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【欄外】
豊橋市史談 (小田原役) 百六十
【本文】
右(みぎ)の中(なか)で伊奈(いな)とあるのは無論(むろん)伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみたゞつぐ)の事であると思(おも)ふ然(しか)るに武徳編年集成(ぶとくへんねんしうせい)には此(この)事(こと)に就(つい)て之(これ)
を伊奈忠政(いなたゞまさ)であると書(か)いてあつて其(その)他(た)一二の書(しよ)にも同様(どうよう)に記(しる)してあるのを見(み)るが忠政(たゞまさ)と云へば忠次(たゞつぐ)の
子(こ)であるので忠次(たゞつぐ)は此(この)年(とし)恰(あたか)も四十歳であるから之(これ)はドウモ忠次(たゞつぐ)となすのが正(たゞし)い事と思(おも)ふのである蓋(けだ)し
忠次(たゞつぐ)は其(その)頃(ころ)熊藏(くまざう)と称(せう)したので備前守(びぜんのかみ)に叙任(ぢよにん)せられたのはズツト後(あと)の事(こと)であるが此(この)人(ひと)は御承知(ごせうち)の如(ごと)く才(さい)
量(れう)のあつた人で徳川氏(とくがはし)の吏(り)となつて初(はじ)めから省歛開墾(せうれんかいこん)等(とう)の事を司(つかさど)り決断(けつだん)絶倫(ぜつりん)と云はれたのである関(せき)
ケ原(はら)の役(えき)後(ご)慶長六年付で此(この)人(ひと)の名前(なまへ)を署(しよ)した寄附状(きふぜう)だの貢税(こうぜい)などの事を定(さだ)めたものが三四 当市内(とうしない)及(およ)び
近傍(きんばう)に残(のこ)つて居(を)る又(ま)た其(その)前後(ぜんご)のものも余程(よほど)見当(みあた)る事であるが之(これ)等(ら)は孰(いづ)れも当時(とうじ)の民政(みんせい)に関(くわん)する資料(しれう)と
なるものであるから何(いづ)れ其(その)時代(じだい)に就(つい)て申述(もうしのべ)る時(とき)には引用(いんよう)する事があるであろうと思(おも)ふ又(ま)た此(この)人(ひと)は後(のち)に
家康(いへやす)の為(ため)に一万石に取立(とりたて)られ慶長(けいてう)十二年五十七歳で没(ぼつ)したので武州(ぶしう)鴻巣(こうのす)の勝願寺(せうがんじ)と云ふ寺(てら)に葬(ほうむ)つてあ
ると云ふ事である
かくて秀吉(ひでよし)は其(その)十九日に駿府(すんぷ)へ着(ちやく)したのであるが家康(いへやす)は時(とき)に長久保(ながくぼ)の興国寺城(こうこくじじよう)に在(あ)り自(みづか)ら駿府(すんぷ)に皈(かへ)つ
て秀吉(ひでよし)に面会(めんくわい)し饗応(けうおう)をしたのであるそれより秀吉(ひでよし)は廿七日に沼津(ぬまづ)の三 枚橋城(まいばしじよう)に入(い)つて段々(だん〳〵)地理(ちり)を視察(しさつ)
山中城陥る し諸将(しよせう)と相議(あひぎ)して部署(ぶしよ)を定(さだ)めたのであるが此(この)時(とき)北條氏(ほうでうし)に於(おい)ては前(まへ)にも申述(もうしの)べた如(ごと)く全(まつた)く退嬰主義(たいゑいしゆぎ)を取(と)
韮山の孤立 つたので箱根(はこね)山中(やまなか)の城(しろ)は直(たゞ)ちに破(やぶ)れ伊豆(いづ)の韮山城(にらやまじよう)のみ独(ひと)り最後(さいご)まで維持(ゐぢ)はしたものゝ全(まつた)く孤立(こりつ)して北(ほう)
《割書:小田原包囲|攻撃》 條氏(でうし)の根拠(こんきよ)たる小田原城(をたはらじよう)は忽(たちま)ちに重囲(ぢうゐ)の内(うち)に陥(おちゐ)つたのである此(この)包囲(はうゐ)は諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く此(この)年(とし)の七月
に及(およ)むだのであるが秀吉(ひでよし)は飽(あく)まで持久(じきう)の策(さく)を設(もう)けたので本営(ほんえい)は石垣山(いしがきやま)に置(お)き長囲(てうゐ)の徒然(とぜん)を慰(なぐさ)むる為(ため)に
根府川(ねふがは)に茶室(ちやしつ)を設(もう)けて茗嘸(みようむ)を楽(たのし)み又(ま)た諸将(しよせう)をして陣中(ぢんちう)に妻妾(さいせう)を招(まね)かしめ自(みづか)らも夫人(ふじん)に書状(しよぜう)を送(おく)りて淀(よど)
君(ぎみ)を寄越(よこ)さしめたと云ふ訳(わけ)で随分(ずゐぶん)気楽(きらく)な城責(しろぜ)めをやつたのである之(これ)より先(さ)き一 方(ぱう)に於(おい)ては小田原(をだはら)の包(はう)
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千九百十七号附録 ( 明治四十四年十一月廿一日発行 )
【本文】
《割書:関東諸城の|攻略》 囲(ゐ)が初(はじ)まると同時(どうじ)に北越(ほくゑつ)及(およ)び信州(しんしう)の兵(へい)は上野(こうづけ)より侵入(しんにふ)して北條氏(ほうでうし)管内(くわんない)の属城(ぞくじよう)を攻(せ)め落(おと)したのであるが
家次の戦功 徳川氏(とくがはし)に於(おい)ても之(これ)等(ら)の諸軍(しよぐん)に応援(おうゑん)する為(ため)に将士(せうし)を其(その)方面(はうめん)に派遣(はけん)したのである藩翰譜(はんかんふ)に拠(よ)ると酒井家次(さかゐいへつぐ)
は此(この)時(とき)長沢(ながさは)仁連木(にれんぎ)の兵(へい)をも率(ひき)ひて先陣(せんぽう)の第一として下野国(しもつけのくに)碓井(うすゐ)の城(しろ)を攻(せ)めて之(これ)を降(くだ)したとしてあるの
である勿論(もちろん)此(この)役(えき)に於(おい)て家次(いへつぐ)が徳川方(とくがはがた)の先鋒(せんぽう)であつた事は前(まへ)に申述(もうしの)べた通(とほ)りで長沢(ながさは)の松平康直(まつだひらやすなほ)、 二連木(にれんぎ)
の松平(まつだひら)(戸田)康長(やすなが)が之(これ)に属(ぞく)し小田原(をだはら)に進(すゝ)み其(その)四月 更(さら)に本多忠勝(ほんだたゞかつ)等(ら)と共(とも)に上州(ぜうしう)に入(い)つたのであるが惜(おし)む
らくは此(この)碓井(うすゐ)の戦(たゝかひ)に関(くわん)しては外(ほか)に詳録(せうろく)したものを見当(みあた)らぬのである而(しか)して家忠日記(いへたゞにつき)によると五月二日
には家次(いへつぐ)が小田原(をだはら)攻囲(こうゐ)軍(ぐん)の中(なか)に居(を)つた事に見(み)ゆるので且(か)つ其(その)十八日には「酒宮内地城取候」と記(しる)されて
あるが此(この)戦功(せんこう)は果(はた)して何(いづ)れを指(さ)したものであるかまだ十 分(ぶん)なる調査(てうさ)が出来(でき)兼(か)ねて居(を)るが兎(と)に角(かく)此処(こゝ)に
は御参考(ごさんこう)迄(まで)に申述(もうしの)べて置(お)きたいと思(おも)ふのである然(しか)るに七月六日に至(いた)つて小田原城(をだはらじよう)もイヨ〳〵開城(かいじよう)する
《割書:氏政等の自|裁氏直高野》 事となつたので氏政(うぢまさ)及(およ)び其(その)弟(おとゝ)氏照(うぢてる)は其(その)十一日 小田原(をだはら)の医師(ゐし)田村長伝(たむらてうでん)の宅(たく)で自裁(じさい)し氏直(うぢなを)は十二日 高野山(かうやさん)
《割書:に放たる | 》 に放(はな)たれて事は落着(らくちやく)するに至(いた)つたのであるが之(これ)等(ら)に関係(くわんけい)の事に就(つい)てはまだ申述(もうしの)ぶべき事も沢山(たくさん)にある
と思(おも)ふ併(しか)し余(あま)り長(なが)くなるのと本市(ほんし)の市史(しし)に直接(ちよくせつ)の必要(ひつえう)がない処から先(ま)づ此処(こゝ)らで省略(せうりやく)するが先年(せんねん)歴史(れきし)
地理学会(ちりがくくわい)で出版(しゆつぱん)せられた戦国時代史論(せんごくじだいしろん)などは其(その)中(なか)に随分(ずゐぶん)参考(さんこう)となるべき事が多(おほ)く記(しる)してあるように思(おも)
ふから或(あるひ)は之(これ)に就(つい)て見(み)らるゝのも強(あなが)ちに無益(むえき)ではなかろうと思(おも)ふのである
⦿徳川氏の関東移封
前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べたような次第(しだい)で早雲(さううん)以来(いらい)殆(ほとん)ど一百年の間(あひだ)関東(くわんとう)に雄視(ゆうし)した北條氏(ほうでうし)も遂(つひ)に五 代目(だいめ)の氏直(うぢなを)に
《割書:北條氏の籠|城策》 至(いた)つて滅亡(めつばう)の悲運(ひうん)に遭遇(そうぐう)したのであるが元来(がんらい)籠城(らうじよう)などゝ云ふものは消極的(せうきよくてき)の戦略(せんりやく)で、 之(これ)が何(な)にか後詰(あとづめ)
【欄外】
豊橋市史談 (徳川氏の関東移封) 百六十一
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談 (小田原役) 百六十
【本文】
右の中で伊奈とあるのは無論伊奈備前守忠次の事であると思う。然るに武徳編年集成にはこの事について、これを伊奈忠政であると書いてあって、その他一二の書にも同様に記してあるのを見るが、忠政と言えば忠次の子であるので、忠次はこの年恰も四十歳であるから、これはどうも忠次となすのが正しい事と思うのである。蓋し忠次はその頃熊蔵と称したので、備前守に叙任されたのはずっと後の事であるが、この人は御承知の如く才量のあった人で、徳川氏の吏となって初めから省斂開墾等の事を司り、決断絶倫と言われたのである。関ケ原の役後慶長六年付でこの人の名前を署した寄附状だの貢税などの事を定めたものが三四、当市内及び近傍に残っている。また、その前後のものも余程見当る事であるが、これ等はいずれも当時の民政に関する資料となるものであるから、何れその時代について申し述べる時には引用する事があるであろうと思う。またこの人は後に家康の為に一万石に取り立てられ、慶長十二年五十七歳で没したので、武州鴻巣の勝願寺という寺に葬ってあるということである。
かくて秀吉はその十九日に駿府へ着いたのであるが、家康は時に長久保の興国寺城にあり、自ら駿府に帰って秀吉に面会し饗応をしたのである。それより秀吉は二十七日に沼津の三枚橋城に入って段々地理を視察し、諸将と相議して部署を定めたのであるが、この時北条氏においては前にも申し述べた如く全く退嬰主義を取ったので、箱根山中の城は直ちに破れ、伊豆の韮山城のみ独り最後まで維持はしたものの全く孤立して、北条氏の根拠たる小田原城は忽ちに重囲の内に陥ったのである。この包囲は諸君も御承知の如くこの年の七月に及んだのであるが、秀吉は飽くまで持久の策を設けたので、本営は石垣山に置き、長囲の徒然を慰める為に根府川に茶室を設けて茗飲を楽しみ、また諸将をして陣中に妻妾を招かしめ、自らも夫人に書状を送って淀君を寄越させたという訳で、随分気楽な城攻めをやったのである。これより先き一方においては小田原の包
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千九百十七号附録 (明治四十四年十一月二十一日発行)
【本文】
囲が始まると同時に、北越及び信州の兵は上野より侵入して北条氏管内の属城を攻め落としたのであるが、徳川氏においてもこれ等の諸軍に応援する為に将士をその方面に派遣したのである。藩翰譜によると酒井家次はこの時長沢、仁連木の兵をも率いて先陣の第一として下野国碓井の城を攻めてこれを降したとしてあるのである。もちろんこの役において家次が徳川方の先鋒であった事は前に申し述べた通りで、長沢の松平康直、二連木の松平(戸田)康長がこれに属し、小田原に進みその四月更に本多忠勝等と共に上州に入ったのであるが、惜しむらくはこの碓井の戦いに関しては外に詳録したものを見当らぬのである。而して家忠日記によると五月二日には家次が小田原攻囲軍の中にいた事に見ゆるので、且つその十八日には「酒宮内地城取候」と記されてあるが、この戦功は果たして何れを指したものであるかまだ十分なる調査が出来兼ねているが、兎に角此処には御参考までに申し述べて置きたいと思うのである。然るに七月六日に至って小田原城もいよいよ開城する事となったので、氏政及びその弟氏照はその十一日小田原の医師田村長伝の宅で自裁し、氏直は十二日高野山に放たれて事は落着するに至ったのであるが、これ等に関係の事についてはまだ申し述ぶべき事も沢山にあると思う。併し余り長くなるのと本市の市史に直接の必要がない処から先ずここらで省略するが、先年歴史地理学会で出版された戦国時代史論などは、その中に随分参考となるべき事が多く記してあるように思うから、或いはこれについて見らるるのも強ち無益ではなかろうと思うのである。
⦿徳川氏の関東移封
前章に申し述べたような次第で、早雲以来殆ど一百年の間関東に雄視した北条氏も遂に五代目の氏直に至って滅亡の悲運に遭遇したのであるが、元来籠城などという物は消極的の戦略で、これが何にか後詰
【欄外】
豊橋市史談 (徳川氏の関東移封) 百六十一
英語訳
[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Odawara Campaign) - 160
[Main Text]
The "Ina" mentioned above must certainly refer to Ina Binzen-no-kami Tadatsugu. However, the Butoku Hennen Shūsei identifies this person as Ina Tadamasa, and one or two other books record the same. But Tadamasa was Tadatsugu's son, and Tadatsugu was exactly forty years old in this year, so I believe it is correct to identify him as Tadatsugu. Indeed, Tadatsugu was called Kumazō at that time, and his appointment as Binzen-no-kami came much later. As you know, this man was talented and served as an official for the Tokugawa clan from the beginning, overseeing tax collection and land reclamation, and was said to be unparalleled in decisiveness. Three or four donation certificates and documents establishing tribute taxes bearing his signature from the sixth year of Keichō following the Battle of Sekigahara remain in this city and its vicinity. Many documents from before and after this period can also be found, all serving as materials concerning civil administration of that time, so I believe they will be cited when discussing that era. This man was later promoted by Ieyasu to a 10,000-koku stipend and died at age fifty-seven in Keichō 12, and is said to be buried at Shōgan-ji temple in Kōnosu, Musashi Province.
Thus Hideyoshi arrived at Sunpu on the nineteenth day. Ieyasu was then at Kōkoku-ji castle in Nagakubo, but returned to Sunpu himself to meet and entertain Hideyoshi. From there, Hideyoshi entered Mimaibashi castle in Numazu on the twenty-seventh day, gradually inspected the geography, and consulted with his generals to establish deployments. At this time, the Hōjō clan adopted a completely defensive policy as mentioned earlier, so the castle at Hakone Yamanaka immediately fell, and while only Nirayama castle in Izu maintained itself to the end, it was completely isolated, and Odawara castle, the Hōjō clan's stronghold, quickly fell under heavy siege. This siege continued until the seventh month of that year as you know, but Hideyoshi adopted a thoroughly patient strategy, establishing his main camp at Ishigakiyama. To relieve the tedium of the long siege, he set up a tea house at Nebukawa to enjoy tea ceremonies, had his generals invite wives and concubines to their camps, and even sent letters to his own wife having Lady Yodo come, thus conducting quite a leisurely siege. Meanwhile, as the siege of Odawara
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[Header] San'yō Shimbun No. 3917 Supplement (Published November 21, Meiji 44)
[Main Text]
...began, forces from Hokuetsu and Shinshū simultaneously invaded from Kōzuke and attacked the subsidiary castles within Hōjō territory. The Tokugawa clan also dispatched generals to that area to support these various armies. According to the Hankanfu, Sakai Ienao at this time led troops from Nagasawa and Nirengi as the first of the vanguard and attacked Usui castle in Shimotsuke Province, forcing its surrender. Of course, Ienao served as the Tokugawa vanguard in this campaign as mentioned earlier, with Matsudaira Yasunao of Nagasawa and Matsudaira (Toda) Yasunaga of Nirengi under his command. They advanced to Odawara and in the fourth month further entered Jōshū together with Honda Tadakatsu and others. Unfortunately, no detailed records of this battle at Usui can be found elsewhere. According to the Ietada Diary, Ienao was among the Odawara siege forces on the second day of the fifth month, and on the eighteenth day it records "Sakai Kunai took a local castle," but we have not yet been able to fully investigate what military achievement this refers to. In any case, I would like to mention this here for reference. However, on the sixth day of the seventh month, Odawara castle finally surrendered. Ujimasa and his brother Ujiteru committed suicide on the eleventh day at the residence of Odawara physician Tamura Chōden, and Ujinao was exiled to Mount Kōya on the twelfth day, bringing the matter to a close. There is much more to be said about these related matters, but since it would become too lengthy and is not directly necessary for our city's history, I will abbreviate here. However, I believe the "Sengoku Period Historical Essays" published by the Historical Geography Society in recent years contains much that would be useful for reference, so examining it would not be entirely without benefit.
⦿The Tokugawa Clan's Transfer to Kantō
As described in the previous chapter, the Hōjō clan, which had dominated Kantō for nearly a hundred years since Sōun, finally met with the tragic fate of destruction under the fifth generation leader Ujinao. Originally, strategies like castle sieges are passive tactics, and if there is no relief force
[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Tokugawa Clan's Transfer to Kantō) - 161