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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 93

ページ: 93

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【欄外】    豊橋市史談  (小田原役)                       百五十八 【本文】       るのである       サテ家康(いへやす)が大坂(おほさか)に至(いた)つて秀吉(ひでよし)に面会(めんくわい)したのは天正十七年の十二月十日で其(その)途次(とじ)二日に此(この)吉田(よしだ)に一 泊(ぱく)し       たのであるが秀吉(ひでよし)は大(おほい)に家康(いへやす)の来坂(らいはん)を喜(よろこ)むで共(とも)に京都(けうと)に入(い)つて聚楽(しうらく)の邸(やしき)で北條氏(ほうでうし)討伐(とうばつ)の事を評議(ひようぎ)した       のである勿論(もちろん)家康(いへやす)は之(これ)に同意(どうい)したのであるがそれのみならず己(おの)れは前(まへ)にも申述(もうしの)べた如(ごと)く北條氏(ほうでうし)とは姻(ゐん) 《割書:家康長丸を|質とす》   戚関係(せきくわんけい)があるのであるから特(とく)に疑(うたがひ)を避(さ)くる為(ため)に其(その)子(こ)長丸(ながまる)(《割書:秀|忠》)を質(しち)とせむとして之(これ)を酒井忠世(さかゐたゞよ)等(ら)に送(おく)       つて早速(さつそく)長丸(ながまる)を京都(けうと)に上(のぼ)らしむる用意(ようい)をせしめたのである然(しか)るに秀吉(ひでよし)は此(この)厳寒(げんかん)の候(こう)に幼児(ようぢ)をして上洛(ぜうらく)       せしむるのは不憫(ふびん)であると云ふので明春(めうしゆん)を俟(ま)つて上洛(ぜうらく)せしむることとなつたが家康(いへやす)は其(その)十二日に皈国(きこく)の 家康の伝令  途(と)に上(のぼ)る事となつたのである此(この)時(とき)酒井家次(さかゐいへつぐ)は家康(いへやす)に随行(ずゐこう)したのであるが命(めい)を受(う)けて小田原征伐(をたはらせいばつ)の時期(じき)        並(ならび)に軍備(ぐんび)に関(くわん)することを国元(くにもと)え伝令(でんれい)したのである其(その)使(つかひ)が東(ひがし)三 河(かは)へは十三日に着(ちやく)したものと見(み)へて家忠日(いへたゞにつ)        記(き)十三日の条(くだり)には左(さ)の如(ごと)く記(しる)されてある         酒井宮内(さかゐくない)より京(けう)よりの御(おん)ふれ相州(さうしう)御陣(ごじん)候事(そうろこと)申来(もうしきたり)候(そうろ)関白様(くわんぱくさま)は明(みよう)三月朔日 尾州(びしう)大府様(おいふさま)は二月五日 家(いへ)         康様(やすさま)は正月廿八日 御出馬(ごしゆつば)之由候(のよしにそうろ)       ソコで家康(いへやす)は十八日に吉田(よしだ)へ着(ちやく)し夫(それ)より駿府(すんぷ)へ皈(かへ)つたのであるがイヨ〳〵出師(しゆつすゐ)準備(じゆんび)に取(とり)かゝつて翌(よく)天 《割書:伊奈備前守|忠次》  正十八年の二月に至(いた)り軍制(ぐんせい)十三 条(でう)を定(さだ)め秀吉(ひでよし)の征討軍(せいとうぐん)が其(その)領内(れうない)を通過(つうくわ)するのであるから伊奈備前守忠(いなびぜんのかみたゞ)        次(つぐ)に命(めい)じて舟梁(せんれう)を富士河(ふじかは)に架(か)せしむるやら其(その)他(た)駿遠参(すんゑんさん)三 国(ごく)に於(お)ける沿道(えんどう)各駅(かくえき)に茶店(ちやみせ)を設(もう)け休憩所(きうけいしよ)とな       さしむるなど用意(ようい)周到(しうとう)であつたが特(とく)に岡崎(をかざき)、 吉田(よしだ)、 浜松(はままつ)、 掛川(かけがは)、 田中(たなか)などの城(しろ)は綺麗(きれい)に掃除(そうぢよ)をして秀(ひで)        吉(よし)の至(いた)るのを待(ま)たしめたのである然(しか)して秀吉(ひでよし)に於(おい)ては天正十七年十二月の十三日に出師(しゆつすゐ)命令(めいれい)を発(はつ)し夫(それ)       より江州(ごうしう)水口(みづぐち)の城主(じようしゆ)長束正家(ながつかまさいへ)をして糧食(れうしよく)の事を司(つかさど)らしめ海路(かいろ)駿河(するが)の清水港(しみづこう)へ輸送(ゆそう)して江尻(えじり)に倉庫(そうこ)を置(お) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 《割書:征討軍の兵|站》  いて征討軍(せいとうぐん)へ兵站部(へいたんぶ)の根拠(こんきよ)となしたのである又(ま)た京都(けうと)の留守居(るすゐ)には毛利輝元(もうりてるもと)を置(お)き大坂(おほさか)は羽柴秀長(はしばひでなが)をし 《割書:豊臣秀長の|兵吉田に駐》  て守(まも)らしめ小早川隆景(こはやかはたかかげ)、 吉川広家(きつかはひろいへ)等(ら)及(およ)び秀長(ひでなが)の兵(へい)をして沿道(えんどう)の諸城(しよじよう)を守(まも)り駅伝(えきでん)兵犓(へいすう)の事を司(つかさど)らしめ 《割書:屯す   | 》  たが此(この)吉田城(よしだじよう)には秀長(ひでなが)の兵(へい)が来(きた)つて駐屯(ちうとん)したのである而(しか)して徳川方(とくがはがた)の将士(せうし)は天正十八年二月 家康(いへやす)の命(めい)       によつて駿府(すんぷ)へ集(あつま)つたが松平家忠(まつだひらいへたゞ)は其(その)五日に着(ちやく)し即日(そくじつ)江尻(えじり)まで出陣(しゆつぢん)したのである其(その)翌(よく)六日には家康(いへやす)も 《割書:酒井家次の|従軍》   出発(しゆつぱつ)する筈(はづ)であつたが大雨(たいう)の為(た)め延期(えんき)となつた然(しか)るに先鋒(せんはう)七 将(せう)即(すなは)ち酒井家次(さかゐいへつぐ)、 本多忠勝(ほんだたゞかつ)、 榊原康政(さかきばらやすまさ)、        平岩親吉(ひらいわちかよし)、 鳥居元忠(とりゐもとたゞ)、 大久保忠世(おほくぼたゞよ)、 井伊直正(いゐなをまさ)等(ら)は七日にまだ雨(あめ)の止む(や)まぬのを冒(おか)して江尻(えじり)まで出発(しゆつぱつ)し家(いへ)        康(やす)は十日に至(いた)つて由井(ゆゐ)まで出陣(しゆつぢん)したのであるモツトモ此(この)時(とき)の事について就(つい)ては家忠日記(いへたゞにつき)に詳(くは)しく書(か)いてある 《割書:秀吉の吉田|逗留》  から子細(しさい)に事実(じじつ)を研究(けんきう)する方(かた)はそれを熟覧(じゆくらん)されたいものであると思(おも)ふが尚(な)ほ同日記(どうにつき)に秀吉(ひでよし)は三月の十       日に吉田(よしだ)へ着(ちやく)して其十三日まで逗留(とうりう)された事が記(しる)されてある之(これ)は雨(あめ)の為(ため)に豊川(とよかは)の水(みづ)が汎濫(はんらん)したからで        逗留(とうりう)されたのは今(いま)の下地(しもぢ)であると思(おも)ふが此(この)事(こと)に関(くわん)し徳川実記(とくがはじつき)には左(さ)の記事(きじ)が載(の)つて居(を)るのである         関白(くわんぱく)は十一日に三 河(かは)の吉田川(よしだがは)をおし渡(わた)らんとありし時(とき)この渡場(わたしば)の奉行(ぶぎよう)せし伊奈(いな)といふ男(おとこ)この程(ほど)日数(ひかず)        へし長雨(ながあめ)に川水(かすゐ)いたく水(みづ)かさそいてうづまき流(なが)るれば軍勢(ぐんぜい)をわたされん事かなふべからず今(いま)しばし         此所(こゝ)にとまらせらるべくもやと聞(きこ)えあくる関白(くわんぱく)軍法(ぐんはふ)に前(まへ)に川(かは)あらん時(とき)雨降(あめふ)りて渡(わた)らざれば後(あと)に渡(わた)る        ことを得(え)ずといへり何(なに)かくるしかるべき必(かならず)渡(わた)りなむと仰(あふ)せけるに伊奈(いな)眼(め)に角(かど)をたてこは殿下(てんか)の仰(あふせ)        とも覚(おぼ)えず雨(あめ)をいとはず川(かわ)を渡(わた)すは小軍(せうぐん)の事なり大軍(たいぐん)暴漲(ばうてう)を冒(おか)し川(かは)を渡(わた)らんとすれば人馬(じんば)沈溺(ちんでき)少(すくな)か        るべからず敵(てき)この風説(ふうせつ)を聞(き)かんに十人を百人百人を千人といひつたへ敵(てき)の心(こゝろ)には勇(ゆう)をそへ味方(みかた)には         臆(おく)をまねくものに候はんかといふ関白(くわんぱく)手(て)を拍(う)ちて亜相(あさう)の家(いへ)には賤吏(せんり)といへども皆(みな)軍旅(ぐんりよ)の智識(ちしき)多(おほ)しと         感(かん)じ給(たま)ふ事 大方(おほかた)ならずその諫(いましめ)を用(もち)ひこゝに三日 滞留(たいりう)あり十九日に駿府(すんぷ)につかせらる 【欄外】    豊橋市史談  (小田原役)                       百五十九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (小田原役) 百五十八 【本文】 るのである。 さて家康が大坂に至って秀吉に面会したのは天正十七年の十二月十日で、その途次二日にこの吉田に一泊したのであるが、秀吉は大いに家康の来坂を喜んで共に京都に入って聚楽の邸で北条氏討伐の事を評議したのである。もちろん家康はこれに同意したのであるが、それのみならず己れは前にも申し述べた如く北条氏とは姻戚関係があるのであるから、特に疑いを避ける為にその子長丸(秀忠)を質とせんとして、これを酒井忠世等に送って早速長丸を京都に上らしめる用意をさせたのである。然るに秀吉はこの厳寒の候に幼児をして上洛せしめるのは不憫であるというので、明春を待って上洛せしめることとなったが、家康はその十二日に帰国の途に上ることとなったのである。この時酒井家次は家康に随行したのであるが、命を受けて小田原征伐の時期並びに軍備に関することを国元へ伝令したのである。その使いが東三河へは十三日に着いたものと見えて、家忠日記十三日の条には左の如く記されてある。 酒井宮内より京よりの御触れ、相州御陣候事申し来たり候。関白様は明三月朔日、尾州大府様は二月五日、家康様は正月二十八日御出馬の由候。 そこで家康は十八日に吉田へ着し、それより駿府へ帰ったのであるが、いよいよ出師準備に取りかかって翌天正十八年の二月に至り軍制十三条を定め、秀吉の征討軍がその領内を通過するのであるから、伊奈備前守忠次に命じて舟橋を富士川に架けしめるやら、その他駿遠参三国における沿道各駅に茶店を設け休憩所となさしめるなど用意周到であったが、特に岡崎、吉田、浜松、掛川、田中などの城は綺麗に掃除をして秀吉の至るのを待たせたのである。然して秀吉においては天正十七年十二月の十三日に出師命令を発し、それより江州水口の城主長束正家をして糧食の事を司らしめ、海路駿河の清水港へ輸送して江尻に倉庫を置 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 いて征討軍へ兵站部の根拠となしたのである。また京都の留守居には毛利輝元を置き、大坂は羽柴秀長をして守らしめ、小早川隆景、吉川広家等及び秀長の兵をして沿道の諸城を守り、駅伝兵站の事を司らしめたが、この吉田城には秀長の兵が来って駐屯したのである。而して徳川方の将士は天正十八年二月家康の命によって駿府へ集まったが、松平家忠はその五日に着し即日江尻まで出陣したのである。その翌六日には家康も出発する筈であったが大雨の為め延期となった。然るに先鋒七将即ち酒井家次、本多忠勝、榊原康政、平岩親吉、鳥居元忠、大久保忠世、井伊直政等は七日にまだ雨の止まぬのを冒して江尻まで出発し、家康は十日に至って由井まで出陣したのである。もっともこの時の事については家忠日記に詳しく書いてあるから、子細に事実を研究する方はそれを熟覧されたいものであると思うが、尚お同日記に秀吉は三月の十日に吉田へ着して其十三日まで逗留された事が記されてある。これは雨の為に豊川の水が氾濫したからで、逗留されたのは今の下地であると思うが、この事に関し徳川実記には左の記事が載っているのである。 関白は十一日に三河の吉田川を押し渡らんとありし時、この渡場の奉行せし伊奈という男、この程日数経し長雨に川水いたく水嵩増いて渦巻き流るれば、軍勢を渡されん事叶うべからず、今しばしこの所に留まらせらるべくもやと聞え上ぐる。関白、軍法に前に川あらん時雨降りて渡らざれば後に渡ることを得ずと言えり。何か苦しかるべき、必ず渡りなんと仰せけるに、伊奈眼に角を立て、これは殿下の仰せとも覚えず。雨を厭わず川を渡すは小軍の事なり。大軍暴張を冒し川を渡らんとすれば人馬沈溺少なかるべからず。敵この風説を聞かんに十人を百人、百人を千人と言い伝え、敵の心には勇を添え、味方には臆を招くものに候わんかという。関白手を打って、亜相の家には賤吏といえども皆軍旅の知識多しと感じ給う事大方ならず。その諫めを用いここに三日滞留あり、十九日に駿府に着かせらる。 【欄外】 豊橋市史談 (小田原役) 百五十九

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Odawara Campaign) - 158 [Main Text] ...of their failure. Now, Ieyasu reached Osaka and met with Hideyoshi on the tenth day of the twelfth month of Tenshō 17, staying one night in Yoshida on the second day of his journey. Hideyoshi greatly rejoiced at Ieyasu's arrival in Osaka, and together they entered Kyoto to discuss the subjugation of the Hōjō clan at the Jurakudai palace. Of course, Ieyasu agreed to this, but furthermore, since he had marriage ties with the Hōjō clan as mentioned earlier, he wanted to send his son Nagamaru (Hidetada) as a hostage to avoid suspicion. He sent orders through Sakai Tadayo and others to quickly prepare for Nagamaru's journey to Kyoto. However, Hideyoshi said it would be pitiful to make a young child travel to the capital in such severe cold, so it was decided to wait until the following spring for his journey to the capital. Ieyasu was to begin his return journey on the twelfth day. At this time, Sakai Ienao accompanied Ieyasu, but received orders to relay information about the timing of the Odawara subjugation and military preparations to their home province. The messenger apparently reached eastern Mikawa on the thirteenth day, as the Ietada Diary entry for the thirteenth day records as follows: "A message came from Sakai Kunai regarding orders from Kyoto about the campaign in Sagami Province. The Kanpaku [Hideyoshi] will depart on the first day of the third month next year, Lord Ōifu of Owari Province on the fifth day of the second month, and Lord Ieyasu on the twenty-eighth day of the first month." So Ieyasu arrived at Yoshida on the eighteenth day and returned to Sunpu, where he began preparations for the expedition. In the second month of the following year, Tenshō 18, he established thirteen military regulations. Since Hideyoshi's expedition army would pass through his territory, he ordered Ina Binzen-no-kami Tadatsugu to construct a pontoon bridge over the Fuji River, and made thorough preparations such as setting up tea houses at stations along the routes through the three provinces of Suruga, Tōtōmi, and Mikawa as rest stops. In particular, castles at Okazaki, Yoshida, Hamamatsu, Kakegawa, and Tanaka were thoroughly cleaned in preparation for Hideyoshi's arrival. Hideyoshi issued expedition orders on the thirteenth day of the twelfth month of Tenshō 17, and had Nagatsuka Masaie, lord of Minakuchi castle in Ōmi Province, oversee provisions, transporting them by sea to Shimizu port in Suruga and establishing warehouses at Ejiri [Left Page] [Header] This Toyohashi City Historical Discussion is published once a week (Tuesdays) and presented to readers of the San'yō Shimbun [Main Text] ...as the base for the expedition army's logistics. He also left Mōri Terumoto in charge of Kyoto, had Hashiba Hideyoshi guard Osaka, and had Kobayakawa Takakage, Kikkawa Hiroie and others, along with Hideyoshi's troops, guard the various castles along the route and manage postal relay and logistics services. Hideyoshi's troops came and stationed at Yoshida Castle. The Tokugawa generals assembled at Sunpu on Ieyasu's orders in the second month of Tenshō 18. Matsudaira Ietada arrived on the fifth day and immediately marched to Ejiri. Ieyasu was supposed to depart the next day, the sixth, but this was postponed due to heavy rain. However, the seven vanguard generals - Sakai Ienao, Honda Tadakatsu, Sakakibara Yasumasa, Hiraiwa Chikayoshi, Torii Mototada, Ōkubo Tadayo, and Ii Naomasa - departed for Ejiri on the seventh day despite the continuing rain. Ieyasu finally marched to Yui on the tenth day. The Ietada Diary contains detailed accounts of these events, so those wishing to study the facts in detail should examine it carefully. The same diary records that Hideyoshi arrived at Yoshida on the tenth day of the third month and stayed until the thirteenth day. This was because the Toyo River flooded due to the rain, and I believe he stayed in what is now Shimoji. Regarding this matter, the Tokugawa Jitsuroku contains the following account: "When the Kanpaku attempted to cross the Yoshida River in Mikawa on the eleventh day, a man named Ina who supervised the ferry told him: 'Due to the long rains of recent days, the river water has risen greatly and flows in whirlpools, making it impossible for the army to cross. Perhaps you should wait here a while longer.' The Kanpaku replied: 'Military law states that if there is a river ahead and rain prevents crossing, one cannot cross later either. What difficulty could there be? We must cross by all means.' Ina's eyes flashed with anger as he said: 'This does not seem like Your Lordship's words. Crossing rivers despite rain is a matter for small armies. If a large army attempts to cross a river in flood, many men and horses will inevitably drown. When the enemy hears such rumors, they will exaggerate ten men to a hundred, a hundred to a thousand, adding courage to the enemy's hearts while inviting cowardice among our allies.' The Kanpaku clapped his hands and said: 'Even the lowly officials in the Lord's house possess great military knowledge!' He was greatly impressed and heeded this advice, staying three days before reaching Sunpu on the nineteenth day." [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Odawara Campaign) - 159