康が天正十年十月に北条氏と媾和した時、家康は信州を取り、北条氏は上野の利根・吾妻二郡を取る事を約したのであるが、この時上州沼田の城は信州上田の城主真田昌幸の領であったが、この人は頗る驍勇で容易に家康の命を聴いてこれを北条氏に明け渡さないので、家康及び北条氏は共に兵を沼田並びに上田に出して昌幸を攻めたが、志を得ることが出来なかったのである。余儀なくそのままになっていたのであるが、秀吉がいよいよ四海を圧するの勢を得た処で、是非北条氏をも服従させたいものであるという処から、最初はまず家康によって北条氏に上洛するように説かせたのであるが、御承知の通り家康の娘督姫は北条氏直の室であるのだから、その姻戚関係の上において家康もその利なる所以を通じたのであるが、氏政・氏直はこれに応ぜないので、天正十六年閏五月秀吉は更に相国妙壽院惺窩を遣わして諭させたのである。然るに氏直は上京せないのみならず、ようやく北条氏規を西上させたが、しかし前に申し述べた沼田の地を是非己れに返してもらいたいということを秀吉に要求し、その地を返してくれるならば上京もしましょうということを申し込んだのである。そこで秀吉は段々事情を調査した上で、その翌天正十七年遂に昌幸に命じて沼田領の内その墳墓の地奈胡 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百十一号附録 (明治四十四年十一月十四日発行) 【本文】 桃という処だけを残して、その余はこれを北条氏に差し出させたのである。こうなって見ると氏直はもうどうしても上京せねばならぬ訳になったのであるが、その十二月には屹度上洛しますということを約して置きながら、これを無視したのみならず、奈胡桃の地までも不意に兵を出して横領したのである。ここに至って遂に秀吉の怒りに触れたので、結局小田原征伐の事は起こったのであるが、実は氏政・氏直は久しく関東八州の小天地にのみ割拠して群雄を凌駕し、全く天下の大勢に通ぜざる処から、所謂世間知らずの蛮勇で尊傲自ら図らず、遂にその家をも身をも滅ぼすに至ったのは、返す返すも気の毒の次第である。而して家康は初め秀吉と対抗するに方たっては、後顧の患を除く必要から北条氏と相和したのであるが、時世の推移はその関係にも次第に変化を来したので、己れは遂に秀吉の妹婿となり、次で上洛した結果はかえって両氏の間に堅固なる攻守同盟が出来たのである。然るに氏政・氏直は尚お時勢を達観する事能わず、我には箱根・碓井の険ありと、秀吉何をか能くなすものぞと、家康から再三の忠告があってもこれを耳にも入れなかったのであるが、今度いよいよ秀吉から書面によって家康は天正十七年十一月二十九日駿府を発してまたまた大坂に向かったので、初めて北条氏においては狼狈を極めるに至ったが、それでも尚お自ら上洛する事をなさぬので、遂に敵兵をして城下に侵入せしむるに至った次第である。 しかしながらまた一方から考えて見れば、この時の行きがかりというものはどうしても遂に北条氏をして戦うより外には仕方のない事に至らしめたので、言わば北条氏においても男の意気地で余儀なくされた処がある。この点は実に同情すべき処で、私は頗るこの男らしき武士的の動作に対しては北条氏の為に大いに弁護せねばならぬ処であると思う。ただ開戦に至るまでの名分というものが誠に立ち兼ぬるので、その上父祖の故智に倣って、ただただ籠城の一点張りと極め込んだのは、実に蛮勇無知の形があるので、確かに失敗の原因であると信ず 【欄外】 豊橋市史談 (小田原役) 百五十七

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Odawara Campaign) - 156 [Main Text] ⦿ The Odawara Campaign Now, as described in the previous chapter, Toyotomi Hideyoshi not only made peace with Tokugawa Ieyasu, but subsequently conquered the Hokuriku region as well as Shikoku and Kyushu, and his power nearly brought all sixty-odd provinces of Japan under his control. In Tenshō 15, the Jurakudai palace in Kyoto was completed, and in the fourth month of the following year, the Emperor made an imperial visit there. However, the eight provinces of Kantō and the two provinces of Ōu had not yet submitted to Hideyoshi's military authority. Of course, most of these eight Kantō provinces were controlled by the Hōjō clan, with Ujimasa and his son Ujinao stationed at Odawara, maintaining their hegemony in that region. Previously, when Tokugawa Ieyasu made peace with the Hōjō clan in the tenth month of Tenshō 10, they agreed that Ieyasu would take Shinshū while the Hōjō would take the two districts of Tone and Azuma in Kōzuke. At that time, Numata castle in Jōshū belonged to Sanada Masayuki, lord of Ueda castle in Shinshū. This man was quite valiant and would not easily obey Ieyasu's command to surrender the territory to the Hōjō. So Ieyasu and the Hōjō both sent troops to Numata and Ueda to attack Masayuki, but they could not achieve their objective. This matter was left unresolved by necessity. However, when Hideyoshi finally gained the power to dominate all four seas, he wanted by all means to make the Hōjō submit as well. Initially, he had Ieyasu persuade the Hōjō to come to the capital. As you know, Ieyasu's daughter Tokuhime was Hōjō Ujinao's wife, so through this marriage connection, Ieyasu conveyed the benefits of compliance. But since Ujimasa and Ujinao would not respond, in the intercalary fifth month of Tenshō 16, Hideyoshi sent Chancellor Myōjuin Seika to further persuade them. However, Ujinao not only refused to go to the capital but finally sent Hōjō Ujinori westward. But he demanded that Hideyoshi return the Numata territory mentioned earlier, saying he would go to the capital if that land were returned. So Hideyoshi gradually investigated the circumstances, and in the following year, Tenshō 17, he finally ordered Masayuki to give the Numata domain to the Hōjō, keeping only the burial ground called Nakuru [Left Page] [Header] San'yō Shimbun No. 3911 Supplement (Published November 14, Meiji 44) [Main Text] ...mi, surrendering the rest to the Hōjō clan. Given this situation, Ujinao had no choice but to go to the capital. However, although he promised in the twelfth month to definitely go to the capital, he not only ignored this promise but also unexpectedly sent troops to seize Nakurumi territory. At this point, he finally incurred Hideyoshi's wrath, and thus the Odawara subjugation campaign began. In reality, Ujimasa and Ujinao had long controlled only the small world of the eight Kantō provinces, surpassing other regional lords but completely ignorant of the greater trends in the realm. Through what could be called the reckless courage of those ignorant of the world, their arrogance unknowingly led them to destroy both their house and themselves - a truly pitiful situation. Initially, when Ieyasu opposed Hideyoshi, he allied with the Hōjō out of necessity to eliminate threats from behind. But as times changed, this relationship also gradually transformed. Eventually becoming Hideyoshi's brother-in-law and then going to the capital, a firm offensive and defensive alliance was formed between the two. However, Ujimasa and Ujinao still could not grasp the trends of the times, believing "we have the natural barriers of Hakone and Usui - what can Hideyoshi possibly do?" Despite repeated warnings from Ieyasu, they paid no heed. But when Hideyoshi finally sent written orders and Ieyasu departed Sunpu on the twenty-ninth day of the eleventh month of Tenshō 17 to head once again to Osaka, the Hōjō finally fell into extreme panic. Even then, they still would not go to the capital themselves, ultimately allowing enemy forces to invade their castle town. However, looking at it from another perspective, the circumstances at this time inevitably led the Hōjō to have no choice but to fight. In a sense, the Hōjō were compelled by masculine pride and had no alternative. This point deserves sympathy, and I think we must greatly defend the Hōjō for this manly, warrior-like behavior. However, the justification for going to war was truly untenable, and following their ancestors' old wisdom by stubbornly insisting on only castle defense showed reckless and ignorant courage, which I believe was certainly the cause of their failure. [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Odawara Campaign) - 157